2017年6月25日日曜日

マタイの福音書6章25節~34節「山上の説教(35)~第一に求めるべきもの~」


先回、私たち夫婦は七年の交際を経て33年前に結婚したと言うことをお話しました。実は、その交際期間中、妻からよく言われたことばがあります。それは、「あなたって、本当にわかりやすい人ね。あなたの機嫌が悪い時、イライラしている時は、お腹がすいているか、前の日にジャイアンツが試合に負けたかのどちらかでしょ」ということばです。

最初、私は「自分はそんなに単純な人間じゃあないぞ」と言う気持ちがあり、反論していました。しかし、よく考えてみると、妻のことばは当たっていると納得せざるを得ませんでした。当時、ジャイアンツは今よりも断然強かったとは言え、優勝チームでも一年を通せば、かなりの試合に負けるわけですから、妻が気がつくのも当然だったと思います。

妻とデートしながらも、心ここにあらず。「どうして、あの場面江川は直球ではなくて、カーブなんか投げたんだ」とか「せめて、あそこで原が外野フライでも打って点が入っていたら、どうなっていたかわからない」等、前日の試合を振り返って、まるで自分が負けたかの様に思い悩む。妻にしてみれば、「どうして、そんなどうしようもないことを悩むのか」「目の前にいる自分とジャイアンツ。どっちが大切なの」と言う気持ちだったかもしれません。

「覆水盆に返らず」と言います。一旦お盆からこぼれた水を元に戻すことはできない、と言う意味です。空腹と言う問題は、物を食べることで解決できます。しかし、お盆からこぼれた水の様に、過去の出来事はいくら悩んでも変えようがない。それを、私たちは「あの時あーしていたら、こーしていたら」と繰り返し考え後悔する。自分が大切に思っている人や物事については、その程度がひどくなる。これが思い煩い。人間だけが罹る心の病です。

ところで、プロ野球に関心のない方、ジャイアンツファン以外の方には、どうでもよいことかもしれませんが、この6月、ジャイアンツは球団史上最悪の13連敗を喫しました。以前の私でしたら、今頃は思い煩いのピーク。「今年はもう、ジャイアンツの優勝はない。Aクラス入りも無理かも」と暗く落ち込んでいたことでしょう。

しかし、今は、がっかりはしていますが落ち込んではいません。心配はしていますが、思い煩う程でもありません。ジャイアンツ13連敗と言う出来事は、以前のように私の心を支配してはいません。その理由は、今日のイエス様の教えにあります。

先回、私たちは、6章25節から30節を扱いました。そこで、イエス様が教えてくださったのは、私たちがいかに思い煩いの影響を受けているか。それと、思い煩いの中にある時、私たちがすると良いこと、すべきことです。

食べ物、飲み物、着る物を代表として、私たちは、生活のあらゆる分野で思い煩うことがあります。金銭に関する心配、仕事に関する悩み、健康への不安、親子、夫婦、地域の隣人など、人間関係の思い煩い。心配、悩み、不安、思い煩い。それらが、生活からなくなることはないように思います。

そして、思い煩いの影響は非常に大です。思い煩いは不眠や病気の原因ともなります。日々の仕事や学び等、なすべきことに対する集中力を奪います。考えても、心配してもどうしようもないことと、私たち頭では理解していても、一度はまり込むと、なかなか思い煩いから抜け出せず、大切な時間やエネルギーを失ってしまうのです。

けれども、その様な私たちのことを良くご存じのイエス様は、ここで印象的なことばを語られました。「空の鳥を見なさい」、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」ということばです。多くの人が慰められ、励まされたことばです。

 イエス様は私たちに、空の鳥を見ることにより、鳥を養う天の父を見る様勧めています。野の花を見て、美しい花を育てる天の父のことを考えよと勧めています。「空の鳥を見、野の花を見ることで、あなたたち神の子どもを愛し、養い、世話してくださる天の父なる神様に心を向けよ。」そう、命じておられるのです。

 どうでしょうか。皆様は、イエス様の勧め、実行することができたでしょうか。「空の鳥や野の花を見るだって。そんな時間は、とても忙しく持てないよ」と、仰る方もいるかもしれません。しかし、私たちが思い煩いから解放されるために必要なことであるので、イエス様はこれを勧め、命じているのです。

 せかせかと時間に追われ、スケジュールに追われる日々。話題と言えば、食べ物や着物、金銭や地位のこと、健康のこと。これらのもの次第で一喜一憂する私たち。いつの間にか、己の力一つで生きているつもりの、高慢な人間社会に生きる私たち。しかし、だからこそ、ひと時そこから離れ、自分が天の父にとってどれ程大切な存在か、いかによく養われている神の子どもであるかをゆっくりと考え、喜ぶ時間が必要ではないかと思わされます。

 こうして、鳥や花を通して、私たちを養う天の父を示したイエス様。続いては、私たちの生活の必要を知って下さる天の父について教えてくださいました。

 

 6:3132「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」

 

 異邦人とは、聖書の神様を信じていない人々を指します。ここで、イエス様は「神様を信じているはずのあなた方も、まるで神様を知らない人の様に食べ物、飲み物、着る物等、この世の生活のことで心配し、思い煩っていませんか。」そう、私たちに問いかけているのです。

 そして、神様を天の父として信頼することのできる理由として、「天の父は、私たちの生活に必要なものすべてを良く知っておられる」と、言われたのです。皆様は、このことを信じているでしょうか。私たちの生活の必要を良く知っている天の父が生きており、心を私たちに向けておられること、信じているでしょうか。

 天の父は私たちが病気になった時、どんな病気かだけでなく、私たちが感じる痛みも、不安な思いも知っていてくださいます。経済の問題で悩む時、私たちに必要なものばかりか、私たちの心細さも理解してくださいます。大切な人との人間関係で思い煩う時、私たちの傷ついた心も、言葉にできない苦しい思いもご存じなのです。

