2017年7月9日日曜日

マタイの福音書7章1節~5節「山上の説教(36)~自分の目にある梁~」


皆様に振り返ってほしいことがあります。皆様は、人の失敗や欠点に気がついた時、それを口に出して指摘するタイプでしょうか。それとも、口を制するタイプでしょうか。人を非難せずにはいられないことが多いタイプでしょうか。それとも、適切な伝え方を考えつくまで、思いを心に収めておくことができるタイプでしょうか。

江戸時代の小話に、無言の修行に励む四人のお坊さんの話があります。ある日、七日間、絶対に一言もしゃべらない。無言で過ごすことを誓い合った、四人のお坊さんが山寺に集まります。皆道場に座り、かたわらには、小坊主が走り使いを務めていました。

無言の修行に入り、夜が更けてきます。すると、一人のお坊さんが、小坊主が居眠りを始めたために灯が消えてしまいそうなのを見て、イライラし、「小坊主、灯が消えてしまうぞ」と注意する。すると、隣に座っていたお坊さんが、「私たちは無言の修行の最中。物を言うとは何だ」と叱って、これまた物を言う。すると、その隣のお坊さんが「二人とも物を言うとは何と情けない」と非難し、喋ってしまう。すると、最後に残った最も位の高いお坊さんが、得意顔で「物を言わなかったのは、私ひとりか」と独り言を言い、これまた喋ってしまった。

私たち人間が、いかに人の欠点や失敗をあげつらうことにはいかに素早い者か、そのくせ、自分を省みることがいかに少ない者であるかを物語る。そんなお話でした。

 

私たちが読み進めてきた山上の説教も、今日から第7章に入ります。ここにも、これまでと同様、「目の中の梁とちり」「豚に真珠」など、よく知られた名言、格言が登場します。そして、今日の個所で、イエス様が取り上げているのは、私たちの中にある人をさばく心です。

 

7:1、2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」

 

もちろん、さばくと言っても、すべてさばくことが否定されている訳ではありません。私たちの社会生活は、あれこれと批判、判断、評価することで成り立っているからです。

私の好きな野球の試合でも、アンパイアーがストライクとボール、セーフとアウトを判定しなければなりません。法律による裁判がなければ、社会の秩序を守ることはできないでしょう。文芸や芸術の批評は有益ですし、学校の先生は、生徒の成績を評価する立場にいます。道徳上の善悪は論じられ、何が善で何が悪か、判断を下さなければなりません。

イエス様も、この後のところで、「偽預言者たちに気をつけなさい」として、私たちに本物の預言者と偽物を見分けること、判断することを命じておられます。ですから、イエス様がここで禁じている「さばき」とは、優越感から生まれる非難、あらさがし、感情的に人を責める態度、人の失敗や欠点を喜ぶ心を指していました。

国語辞典を引くと、非難と同じ意味を持つことばが、これでもかと言うぐらいに出てきます。咎める。聞きとがめる。見とがめる。追及する。問い詰める。詰る。面詰する。当てつける。当てこする。面当て。揚げ足を取る。皮肉る。言いがけりをつける。いちゃもんをつける。嫌味を言う。難癖をつける。指弾する。糾弾する。弾劾する。槍玉に挙げる。罵倒する。後ろ指を指す等々。本当に、キリがないと感じます。

これらを見ていると、一言注意すれば済んだことなのに、相手を追求し、問い詰め、喧嘩になってしまった経験を思い出す方がいるかもしれません。言われたら言い返す、やられたらやり返すで、相手に嫌味を言ったり、難癖をつけたり。大切な関係の溝が深くなった。そんな出来事を思い出す方もおられるでしょう。

私たちの中にある人をさばく心が、兄弟喧嘩に親子喧嘩,夫婦喧嘩に友との喧嘩。家庭、社会、教会など、様々な場面で争いを生み、どれ程あるべき平和な関係を踏みにじっているかを思わせられます。

そんな私たちの現実を良くご存じのイエス様が、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と語られたのは、当然のことと思えます。ところで、ここに「さばかれないため」とありますが、私たちは誰にさばかれるのでしょうか。同じ教えが語られた、ルカの福音書には、こうあります。

 

ルカ6:37「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」

 

ルカの福音書では、「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」と言うことばからも分かるように、人からのさばき、人からの赦し。対人関係がテーマです。人をさばかなければ、人にさばかれることもない。人を赦せば、人からも赦される。

俗に、情けは人のためならずと言います。人に情けをかけるなら、その情けが自分に帰ってくる。人をさばかなければ、自分もさばかれない。人を赦せば、自分も赦される。

世間一般にも通じる、極めてわかりやすい教えとなっています。イエス様が、私たちの気持ちを知りぬいた教師であることが良く分かり、嬉しく感じるところです。

しかし、山上の説教では、私たちをただ一人正しくさばくことのできる神様の存在に、焦点が当てられています。「人をさばいてはいけません。神にさばかれないためです。あなたがたが人をさばくとおりに、あなたがたも神にさばかれ、あなたがたが人を量るとおりに、あなたがたも神に量られるからです」。神様との関係が前面に出てきます。

神の子である私たちは、人のさばき、人の評価を気にすることにとどまっていてはならない。神様のさばき、神様の評価を意識して、考え、行動せよ。そう、イエス様は命じているのです。

人を責め、人を非難し、人の失敗や欠点をあげつらう私たちの心、私たちのことば、私たちの態度。それらを、聖なる神が見ておられる。私たちの行いを正しくさばく神がおられる。この信仰によって、どれ程、私たち自分を戒めることができるでしょうか。

