2017年4月30日日曜日

「一書説教 ゼパニヤ書2章1~3節~神に匿われる~」


私たちは日々、様々なものから影響を受けています。特に身近な人、好きな人、憧れの人からは影響を受けやすく、考え方、話し方、仕草、あるいは服や髪型も、似ることがあります。意識的に真似をすることもあれば、似ていると言われたくなくても、親や兄弟と同じような考え方、話し方、仕草をすることもあります。私の場合は、よく父に似ている、特に声は似ているどころではない、同じだと言われます。説教などの公の場での話し方や、電話での声だと、区別がつかないと何度も言われてきました。

身近な人、尊敬する人の影響を受けるというのは、信仰生活も同様です。礼拝に対する態度、祈り方、賛美の仕方、聖書の読み方、奉仕への取り組み方、献金への思い、隣人への接し方、問題に対する対処の仕方。良い影響も、場合によっては悪い影響も、私たちは身近な人の信仰生活から受けることになります。皆様は、自分のこれまでの信仰生活、誰の影響を強く受けてきたと思うでしょうか。

当然のことながら、私たちは周りの人から影響を受けるのと同時に、影響を与える側でもあります。「どのような影響を受けるか」だけでなく、「どのような影響を与えるのか」についても考えるべきことですが、今日はもう少し影響を受けることについて考えます。

聖書の中には様々な預言者が出てきますが、仮に同時代、同じ地域で信仰生活を送ることが出来るとしたら、皆様はどの預言者と一緒に信仰生活を送りたいと思うでしょうか。影響を受けるとしたら、どの預言者が良いでしょうか。エリヤ、エリシャのような人々から注目される人が良いでしょうか。エレミヤやダニエルのように、苦難の中でも与えられた使命を全うする人が良いでしょうか。ヨナのように、預言者の働きから逃げ出しても、それでも神様に用いられる人が良いでしょうか。ホセアのように生き様を通して神様のメッセージを伝える人。アモスのような農夫でありながら巧みな説教者。ハバククのように、これ以上ないほど真剣に神様に向き合う人。実に様々な預言者がいますが、影響を受けたい人という中に、ゼパニヤは入るでしょうか。

 

 六十六巻ある聖書から、一つの書を丸ごと扱う一書説教。断続的に行ってきましたが、今日は三十六回目。旧約聖書第三十六の巻き、ゼパニヤ書です。

 ゼパニヤという名前は、主が匿う者、主が護る者という意味。日本名なら、護となりまして、私としては親しみがあります。全三章の小さな預言書。しかし、そこに込められたメッセージは実に豊か。当時の神の民に多大な影響を与えたと思われるゼパニヤの言葉を、今日は皆様とともに確認したいと思います。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 それではゼパニヤは、いつの時代、どこで活躍したのでしょうか。

 ゼパニヤ1章1節

ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼパニヤにあった主のことば。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。

 

 ゼパニヤが預言者活動をしたのは、南ユダ王国、ヨシヤ王の時代。これがどのような時代だったか、覚えているでしょうか。

 ヨシヤの曽祖父にあたるヒゼキヤ王は、善王として知られる人物。預言者イザヤとともに、強国アッシリヤを退けた信仰の人。ところが、そのヒゼキヤの子、マナセ(ヨシヤからすれば祖父)は最悪の王でした。南ユダ歴代の王の中でも、名うての悪王。

マナセ王について、聖書は次のように評していました。

 Ⅱ列王記21章1節~3節、6節

「マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。彼の母の名はヘフツィ・バハといった。彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。・・・また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」

 

 あの善王ヒゼキヤの子が、何故これ程の悪王となったのか、不思議です。そして、もう一つ不思議なのは、マナセの治世年数の長さ、南ユダ王国史上最長の五十五年です。何故、神様はこれだけの年数、マナセが王であることを許されたのか。ヒゼキヤ、イザヤ時代の信仰、良い風習は、マナセの時代で見事に塗り替えられ、悪習が蔓延り、この間に聖書(律法の書)が見失われた事態となります。

 マナセの死後、その子アモン(ヨシヤの父)が王となりますが、悪政を引き継いだ結果、家来の謀反に遭い、その治世は僅か二年。結果、ヨシヤは八歳にして王となります。

 


 Ⅱ歴代誌34章1節~3節

ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高い所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。

 

 ヒゼキヤの子マナセが、あれほどの悪王であったことに驚きますが、そのマナセの孫であり、アモンの子であるヨシヤが、並はずれた善王であったことにも驚きます。

 ヨシヤ王が具体的に取り組んだことは、列王記、歴代誌に記されています。祖父マナセ王が持ち込んだ異教の偶像を取り除き、神殿を改修し、失われていた聖書(律法の書)を見つけ出し、それまでに行われたことのないほど忠実に過ぎ越しの祭りを行いました。南ユダが長きに渡って見失っていた神の民の姿を取り戻した王、宗教改革のヨシヤです。