 私たちがどこに行っても、神様は見守っていて下さる。私たちが、どんな状況に置かれても、そこに神様のご配慮は注がれている。私たちがどんなに困難な境遇のもとにあろうとも、それは天の父が愛する子どものためにしてくださっていることなのです。

 イエス様ご自身が、天の父に対する信頼を告白している言葉があります。それは、十字架を前にして、信頼する弟子たちがイエス様を一人残して、離れて行った時のことでした。

 

 16:32「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」

 

 人間は、自分のことを思ってくれる人がいない時、自分のことを理解してくれる人がいないと感じる時、つまり、一人ぼっちで孤立していると思う時、最も弱い存在だと言われます。しかし、イエス様はどうだったでしょうか。弟子たちが離れて行った時、そのことで思い悩んだでしょうか。そうではありませんでした。むしろ、ともにおられる天の父に心励まされ、十字架への道を進みました。

私たちも、イエス様と等しく天の父に愛されている神の子どもです。ですから、どんな状況に置かれても、イエス様とともに「私はひとりではない。私のことを知り、最善の配慮をしてくださる天の父が、私と一緒におられる。」そう信じ、告白することができます。神の子どもとして、天の父とともに、日々歩む者でありたいと思うのです。

そして、ついに、イエス様が私たちの思い煩いを癒す決定的な方法を示されます。山上の説教の中でも、ひと際輝く金字塔の様なことば、私たちの心をとらえて離さぬ名言でした。

 

6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

 神の国とは、神様の支配です。神の国は、イエス・キリストを信じる者の心にあり、今や世界中に広がっています。義とは、神様のみこころ、神の国の王である神様が喜ばれることです。ですから、神の国とその義とをまず第一に求めるとは、どの様な状況でも、神様に従うこと。神様のみこころ、喜ばれることは何かを考え、それを第一にして行動することです。私たちが大切にしているこの世の富や物質、自分の権利や立場よりも、神様のみこころを優先すること、と言えるでしょうか。

 今日は、旧約聖書に登場する信仰の父アブラハムの例から、これを学びたいと思います。神に信頼する人アブラハムは、土地こそ所有していませんでしたが、約束の地で祝福され、多くの家畜と金銀に恵まれていました。アブラハムを手伝っていた甥のロトも、次第に独立し、その所有物を増やしていました。

 しかし、叔父と甥、富める二つの群れにとって土地は狭く、僕たちの間に争いが起こるようになったのです。この問題に心悩ませたアブラハムは、驚くべき提案をロトに伝えます。

 

創世記13:19「それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。…アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

 

リーダーであり、年長者であるアブラハムには、当然良い土地を選ぶと言う優先権がありました。しかし、アブラハムはその権利を年下のロトに譲ります。甥のロトとの平和な関係を優先したのです。もしこの状況で、アブラハムが自分の権利を主張していたら、二つの群れの争いは激しさを増し、思い煩いが彼の心を支配することになったでしょう。

けれども、アブラハムは自分の所有物や、リーダーとしての権利よりも、平和を造ると言う神様のみこころを優先したのです。その結果、二つの群れは分かれ、争いは止み、アブラハムの群れは、必要なものを手にしたばかりか、さらに栄えることができました。

神の国とその義をまず第一に求めた者に、天の父が必要なものを与えて下さる。アブラハムの生き方は、難しい状況に置かれた時、私たちが何に価値を置いているのか。何を第一に求めるべきかを考えさせられます。

目先のもの、生活に必要なものを求め、自分の権利を主張して、思い煩いの渦に巻き込まれるのか。それとも、神様のみこころを考え、それに従うことを第一とし、その結果神様から必要なものを恵まれるのか。私たちの前には、常にこの二つの道があるのではないかと思います。

神の子どもとして、第一に求めるべきものは何か。今、この時、この状況で、自分に対する神様のみこころは何か。日々そのことを考え、行動する者でありたいと思います。

最後に、念押しとも思えるイエス様のことばで、6章は幕を閉じます。

 

6:34「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

 

人間の心と言うのはつくづく厄介なものだと思います。ある時は過去を振り返り、一晩中「どうしてあんなことをしてしまったのか」と後悔を繰り返し、心をすり減らすことがあります。かと思うと、どうなるのかわからない明日のあれこれを心配して、よく眠れず、疲れ切ってしまうこともあるでしょう。思い煩いの悪循環です。

それに対して、今日と言う日を、最善を尽くして生きることを勧めています。同じ苦労をするなら、明日を心配し、思い煩うことに力を使うのではなく、神様のみこころを求め、従うことに力を尽くすのが良いと勧めているのです。

私たちが変えることのできない将来や、相手の言動は、私たちのために最善の配慮をしてくださる神様に委ねることができますし、委ねるべきです。私たちがすべきは、今日ここで、神様のみこころを求めること、従うこと。この一事に最善を尽くして今日を生きる時、思い煩いは消え、必要なものは与えられる。そうイエス様は約束しておられるのです。私たち、お互いに励まし合いながら、神の国とその義をまず第一に求める歩み、進めてゆきたいと思います。

 

6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

2017年6月18日日曜日

一書説教ゼカリヤ書~幻を通して~


目の前に「緊張し、混乱し、不安になっている人」がいて、自分の役割は、その人を落ち着かせることだとします。皆様はどのような方法で、その人に落ち着いてもらおうと取り組むでしょうか。

 「落ち着いて下さい。」と話しかけるか。手を握り、抱きしめ、そばにいるか。心が落ち着く音楽を流すか。壮大な景色を描いた絵や映像を見てもらうか。リラックス効果があると言われる匂いを嗅いでもらうか。甘い物でも食べてもらうか。伝えたいことは「落ち着いて下さい」だとして、伝え方は色々とあります。

 そして、どの伝え方が効果的であるかは、人によります。ある人にとって、言葉が重要。ある人にとっては行動が有効。ある人は、音楽や映像が影響を受けやすい。ある人は、匂いや味が大事。自分がメッセージを受け取る側だとしたら、どのような方法で伝えられるのが効果的でしょうか。

