2017年7月23日日曜日

ウェルカム礼拝 詩篇128編1節~4節「家族~良いものorやっかいなもの~」


皆様にとって、家族は良いものでしょうか。それとも、厄介なものでしょうか。「この家族でよかった」と感じること、あるでしょうか。あるいは、この家族と暮らすことが辛くて、厄介と感じる。その様な経験があるでしょうか。

 思春期の真っ只中。私にとって、親の存在は時にうるさく、時に疎ましいものでした。家族とは、厄介なものだったのです。しかし、今実家に帰り年老いた母と接していると、特に四日市に戻る私を、家の外に立って心配そうに見送る母の姿を見ると、心から愛おしさが涌いてきます。家族の絆、家族の良さを感じる瞬間です。

 他方、妻の考え方がどうしても理解できず、ケンカになってしまった時は、神様は何と厄介な存在を与えたことかと思う。しかし、心から自分の様な者を尊敬してくれる妻に接すると、神様の素晴らしい恵みを与えてくださったと感じる。私にとって、いや多くの人にとって、家族とは、時に良いもの、時にやっかいなものなのかもしれません。

今、人生の最後を自宅で迎えることを希望する人が、増えています。高齢者の78%が自宅で最期を迎えたいと願っていると言われます。「病院で最期を」と答えた人も、自宅では家族に迷惑をかけることになるからと考えてのこと。本音を言えば、住み慣れた家で最期を迎えたいのです。狭くても、古くても、設備が整っていなくても家が良い。良い思い出も、辛い思い出もある家で、最期まで過ごしたい。私たちにとって、家は特別な場所です。

 ところで、皆様にとって、どれ程家族は大切なものでしょうか。日本人は家族よりも仕事、家族よりも会社を上に置く傾向が強いと言われます。会社は公、家族は私。仕事優先、時に仕事のために家族を犠牲にすることも良しとされてきました。

 最近は、育メンとも言われる家事や育児に取り組む男性が増えているそうです。社会もその方向性を進めているように思われます。しかし、なかなか労働時間は減らない、たとえ家にいる時間が増えても「男性は外で仕事、。家児と育児は女性の仕事」と言う、夫の意識が変わらなければ、と言う指摘もなされています。

 また、結婚して子供が生まれるまでは、お互いの名前を呼んでいたのに、子どもが生まれた途端、お互いを「パパ、ママ」「お父さん、お母さん」と呼ぶ夫婦が多く、夫婦よりも、親子の関係を重視するのが、日本の家族の特徴とも言われます。

 つまり、一般的な日本人の考え方は、第一に仕事、次に家族。家族でも第一は親子の関係で、次が夫婦の関係と言うことになるでしょうか。勿論、どれもが大切なのですが、果たして、皆様の人生における優先順位は何でしょうか。

 聖書が教える優先順位は、夫婦、親子、仕事ではないかと、私は感じています。神様は、最初の人アダムに子どもではなく妻を与えました。夫アダムと妻エバから子供が生まれました。第一に夫婦、次が親子と言う順番です。また、社会で充実した仕事をするためには、夫婦、親子の関係が土台となります。年齢的に仕事ができなくなっても、夫婦、親子の関係は続くからです。さて、先程読んだ聖書の個所は、家庭の幸いを歌う、家族賛歌です。

 

 128:1~4「幸いなことよ。すべて【主】を恐れ、主の道を歩む者は。あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。【主】を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」

 

 勤勉な夫、家を切り盛りする甲斐甲斐しい妻、オリーブの若木の様に健康な子どもたちが食卓を囲む姿は、理想の家族そのものです。勿論、聖書は外で働くのは男性、女性の勤めは専ら家事と育児と言う風に、男女の役割を固定しているわけではありません。これは、当時の文化の中で幸いな家族の一つの形を描いているもの。大切なのは、彼らが神様を恐れ、お互いに愛し合う関係にあったことです。

 ところで、数か月前。NHKテレビで「今、日本の家族が危ない」と言うタイトルで、二週続けて家族の問題を取り上げていました。第一回は親子の問題、第二回は夫婦の問題です。

 夫婦の問題で取り上げられたのは、夫に対してキレる妻でした。今、日本では年間21万7千組が離婚。その内の7割が妻からの離婚申し立てによるものです。そして、離婚申し立ての理由の第一位は、何だかわかるでしょうか。「夫が自分の気持ちを理解してくれない」です。

 例えば、ある女性は「仕事も育児も全力投球しているつもりだが、いつも中途半端になっていないか、悩んでいる。朝早く送り出し、迎えに行くのは遅い。そんな子どもたちにも申し訳ない。何かあれば迷惑をかける会社にも申し訳ない。夫は、うんともすんとも言わない。たまに、口を開くと、結局お前はどうしたいんだ、俺にどうして欲しいんだと言う始末。でも、欲しいのはアドバイスじゃない。自分の抱える不安やストレスに対して、大変だね。頑張ってくれてありがとう。そういう共感のことばが欲しい」と語っていました。

 「それはこういうことだから、こうすればよい」と結論と具体的対応を示せば、話は終わりと考える男性。それに対して、自分の気持ちを理解し、受け止めてくれる共感のことばを求める女性。このすれ違いが、妻の感情を爆発させると言われます。 

 三浦綾子さんが「愛するとは共感すること」と書いていましたが、まさに、共感力が豊かな女性と共感力に乏しい男性のすれ違いの問題です。私にも心当たりがあります。妻の話を聞いていて、その長さに焦れてしまい、「早く100字以内で結論を言ってくれ」と言ったことが何度かあります。すると、妻は「あなたは、どうして『大変だったね』の一言が言えないの」と返してくる。テレビを見て、すれ違いは我が家だけではない、と少し安心しました。

