2018年4月1日日曜日

イースター礼拝 ヨハネの黙示録7章9節~17節「涙をぬぐい取って下さる神」


およそ2000年前の春4月。日曜日の朝、ユダヤの都エルサレム近くの墓を破り、イエス・キリストは復活されました。そして、多くの弟子たちが復活の主の姿を目撃し、神の子、救い主であると確信したことにより、キリスト教会の歩みが始まったのです。

 それ以来、キリスト教会はイエス様の復活を記念して、日曜日に礼拝をささげるようになりました。イースターには、特別にイエス様の復活をお祝いします。復活によって、イエス様が罪と死に勝利されたから、イエス様を信じる者たちも必ずや復活することを信じているからです。

それでは、イエス様を信じる者が復活の後、生活することになる天国とは、どの様な場所なのでしょうか。今日は、それを聖書最後の書黙示録から見てみたいと思います。

黙示録は紀元1世紀後半、イエス様の弟子ヨハネが書いたものです。時にヨハネは、地中海に浮かぶ島パトモスにいました。その頃、勢力を世界に拡大するローマ帝国は、皇帝を神として礼拝するよう人々に強いることで、国をまとめようと考えましたが、キリスト教会はこれに抵抗します。イエス・キリストのみを神とし、皇帝礼拝には従わなかったのです。

そのために教会は迫害され、ヨハネもパトモス島に追放されたと言われます。この世界には多くの神々が存在し、自分たちの町や生活を守っていると信じるローマの人々にとって、十字架につけられたイエス・キリストのみを神とし救い主と仰ぐキリスト教徒は、不思議な存在だったようです。私たちの信仰の先輩は、この時代無神論者と批判され、しばしば迫害の対象とされ、殉教する者も現れました。

その様な苦しみの中にある教会のために、復活したイエス様が、様々な幻を通してヨハネに天国の様子を語る。これが黙示録の主な内容の一つでした。黙示録には特有の表現があり、少し難しさを感じますが、私たち今日の個所にも、来るべき天国の様子を確認したいと思うのです。まず見てみたいのは、天国で私たちはどのような者に変えられるのか、です。

 

7:914「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」

 

ヨハネが見せられたのは、世界中のクリスチャンが一つとなり、父なる神と小羊イエス・キリストを賛美し、礼拝をささげている様子です。誰にも数えきれないほどの大勢の群衆。歴史始まって以来すべてのクリスチャンが集められるのですから、その賛美の力強さは、どれ程のものであったでしょう。事実、この大賛美に心動かされたのか。み使いたちも、賛美をもって応答しています。世界中から集まったすべての時代の神の民、プラスみ使いの合同賛美。大聖歌隊。その歌声は文字通り天地を震わせたことでしょう。

今この世界には国境が引かれ、国と国を隔てています。国と国との対立も絶えません。目には見えない溝が、民族と民族の間に横たわっています。しかし、天国では、対立は止み、争いは絶え、溝は埋められます。国と国とが意地の張り合いをしてきた国境線も、きれい、さっぱり消えていることでしょう。

天国では世界中の民族が一つ神の民となる。肌の色が違っても、言葉や文化が異なっても、小羊イエス・キリストに従う神の家族として共に歩み、共に生きる。私たちも、やがてこの大群衆、大家族のひとりであることを喜び味わえる日が来る。本当に待ち遠しいと感じます。

また、人々が身に着けているのは白い衣でした。これについて、長老のひとりがヨハネに尋ねています。「この人たちは、誰ですか。どこから来たのですか。」恐らく、余りにも多くの兄弟姉妹と、天地を揺るがす賛美に圧倒され、ボーとしていたヨハネに、眩いばかりの白い衣を、よく見て欲しかったのでしょう。「あなたこそご存じのはず」と応えるヨハネに、長老の一人は「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。あなたの仲間、兄弟ですよ。」と告げたのです。

結婚式で花嫁が着るドレスは白、純白が基本です。白は昔から、純潔、清楚、きよさの象徴でした。神様によって義と認められ、きよめられたことのシンボル、純白が天国の民のマークなのです。