 

 六十六巻からなる聖書。そのうち一つの書を丸ごと扱い説教する一書説教。断続的に取り組み、これで六年目になりましたが、いよいよ旧約聖書の終わりが近づいてきました。今日は旧約聖書第三十八の巻、ゼカリヤ書となります。

 旧約聖書に記された神の民の歴史の中で、重大な事件二つと言えば、「出エジプト」と「バビロン捕囚」と言えます。そのうち「バビロン捕囚」からの解放、神殿再建の歴史的な記録はエズラ記に記されました。

 

 エズラ記5章1節~2節

さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。

 

 ここに、神殿再建に取り組む重要な人物として、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアの名前が出てきます。この二人が神殿再建の責任者。そしてこの二人を助ける人として、立てられたのが、預言者ハガイとゼカリヤです。

同じ時期に、同じ目的で活動するように召された二人の預言者。前回の一書説教では預言者ハガイの言葉に触れましたが、今回はもう一人の預言者、ゼカリヤの言葉を聞くことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 神の民が神殿再建に取り組めるよう励ますために、また総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを励ますために遣わされた二人の預言者。同じ時期に、同じ目的。ところが、この二人の言葉の印象は全く異なります。

 ハガイの言葉は実務的、実践的な印象があります。

 ハガイ1章4節、8節

この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。・・・山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。

 

 それに対して、ゼカリヤの預言は、幻とそれを解釈することから伝えられるメッセージが中心となります。

 ゼカリヤ1章8節~9節、16節

夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。私が、『主よ。これらは何ですか。』と尋ねると、私と話していた御使いが、『これらが何か、あなたに示そう。』と私に言った。・・・それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。――万軍の主の御告げ。――測りなわはエルサレムの上に張られる。』

 

 ゼカリヤ書に記された最初の幻です。ここには、谷底にあるミルトスの木の間に立つ、赤い馬に乗った人と、その他の馬。ゼカリヤ自身や幻の意味を説明してくれる御使い。さらには、主なる神様ご自身も出てくる。幻の中で、色々なやりとりがなされて最終的に神様の言葉として、「宮(神殿)が建て直される」と語られます。

今の私たちからすると、どうも分かりづらい印象です。谷底にあるミルトスとは何を意味しているのか。馬の色には、何か意味があるのか。幻の意味が説明されるものもありますが、説明されない部分もある。私などは、神様の宣言部分だけで十分な気がしてしまうのですが、しかし、このように幻と解釈を通してメッセージが語られるのが、ゼカリヤ書でした。

 

(余禄となりますが、ゼカリヤ書に出てくる幻は、ヨハネの黙示録にも同様の幻、テーマが出てきます。四種類の馬、町の測定、金の燭台、二本のオリーブの木、悪を代表する女性、七つの目、など。黙示文学と呼ばれる、エゼキエル書、ダニエル書、ヨハネの黙示録との関連で、ゼカリヤ書を読むことが出来ると、さらに理解が深まると言えます。)

 

ハガイとは全く異なる印象のゼカリヤ。しかし、全く異なるから、意味があるとも言えます。実務的、実践的なハガイの言葉とともに、映像的、抽象的なゼカリヤの言葉にこそ、影響を受ける人、励ましを受ける人もいたでしょう。神殿再建という一大事業に取り組む際、神様は異なる二人の預言者を遣わしておられたということに、神殿再建に対する神様の情熱と、何としてでも神の民を励まそうとされる優しさを覚えます。

 

 ところで預言者ハガイは、神殿再建時にだけ活動した預言者。(聖書の記述はなく、預言者として活動した可能性はあります。)ゼカリヤは、神殿再建時と、それからしばらく経ってからも預言者活動をしています。そのため、内容も神殿再建に関することと、それ以外のメッセージの二つに大別することが出来ます。

 前半、神殿再建時に語られた預言、一章から八章。後半、終末預言、メシヤ預言と言われる内容で、九章から十四章となります。まずは前半から見ていきます。

 

 神殿再建時に語られる預言の殆どは、幻を通してなされるもの。合計、八つの幻が出てきます。(七章から八章は、神殿再建時に、断食についての問いによって与えられる預言となりますが、今日の説教では扱いません。)

 第一の幻は、先ほど少し確認しました騎兵隊の幻。この騎兵隊は、世界を行き巡り、その様子を神様に報告するものと言われます。神様が全世界を支配されていることを示す幻でしょうか。

 第二の幻は四つの角と四人の職人。この角は、ユダを攻撃した者たちで、その角を打ち滅ぼすのが職人と言われます。ユダを攻撃したものたちに神様が報いる、ユダには神様の守りがあることを示す幻でしょうか。

 第三の幻は測り綱を持つ人。その測り綱で、エルサレムを測量すると言われます。神様が、エルサレムを再建することを示す幻でしょうか。

 第四の幻は法廷。大祭司ヨシュアが、サタンに訴えられている場面。幻の法廷の中で、神様はヨシュアを擁護し、大祭司として相応しいことが確認されます。

 第五の幻は金の燭台と二本のオリーブの木。このオリーブの木は、ゼルバベルとヨシュア(二人の油注がれた者と表現されますが)のことと言われます。二人を通して、金の燭台に火が灯る、神殿が再建されることを示す幻でしょうか。

 第六の幻は空飛ぶ巻物。この巻物は「のろい」と呼ばれ、悪者はこの巻物に照らし合わせて懲らしめを受けると言われます。義なる神様が、悪に報いることを示す幻でしょうか。

 第七の幻はエパ枡(穀物を計るための枡)。そこに罪悪が入れられ、エパ枡ごと運び出されるというもの。エルサレムから、罪悪が取り去られることを示す幻でしょうか。

 第八の幻は、戦車隊。世界を駆け巡り、神様の怒りを静めると言われます。神様が、ご自身の望むように世界を支配されることを示すものでしょうか。

 