 また、女性は悲しみ、不安と言ったネガティブな経験を詳しく記憶することができるそうです。それに対して、男性は同じ経験をしても、漠然としたイメージでしか記憶できない。女性から「あんなに苦労したこと、辛かったこと忘れたの?」と言われても、「そんなこともあったなあ」としか言えないので、気持ちの分からない人、鈍感な人と思われてしまうことが多いのだそうです。

確かに、男性には、このような弱点もあります。しかし、男性は多少の悲しみや不安を感じても、それを忍耐して仕事をしたり、物事に挑戦してゆくという働きに長けているとも言われます。こうした違いは、男性と女性の脳の働きから生まれるものだそうです。

 子どもの成長にとって、最高最良の環境は、愛し合う夫と妻。ことばを代えれば、お母さんを思いやるお父さんとお父さんをお母さんの存在と言われます。また、子どもが自立、独立しても、夫婦の関係は続きます。夫婦が、お互いの性格の違い、男女の違いを理解して、相手の心に届くような愛情の伝え方、表し方を考え、実践してゆけたらと思います。

 次は、親子の関係です。昔から、日本では子宝ということばがあるように、子どもを大切にしてきました。「しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから 子にしかめやも」。万葉集にある山上憶良の歌です。この世の金銭、宝石にもまさって、大切な宝は子どもと歌い、人々の共感を誘ってきました。

 しかし、今回家族についての本を読む中で、今日本の親子関係について、多くの本が共通して取り上げているのが、二つの問題でした。ひとつは、思春期の子どもが親の何気ないことばにキレる、あるいは引きこもると言う問題。二つ目は、父親不在と母子密着の問題です。

子どもを大切に思うがゆえに、何故子どもが感情を爆発させるのか理解できず、対応に迷う親。子どもを大切に思いながらも、仕事が忙しく、子供と接する時間を持てないお父さん。それを少しでも補おうと我が子と密着してゆくお母さん。そんな親の姿が見えてきます。

一昔前とは、子供を取り巻く環境も変わりました。テレビやインターネットを通じて押し寄せる情報の洪水。塾通いなどによる忙しさ。核家族、少子化による人間関係の希薄化など。以前なら、親以外にも、祖父母や近所のおじさん、おばさんなど、子どもの逃げ場、話し相手となる大人が周りにいました。でも、今は子どもが一人一人孤立し、弱くなって、様々なストレスを抱えている状況です。そこで、子どもたちがスマホでのコミュニケーションに逃げ込む。それが度を越すと、スマホ依存を引き起こす。親はますます不安になる。そんな状況が浮かび上がってきます。

思春期の脳は、負の感情に激しく反応します。お母さんのちょっとイライラした一言、お父さんのちょっとそっけない態度に過剰反応する。他方、激しい感情にブレーキをかける脳の働きは余り発達していない。そんな特徴があります。不安になる親の、100倍もの不安が、思春期の子どもの心には存在するとも言われます。

しかし、思春期は、最も好奇心や学習能力が高められ、チャレンジ精神が旺盛な時期です。自分とは何か、正義とは何か。愛と何かなど、大切なことを深く考え始める時期でもあります。それがゆえに、親に批判的になることも多いのです。

 そのような時期こそ、お父さんとお母さんが協力して、対応する必要があると思います。時には、お父さんが壁となって、子どもに何が正しく、何が間違っているのかを伝えることも必要です。時には、お母さんが、子どもの不安な心を受けとめ、子どもの思いを聞いてあげることも必要でしょう。勿論、お母さんが壁となることも、お父さんが聞き役になるのも良いと思います。夫婦それぞれの性格、賜物を発揮すること、両親が同じ目線で、接することが肝心ではないでしょうか。

誰もが多かれ少なかれ、経験する思春期。何とも厄介な思春期があるのは、人間だけなのだそうです。けれども、この厄介な時期もやがて、子どもが自立、独立して、親から離れてゆくことをもって、終わりを告げます。子育ての目標は、子どもの自立。これも、親として確認しておきたいことです。

大阪にある淀川キリスト教病院の院長をしている柏木先生が、面白いことを書いています。柏木先生が反抗期の子どもの頃、ある日お母さんが、へその緒を持ってきたそうです。その時初めてへその緒を見た柏木先生は、「お母さんとお前は、こういうもので結ばれていたんだよ」と言われ、意味が理解できませんでした。しかし、後になって、「お母さんとお前は、こんなに強い絆で結ばれているんだから、反抗してはダメだよ。親から離れたらダメだよ」。お母さんの言いたいことはこういうことか、と分かったそうです。

 対照的に、アメリカでは、子どもが初めて自分で歩いた「小さな一足の靴」を記念として、親が持っていると言う話を紹介しています。一足の靴は、「これは、お前が初めて自分の足で歩いた靴だよ」と言う意味で、子どもが成長して親を頼ってきた時、小さな靴を見せるのだそうです。「お前はすでに親から離れて歩いて行っている。だから、そんなことで親のところへ戻ってきてどうするの」と言うメッセージです。

 子どもをできるだけ親のもとで守ろうとする家族。子どもの独立をうながす家族。子どもの独立に寂しさを覚える親。子どもの独立に喜びを感じる親。それぞれに意味があり、良さがあります。一概に、どちらが良いとも悪いとも言えないでしょう。

但し、聖書にはこの様な教えがあります。                                     

 

 創世記1:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」

 

 子どもの自立をもって終了する親の子育て。しかし、それで親子の関係が切れるわけではありません。親と子が、お互いを一人の男性、一人の女性として尊び、親しみ、支え合う。そんな、対等な関係、友情の関係に変わってゆくのです。

 何をしても可愛らしい赤ん坊の時代。日々成長する姿が嬉しい少年時代。厄介な対応を通して、親も成長する思春期。子どもが自立した後の友情。神様は、親子の関係に、段階に応じた恵み、喜びを与えて下さることを感じます。