神を知る以前は、いとも簡単に人をさばいていた自分。今でも、短気の虫を飼っている自分。人を責めてしまうことのある自分。もっともっと聖なる神のことを意識して生活しなければと思わされます。神の子なら、十人が十人、厳正な神のさばきを恐れないわけにはいかないでしょう。

ところで、神のさばきと聞いて、「キリストを信じて神の子とされた者は、神のさばきに会うことはないのではないか」と不思議に思う方もいるかもしれません。ですから、ここで、聖書が教える三つのさばきについて、整理しておきたいと思います。

第一に、聖書は永遠のさばきを教えています。これは、神様による最終的なさばきで、キリストを信じる者を天国に、信じない者をよみ、地獄に分けるもので、キリストを信じる私たちは天国行きが確定しています。

しかし、それだけではありません。聖書は第二のさばきを教えていて、それは、私たち神の子が、この地上で罪を犯した時に与えられるさばきです。このさばきは私たちに対する神様の訓練。私たちを鍛え、養い、きよめると言う意味を持っています。

第三は、神の子らである私たちが、死後に受けるさばきです。

 

Ⅱコリント5:10「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

 

これは、天国に行くか地獄に行くかを決めるさばきではありません。私たちは既にそのさばきは通過しています。詳しいことは聖書に教えられていませんが、天国での生活に影響する神様のさばきがあること、それを恐れ、意識して、地上を歩むべきことを、イエス様は私たちに勧めているのです。

さらに、私たちが人をさばいけてはいけない理由が語られます。それは、私たちの目の中にある梁の問題でした。

 

7:3~5「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

 

梁は、天井裏にある大きな横木です。最近は梁を知らない人がいるからでしょうか。新共同訳聖書では、「梁とちり」ではなく「丸太とくず」に変えられていました。「なぜあなたは、兄弟の目の中のくずに目をつけるが、自分の目の中の丸太には気がつかないのですか」と言う風にです。

梁とちりにせよ、丸太とくずにせよ、私たちの偽善を指さすイエス様のことばは、痛烈な皮肉。その効果は、人のちりには気がついても、自分の梁には気がつかない私たちの心を貫きます。このことばで、ようやく鈍感な私たちも、人をさばく時自分の中にある罪のひどさに、目が開かれる思いがします。

これまで、人の欠点や弱さ、罪について、助けてあげたいと思った時、私たちが人に示してきた態度が、多くの場合いかに間違っていたかを自覚させられます。私たちの中にある、人を非難し、人を責め、やり込めるような態度こそ、相手の目にある小さなちりに比べたら、大きな梁であることを教えられるのです。

「あなたがさばいている相手は、不道徳かもしれない。無責任かもしれない。弱さを持っているかもしれない。自分勝手かもしれない。しかし、そうだとしても、それは、あなたの中にあるさばきの心、さばきの態度に比べたら、小さなちりに過ぎない。だから、まず、あなたの目の中の梁を取り除くことから始めよ」。

私たちの家族、教会、社会に、あるべき平和を回復するため、イエス様が語るこのメッセージに、私たち耳を傾けたいと思うのです。

それでは、自分の目の中の梁を取り除くとは、どういうことでしょうか。

「天路歴程」を書いて有名なジョン・バンヤンが、刑場に引かれてゆく囚人を見た時のエピソードがあります。人々がみな囚人を罵り、唾を吐きかけているのを見て、バンヤンは、いきなり道に跪き、天を仰いで祈ったそうです。「ああ、私もあの死刑囚と同じ悪人です。私は心の中で罪を犯すに止まっていますが、彼は、それを実行しました。彼と私の違いは、ただこの一点にすぎません。かえって、私は心の中の悪を、彼のように実行しえなかった点において、一層情けない罪人です」。

人を見て、指をさし、罵る者になるか。バンヤンの様に、神様の前で自分の罪を指さしへりくだる者になるか。私たちも、心の奥底を見抜かれる神に直面して、他人を非難する人生から、自分を省みる人生に目を開かれたいと思います。特に、今日のイエス様のことばによって、まず自分の罪を見つめる者となる恵みを与えられたことを思い、これを活用してゆきたいと思うのです。

人の成熟度は、反省心によってはかられると言われます。いつまでたっても、自分を省みることのできない人は心の発育不全です。信仰者になっていても、私たちの中には、人を非難し、侮る、未熟な自分がいます。しかし、日々自分を省み、そんな未熟な自分に気がつくことが、梁を取り除くための第一歩なのです。今日の聖句です。

 

4:31,32「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 

人の目からちりを取り除くと言うのは、大変難しい作業です。体の中で、目は最も敏感な器官で、指がちょっとでも触れれば、瞼がすぐに閉じてしまうからです。

人の欠点や弱さ、罪の問題を助けると言うことも、これに似ています。それは、人の心の最も敏感なところに触れることだからです。少しでも、責められていると感じると、相手は心を閉ざしてしまうのです。

私たちが、自分の罪と、神の赦しを思い、謙遜にならなければなりません。相手に同情し、協力者になると伝えることが必要だと思います。赦すとは、相手の欠点や罪を責めないと決意すること、親切とは、これからどうしたら良いかを共に考え、共に課題に取り組んでゆく態度を示すことではないかと思います。

私たちのうちにある、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり等、未熟な自分を捨てること。親切で、優しい自分を養い、育ててゆくこと。古い自分を捨て、新しい自分を養い、育てる。私たちが皆イエス様の命じる道を進み、人をさばく者から、人を助ける者へ。自分を変えることに、根気よく挑戦してゆきたいと思うのです。

 