 これら八つの幻。この順番でゼカリヤが見たことに、意味があると考えられます。

 最初ゼカリヤは、谷底で騎兵隊の幻を見ました。どこの谷か示されていませんが、ゼカリヤがエルサレムにいたことを思えば、エルサレム郊外の谷と考えられます。第二第三の幻で、エルサレムの全体を見渡せるところへ視点が動き、神様の守りを確認。第四第五の幻で、神殿の中へ視点が移り、ヨシュアとゼルバベルへの励ましの言葉。第六第七の幻では、神殿から世界へ視点が移り、神様が悪に報いることが示されます。最後の第八の幻は、第一の幻と対応しています。騎兵隊が世界の様子を確認していたのが、戦車隊が世界を巡り統治する幻となる。

 エルサレムの郊外から神殿へ、神殿から全世界へ。神様が神の民を守られるという視点から、悪には報いるという視点へ。

 是非とも、実際にこの八つの幻の預言を読んで頂きたいと思いますが、それぞれがどのような意味なのか確認するとともに、一連の流れも味わって頂ければと思います。

 

 このように見ていきますと、八つの幻の中心にあるのは、神殿についての幻。その五つ目の幻の預言の中に、(おそらく)ゼカリヤ書中最も有名な言葉が出てきます。

 ゼカリヤ4章6節

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

 

神殿再建事業は、もともとペルシヤ王クロスの命令で開始したもの。資金援助もあり、ゼルバベルの総督という立場も、王の権威によって与えられたものです。反対勢力がこの事業の正当性を問い、妨害した時も、ペルシヤ王に協力を求めて工事再開となりました。権力によって、神殿再建という事業が進んでいると言うことも出来ます。

預言者ハガイはユダの人々に、神殿再建の取り組みをするように訴えていました。それで、人々は神殿再建へ自分の力を注いでいるのです。神様が神殿再建をなさるので、あなたがたは何もしなくて良いとは教えられず、むしろせいいっぱい力を使うように語られていました。能力によって、神殿再建が進んでいると言うことも出来ます。

 

 権力によっても、能力によっても、神殿再建は進められてきた。しかし、ゼカリヤの幻を通して語られたメッセージは、「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」。この時、神様がゼルバベルに求めたことは、ゼルバベルが精一杯、事業に取り組むと同時に、しかし、神様が事を為しているとする信仰。成し遂げたことをもって、自分の栄光とするのではなく、神の栄光をあらわすことでした。

 神殿再建間近。ここまで、どれだけ苦労してきたのか。自分がゼルバベルの立場でしたら、この言葉をどのように受け止めるでしょうか。「いや、神の霊によってというは分かるが、権力も、能力も大事でしょう。精一杯取り組んできた私の働きも認めてもらわないと、納得がいかない。」と言うか。それとも、「その通りです」と首を垂れるのか。

 また、この言葉が、今の自分に語られている言葉として受け止めるとしたら、どのような意味になるでしょうか。

 

 さて、ゼカリヤ書の後半。九章からは、だいぶ印象が変わります。幻による預言はなく、そのため幻の説明をする御使いも登場しません。前半は殆どが散文でしたが、後半は韻文も多く含まれます。

後半の特徴の一つは、メシヤ預言と呼ばれる、イエス様に当てはまる預言が多くあること。十字架直前、イエス様がエルサレムに入場される際、子ろばに乗りましたが、これはゼカリヤ預言の成就と言われていました。(ゼカリヤ9章9節、マタイ21章5節)オリーブ山で、主イエスが捕縛される時、弟子たちが散り散りになりましたが、これも預言されていたこと。(ゼカリヤ13章7節、マタイ26章31節)十字架上で死なれたイエス様が、その脇腹を刺されたことも預言の成就。(ゼカリヤ12章10節、ヨハネ19章37節)その他、いくつかキリストについての預言が出てきます。

 

 後半の内容は、概観することが難しく、色々なテーマが散在しているような印象ですが、全体としては神様が全世界の王となることが語られる終末的な内容となります。ゼカリヤ書の最後は次の言葉です。

 ゼカリヤ14章16節~21節

エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。

 

 ゼカリヤ書の前半が、エルサレム神殿の再建に焦点が向いていたのに対して、後半の終わりでは、全世界に焦点が向けられます。エルサレムを攻めて来た民の中にも、主なる神様を礼拝する者たちが起こされる。万軍の主を礼拝しない者たちには、裁きが下される。

そして、神様の支配が行き渡るしるしとして、「馬の鈴の上には『主への聖なるもの』と刻まれる。」と告げられます。「主への聖なるもの」という神聖な文字は、本来大祭司の額飾りに彫られたもので、大祭司が特別に神様の働きをすることを示すものでしたが、それがやがて戦争のシンボルである馬の鈴の上にも刻まれる。聖なるもの、俗なるものの区別がなくなり、あらゆる物が、神の栄光をあらわすものとなるという大パノラマで閉じられることになります。

 

 以上、ゼカリヤ書を概観しました。前半は幻が多いこと。後半は、今の私たちからして、過去のことが書いてあるのか、未来のことが書いてあるのか、明確ではないことから、非常に難解な書。皆様は、このゼカリヤ書をどのように読むでしょうか。

 今回、何度も繰り返し読みまして、私が味わった一つのテーマは、「神様の栄光をあらわす」ということです。私たちが認めようが、認めなかろうが、主なる神様が世界の支配者であることは変わらない。しかし、私たちが求められているのは、主なる神様が世界の支配者であることを認めて生きること。総督ゼルバベルが、「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」神殿再建がなされると認めるように求められたのと同じように、私たちの生涯も「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」生かされることを再確認したいと思います。

また、全てのものが、「主への聖なるもの」として用いられる世界が来ることを宣言したゼカリヤのあの希望を、私たちも持ちたいと思います。やがて、主イエスが来られて、世界をそのように変えて下さることを期待すると同時に、今の私たちの歩みが「主への聖なるものとなる」こと。自分の一挙手一投足も、「主への聖なるもの」としての歩みとなるように願うのです。