 最後にお勧めしたいのは、私たちに家族を与えて下さった神様を畏れ、信頼することです。聖書によれば、神様を信頼しなくなった人間の性質は自己中心。愛することにおいても、私たちは自己中心の愛し方しかできなくなっています。そして、最も自己中心の性質が表れるのが家族と言われます。他の人に対してなら、絶対に口にしないような言葉を、家族に対しては口にしてしまう。家族のために言う思いが強すぎて、いつの間にか自分の考え方を押しつける。親に依存する子ども、子どもに依存する親。自己中心の性質、自己中心の愛が、私たちの家族に様々な問題を生み出しているのです。

 しかし、神様を信頼する者に、神様は、家族をも一人の人格として接する愛を与えて下さいました。家族が、お互いを一人の人格として愛するとはどういうことでしょうか。

 哲学者のショーペンハウエルに、二匹のヤマアラシのたとえ話があります。冬の寒い夜、二匹のヤマアラシが野原で会いました。風が吹き、寒くて仕方がありません。そこで、お互いの体温で温め合おうと、二匹が近寄ったところ、近寄りすぎて、自分たちの体の針で互いを傷つけ合い、とても痛かったと言います。これではいけないと、離れると、二匹の間を風が通り抜け、また寒いのです。そこで、二匹は少しずつ近寄り、互いの針で互いが傷つかないように、しかも、お互いの体温を感じられる距離を保ちながら、夜が明けるのを待ったと言うお話です。

 夫と妻が、「夫は夫、妻は妻で良い。自分は自分で良い」と感じられる関係。親と子が、「親は親で良い。自分は自分で良い」と感じている関係。それでいながら、夫と妻、親と子がお互いを大切な存在として思いやる関係。密着し過ぎず、離れすぎない。適度な距離のある関係が、私たちの目指すべき関係ではないかと思います。

 最後に、三つのことばをお勧めします。家族の関係を良くする黄金のことばとも言われます。ありがとうと言う感謝のことば、ご苦労様と言うねぎらいのことば、ごめんなさいと言う謝罪のことばです。これらは、自分中心の性質からは生まれてきません。相手を一人の人格と認め、大切な存在と思う時、心に涌いてくることばです。家族だからこそ、意識して使いたいことばです。皆様の家族が、神様に祝福されることを願い、お祈りしたいと思います。

2017年7月16日日曜日

ローマ人への手紙5章1節~5節「信仰者の勇気(2)待ち望む勇気(2)~~


「信頼するとは何か。」と聞かれたら、皆様どのように答えるでしょうか。以外と難しい質問です。日々の生活の中で実際に、私たちは様々なものを信頼して生きているのですが、「信頼するとは何か」との問いに、正確に答えるのは難しいものです。

 「信頼するとは何か。どのようなことか。」この理解の助けとなるのに、綱渡りの名人の話というものがあります。(私の好きなたとえ話なので、これまでに聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。)

「ある村に綱渡りの名人がいました。ある日、その名人が背中に籠を背負い、六十キロほどの石を詰め、綱を渡ります。村人は、あの名人ならば落ちることはないと考えている。石を背負いつつ、綱渡りを見事に成功させた名人が、籠から石を取り除け、『今度は、誰かこの籠に入って一緒に綱渡りをしましょう。』と言います。ここで村人の反応は分かれます。ある人たちは籠に入ることが出来ると思い、ある人たちはとてもじゃないけれども籠には入れないと思う。」

 この話で分かるのは、信頼することと、知っていることの違いです。籠に入れるという人は、この名人を信頼している人。とてもじゃないけれども入れないというのは、自分の村に綱渡りの名人がいることは知っているけど、自分の命を預ける程、信頼はしていない人、ということになります。

 このように考えると、信頼するとは、自分が損害を受けても良い覚悟をすること。もし相手が信頼に応えられない場合、自分に害があっても良いとすること、と言えます。信頼することには勇気が必要なのです。

 

 ところで、聖書は繰り返し神様を信頼するように教えていました。多くの例を挙げることが出来ますが、例えば

 詩篇62篇8節

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」

 

 果たして私たちは、どのような時にも神様を信頼することが出来ているでしょうか。全存在をかけて、神様を信頼する歩みを送っているでしょうか。

 信仰生活を送る中で、順風満帆だと感じている時、神様を信頼するというのは、比較的容易です。問題となるのは、逆境の時。困難、苦難の最中に追いやられた時。そこで、神様を信頼出来るかどうか。

普段、信仰のない生活を送っている人でも、困難、苦難に出会うと、神に頼るということがあります。困った時の神頼み。ところが、信仰を持っている私たちが、苦しみの中で、神様を疑い、神様を信頼しない歩みとなることがあります。残念ながら、逆境の中で、それでも神様を信頼する勇気を持てない時がある。いかがでしょうか。どのような時にも、神様を信頼する歩み、どのような時にも自分の心を神の御前に注ぎだすような信仰生活を送りたいと思うでしょうか。

 今日は、困難、苦難、患難の中でも、神様を信頼すること、待ち望む勇気を持つことの意味を、聖書から確認したいと思います。

 

 開きますのは、パウロという人が記したローマ人への手紙。

パウロはその手紙の冒頭から、世界の造り主である神様を無視して生きることが、人間にとってどれだけ不幸なことなのか。特に罪ある者には、神の怒りが下る、裁きが下ることを確認しました。「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒り」(118)がある。「様々な悪を行うことは、死罪に当たるという神の定め」(132)がある。「悔い改めのない心の者は、神の裁きを前に御怒りを自分のために積み上げている」(25)など、強く口調で、罪という課題の危険性を訴えました。

また、その裁きから逃れる道、罪が赦されるのは、正しい行いをすることではない、自分で自分を変えることではない。キリスト・イエスを、罪からの救い主と信じること。信じるということのみが、罪の問題を解決する道であると続きました。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(323-24)という極めて有名な言葉も、このローマ書の前半で記されたものでした。罪という問題、死という問題、自分ではどうにも対処出来ないこの問題は、キリストを信じる信仰によってのみ解決する。信仰義認です。