 何故、ヨシヤは主なる神様に対する信仰を持つことが出来たのでしょうか。第八年に、主なる神様を求め始めたと書かれていますが、何があったのでしょうか。ヨシヤに何があったのか、聖書には明確に記されていませんが、このヨシヤの信仰に影響を与えたのは、親戚であり預言者であるゼパニヤと読むことが出来ます。(ゼパニヤの預言の内容から、南ユダが宗教的、倫理的に退廃していることが分かります。そのため、ゼパニヤの言葉はヨシヤ王の宗教改革前の預言であり、ゼパニヤの言葉を受けてヨシヤが宗教改革へ導かれたと考えられます。)

 

 計五十七年に渡る不信仰の時代を経て、主なる神様に立ち返ることを必死に訴える預言者ゼパニヤ。稀有な信仰者となるヨシヤ王に多大な影響を与えたであろうゼパニヤの預言。その内容はどのようなものでしょうか。

 ゼパニヤ1章2節~4節

わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ。――わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。――主の御告げ。――わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。わたしはこの場所から、バアルの残りの者と、偶像に仕える祭司たちの名とを、その祭司たちとともに断ち滅ぼす。

 

 ゼパニヤ預言の冒頭の言葉。罪、悪に対する激しい裁きの宣言。この裁きの調べが、ゼパニヤ書の半分以上を占める内容となっています。

罪の中に眠りこける者たちに、警鐘を鳴らし、冷水をぶちかけ、その状態がいかに危険であるか訴えかける。神様を無視して生きること、「主」である神以外のものを神とすることが、いかに危険であるのか。神無しとして生きることのないように。義であり聖である神様を覚えて生きるように。聖書が繰り返し教えているメッセージ、多くの預言者が語り続けてきたメッセージを、ゼパニヤも強く主張するのです。

                                                       

 この時代の南ユダの人々の心の内について、次のように語られていました。

 ゼパニヤ1章12節

その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、『主は良いことも、悪いこともしない。』と心の中で言っている者どもを罰する。

 

 マナセ王、アモン王と、長きに渡る不信仰の時代を経た結果なのでしょう。神の民である者たちが「主は良いことも、悪いこともしない」と思うようになっていた。

恵みに気付かず、懲らしめにも気付かない。正しく生きようが、悪に走ろうが、違いはない。主を信頼しようが、別なものを信頼しようが、何も変わらない。信仰というのは心の中だけのこと、現実の出来事には影響がない。神がいるということは認めても、自分の人生に関わりがあるとは認めない、という態度。

 この神の民に、主は善に報い、悪を罰する方であること。特に不信仰に陥ったこの時代、罪に対する裁きを強く訴えるのが、ゼパニヤでした。

(余禄となりますが、ゼパニヤは繰り返し、神様が罪を罰する時が来ることを告げますが、それはゼパニヤだけがしていることではなく、ゼパニヤ以前の預言者も繰り返し告げていたことです。そして、何人もの預言者が、神様が罪を罰する時を「主の日」と呼びましたが、ゼパニヤも「主の日」という言葉を用いて、神様の裁きが近づいている、それ程、ひどい状態にあることを訴えました。)

 

 ゼパニヤ書の半分は、裁きの宣言ですが、私たちがその言葉を読む時に、自分とは無関係の言葉として読むことのないように。義であり、聖である神様は、罪、悪をどのように思われているのか。その神様の前で日々生きていることを忘れていないか。心のどこかで、「主は良いことも、悪いこともしない」と思っていないか。「どうせキリストによって救われているのだから」と嘯くのではなく、自分の生活、自分の心をかえりみて、悔い改めるべきことはないか、告白すべき罪はないか、考えながら読みたいと思います。

 

 それでは、何故ゼパニヤは繰り返し、執拗に裁きの宣告をしたのでしょうか。それは、裁きを逃れる道があることを示すためでした。

 ゼパニヤ2章1節~3節

恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。

 

 ゼパニヤという名前は、主に匿われる者、主に護られる者、という意味。そのゼパニヤが、神に匿われることを勧めます。主の怒りの日に、いかにすれば匿われるのかを告げ知らせるのです。

 もみがらのように追いやられる前に、激しい怒りが臨む前に、憤りの日が来る前に、神様に遜ること、正義を求めること、柔和を求めるように。

 「自分は悪くない。裁かれる者ではない。いや、そもそも主は良いことも悪いこともしないではないか。」と考える者たちに対して、繰り返し断罪し、裁きを告げたのは、その裁きから逃れる道があるから。神に匿われる道があるからでした。罪を認め、自分で正しくあろうとするのではなく、神様から義を頂くよう求めるように。これが、ゼパニヤが告げたい中心メッセージと読めます。

 

 ところで、ゼパニヤ書に記された言葉は、神様から神の民に語りかける言葉と、ゼパニヤが神の民に語りかける言葉、両方が記されています。例えば、預言の冒頭に語られた裁きの言葉は、「わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ。――」(ゼパニヤ1章2節)ですが、これはゼパニヤ自身の言葉ではなく、神様の言葉です。

 それでは二章の冒頭の言葉は、どうでしょうか。「わたしを尋ね求めよ。」ではなく、「主を尋ね求めよ。」ですので、これはゼパニヤが神の民に語りかける言葉であることが分かります。