2017年6月11日日曜日

ヘブル人への手紙11章6節~13節「信仰者の勇気(1)~待ち望む勇気~」


四日市キリスト教会では七年前からウェルカム礼拝を行っています。一つのテーマを掲げ、礼拝のプログラムをそのテーマに合わせることによって、初めて教会に来る方にも出来るだけ意味が伝わることを願って行う礼拝です。昨年度は「家族」がテーマでした。

今年度もウェルカム礼拝を行いたく、伝道局でいくつかテーマの案を検討しているところです。前回行われた役員会にて、検討しているウェルカム礼拝のテーマ案を報告したところ、「このテーマはクリスチャンでも聞いてみたい内容なので、ウェルカム礼拝で取り扱わなかったとしても、いつか礼拝説教で扱ってもらいたい。」という意見を頂いたテーマがあります。それが、今日の説教のテーマ、「信仰者の勇気」です。今年度、ウェルカム礼拝とは別に、何回かに分けて、「信仰者の勇気」というテーマで説教に取り組みたいと考えています。

 

 先日、教会に数回しか来たことのない方から質問を受けました。「聖書の神様を信じたい気持ちもある。しかし、キリスト教信仰を持って生きた後で、やはり聖書の神などいないと考えるようになったら、自分の人生は何だったのかと思うことなる。それが怖くて信じきれない。どうしたら良いですか。」という質問です。皆様が、この質問を受けたとしたら、どのように答えるでしょうか。

 どのように答えるかはともかくとして、私はこの質問を通して、この方は、神様を信じるということを、とても真剣に考えていると感じました。信じるというのは、ある意味で、危険が伴うこと。信じてはいけない存在を信じるとしたら、自分の人生に大きな損害があることを、よく理解されている。だからこそ、信じることが怖いのです。ある意味で、信じることには勇気が必要です。

 

 それでは、私たちはどれ程真剣に、神様を信じているでしょうか。信頼しているでしょうか。後になって、聖書の神などいないと考えるようになっても、大して問題ではない、さほど影響がない程度の信頼なのか。全生涯を委ねる程、神様を信頼しているのか。

 多くの場合、私たちの信仰は「斑」です。時に真剣に神様に向き合い、思いも行動も神様を信頼した者として生きることがあります。しかし、時に神様以外のものを信頼する生き方となることもあります。頭では、神様を信頼することが大事と理解しながら、実際の生き方では、神以外のものに信頼をおいている生き方となることもあります。

 この礼拝を通して、今一度、神様を信頼するとはどのようなことなのか。自分自身は、どれ程真剣に神様を信頼して生きているのか、皆で考えたいと思います。

 

開きます聖書箇所は、ヘブル書十一章。神様が私たちに求めている信仰について、説明されるところです。

 ヘブル書11章6節

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 

 ヘブル書には、信仰の様々な側面について、この箇所までに語られていました。信仰とは、聖書の言葉が自分に関係があると受けとめること(4章2節)。信仰とは、神様の約束を真実なものと受け入れること(6章12節)。信仰とは、神様に喜ばれる歩みを送ること(10章38節)。信仰とは、真の命を頂くこと(10章39節)。

 そして今日の箇所では、信仰とは神様をどのように信じることなのか、語られます。曰く、信仰とは、「神様が存在していること」と、「求める者には報いて下さること」、この両方を信じること。聖書の神様を正しく信じるという場合、その存在を信じるだけでは足りないのです。神様がおられるということとともに、私たちと関わりを持ち、私たちの願いに応えて下さる方であると信じること。それが信仰であると言われます。

 

 なぜ、神様の存在を信じるだけでは足りないのか。ヤコブ書には次のような言葉がありました。

 ヤコブ2章19節

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

 

 聖書の神様の存在を信じているのは、存在すら信じていないよりは良いこと。立派なこと。しかし、存在を信じるというだけならば、悪霊ですら信じていると言われる。大事なのは、その神様と自分自身の関係です。悪霊は、神の存在を信じ、その上で自分を裁く存在として恐れ、身震いしている。それは、神様に対する信仰を持っているとは言えません。本当の意味で神様を信じるとは、「神様が存在していること」と、「求める者には報いて下さること」、この両方を信じることです。

 信仰には様々な側面がありますが、この説教で特に考えたいのは、今日の箇所で教えられている信仰の後半部分。私たちの神様は、求める者には報いて下さる方であると信じることについてです。

いかがでしょうか。神様は求める者には報いて下さる方だと、どれだけ意識して生きてきたでしょうか。これまで、どれだけ真剣に神様に求めることをしてきたでしょうか。

 ところで、聖書には「求める者には、瞬時に報いて下さる」とか、「求める者には、その人の願う通りに報いて下さる」とは、書いていません。私たちの願いに、神様は必ずや応えて下さるのですが、願いの通りであるかは分からないですし、またいつ応えて下さるかは分からないのです。

 そのため、神様は求める者には報いて下さる方だと信じるということは、神様に期待し続ける信仰、待ち続ける信仰。神様が私たちに求めているのは、「待ち望む勇気」と表現することも出来ます。果たして私たちには、神様に期待し続ける信仰、待ち続ける信仰、待ち望む勇気があるでしょうか。

 

 ヘブル書の著者は、神様に喜ばれる道として、待ち望む勇気を持つようにと示した後、待ち望む勇気を持つ具体的な例として、旧約の信仰者の姿を挙げています。(ヘブル書11章は信仰者列伝の章と言われ、6節の前にも、また今日扱う聖書箇所の後にも、何人もの信仰者の姿が記されています。)今日の説教では、特に旧約の三人の信仰者に注目します。まずはノアから。

 

 ヘブル11章7節

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 

 ノアの時代、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」(創世記6章11節)と言われ、神様はノアに対して二つのことを告げます。一つは、大洪水による裁き「いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼす。」という警告。もう一つは、その裁きから救い出されるための箱舟建造の命令です。ノアは、この神様の言葉をそのまま受け入れ、従いました。