 

 このように、罪の悲惨と、そこから抜け出す道を示したパウロが、続いて、キリストを信じる者に与えられる恵みは、ただ罪が赦される、義と認められるだけではない。さらに大きな恵みがあると続くのが今日の箇所、五章となります。

 

 ローマ5章1節~2節

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

 

キリストを信じた私たちは、罪が赦されただけでなく、神との平和、神様との良い関係を持つ者とされたこと。裁きを逃れただけでなく、「神の栄光」と言われるやがて頂く素晴らしいものがあり、それを思うだけで大いに喜ぶことが出来る。短い言葉ですが、重要なことが凝縮されて語られています。

 キリストを信じる者は、義とされるだけではない。神の子とされ、聖とされる。神様から離れて生きていたものが、神様との親しい関係に入れられた。「死」に捕らわれていた者が、新しいいのち、永遠のいのちを頂き、やがて死なない体で復活し、神の栄光に満ちた世界に入れられる。キリストを信じることで、とてつもない大きな恵みを頂いている。それが嬉しくてしょうがない、大いに喜んでいると言います。

 いかがでしょうか。キリストを信じる私たちは、これを記したパウロと同じ恵みを頂いている者。パウロがここで記しているような、感動、喜びを、どれだけ味わって信仰生活を送ってきたでしょうか。

 

 それはそれとしまして、パウロはさらに、キリストを信じる者に与えられる恵みを語ります。今日、特に注目したい箇所です。

 ローマ5章3節~5節

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 これもまた、とても有名な言葉、多くの人に愛され、暗唱された聖句です。練られた品性とは、優れた人格という意味。希望とは、生きる力と言えば良いでしょうか。患難が忍耐を、忍耐が優れた人格を、優れた人格が生きる力を生み出す。患難には、私たちを成長させる重要な意味があることを教える言葉。

 

 ところで、苦労や困難が、人を成長させるというのは、一般的に良く知られたことです。「可愛い子には旅をさせよ」とか「獅子の子落とし」とか。楽な道と大変な道があるなら、敢えて大変な道を選ぶという人もいます。

健康でいること、富を得ること、合格、昇進が、人を高慢、腐敗、堕落、不敬虔にすることがあり、病気、貧しさ、落第や左遷が、人間らしさを取り戻させ、敬虔を回復することがある。患難、苦難が、結果的には自分にとって有益であったと思うことは、しばしばあります。いかがでしょうか。今まで、患難を味わうことが自分にとって有益だと思うことはあったでしょうか。

 

 患難が人を成長させることがあるというのは、一般的に言えること。それでは、パウロはここで一般的な格言にあたることを、教えているのでしょうか。そうではありません。話の流れは、キリストを信じる者に与えられる恵みとは何かということですから、一般的な格言ではないということになります。

 それでは、ここでパウロが言おうとしていることは何なのか。それは、信仰者ならではの患難の向き合い方があり、信仰者でしか味わえない成長の仕方があるということです。

あるいは、通常であれば有益な結果につながると思えない患難。解決が見えないもの。乗り越えられるとは思えないもの。長期に渡り、あまりに過酷なもの。愛する人を失うこと。生きがいを失うこと。長年の取り組みが無駄になること。期待し続けたことが実現しなかったこと。予想していなかった大病や怪我。とても耐えられない。そのような患難でも、喜べる道があるということ。おかしな表現になりますが、キリストを信じる者は、喜びえない患難さえも、喜ぶことが出来るということ言っているのです。一体どうしたら良いのか。何が鍵となるのか。

 

もう一度、今日の箇所、特に最後の部分に注目します。ローマ5章3節~5節

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 聖書は患難に向き合う際、ただ我慢するように、ただ耐えるようにとは教えていませんでした。患難の中にあって、神の愛を味わうこと。神の愛が自分の心に注がれていることを確認するように。聖書的な忍耐とは、苦しみを只々我慢することではなく、苦しみの中で神様の愛を確認することでした。

 これが、パウロがここで伝えようとした、キリストを信じる者に与えられる恵みの中心です。キリストを信じる者とは、神の愛を確認することが出来るようになった者。信仰生活とは、人生の中で神の愛を確認すること。患難の中で、それがどれ程苦しい患難だとしても、その中で私たちは神様の愛を確認することが出来る。神様を信頼する生き方の一つは、どのような状況の中でも、神様の愛が私たちの心に注がれていることを味わうことだと、今日確認するのです。

 

 また、この言葉を反対からとらえると、神様の愛を味わうことなく患難に向き合う場合、聖書が教える練られた品性や希望を生み出すことにはつながらないのです。一般的な意味で、苦労した人が人格的に成熟するということはおこっても、ここで教えられているような練られた品性、希望にはつながらない。残念というか、もったいないというか。

 いかがでしょうか。神様を信頼する歩みを送りたいと思うでしょうか。これまでの人生の中で、患難に向き合う際、神様の愛を確認するということに、どれだけ取り組んできたでしょうか。

 

(自分自身の経験を説教で紹介するのは、相応しくない場合があります。自分の信仰深さをひけらかすことにならないように考えながら、私自身の経験をお伝えしたいと思いますが)過ぎし一週間の中で、今日の説教の準備をしながら、この御言葉、この約束に大変助けられました。

この一週間の中で、特に大変だと思ったのは、アルツハイマーの母がトイレに行くと言い、夜中に何度も起こされた場面。疲労と睡眠不足で、頭痛と吐き気がする中、十五分前にトイレに行った母に、またトイレに行きたいと起こされる。色々なことが心に浮かびました。この状況が続く中で、私自身、母を敬い、仕えることを継続出来るだろうか。いつか母を疎ましく思う時がこないだろうか。この体調で、朝から教会の仕事を滞りなく行うことが出来るだろうか。これから寝ても、またすぐに起こされるのではないだろうか。不安や恐れ、心配が心に浮かびましたが、まさに今こそ、私の心に注がれている神様の愛を確認したら良いのだと思い出しました。