2017年7月2日日曜日

世界宣教礼拝 マタイの福音書9章35節~38節「働き手を求める祈り」


私自身、日本で生まれ育ち、日本でしか牧師をしたことがないので、特別な実感はないのですが、一般的に日本は宣教が難しい国と言われます。

 教育、医療、福祉、年中行事、結婚式、文学、音楽、色々なところにキリスト教文化が根付いています。信教の自由が約束されていて、キリスト教信仰を持つことで公に迫害されることはない。教育制度もしっかりしていて、識字率も高く、無料で手にすることが出来る聖書もあり、願いさえすれば殆どの人が母国語で聖書を読むことが出来ます。パソコン、スマートフォンを使えば、いくらでも聖書の話を見聞きできる状況。

それでも、日本におけるキリスト者の割合は少なく、国別に見ると聖書の福音を知らない人の割合は世界ワースト二位と言われます。宗教を信仰するのは、愚かなこと、非科学的なことと考える人が多くいるのに、占い、オカルトは人気がある。不思議な国です。

この国で信仰生活を送る私たち。どれだけ真剣に、宣教が前進すること、福音が広がることを願って生きているでしょうか。どれだけ、宣教することに取り組んでいるでしょうか。自分の周りだけでなく(自分の生活の場で宣教することは非常に重要ですが)、世界宣教の思いを、どれ程持っているでしょうか。

 今週は日本長老教会の世界宣教週間。今一度、自分自身は「宣教」をどのように考え、取り組むのか。御言葉とともに考えたいと思います。

 

マタイ9章35節~36節

「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」

 

 罪人を救うために来られた救い主。イエス様の救いの御業の中心は、罪人の身代わりに十字架で死に、復活すること。死と復活が、贖いの御業の中心です。とはいえ、その生涯の中で、「十字架で死ぬこと、復活すること」しかされなかったのかと言えば、そうではありません。神の民として生きるとはどのようなことなのか。本来の正しい生き方を、その生涯の歩みで示して下さいました。家族に仕え、大工の仕事を通して社会に仕え、公に約束の救い主であることを宣言してからは弟子たちとともに、「宣教」もされました。

 「会堂で教える」、「福音を宣べ伝える」という、言葉を通しての宣教も、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直されるという、行動を通しての宣教も、主イエスは取り組まれていた。その根底にあるのは、正しく神を知らず、福音を知らない、罪の中で弱り果てている者たちを、かわいそうに思われた心、あわれみの心。隣人を愛するがゆえに、イエス様は宣教されていたのです。

 

 ところで、イエス様の宣教活動は、この時開始されたわけではありません。マタイの福音書では、四章からイエス様の宣教の活動が記されていました。それにもかかわらず、マタイはここで「それから」イエス様が宣教をされたと記しています。

それまでも取り組まれていたけれども、改めて、言葉と行いによる宣教をされていたことに、ここで注目するよう示しているのです。この直前、一体何があったのでしょうか。

 

マタイ9章34節

「しかし、パリサイ人たちは、『彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。』と言った。」

 

 イエス様の宣教の働きはよほど順調、順風満帆だったのか想像しますが、意外や意外、そうではなかったのです。神のひとり子。約束の救い主。王の王である方。誰よりも力ある説教が出来る方、いや御言葉そのものである方。誰よりも力ある行いが出来る方、世界を支配している方。その方が、多くの教えをなし、多くの奇跡を行い、人々を愛し励まし助けてきた。

 ところが、人々はイエス様を信じることなく、民の指導者たちは悪霊の頭の働きだと言ったのです。

 

 私たちの感覚で言えば、本当ならば、マタイの福音書は九章三十四節で終わりです。もともと、人間が神様から離れ、悲惨な状態なのです。罪人が悲惨な状態にいるというのは、まさに自業自得。その人間を救い出すために、神のひとり子が、人となって救いの道を説いているのですが、その救い主を信じない。民の指導者たちは自分が信じないどころか、これは悪霊の働きと宣言する。

 救い主から、「もう知らない。」「関わりたくもない。」と言われて当然の状況。「それでイエスは地上を去られた」と記されて、福音書が閉じられても当たり前のこと。しかし、主イエスは、これで終わりとはなさらなかった。ますます心を燃やして、言葉と行いによる宣教に取り組まれたというのが、今日の箇所でした。

マタイ9章35節~36節

「『それから』、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」

 

 ご自身に対する応答がどうであっても、罪人を救おうとされる思いは変わらず。人々への愛は変わらず。約束の救い主が誰だか分からない罪人の姿に、なお一層心を燃やされる方。これが、私たちの救い主でした。

 ところで、イエス様は宣教活動をすると同時に、ご自身が十字架での死と復活の後、天に昇られた後のことも見据えておられました。罪人の罰を引き受け、身代わりに死ぬこと、死に勝利し復活すること。それは、救い主だけが出来ること。イエス様のみの御業です。しかし、言葉と行いによって、福音を宣べ伝えること、これはキリストの弟子にも引き継がれる働きでした。この、キリストの弟子たちに引き継がれる働きについて、イエス様はここで、重要なことを言われるのです。

 

マタイ9章37節~38節

「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」

 

 主イエスはご自分の命を使い、罪人を救い出します。死の中にある者に、命が注がれます。その覚悟をもって、「収穫は多い」と言われました。

 しかし、キリストを宣べ伝える働き、福音を告げ知らせる働きは、弟子に引き継がれる。とても重要なことですが、キリストを信じる者が、神の協力者として、収穫を刈り取る働きをするということです。キリストを信じるとは、重大な使命を頂く意味もあるのです。

ところが、その神の協力者となる者、収穫のための働き手が少ない、とイエス様は言われたのです。そのため、働き手が送られるように、祈って欲しいと言われたのが今日の箇所です。

 