当時の生活がどのようなものだったのか。想像することも難しいのですが、しかし大洪水の予兆もない中で、内陸に箱舟を建造することは、大変勇気がいること。どれだけの時間をかけ、資産と労力を使ったのか分かりません。周りにいる人たちに、どのように思われたのか。これで大洪水が起こらなければ、人生を台無しにするようなことに、それでもノアは取り組みました。その結果、家族の救いと、隣人への証(「世の罪を定め」と表現されていますが)と、信仰による義を相続するという恵みを得ることになります。

ノアの示した信仰は、神の言葉が実現する前に、具体的な準備をすること。その準備がどれ程大変なことであっても、成し遂げるということでした。これが、待ち望む勇気の一つの姿です。

 

 二人目はアブラハムです。

 ヘブル書11章8節~10節

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

 

 アブラハムは、神様が示す地に出ていくようにと言われました。その地で、アブラハムの子孫が大いなる国民となるという約束です。行き先が示されないまま、馴染みの土地から旅立つように命じられ、それに従うというだけで、神様に対する従順さ、あるいは勇敢な信仰を確認出来ます。

当初、相続地として受け取るべき土地がどこなのか、示されないままアブラハムは出発しますが、それがカナンであるということは、しばらくして明かされました(創世記12章7節)。しかし、アブラハム自身はカナンで土地を所有することなく(厳密に言えば、サラの埋葬のために、マクペラの洞穴を購入しましたが)、他国人のような生活、天幕生活を送り、飢饉の時にはカナンを離れることもありました。神様が、アブラハムの子孫に与えると約束した土地に滞在しながら、長らく子どもが与えられず、その土地を所有することもない。結局、アブラハムは、神様の約束が実現することを体験することなく、その生涯を終えることになります。

アブラハムの示した信仰は、その生涯の中で神様の約束が実現しなかったとしても、それでも信じることを止めないことでした。これが、待ち望む勇気の一つの姿です。

 

 三人目はサラです。

 ヘブル書11章11節~12節

信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

 

 サラは、その生涯の中で、どれだけ長く、子どもを与えられるように願ってきたでしょうか。祈り続け、願い続けても子どもが与えられず。それでも子どもを得たいと思い、女奴隷ハガルと関係を持つように、アブラハムに提案したのもサラでした。叶えられないことを願い続ける大変さを味わった人。

 しかも、創世記の記述では、男の子を産むという約束を得た時、自分が子どもを産むことは完全に諦めていて、信じるどころか疑っていたように読めます。

 

創世記18章10節~15節

するとひとりが言った。『わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。』サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。』そこで、主がアブラハムに仰せられた。『サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。』サラは『私は笑いませんでした。』と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。『いや、確かにあなたは笑った。』

 

 サラにとって、男の子を産むという約束は、本来ならばこれ以上ない程嬉しいはずのもの。ノアは神様の言葉を信じることで、箱舟建造という負担を背負うことに。アブラハムは神様の言葉を信じることで、故郷を離れ、不自由な生活を送る負担を背負うことに。サラの場合、その約束を信じることで、負担を背負うことはありません。それどころか、その約束はただただ嬉しいというもの。それでも、信じることが出来なかったのです。期待が大き過ぎる、願いが強すぎる時に起る、信じた後でそれが実現しなかった時の落胆に対する恐れがあり、信じることが出来なかったのでしょうか。

 このように、創世記では神様の約束を信じきれなかったサラの姿が記されるのですが、しかし、ヘブル書の著者は、彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた」とまとめられるのです。このように、聖書の中で、サラも待ち望む勇気を持つ信仰者として数えられているということに、励まされます。

サラは、子どもが与えられることを願い続けたわけではない。諦めていた。それどころか、子どもを産むという約束も、最初は信じられなかった。それでも、神様を真実な方と考えた段階で、聖書はサラの名前を信仰の人として記念するのです。この姿も、待ち望む勇気の一つの姿です。

 

 以上、待ち望む勇気の姿として、三人の信仰者の姿を確認しました。三者三様。一言で「待ち望む勇気」と言っても、それぞれ異なる信仰のあり方でした。ノアにとっては、箱舟を造船すること。アブラハムにとっては旅を続けること。サラにとっては、もう一度夢を取り戻すこと。それぞれのあり方で、神様に求めること、神様に期待すること、待ち望む勇気を示しました。

 それでは、今の自分にとって、待ち望む勇気を示す生き方とは、どのような生き方でしょうか。私たちの神様は、求める者に報いて下さる方だということを本気で信じるとしたら、私たちは、その信仰をどのように示すでしょうか。この礼拝を通して、今一度、自分に与えられた待ち望む勇気の示し方を、よく考えたいと思います。

 

 ところで、神様の約束を信じ、待ち望む具体的なあり方は、人によって異なることがありますが、共通することもあります。ノアにはノアの、アブラハムにはアブラハムの、サラにはサラの待ち望む信仰の示し方がありましたが、三人に共通する待ち望む信仰もありました。

 ヘブル11章13節

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 

 三人に共通する、待ち望むべきもの。いや、全ての信仰者に共通する、待ち望むべきもの。それは、キリストの到来、罪のない体で復活すること、天の御国に入れられることです。

神様は、私たち神の民に、待ち望むことを願われている。それぞれ異なる方法で、待ち望む信仰を示すように導かれることもあれば、私たち全員に救い主の到来を待つように、神の国の到来を待つように教えてもいます。

 待ち望むことは大変なこと、勇気がいること。ある神学者(バークレー)は、待ち望むことの大変さと、尊さを次のように表現しました。「われわれにとって一番苦しいのは、待っている間である。このような時に、希望を捨て、高い理想をあきらめ、夢を失って無感覚な状態になりやすい。信仰の人とは、絶えず希望をかかげ、暗い日にも最大の努力を続け、結果があらわれない時も待ち続ける人である。」