神様は、イエスキリストを私の身代わりにするほど、私を愛していること。私の感じている不安や恐れ、心配もよくご存知でいて下さること。私以上に、私を愛し、そして教会を愛している方が、ともにいて下さること。聖書で教えられている、基本的なこと。ごく当たり前のこと。しかし、確かに私の心に注がれている神様の愛を確認した時、不安や心配していたことがどうでもよくなりました。病の中で、混乱している母のことも、神様はとても愛していることに今一度気づきました。体は疲れていて、体調が悪いのは変わらない。母の病が治ったわけでもない。それでも、生きる力が沸いてきました。その時、聖書は本当に凄いと感じましたし、キリストを信じる信仰が与えられていて本当に良かったと強く思いました。

(ちなみに、その時の思いが、ずっと続いたわけではありません。別な場面で、不安や恐れを感じ、その都度、神様の愛を確認する歩みを送って一週間を過ごしました。)

 

 以上、神様を信頼する勇気について。特に逆境の中で、神様を信頼することについて、確認しました。

 私たちの人生には、大なり小なり、患難がつきもの。誰の目にも明らかな患難もあれば、その人にしか分からない患難もあります。絶望的な状況に追いやられることもあります。私たちは、どのように患難に向き合えば良いのか。どのように神様を信頼したら良いのか。

 絶望して蹲らないように。不平不満をこぼして終わりとしないように。神様への不信を募らせ、別なものを信頼しようとしないように。

 患難の中にあって、私たちの心に注がれた神様の愛を確認すること。この神様の愛を確認出来る、味わうことが出来ることこそ、キリストを信じる者に与えられた最大の特権の一つでした。また、神様の愛を確認しつつ患難に向き合うことが、聖書的な忍耐の仕方であり、その忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性は希望を生み出す。この約束を胸に、私たち一同で、勇気をもって神様を信頼する歩みを送りたいと思います。

 

今日の聖句を皆で読みたいと思います。

 詩篇119篇71節

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

2017年7月9日日曜日

マタイの福音書7章1節~5節「山上の説教(36)~自分の目にある梁~」


皆様に振り返ってほしいことがあります。皆様は、人の失敗や欠点に気がついた時、それを口に出して指摘するタイプでしょうか。それとも、口を制するタイプでしょうか。人を非難せずにはいられないことが多いタイプでしょうか。それとも、適切な伝え方を考えつくまで、思いを心に収めておくことができるタイプでしょうか。

江戸時代の小話に、無言の修行に励む四人のお坊さんの話があります。ある日、七日間、絶対に一言もしゃべらない。無言で過ごすことを誓い合った、四人のお坊さんが山寺に集まります。皆道場に座り、かたわらには、小坊主が走り使いを務めていました。

無言の修行に入り、夜が更けてきます。すると、一人のお坊さんが、小坊主が居眠りを始めたために灯が消えてしまいそうなのを見て、イライラし、「小坊主、灯が消えてしまうぞ」と注意する。すると、隣に座っていたお坊さんが、「私たちは無言の修行の最中。物を言うとは何だ」と叱って、これまた物を言う。すると、その隣のお坊さんが「二人とも物を言うとは何と情けない」と非難し、喋ってしまう。すると、最後に残った最も位の高いお坊さんが、得意顔で「物を言わなかったのは、私ひとりか」と独り言を言い、これまた喋ってしまった。

私たち人間が、いかに人の欠点や失敗をあげつらうことにはいかに素早い者か、そのくせ、自分を省みることがいかに少ない者であるかを物語る。そんなお話でした。

 

私たちが読み進めてきた山上の説教も、今日から第7章に入ります。ここにも、これまでと同様、「目の中の梁とちり」「豚に真珠」など、よく知られた名言、格言が登場します。そして、今日の個所で、イエス様が取り上げているのは、私たちの中にある人をさばく心です。

 

7:1、2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」

 

もちろん、さばくと言っても、すべてさばくことが否定されている訳ではありません。私たちの社会生活は、あれこれと批判、判断、評価することで成り立っているからです。

私の好きな野球の試合でも、アンパイアーがストライクとボール、セーフとアウトを判定しなければなりません。法律による裁判がなければ、社会の秩序を守ることはできないでしょう。文芸や芸術の批評は有益ですし、学校の先生は、生徒の成績を評価する立場にいます。道徳上の善悪は論じられ、何が善で何が悪か、判断を下さなければなりません。

イエス様も、この後のところで、「偽預言者たちに気をつけなさい」として、私たちに本物の預言者と偽物を見分けること、判断することを命じておられます。ですから、イエス様がここで禁じている「さばき」とは、優越感から生まれる非難、あらさがし、感情的に人を責める態度、人の失敗や欠点を喜ぶ心を指していました。

国語辞典を引くと、非難と同じ意味を持つことばが、これでもかと言うぐらいに出てきます。咎める。聞きとがめる。見とがめる。追及する。問い詰める。詰る。面詰する。当てつける。当てこする。面当て。揚げ足を取る。皮肉る。言いがけりをつける。いちゃもんをつける。嫌味を言う。難癖をつける。指弾する。糾弾する。弾劾する。槍玉に挙げる。罵倒する。後ろ指を指す等々。本当に、キリがないと感じます。

これらを見ていると、一言注意すれば済んだことなのに、相手を追求し、問い詰め、喧嘩になってしまった経験を思い出す方がいるかもしれません。言われたら言い返す、やられたらやり返すで、相手に嫌味を言ったり、難癖をつけたり。大切な関係の溝が深くなった。そんな出来事を思い出す方もおられるでしょう。

私たちの中にある人をさばく心が、兄弟喧嘩に親子喧嘩,夫婦喧嘩に友との喧嘩。家庭、社会、教会など、様々な場面で争いを生み、どれ程あるべき平和な関係を踏みにじっているかを思わせられます。