私たちに対する祈りの要請。私たちの救い主、私たちの主が、私たちに祈って欲しいと言われる。今まで私たちは、どれだけ真剣に「収穫のために働き手を送って下さい」と祈ってきたでしょうか。過ぎし一週間、私たちがささげた祈りの中に、「働き手を送って下さい。」という祈りは、入っていたでしょうか。

 日本は宣教が難しいと言われます。結果が出ないと言われます。一つの理由ではなく、様々な要素が絡み合って、現状がありますが、今日の聖書箇所によると、このキリストの祈りの要請に、私たちが応じていなかったから。私たちにも責任があるのではないかと考えさせられます。

 

 イエス様は本気で人間を救おうとされた。だから、「収穫は多い」と言われたわけです。それなのに、私たちが本気でない。「働き手を送って下さい」と祈って欲しい。そうキリストに言われながら、尚もこの祈りをしないというのは、あまりにひどい話。自分の命をかけて、人間を救おうとされた方を前に、尚もこの祈りの要請に私たちが答えないとすると、キリストの死を無駄にしても良いと告白するようなもの。命懸けのキリストの収穫を無駄にして良いと考えるならば、それはキリストの教会ではなくなります。

 今日、イエス様の言葉を前に、今一度「働き手を送って下さい。」と祈ることに、皆で真剣に取り組みたいと思います。これまで祈っていなかったと思うならば、キリストの願いを無視していたことを悔改めて、真剣に「どうぞ働き手を送って下さい」と祈りたいと思います。

(この「働き手」とは、必ずしも牧師や宣教師だけを指すものではありませんが、四日市キリスト教会の歴史を見ますと、多くの牧師、宣教師が送られてきました。それは、これまで祈られてきた「働き手を送って下さい」という願いに、神様が応えて下さったからでもあります。これからのために、「働き手を送って下さい。」と祈ると同時に、ここまで、教会の歩みが守られ、四日市の地で宣教が前進していることに感謝することも忘れないようにしたいと思います。)

 

 ところで「祈る」というのは、通常は、神様に願って終わりということではありません。安全に家に帰れるようにと祈った人が、ひどい運転をするとしたら。あの学校に合格することを祈りながら、勉強に取り組まないとしたら。「祈る」ということが、どのようなことなのか、分かっていないことになります。「祈り」とは、神様に願いを伝えつつ、またそれが実現するために自分も出来ることに取り組むことです。

 

 ある本に、お腹をすかせた子どもと、教会学校の先生の話しが載っていました。

教会学校の先生が、神様は何でも出来る方だから、神様に食べ物を下さいと祈りましょうと言う。そう言われた子どもは、半信半疑ながら、神様に祈る。先生も祈る。しかし、祈れど祈れど、特に変わったこともない。そこで、子どもが祈っても何も変わらないじゃないかと思い始めたころ。その先生は食べ物を用意し、子どものところに行き、また食べ物を下さいと祈った。祈り終った後で、ここに食べる物があるから、これを食べなさいと言って、子どもに渡す。そして、先生が、神様は祈りに応えて下さる方だと言う。子どもは大喜びでそれを食べ、食べ終わったところで、こう言ったそうです。「でも、この食べ物は神様がくれたのではなくて、先生が作って持ってきたものじゃないか。神様がお祈りに応えてくれたわけじゃない。」と。すると先生がこう答えました。「いいえ。お祈りを続けた結果、その食べ物は私が準備出来ることに気が付きました。神様は私を通して、お祈りに応えて下さったのよ。」と。

 私たちが、真剣に「働き手を送って下さい」と祈るならば、この教会学校の先生と同じことを考えることになります。この祈りの実現のために、自分は何が出来るだろうか。働き手を送って下さいと願うと同時に、自分自身も働き手として何が出来るのか、働き手を支えるために何が出来るのか、真剣に考えたいと思います。

 

 この世界宣教週間の一週間。既に海外で労されている宣教師の方々、これから宣教師になろうとしている方々、日本で宣教師として労している方々のために祈ることに、取り組みたいと思います。その宣教師の方々のために、自分は何が出来るのか、考えたいと思います。同時に、収穫の主に「働き手を送って下さい」と真剣に祈りたいと思います。

その結果、この四日市キリスト教会からも、日本各地で活躍する牧師、世界で活躍する宣教師が起こされますように。いや、宣教の働きは、牧師、宣教師だけのものではありません。私たち一同で、この地に住んでいる方々に、福音を届けたい。キリストの十字架によって実った収穫を、刈り取っていきたいと思います。

 「収穫は多い」と言われたキリストの言葉を真剣に受け止め、それならば「働き手を下さい」と祈り、そして私は何が出来るだろうかと考える。そのような歩みを皆様とともにしていきたいと思います。

2017年6月25日日曜日

マタイの福音書6章25節~34節「山上の説教(35)~第一に求めるべきもの~」


先回、私たち夫婦は七年の交際を経て33年前に結婚したと言うことをお話しました。実は、その交際期間中、妻からよく言われたことばがあります。それは、「あなたって、本当にわかりやすい人ね。あなたの機嫌が悪い時、イライラしている時は、お腹がすいているか、前の日にジャイアンツが試合に負けたかのどちらかでしょ」ということばです。

最初、私は「自分はそんなに単純な人間じゃあないぞ」と言う気持ちがあり、反論していました。しかし、よく考えてみると、妻のことばは当たっていると納得せざるを得ませんでした。当時、ジャイアンツは今よりも断然強かったとは言え、優勝チームでも一年を通せば、かなりの試合に負けるわけですから、妻が気がつくのも当然だったと思います。

妻とデートしながらも、心ここにあらず。「どうして、あの場面江川は直球ではなくて、カーブなんか投げたんだ」とか「せめて、あそこで原が外野フライでも打って点が入っていたら、どうなっていたかわからない」等、前日の試合を振り返って、まるで自分が負けたかの様に思い悩む。妻にしてみれば、「どうして、そんなどうしようもないことを悩むのか」「目の前にいる自分とジャイアンツ。どっちが大切なの」と言う気持ちだったかもしれません。