2017年6月4日日曜日

マタイの福音書6章25節~30節「山上の説教(34)~思い煩いからの解放~」


私たち夫婦は結婚して32年目になります。私たちは7年間交際をして結婚に導かれましたので、妻に関して大抵のことは知っているつもりでした。しかし、結婚して見ないと分からないことと言うのはあるものです。

妻に関し、結婚して驚かされた一つのことは、彼女がいつでも、どこでも、どんな状況でもすぐ眠れると言う特技を持っていることです。私は起きているべき時に眠ってしまい、眠るべき時に眠れない。どちらかと言うとそんな傾向がありましたが、妻は寝ようと思えば、本当にいつでも、どこでも、どんな状況でもすーと眠りに落ちてゆく。体を揺すっても起きない。熟睡を続けられる。驚異的な眠りの賜物です。

夫婦喧嘩をした時など、私の方は心がモヤモヤしていてちっとも寝つかれないのに、妻は隣で「お休み」と一言いうと、次の瞬間には寝入っている。その堂々とした熟睡ぶりが羨ましいやら、憎たらしいやら。私の方は心がモヤモヤからイライラに変わり、ますます目がさえて眠れなかったと言うこともありました。皆様は布団に入ったらすぐ眠れるタイプでしょうか。それとも、なかなか寝付けないタイプでしょうか。

最近の調査によると、日本人の成人の5人に1人、高齢者では3人に1人は不眠症に悩んでいると言われます。その原因は過労、加齢、夜遅くまで仕事やインターネットをしている夜型の生活習慣等がありますが、最も多いのは心配事、思い煩い、ストレスなのだそうです。

学生時代は試験や進学、友人との関係。青年時代は恋愛や結婚、職業の選択。結婚したらしたで仕事や収入、住まいや子どもの教育、職場や隣近所との付き合い。高齢者になると、健康や能力の衰え、孤独や生きがいなど。それぞれの年代に課題や悩みがあり、私たちの人生に、心配事の種は尽きないと言えるでしょう。

しかし、心配事で眠れないのは現代人に限らない様で、旧約聖書の詩篇には、神様に「安らかに眠れるように」と祈る信仰者が登場してきます。また、心配事や思い煩いについては、イエス様が今日の個所で教えているように、昔から人々が悩まされてきた問題だったのです。

私が礼拝で説教をする際、基本的に取りあげてきた山上の説教、イエス様の説教の中でも最も有名な説教も中盤の6章に入りました。

先回は地上の宝について、イエス様の教えを学びましたが、今日もその続きとなります。地上の宝と言うのは、神様が私たちに与えて下さった生活に必要なもの、様々な物質、金銭、能力、健康な体などを指します。先回は、それらの宝を専ら自分のために蓄えたり、使ったりする生き方の危険なことが教えられました。それに対して、今日の個所は、地上の宝について私たちが心配しすぎること思い煩うことが、どれ程無益で愚かなことか。それを、イエス様がズバリ示しておられます。

 

6:25「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」

 

イエス様はここで「将来のことは何も考えるな」と言っている訳ではありません。無為と怠惰を勧めている訳ではないのです。むしろ、将来についてよく考えること、計画を立てること、必要な備えをすること、勤勉に働くことは、聖書が勧めるところでした。ここでイエス様が戒めている「心配」とは、くよくよと心配すること、思い煩うことです。

ある育児雑誌に、こんな新米パパとママの漫画が載っていました。赤ちゃんがミルクを飲まないと「栄養失調にならないか」と心配する。丸々と太ってくると「肥満児ではないか」と不安になる。うつぶせに寝かせたら「窒息しないだろうか」、仰向けにしたらしたで「毛布で息ができなくならないか」と何度ものぞき込む。赤ちゃんを叱ると「性格が歪まないか」と心配し、叱らないと「我儘にならないか」と不安に思う。どちらにしても、思い煩うのが新米のパパとママと言う訳です。

私の知人に大の飛行機嫌いがいます。仕事で海外出張を命じられる時以外は、飛行機に乗らないと言う人です。彼は2回飛行機に乗ったことがありますが、いずれの場合も、空中で飛行機が揺れると、足の下には何もないことを思い出し、不安になったそうです。そうなると、「この飛行機はちゃんと整備されているのか」「乱気流に巻き込まれたらどうしよう」「パイロットは精神的に安定しているのか」など、次から次へと心配になり、飛行機から降りたくてたまらなくなったと言います。確かに、そこまで心配した経験があれば、飛行機に乗りたくないと言う気持ちも分かります。

思い煩いは、読んで字の如く思い、つまり心の病気です。心が心配ごとに占領された状態、私たちの心や行動が周りの状況に支配された状態です。新米パパとママの赤ちゃんへの思い煩いは微笑ましいとも言えます。飛行機嫌いの人は飛行機に乗らなければ済むことでしょう。

しかし、問題が経済のこと、仕事のこと、人間関係のこと、健康のことなど生活に直結するようなことについての思い煩いは、私たちの人生に大きな影響を及ぼすことになります。思い煩う時、私たちは学びや仕事、礼拝などに集中することができません。心ここにあらずで、何事も楽しむことができません。思い煩いが心や体の病の原因となり、ついには死に至る場合もあるのですから、影響は実に深刻です。

イエス様はその様な現実を良く知ったうえで、私たちが思い煩わなくてもよい理由、思い煩うべきではない理由を、説明されます。

 

6:26、27「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」

 

大空を飛ぶ鳥の姿は、人間の思い煩いとは無縁のおおらかさがあります。種を撒いたり、刈り入れをしたり。人間の様に働くことをしない鳥ですが、彼らのために神様が食べ物を備え、養っておられるからです。