そんな私たちの現実を良くご存じのイエス様が、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と語られたのは、当然のことと思えます。ところで、ここに「さばかれないため」とありますが、私たちは誰にさばかれるのでしょうか。同じ教えが語られた、ルカの福音書には、こうあります。

 

ルカ6:37「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」

 

ルカの福音書では、「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」と言うことばからも分かるように、人からのさばき、人からの赦し。対人関係がテーマです。人をさばかなければ、人にさばかれることもない。人を赦せば、人からも赦される。

俗に、情けは人のためならずと言います。人に情けをかけるなら、その情けが自分に帰ってくる。人をさばかなければ、自分もさばかれない。人を赦せば、自分も赦される。

世間一般にも通じる、極めてわかりやすい教えとなっています。イエス様が、私たちの気持ちを知りぬいた教師であることが良く分かり、嬉しく感じるところです。

しかし、山上の説教では、私たちをただ一人正しくさばくことのできる神様の存在に、焦点が当てられています。「人をさばいてはいけません。神にさばかれないためです。あなたがたが人をさばくとおりに、あなたがたも神にさばかれ、あなたがたが人を量るとおりに、あなたがたも神に量られるからです」。神様との関係が前面に出てきます。

神の子である私たちは、人のさばき、人の評価を気にすることにとどまっていてはならない。神様のさばき、神様の評価を意識して、考え、行動せよ。そう、イエス様は命じているのです。

人を責め、人を非難し、人の失敗や欠点をあげつらう私たちの心、私たちのことば、私たちの態度。それらを、聖なる神が見ておられる。私たちの行いを正しくさばく神がおられる。この信仰によって、どれ程、私たち自分を戒めることができるでしょうか。

神を知る以前は、いとも簡単に人をさばいていた自分。今でも、短気の虫を飼っている自分。人を責めてしまうことのある自分。もっともっと聖なる神のことを意識して生活しなければと思わされます。神の子なら、十人が十人、厳正な神のさばきを恐れないわけにはいかないでしょう。

ところで、神のさばきと聞いて、「キリストを信じて神の子とされた者は、神のさばきに会うことはないのではないか」と不思議に思う方もいるかもしれません。ですから、ここで、聖書が教える三つのさばきについて、整理しておきたいと思います。

第一に、聖書は永遠のさばきを教えています。これは、神様による最終的なさばきで、キリストを信じる者を天国に、信じない者をよみ、地獄に分けるもので、キリストを信じる私たちは天国行きが確定しています。

しかし、それだけではありません。聖書は第二のさばきを教えていて、それは、私たち神の子が、この地上で罪を犯した時に与えられるさばきです。このさばきは私たちに対する神様の訓練。私たちを鍛え、養い、きよめると言う意味を持っています。

第三は、神の子らである私たちが、死後に受けるさばきです。

 

Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

 

これは、天国に行くか地獄に行くかを決めるさばきではありません。私たちは既にそのさばきは通過しています。詳しいことは聖書に教えられていませんが、天国での生活に影響する神様のさばきがあること、それを恐れ、意識して、地上を歩むべきことを、イエス様は私たちに勧めているのです。

さらに、私たちが人をさばいけてはいけない理由が語られます。それは、私たちの目の中にある梁の問題でした。

 

7:3~5「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

 

梁は、天井裏にある大きな横木です。最近は梁を知らない人がいるからでしょうか。新共同訳聖書では、「梁とちり」ではなく「丸太とくず」に変えられていました。「なぜあなたは、兄弟の目の中のくずに目をつけるが、自分の目の中の丸太には気がつかないのですか」と言う風にです。

梁とちりにせよ、丸太とくずにせよ、私たちの偽善を指さすイエス様のことばは、痛烈な皮肉。その効果は、人のちりには気がついても、自分の梁には気がつかない私たちの心を貫きます。このことばで、ようやく鈍感な私たちも、人をさばく時自分の中にある罪のひどさに、目が開かれる思いがします。

これまで、人の欠点や弱さ、罪について、助けてあげたいと思った時、私たちが人に示してきた態度が、多くの場合いかに間違っていたかを自覚させられます。私たちの中にある、人を非難し、人を責め、やり込めるような態度こそ、相手の目にある小さなちりに比べたら、大きな梁であることを教えられるのです。

「あなたがさばいている相手は、不道徳かもしれない。無責任かもしれない。弱さを持っているかもしれない。自分勝手かもしれない。しかし、そうだとしても、それは、あなたの中にあるさばきの心、さばきの態度に比べたら、小さなちりに過ぎない。だから、まず、あなたの目の中の梁を取り除くことから始めよ」。

私たちの家族、教会、社会に、あるべき平和を回復するため、イエス様が語るこのメッセージに、私たち耳を傾けたいと思うのです。

それでは、自分の目の中の梁を取り除くとは、どういうことでしょうか。

「天路歴程」を書いて有名なジョン・バンヤンが、刑場に引かれてゆく囚人を見た時のエピソードがあります。人々がみな囚人を罵り、唾を吐きかけているのを見て、バンヤンは、いきなり道に跪き、天を仰いで祈ったそうです。「ああ、私もあの死刑囚と同じ悪人です。私は心の中で罪を犯すに止まっていますが、彼は、それを実行しました。彼と私の違いは、ただこの一点にすぎません。かえって、私は心の中の悪を、彼のように実行しえなかった点において、一層情けない罪人です」。

人を見て、指をさし、罵る者になるか。バンヤンの様に、神様の前で自分の罪を指さしへりくだる者になるか。私たちも、心の奥底を見抜かれる神に直面して、他人を非難する人生から、自分を省みる人生に目を開かれたいと思います。特に、今日のイエス様のことばによって、まず自分の罪を見つめる者となる恵みを与えられたことを思い、これを活用してゆきたいと思うのです。