「覆水盆に返らず」と言います。一旦お盆からこぼれた水を元に戻すことはできない、と言う意味です。空腹と言う問題は、物を食べることで解決できます。しかし、お盆からこぼれた水の様に、過去の出来事はいくら悩んでも変えようがない。それを、私たちは「あの時あーしていたら、こーしていたら」と繰り返し考え後悔する。自分が大切に思っている人や物事については、その程度がひどくなる。これが思い煩い。人間だけが罹る心の病です。

ところで、プロ野球に関心のない方、ジャイアンツファン以外の方には、どうでもよいことかもしれませんが、この6月、ジャイアンツは球団史上最悪の13連敗を喫しました。以前の私でしたら、今頃は思い煩いのピーク。「今年はもう、ジャイアンツの優勝はない。Aクラス入りも無理かも」と暗く落ち込んでいたことでしょう。

しかし、今は、がっかりはしていますが落ち込んではいません。心配はしていますが、思い煩う程でもありません。ジャイアンツ13連敗と言う出来事は、以前のように私の心を支配してはいません。その理由は、今日のイエス様の教えにあります。

先回、私たちは、6章25節から30節を扱いました。そこで、イエス様が教えてくださったのは、私たちがいかに思い煩いの影響を受けているか。それと、思い煩いの中にある時、私たちがすると良いこと、すべきことです。

食べ物、飲み物、着る物を代表として、私たちは、生活のあらゆる分野で思い煩うことがあります。金銭に関する心配、仕事に関する悩み、健康への不安、親子、夫婦、地域の隣人など、人間関係の思い煩い。心配、悩み、不安、思い煩い。それらが、生活からなくなることはないように思います。

そして、思い煩いの影響は非常に大です。思い煩いは不眠や病気の原因ともなります。日々の仕事や学び等、なすべきことに対する集中力を奪います。考えても、心配してもどうしようもないことと、私たち頭では理解していても、一度はまり込むと、なかなか思い煩いから抜け出せず、大切な時間やエネルギーを失ってしまうのです。

けれども、その様な私たちのことを良くご存じのイエス様は、ここで印象的なことばを語られました。「空の鳥を見なさい」、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」ということばです。多くの人が慰められ、励まされたことばです。

 イエス様は私たちに、空の鳥を見ることにより、鳥を養う天の父を見る様勧めています。野の花を見て、美しい花を育てる天の父のことを考えよと勧めています。「空の鳥を見、野の花を見ることで、あなたたち神の子どもを愛し、養い、世話してくださる天の父なる神様に心を向けよ。」そう、命じておられるのです。

 どうでしょうか。皆様は、イエス様の勧め、実行することができたでしょうか。「空の鳥や野の花を見るだって。そんな時間は、とても忙しく持てないよ」と、仰る方もいるかもしれません。しかし、私たちが思い煩いから解放されるために必要なことであるので、イエス様はこれを勧め、命じているのです。

 せかせかと時間に追われ、スケジュールに追われる日々。話題と言えば、食べ物や着物、金銭や地位のこと、健康のこと。これらのもの次第で一喜一憂する私たち。いつの間にか、己の力一つで生きているつもりの、高慢な人間社会に生きる私たち。しかし、だからこそ、ひと時そこから離れ、自分が天の父にとってどれ程大切な存在か、いかによく養われている神の子どもであるかをゆっくりと考え、喜ぶ時間が必要ではないかと思わされます。

 こうして、鳥や花を通して、私たちを養う天の父を示したイエス様。続いては、私たちの生活の必要を知って下さる天の父について教えてくださいました。

 

 6:31、32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」

 

 異邦人とは、聖書の神様を信じていない人々を指します。ここで、イエス様は「神様を信じているはずのあなた方も、まるで神様を知らない人の様に食べ物、飲み物、着る物等、この世の生活のことで心配し、思い煩っていませんか。」そう、私たちに問いかけているのです。

 そして、神様を天の父として信頼することのできる理由として、「天の父は、私たちの生活に必要なものすべてを良く知っておられる」と、言われたのです。皆様は、このことを信じているでしょうか。私たちの生活の必要を良く知っている天の父が生きており、心を私たちに向けておられること、信じているでしょうか。

 天の父は私たちが病気になった時、どんな病気かだけでなく、私たちが感じる痛みも、不安な思いも知っていてくださいます。経済の問題で悩む時、私たちに必要なものばかりか、私たちの心細さも理解してくださいます。大切な人との人間関係で思い煩う時、私たちの傷ついた心も、言葉にできない苦しい思いもご存じなのです。

 私たちがどこに行っても、神様は見守っていて下さる。私たちが、どんな状況に置かれても、そこに神様のご配慮は注がれている。私たちがどんなに困難な境遇のもとにあろうとも、それは天の父が愛する子どものためにしてくださっていることなのです。

 イエス様ご自身が、天の父に対する信頼を告白している言葉があります。それは、十字架を前にして、信頼する弟子たちがイエス様を一人残して、離れて行った時のことでした。

 

 16:32「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」

 

 人間は、自分のことを思ってくれる人がいない時、自分のことを理解してくれる人がいないと感じる時、つまり、一人ぼっちで孤立していると思う時、最も弱い存在だと言われます。しかし、イエス様はどうだったでしょうか。弟子たちが離れて行った時、そのことで思い悩んだでしょうか。そうではありませんでした。むしろ、ともにおられる天の父に心励まされ、十字架への道を進みました。