ヨハネの時代、迫害に苦しむクリスチャンたちの着物は、汗と血にまみれていました。また、私たちの心と言う衣は罪に汚れ、しみで一杯です。迫害のもとにある兄弟姉妹は「いつまでこの苦しみが続くのか」と嘆くでしょう。罪に汚れた心を持つ私たちは、自分が情けないほど罪に対して無力であることに、落胆します。

しかし、いつまでも、教会は苦しみの中に置かれるわけではありません。罪との戦いも永遠に続くわけではないのです。私たちのために十字架で罪の裁きを受け、死んでくださったイエス・キリスト。そのイエス様の犠牲の血によって、完全にきよめられた私たちの姿がここにある。そのことを今朝の礼拝で確認したいのです。

次に見てみたいのは、天国での生活です。

 

7:15a「だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。」

 

天国は怠け者の楽園ではありませんでした。イエス様の贖いの愛で満たされた心、充実した心で、一人一人が尊い働きをなす、奉仕の世界だったのです。旧約聖書の昔は、祭祀が聖所で神様に仕えました。それが、天国では世界全体が聖所と化し、全員が神様に仕える祭祀となるのです。

畑を耕すこと、着物や靴を造ること、料理をすること、掃除をすること、聖書を詠むこと、祈ること、絵を描くこと、スポーツを楽しむこと、礼拝すること。全ての働きが尊くて、奉仕に貴賎なしの世界です。自分はこれができるからと威張る者なく、何もできないと卑下する者もいない。皆がお互いの働きを尊び、皆が与えられた賜物を活かして、神様と人に仕えることに無上の喜びを感じる国。それが天国でした。

他方、神様も民のために働かれます。

 

7:15b,16「そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」

 

 荒野を行く旅人にとって、幕屋は心安らぐ住まいでした。昼は暑さを避ける陰、あらしと雨を防ぐ隠れ家となります。天国では、神様が大きな翼をもって覆うかのように、幕屋を張って、民を守り慈しんでくださる。民が一人として飢えることなく、渇くことなく、炎熱に苦しむこともない様に。誰もが安心で、快適な環境で生活できる様に。そのために幕屋を張って共に住み、守ってくださると言う。頼もしくも優しいお父さんの様な神様と、私たちの親密な生活が目に浮かんできます。

 そして、何故天国が私たちにとって快適で、安心できる住まいなのかと言えば、それは、私たちのために十字架で命を捨てたもう小羊のイエス様がおられるから、私たちの苦労をよく知っておられる神様が待っておられるから、でした。

 

 7:17「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

 

 今この世界で、1分間で12人の命が飢餓のために失われています。愛に飢える人、慰めを求めて渇く心の持ち主はさらに多いでしょう。また、炎熱に代表される、災害に苦しめられる人も後を絶ちません。しかし、天国では、小羊イエス様が、私たちの羊飼いとなっていのちの水で養ってくださる。神様は、まるでお母さんが子どもにするように、「よく頑張ったね。待っていたよ。」と私たちの目の涙を拭い取ってくださると言うのです。

 迫害に苦しむ涙、罪を悔いる涙、自分を責める涙、悔し涙、別れの涙、挫折の涙。心の中で流す涙。私たちは、神様から拭って貰う度に、地上で私たちが経験した労苦をことごとく、神様が知っておられることに驚くことになるでしょう。神様が、私たちの人生のすべてを見守っておられたことを知り、安心してその胸によりかかることが出来るのです。

 これから、私たちは聖餐式にあずかります。聖餐式には、三つの意味があり、益があります。第一は、復活の主イエス様のいのちに預かること。第二は、イエス様をかしらとする一つの体、一つの家族であることを覚え、愛し合い、仕えあう決意をすること。第三は、来るべき天国での生活を思い、希望を新たにすることです。今朝の聖餐式が、私たちのうちに生きて働きたもう復活のイエス様を確認すること、天国で受け取る様々な祝福を前もって味わう機会であること。これを心に刻んで、聖餐式に臨みたいと思います。