聖書は、人間が神のかたちに造られた非常に大切な存在であると教えています。特に、イエス様を信じる私たちは神様に子として愛されている者です。「だとすれば、鳥に対して良くして下さる神様が、子であるあなたがたにもっと良くしてくださらないことがあるでしょうか。」そうイエス様は教えていました。「空を飛ぶすべての鳥のために心を配り、面倒を見ておられる天の父が、あなた方が生きるのに必要なものを備えてくださらないわけがないでしょう。」そうイエス様は語り、私たちの目を空の鳥に向けておられます。

しかし、人間はなまじっか働く能力を与えられたがゆえに、必要以上に稼ごうとあくせく働き、疲れ果てます。人と競い、見栄を張って心を消耗します。蓄えた物を失いはしまいかと思い煩うのです。家族や隣人と愛し合って生きるために働いていたはずなのに、いつのまにか欲と見栄にまみれて、思い煩うばかりの人生に逆転している。

「空の鳥を見よ」。この一言で、私たち人間も空の鳥と同じく、いや本当に勿体ないことに空の鳥以上に大切な存在として、神様の恵みによって生かされ、養われていることを自覚したいと思うのです。

こうして、空の鳥に私たちの目を向けさせたイエス様。続いては、野に咲くゆりの花に私たちの目を導かれます。青い空も緑の野も。動物も植物も。イエス様にとっては、自然全体が神様の恵みを教える教科書、第二の聖書だったのでしょう。

 

6:28~30「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」

 

有名なソロモン王の栄華は、イエス様の時代人々の間で伝説となっていました。王と臣下の華麗な服装。香柏の王宮、金と宝石で覆われた家具。その繁栄は、当時近隣諸国の崇敬の的であったことが、旧約聖書には記されています。

しかし、伝説的なソロモン王でさえ敵わぬ程の装いを、神様は野に咲く一輪の花に施されたとイエス様は言うのです。人間の知恵、技術、財産で作り上げたソロモンの栄華も、野の花の完全な美しさの前には色褪せる。イエス様は一輪のゆりを愛で、神様をたたえたのです。

しかも、神様が装われた野の花の命はわずか一日と、実に短命です。人の目に触れる間もなく枯れ、乾燥したものは炉に投げ込まれて、パンを焼く燃料と化します。「短命な野の花さえ美しく装われる天の父が、この地上ばかりか天国で永遠に生きるあなた方のからだのことを世話もせずに放っておくなどと考えることができますか。いや、絶対にできないでしょう。」「神様は野の花以上にあなた方のからだのことに心を砕き、世話をして下さる天の父ではないか。」そう、イエス様は語っておられます。

以上、空の鳥、野のゆりと言う自然を例にとって、天の父が私たち神の子らをいかに愛し、良く養ってくださっているか。イエス様の教えをたどってきました。同じ真理をイエス様の命と言う視点から、パウロはこう述べています。

 

ローマ8:32 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 

ここには、神の怒りに価する罪人であった私たちが、どれ程神様にとって大切な存在であったかが語られています。父なる神様は、ご自分にとって最も大切なイエス様を惜しげもなく、私たちの罪の贖いとして与えて下さった。そうだとすれば、その神様が私たちのいのちを養い、体を守るために必要なものについて惜しむことなどあるだろうか。間違いなく、良いものを惜しみなく与えて下さると信じてよい。そう、パウロが語るところです。

最後に考えたいのは、今日の個所でイエス様が語られた叱責とも見えることば、「信仰の薄い人たち」について考えたいと思います。信仰の薄い人、薄い信仰とはどのような人、どの様な信仰なのでしょうか。イエス様は何を私たちに求めているのでしょうか。

第一に、それは罪からの救いという面にだけ限られた信仰です。私たちはイエス・キリストを信じて、罪からの救いと言う恵みを受け取りました。人生におけるあらゆる罪はキリストのゆえに赦されたことを信じています。

しかし、神様が食べ物、飲み物、着物、経済、健康をはじめとする、私たちの日常生活に必要なもの一切の面倒を見てくださることを信じているでしょうか。父が子のために心砕き、子に必要なすべてのものについて配慮し、養うように、神様が生活のあらゆる領域において、私たちを養い、支えておられること、信じているでしょうか。

もし、神様が天の父であることを知らないなら、私たちは食べ物、健康、仕事、収入、人間関係あらゆるものを、自分の知恵と力で守らなければと考えます。これは、人間が負いきれない重荷を負うことです。私たちは常に何かの心配し、思い煩いから解放されることは難しいでしょう。

しかし、神様を天の父として私たちの生活のことを心にかけ、世話をして下さると信頼するなら、私たちは心配事のもとにあるあらゆる重荷を神様にお任せし、思い煩いから解放されることができるでしょう。神様とこの様な関係の中にある時、私たちは神様から頂いた良き物を恵みと考え、心から喜ぶことができるのではないのでしょうか。

第二に、信仰が薄いとは、神様についてよく考えないこと、神様への信仰を生活に適用しないことです。

イエス様は「空の鳥を見なさい」と言われました。「野のゆりがどのようにして育つのか、良くわきまえなさい」とも語られました。見る、良くわきまえるとは、神様が造られた自然を通して、神様の力、神様の愛、神様の私たちに対する心遣いや目的についてよく考え、理解すること。理解したことを適用することです。

皆様は、心が心配事で占領されそうな時、どうしてきたでしょうか。思い煩いに悩まされ、本来なすべきことに集中できない時、どうしたら良いと思われるでしょうか。しばし、休みを取って、神様の愛に憩うことです。イエス様の様に自然を通して、あるいは聖書を通して天の父の心遣いについて考え、味わうことです。

その様な交わりの中で、心配してもどうしようもないことを心配してはこなかったか。人間の力ではどうにもならないことを思い煩ってこなかったか。それを考えると良いと思います。神様にお任せすることと、自分がなすべきことを整理すると良いと思うのです。もし自分一人で難しいのなら、信仰の友と一緒にすることも良いでしょう。

神様を天の父として信頼する歩み。天の父との交わりの中で、思い煩いや心配事を扱ってゆく歩み。私たちが目指す歩みはここにあると思います。

 

55:22「あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」