私たちも、イエス様と等しく天の父に愛されている神の子どもです。ですから、どんな状況に置かれても、イエス様とともに「私はひとりではない。私のことを知り、最善の配慮をしてくださる天の父が、私と一緒におられる。」そう信じ、告白することができます。神の子どもとして、天の父とともに、日々歩む者でありたいと思うのです。

そして、ついに、イエス様が私たちの思い煩いを癒す決定的な方法を示されます。山上の説教の中でも、ひと際輝く金字塔の様なことば、私たちの心をとらえて離さぬ名言でした。

 

6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

 神の国とは、神様の支配です。神の国は、イエス・キリストを信じる者の心にあり、今や世界中に広がっています。義とは、神様のみこころ、神の国の王である神様が喜ばれることです。ですから、神の国とその義とをまず第一に求めるとは、どの様な状況でも、神様に従うこと。神様のみこころ、喜ばれることは何かを考え、それを第一にして行動することです。私たちが大切にしているこの世の富や物質、自分の権利や立場よりも、神様のみこころを優先すること、と言えるでしょうか。

 今日は、旧約聖書に登場する信仰の父アブラハムの例から、これを学びたいと思います。神に信頼する人アブラハムは、土地こそ所有していませんでしたが、約束の地で祝福され、多くの家畜と金銀に恵まれていました。アブラハムを手伝っていた甥のロトも、次第に独立し、その所有物を増やしていました。

 しかし、叔父と甥、富める二つの群れにとって土地は狭く、僕たちの間に争いが起こるようになったのです。この問題に心悩ませたアブラハムは、驚くべき提案をロトに伝えます。

 

創世記13:1~9「それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。…アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

 

リーダーであり、年長者であるアブラハムには、当然良い土地を選ぶと言う優先権がありました。しかし、アブラハムはその権利を年下のロトに譲ります。甥のロトとの平和な関係を優先したのです。もしこの状況で、アブラハムが自分の権利を主張していたら、二つの群れの争いは激しさを増し、思い煩いが彼の心を支配することになったでしょう。

けれども、アブラハムは自分の所有物や、リーダーとしての権利よりも、平和を造ると言う神様のみこころを優先したのです。その結果、二つの群れは分かれ、争いは止み、アブラハムの群れは、必要なものを手にしたばかりか、さらに栄えることができました。

神の国とその義をまず第一に求めた者に、天の父が必要なものを与えて下さる。アブラハムの生き方は、難しい状況に置かれた時、私たちが何に価値を置いているのか。何を第一に求めるべきかを考えさせられます。

目先のもの、生活に必要なものを求め、自分の権利を主張して、思い煩いの渦に巻き込まれるのか。それとも、神様のみこころを考え、それに従うことを第一とし、その結果神様から必要なものを恵まれるのか。私たちの前には、常にこの二つの道があるのではないかと思います。

神の子どもとして、第一に求めるべきものは何か。今、この時、この状況で、自分に対する神様のみこころは何か。日々そのことを考え、行動する者でありたいと思います。

最後に、念押しとも思えるイエス様のことばで、6章は幕を閉じます。

 

6:34「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

 

人間の心と言うのはつくづく厄介なものだと思います。ある時は過去を振り返り、一晩中「どうしてあんなことをしてしまったのか」と後悔を繰り返し、心をすり減らすことがあります。かと思うと、どうなるのかわからない明日のあれこれを心配して、よく眠れず、疲れ切ってしまうこともあるでしょう。思い煩いの悪循環です。

それに対して、今日と言う日を、最善を尽くして生きることを勧めています。同じ苦労をするなら、明日を心配し、思い煩うことに力を使うのではなく、神様のみこころを求め、従うことに力を尽くすのが良いと勧めているのです。

私たちが変えることのできない将来や、相手の言動は、私たちのために最善の配慮をしてくださる神様に委ねることができますし、委ねるべきです。私たちがすべきは、今日ここで、神様のみこころを求めること、従うこと。この一事に最善を尽くして今日を生きる時、思い煩いは消え、必要なものは与えられる。そうイエス様は約束しておられるのです。私たち、お互いに励まし合いながら、神の国とその義をまず第一に求める歩み、進めてゆきたいと思います。

 

6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

2017年6月18日日曜日

一書説教ゼカリヤ書~幻を通して~


目の前に「緊張し、混乱し、不安になっている人」がいて、自分の役割は、その人を落ち着かせることだとします。皆様はどのような方法で、その人に落ち着いてもらおうと取り組むでしょうか。

 「落ち着いて下さい。」と話しかけるか。手を握り、抱きしめ、そばにいるか。心が落ち着く音楽を流すか。壮大な景色を描いた絵や映像を見てもらうか。リラックス効果があると言われる匂いを嗅いでもらうか。甘い物でも食べてもらうか。伝えたいことは「落ち着いて下さい」だとして、伝え方は色々とあります。

 そして、どの伝え方が効果的であるかは、人によります。ある人にとって、言葉が重要。ある人にとっては行動が有効。ある人は、音楽や映像が影響を受けやすい。ある人は、匂いや味が大事。自分がメッセージを受け取る側だとしたら、どのような方法で伝えられるのが効果的でしょうか。

 

 六十六巻からなる聖書。そのうち一つの書を丸ごと扱い説教する一書説教。断続的に取り組み、これで六年目になりましたが、いよいよ旧約聖書の終わりが近づいてきました。今日は旧約聖書第三十八の巻、ゼカリヤ書となります。

 旧約聖書に記された神の民の歴史の中で、重大な事件二つと言えば、「出エジプト」と「バビロン捕囚」と言えます。そのうち「バビロン捕囚」からの解放、神殿再建の歴史的な記録はエズラ記に記されました。

 