人の成熟度は、反省心によってはかられると言われます。いつまでたっても、自分を省みることのできない人は心の発育不全です。信仰者になっていても、私たちの中には、人を非難し、侮る、未熟な自分がいます。しかし、日々自分を省み、そんな未熟な自分に気がつくことが、梁を取り除くための第一歩なのです。今日の聖句です。

 

4:31,32「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 

人の目からちりを取り除くと言うのは、大変難しい作業です。体の中で、目は最も敏感な器官で、指がちょっとでも触れれば、瞼がすぐに閉じてしまうからです。

人の欠点や弱さ、罪の問題を助けると言うことも、これに似ています。それは、人の心の最も敏感なところに触れることだからです。少しでも、責められていると感じると、相手は心を閉ざしてしまうのです。

私たちが、自分の罪と、神の赦しを思い、謙遜にならなければなりません。相手に同情し、協力者になると伝えることが必要だと思います。赦すとは、相手の欠点や罪を責めないと決意すること、親切とは、これからどうしたら良いかを共に考え、共に課題に取り組んでゆく態度を示すことではないかと思います。

私たちのうちにある、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり等、未熟な自分を捨てること。親切で、優しい自分を養い、育ててゆくこと。古い自分を捨て、新しい自分を養い、育てる。私たちが皆イエス様の命じる道を進み、人をさばく者から、人を助ける者へ。自分を変えることに、根気よく挑戦してゆきたいと思うのです。

 

2017年7月2日日曜日

世界宣教礼拝 マタイの福音書9章35節~38節「働き手を求める祈り」


私自身、日本で生まれ育ち、日本でしか牧師をしたことがないので、特別な実感はないのですが、一般的に日本は宣教が難しい国と言われます。

 教育、医療、福祉、年中行事、結婚式、文学、音楽、色々なところにキリスト教文化が根付いています。信教の自由が約束されていて、キリスト教信仰を持つことで公に迫害されることはない。教育制度もしっかりしていて、識字率も高く、無料で手にすることが出来る聖書もあり、願いさえすれば殆どの人が母国語で聖書を読むことが出来ます。パソコン、スマートフォンを使えば、いくらでも聖書の話を見聞きできる状況。

それでも、日本におけるキリスト者の割合は少なく、国別に見ると聖書の福音を知らない人の割合は世界ワースト二位と言われます。宗教を信仰するのは、愚かなこと、非科学的なことと考える人が多くいるのに、占い、オカルトは人気がある。不思議な国です。

この国で信仰生活を送る私たち。どれだけ真剣に、宣教が前進すること、福音が広がることを願って生きているでしょうか。どれだけ、宣教することに取り組んでいるでしょうか。自分の周りだけでなく(自分の生活の場で宣教することは非常に重要ですが)、世界宣教の思いを、どれ程持っているでしょうか。

 今週は日本長老教会の世界宣教週間。今一度、自分自身は「宣教」をどのように考え、取り組むのか。御言葉とともに考えたいと思います。

 

マタイ9章35節~36節

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

 

 罪人を救うために来られた救い主。イエス様の救いの御業の中心は、罪人の身代わりに十字架で死に、復活すること。死と復活が、贖いの御業の中心です。とはいえ、その生涯の中で、「十字架で死ぬこと、復活すること」しかされなかったのかと言えば、そうではありません。神の民として生きるとはどのようなことなのか。本来の正しい生き方を、その生涯の歩みで示して下さいました。家族に仕え、大工の仕事を通して社会に仕え、公に約束の救い主であることを宣言してからは弟子たちとともに、「宣教」もされました。

 「会堂で教える」、「福音を宣べ伝える」という、言葉を通しての宣教も、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直されるという、行動を通しての宣教も、主イエスは取り組まれていた。その根底にあるのは、正しく神を知らず、福音を知らない、罪の中で弱り果てている者たちを、かわいそうに思われた心、あわれみの心。隣人を愛するがゆえに、イエス様は宣教されていたのです。

 

 ところで、イエス様の宣教活動は、この時開始されたわけではありません。マタイの福音書では、四章からイエス様の宣教の活動が記されていました。それにもかかわらず、マタイはここで「それから」イエス様が宣教をされたと記しています。

それまでも取り組まれていたけれども、改めて、言葉と行いによる宣教をされていたことに、ここで注目するよう示しているのです。この直前、一体何があったのでしょうか。

 

マタイ9章34節

しかし、パリサイ人たちは、『彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。』と言った。

 

 イエス様の宣教の働きはよほど順調、順風満帆だったのか想像しますが、意外や意外、そうではなかったのです。神のひとり子。約束の救い主。王の王である方。誰よりも力ある説教が出来る方、いや御言葉そのものである方。誰よりも力ある行いが出来る方、世界を支配している方。その方が、多くの教えをなし、多くの奇跡を行い、人々を愛し励まし助けてきた。

 ところが、人々はイエス様を信じることなく、民の指導者たちは悪霊の頭の働きだと言ったのです。

 

 私たちの感覚で言えば、本当ならば、マタイの福音書は九章三十四節で終わりです。もともと、人間が神様から離れ、悲惨な状態なのです。罪人が悲惨な状態にいるというのは、まさに自業自得。その人間を救い出すために、神のひとり子が、人となって救いの道を説いているのですが、その救い主を信じない。民の指導者たちは自分が信じないどころか、これは悪霊の働きと宣言する。

 救い主から、「もう知らない。」「関わりたくもない。」と言われて当然の状況。「それでイエスは地上を去られた」と記されて、福音書が閉じられても当たり前のこと。しかし、主イエスは、これで終わりとはなさらなかった。ますます心を燃やして、言葉と行いによる宣教に取り組まれたというのが、今日の箇所でした。

マタイ9章35節~36節

「『それから』、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

 

 ご自身に対する応答がどうであっても、罪人を救おうとされる思いは変わらず。人々への愛は変わらず。約束の救い主が誰だか分からない罪人の姿に、なお一層心を燃やされる方。これが、私たちの救い主でした。