 エズラ記5章1節~2節

「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。」

 

 ここに、神殿再建に取り組む重要な人物として、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアの名前が出てきます。この二人が神殿再建の責任者。そしてこの二人を助ける人として、立てられたのが、預言者ハガイとゼカリヤです。

同じ時期に、同じ目的で活動するように召された二人の預言者。前回の一書説教では預言者ハガイの言葉に触れましたが、今回はもう一人の預言者、ゼカリヤの言葉を聞くことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 神の民が神殿再建に取り組めるよう励ますために、また総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを励ますために遣わされた二人の預言者。同じ時期に、同じ目的。ところが、この二人の言葉の印象は全く異なります。

 ハガイの言葉は実務的、実践的な印象があります。

 ハガイ1章4節、8節

「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。・・・山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」

 

 それに対して、ゼカリヤの預言は、幻とそれを解釈することから伝えられるメッセージが中心となります。

 ゼカリヤ1章8節~9節、16節

「夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。私が、『主よ。これらは何ですか。』と尋ねると、私と話していた御使いが、『これらが何か、あなたに示そう。』と私に言った。・・・それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。――万軍の主の御告げ。――測りなわはエルサレムの上に張られる。』」

 

 ゼカリヤ書に記された最初の幻です。ここには、谷底にあるミルトスの木の間に立つ、赤い馬に乗った人と、その他の馬。ゼカリヤ自身や幻の意味を説明してくれる御使い。さらには、主なる神様ご自身も出てくる。幻の中で、色々なやりとりがなされて最終的に神様の言葉として、「宮(神殿)が建て直される」と語られます。

今の私たちからすると、どうも分かりづらい印象です。谷底にあるミルトスとは何を意味しているのか。馬の色には、何か意味があるのか。幻の意味が説明されるものもありますが、説明されない部分もある。私などは、神様の宣言部分だけで十分な気がしてしまうのですが、しかし、このように幻と解釈を通してメッセージが語られるのが、ゼカリヤ書でした。

 

(余禄となりますが、ゼカリヤ書に出てくる幻は、ヨハネの黙示録にも同様の幻、テーマが出てきます。四種類の馬、町の測定、金の燭台、二本のオリーブの木、悪を代表する女性、七つの目、など。黙示文学と呼ばれる、エゼキエル書、ダニエル書、ヨハネの黙示録との関連で、ゼカリヤ書を読むことが出来ると、さらに理解が深まると言えます。)

 

ハガイとは全く異なる印象のゼカリヤ。しかし、全く異なるから、意味があるとも言えます。実務的、実践的なハガイの言葉とともに、映像的、抽象的なゼカリヤの言葉にこそ、影響を受ける人、励ましを受ける人もいたでしょう。神殿再建という一大事業に取り組む際、神様は異なる二人の預言者を遣わしておられたということに、神殿再建に対する神様の情熱と、何としてでも神の民を励まそうとされる優しさを覚えます。

 

 ところで預言者ハガイは、神殿再建時にだけ活動した預言者。(聖書の記述はなく、預言者として活動した可能性はあります。)ゼカリヤは、神殿再建時と、それからしばらく経ってからも預言者活動をしています。そのため、内容も神殿再建に関することと、それ以外のメッセージの二つに大別することが出来ます。

 前半、神殿再建時に語られた預言、一章から八章。後半、終末預言、メシヤ預言と言われる内容で、九章から十四章となります。まずは前半から見ていきます。

 

 神殿再建時に語られる預言の殆どは、幻を通してなされるもの。合計、八つの幻が出てきます。(七章から八章は、神殿再建時に、断食についての問いによって与えられる預言となりますが、今日の説教では扱いません。)

 第一の幻は、先ほど少し確認しました騎兵隊の幻。この騎兵隊は、世界を行き巡り、その様子を神様に報告するものと言われます。神様が全世界を支配されていることを示す幻でしょうか。

 第二の幻は四つの角と四人の職人。この角は、ユダを攻撃した者たちで、その角を打ち滅ぼすのが職人と言われます。ユダを攻撃したものたちに神様が報いる、ユダには神様の守りがあることを示す幻でしょうか。

 第三の幻は測り綱を持つ人。その測り綱で、エルサレムを測量すると言われます。神様が、エルサレムを再建することを示す幻でしょうか。

 第四の幻は法廷。大祭司ヨシュアが、サタンに訴えられている場面。幻の法廷の中で、神様はヨシュアを擁護し、大祭司として相応しいことが確認されます。

 第五の幻は金の燭台と二本のオリーブの木。このオリーブの木は、ゼルバベルとヨシュア(二人の油注がれた者と表現されますが)のことと言われます。二人を通して、金の燭台に火が灯る、神殿が再建されることを示す幻でしょうか。

 第六の幻は空飛ぶ巻物。この巻物は「のろい」と呼ばれ、悪者はこの巻物に照らし合わせて懲らしめを受けると言われます。義なる神様が、悪に報いることを示す幻でしょうか。

 第七の幻はエパ枡(穀物を計るための枡)。そこに罪悪が入れられ、エパ枡ごと運び出されるというもの。エルサレムから、罪悪が取り去られることを示す幻でしょうか。

 第八の幻は、戦車隊。世界を駆け巡り、神様の怒りを静めると言われます。神様が、ご自身の望むように世界を支配されることを示すものでしょうか。

 

 これら八つの幻。この順番でゼカリヤが見たことに、意味があると考えられます。

 最初ゼカリヤは、谷底で騎兵隊の幻を見ました。どこの谷か示されていませんが、ゼカリヤがエルサレムにいたことを思えば、エルサレム郊外の谷と考えられます。第二第三の幻で、エルサレムの全体を見渡せるところへ視点が動き、神様の守りを確認。第四第五の幻で、神殿の中へ視点が移り、ヨシュアとゼルバベルへの励ましの言葉。第六第七の幻では、神殿から世界へ視点が移り、神様が悪に報いることが示されます。最後の第八の幻は、第一の幻と対応しています。騎兵隊が世界の様子を確認していたのが、戦車隊が世界を巡り統治する幻となる。

 エルサレムの郊外から神殿へ、神殿から全世界へ。神様が神の民を守られるという視点から、悪には報いるという視点へ。

 是非とも、実際にこの八つの幻の預言を読んで頂きたいと思いますが、それぞれがどのような意味なのか確認するとともに、一連の流れも味わって頂ければと思います。

 

 このように見ていきますと、八つの幻の中心にあるのは、神殿についての幻。その五つ目の幻の預言の中に、(おそらく)ゼカリヤ書中最も有名な言葉が出てきます。

 ゼカリヤ4章6節

「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」

 

神殿再建事業は、もともとペルシヤ王クロスの命令で開始したもの。資金援助もあり、ゼルバベルの総督という立場も、王の権威によって与えられたものです。反対勢力がこの事業の正当性を問い、妨害した時も、ペルシヤ王に協力を求めて工事再開となりました。権力によって、神殿再建という事業が進んでいると言うことも出来ます。

預言者ハガイはユダの人々に、神殿再建の取り組みをするように訴えていました。それで、人々は神殿再建へ自分の力を注いでいるのです。神様が神殿再建をなさるので、あなたがたは何もしなくて良いとは教えられず、むしろせいいっぱい力を使うように語られていました。能力によって、神殿再建が進んでいると言うことも出来ます。

 

 権力によっても、能力によっても、神殿再建は進められてきた。しかし、ゼカリヤの幻を通して語られたメッセージは、「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」。この時、神様がゼルバベルに求めたことは、ゼルバベルが精一杯、事業に取り組むと同時に、しかし、神様が事を為しているとする信仰。成し遂げたことをもって、自分の栄光とするのではなく、神の栄光をあらわすことでした。

 神殿再建間近。ここまで、どれだけ苦労してきたのか。自分がゼルバベルの立場でしたら、この言葉をどのように受け止めるでしょうか。「いや、神の霊によってというは分かるが、権力も、能力も大事でしょう。精一杯取り組んできた私の働きも認めてもらわないと、納得がいかない。」と言うか。それとも、「その通りです」と首を垂れるのか。

 また、この言葉が、今の自分に語られている言葉として受け止めるとしたら、どのような意味になるでしょうか。

 

 さて、ゼカリヤ書の後半。九章からは、だいぶ印象が変わります。幻による預言はなく、そのため幻の説明をする御使いも登場しません。前半は殆どが散文でしたが、後半は韻文も多く含まれます。

後半の特徴の一つは、メシヤ預言と呼ばれる、イエス様に当てはまる預言が多くあること。十字架直前、イエス様がエルサレムに入場される際、子ろばに乗りましたが、これはゼカリヤ預言の成就と言われていました。(ゼカリヤ9章9節、マタイ21章5節)オリーブ山で、主イエスが捕縛される時、弟子たちが散り散りになりましたが、これも預言されていたこと。(ゼカリヤ13章7節、マタイ26章31節)十字架上で死なれたイエス様が、その脇腹を刺されたことも預言の成就。(ゼカリヤ12章10節、ヨハネ19章37節)その他、いくつかキリストについての預言が出てきます。

 

 後半の内容は、概観することが難しく、色々なテーマが散在しているような印象ですが、全体としては神様が全世界の王となることが語られる終末的な内容となります。ゼカリヤ書の最後は次の言葉です。

 ゼカリヤ14章16節~21節

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。」

 

 ゼカリヤ書の前半が、エルサレム神殿の再建に焦点が向いていたのに対して、後半の終わりでは、全世界に焦点が向けられます。エルサレムを攻めて来た民の中にも、主なる神様を礼拝する者たちが起こされる。万軍の主を礼拝しない者たちには、裁きが下される。

そして、神様の支配が行き渡るしるしとして、「馬の鈴の上には『主への聖なるもの』と刻まれる。」と告げられます。「主への聖なるもの」という神聖な文字は、本来大祭司の額飾りに彫られたもので、大祭司が特別に神様の働きをすることを示すものでしたが、それがやがて戦争のシンボルである馬の鈴の上にも刻まれる。聖なるもの、俗なるものの区別がなくなり、あらゆる物が、神の栄光をあらわすものとなるという大パノラマで閉じられることになります。

 

 以上、ゼカリヤ書を概観しました。前半は幻が多いこと。後半は、今の私たちからして、過去のことが書いてあるのか、未来のことが書いてあるのか、明確ではないことから、非常に難解な書。皆様は、このゼカリヤ書をどのように読むでしょうか。

 今回、何度も繰り返し読みまして、私が味わった一つのテーマは、「神様の栄光をあらわす」ということです。私たちが認めようが、認めなかろうが、主なる神様が世界の支配者であることは変わらない。しかし、私たちが求められているのは、主なる神様が世界の支配者であることを認めて生きること。総督ゼルバベルが、「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」神殿再建がなされると認めるように求められたのと同じように、私たちの生涯も「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」生かされることを再確認したいと思います。

また、全てのものが、「主への聖なるもの」として用いられる世界が来ることを宣言したゼカリヤのあの希望を、私たちも持ちたいと思います。やがて、主イエスが来られて、世界をそのように変えて下さることを期待すると同時に、今の私たちの歩みが「主への聖なるものとなる」こと。自分の一挙手一投足も、「主への聖なるもの」としての歩みとなるように願うのです。