 ところで、イエス様は宣教活動をすると同時に、ご自身が十字架での死と復活の後、天に昇られた後のことも見据えておられました。罪人の罰を引き受け、身代わりに死ぬこと、死に勝利し復活すること。それは、救い主だけが出来ること。イエス様のみの御業です。しかし、言葉と行いによって、福音を宣べ伝えること、これはキリストの弟子にも引き継がれる働きでした。この、キリストの弟子たちに引き継がれる働きについて、イエス様はここで、重要なことを言われるのです。

 

マタイ9章37節~38節

そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」

 

 主イエスはご自分の命を使い、罪人を救い出します。死の中にある者に、命が注がれます。その覚悟をもって、「収穫は多い」と言われました。

 しかし、キリストを宣べ伝える働き、福音を告げ知らせる働きは、弟子に引き継がれる。とても重要なことですが、キリストを信じる者が、神の協力者として、収穫を刈り取る働きをするということです。キリストを信じるとは、重大な使命を頂く意味もあるのです。

ところが、その神の協力者となる者、収穫のための働き手が少ない、とイエス様は言われたのです。そのため、働き手が送られるように、祈って欲しいと言われたのが今日の箇所です。

 

私たちに対する祈りの要請。私たちの救い主、私たちの主が、私たちに祈って欲しいと言われる。今まで私たちは、どれだけ真剣に「収穫のために働き手を送って下さい」と祈ってきたでしょうか。過ぎし一週間、私たちがささげた祈りの中に、「働き手を送って下さい。」という祈りは、入っていたでしょうか。

 日本は宣教が難しいと言われます。結果が出ないと言われます。一つの理由ではなく、様々な要素が絡み合って、現状がありますが、今日の聖書箇所によると、このキリストの祈りの要請に、私たちが応じていなかったから。私たちにも責任があるのではないかと考えさせられます。

 

 イエス様は本気で人間を救おうとされた。だから、「収穫は多い」と言われたわけです。それなのに、私たちが本気でない。「働き手を送って下さい」と祈って欲しい。そうキリストに言われながら、尚もこの祈りをしないというのは、あまりにひどい話。自分の命をかけて、人間を救おうとされた方を前に、尚もこの祈りの要請に私たちが答えないとすると、キリストの死を無駄にしても良いと告白するようなもの。命懸けのキリストの収穫を無駄にして良いと考えるならば、それはキリストの教会ではなくなります。

 今日、イエス様の言葉を前に、今一度「働き手を送って下さい。」と祈ることに、皆で真剣に取り組みたいと思います。これまで祈っていなかったと思うならば、キリストの願いを無視していたことを悔改めて、真剣に「どうぞ働き手を送って下さい」と祈りたいと思います。

(この「働き手」とは、必ずしも牧師や宣教師だけを指すものではありませんが、四日市キリスト教会の歴史を見ますと、多くの牧師、宣教師が送られてきました。それは、これまで祈られてきた「働き手を送って下さい」という願いに、神様が応えて下さったからでもあります。これからのために、「働き手を送って下さい。」と祈ると同時に、ここまで、教会の歩みが守られ、四日市の地で宣教が前進していることに感謝することも忘れないようにしたいと思います。)

 

 ところで「祈る」というのは、通常は、神様に願って終わりということではありません。安全に家に帰れるようにと祈った人が、ひどい運転をするとしたら。あの学校に合格することを祈りながら、勉強に取り組まないとしたら。「祈る」ということが、どのようなことなのか、分かっていないことになります。「祈り」とは、神様に願いを伝えつつ、またそれが実現するために自分も出来ることに取り組むことです。

 

 ある本に、お腹をすかせた子どもと、教会学校の先生の話しが載っていました。

教会学校の先生が、神様は何でも出来る方だから、神様に食べ物を下さいと祈りましょうと言う。そう言われた子どもは、半信半疑ながら、神様に祈る。先生も祈る。しかし、祈れど祈れど、特に変わったこともない。そこで、子どもが祈っても何も変わらないじゃないかと思い始めたころ。その先生は食べ物を用意し、子どものところに行き、また食べ物を下さいと祈った。祈り終った後で、ここに食べる物があるから、これを食べなさいと言って、子どもに渡す。そして、先生が、神様は祈りに応えて下さる方だと言う。子どもは大喜びでそれを食べ、食べ終わったところで、こう言ったそうです。「でも、この食べ物は神様がくれたのではなくて、先生が作って持ってきたものじゃないか。神様がお祈りに応えてくれたわけじゃない。」と。すると先生がこう答えました。「いいえ。お祈りを続けた結果、その食べ物は私が準備出来ることに気が付きました。神様は私を通して、お祈りに応えて下さったのよ。」と。

 私たちが、真剣に「働き手を送って下さい」と祈るならば、この教会学校の先生と同じことを考えることになります。この祈りの実現のために、自分は何が出来るだろうか。働き手を送って下さいと願うと同時に、自分自身も働き手として何が出来るのか、働き手を支えるために何が出来るのか、真剣に考えたいと思います。

 

 この世界宣教週間の一週間。既に海外で労されている宣教師の方々、これから宣教師になろうとしている方々、日本で宣教師として労している方々のために祈ることに、取り組みたいと思います。その宣教師の方々のために、自分は何が出来るのか、考えたいと思います。同時に、収穫の主に「働き手を送って下さい」と真剣に祈りたいと思います。

その結果、この四日市キリスト教会からも、日本各地で活躍する牧師、世界で活躍する宣教師が起こされますように。いや、宣教の働きは、牧師、宣教師だけのものではありません。私たち一同で、この地に住んでいる方々に、福音を届けたい。キリストの十字架によって実った収穫を、刈り取っていきたいと思います。

 「収穫は多い」と言われたキリストの言葉を真剣に受け止め、それならば「働き手を下さい」と祈り、そして私は何が出来るだろうかと考える。そのような歩みを皆様とともにしていきたいと思います。