 ゼパニヤ自身の言葉。そのため、遜り、義と柔和を主に求めれば、匿われる「かも」しれない、と言いました。「匿われます」という断言でなく、「かもしれない」という表現。

 

 ところが、その預言の終わりで、神様ご自身の言葉として、遜る者たち、神様に助けを求める者たちをどのように扱われるのか。宣言されることになります。ゼパニヤの宣言を、神様が承認される。

 ゼパニヤ3章12節~13節

わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。」

 

 ゼパニヤの告げた通り、裁きの中にあっても、遜る者、神に身を避ける者をわたしは匿う、その民を残すと言われる。この神様の言葉を受けて、ゼパニヤは大いに喜び、大きな賛美で預言が閉じられていくことになります。

 ゼパニヤ3章14節~17節

「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

 

 裁かれるはずの者が、神様が喜ぶ者となる道がある。「かもしれない」ではなく、「間違いなくある」。これ以上ない福音の宣言となってゼパニヤ書は閉じられていきます。罪を自覚し、悔い改めるように。それは、裁きを免れるためであり、神様に喜ばれるためである。

 このゼパニヤの信仰、預言を見聞きして、ヨシヤは善王として生きることになりました。私たちは、ゼパニヤの言葉を聞いて、どのように信仰生活を送るでしょうか。

 

 以上、ゼパニヤ書を概観しました。信仰が冷え切り、悪がはびこる状況の中、罪の中に留まる危険と、神の裁きが来ること。しかし、その裁きを回避する、神様に匿われる道があることを示したゼパニヤ。ゼパニヤ書を読む際には、自分自身にも語られた言葉として受け取ることが出来るようにと願います。

 断罪の言葉、裁きの宣告の言葉を前にする時は、自分の生活、自分の心をかえりみて、悔い改めるべきことはないか、告白すべき罪はないか、考えながら読みたいと思います。

神様に匿われる道があると教えられる言葉を前にする時は、真剣にその道を歩む決心をすること。ゼパニヤが神の前に遜ると教えたことが、今の私たちには、より明確に、より具体的に教えられていること。つまり、本当の意味で神様の前に遜るとは、主イエスの十字架での死と復活が私のためであったと信じること。そのように救い主を受け入れる者は、神の子とされること。まさに、これ以上ないほど神様に喜ばれる存在となることを再確認したいと思います。今やキリストにあって、神に匿われる者とされたこと、神の子として神様に喜ばれる存在とされたことを、皆で心から喜びたいと思います。

2017年4月23日日曜日

エペソ人への手紙4章16節「からだ全体は」


私たちの教会のビジョン、それは「神と人とを愛する教会」です。ビジョンとは私たちが目指す教会の姿です。では、神と人に対する愛を、私たちがどの様に表わすことを、聖書は命じているでしょうか。

 神様に対する愛は私たちがささげる礼拝を通して表されます。神様を知らない人々への愛は伝道によって表されます。そして、お互いへの愛は交わりにおいて表されるのです。礼拝、伝道、交わり。どれも教会の使命として大切にすべきものですが、2017年度私たちが特に大切にしたい事、それは交わりです。

 交わりと言う時、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。共に礼拝すること、共に語り合うこと、共に祈ること、共に食事すること、共に助け合うこと、共に奉仕し共に労苦すること、共に喜び共に悲しむこと。教会の交わりには様々な側面があります。

 皆様はこれまでどのような交わりを経験してきたでしょうか。交わりから受け取ったものは喜びでしょうか。痛みでしょうか。今、交わりが好きでしょうか、それとも少し苦手でしょうか。そもそも、交わりを大切なものとして意識してきたでしょうか。

 この一年間、私たちが皆交わりの意味を学び、交わりに加わり、教会生活を喜ぶことができることを願い、お話を進めてゆきたいと思います。今年度の聖句を、もう一度読んでみたいと思います。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

先ず注目したいのは、キリストによってと言うことばです。一つ前の節でキリストは「教会のかしら」と言われていました。「かしら」には上に立つ者、支配者と言う意味があります。イエス様はかしらとして教会を支配し、守っておられるのです。

かしらにはもう一つ「源」と言う意味があります。イエス様は私たちの霊的成長の源、イエス様によって、私たちはキリストに似た者へと造り変えられてゆくのです。ことばを代えれば、イエス様につながっていなければ、私たちは霊的に成長することはできない存在だということです。

私は10年前脳出血を経験しました。私たちの頭、かしらには脳があります。脳には体の各部分に指令を出す神経が集まっています。私の場合は右の脳が出血しましたから、体の左側にある筋肉の一部分が機能しなくなりました。幸い、私の場合は軽く済みましたが、今でもお風呂に入る時など、右手だけを使って体や頭を洗う自分に気がつくことがあります。意識しないと左を使わなくなっているのです。神経の損傷が深刻な方の場合は、半身不随などで苦しむことになります。つまり、体の各器官にとってかしらとつながっているかどうかは死活問題です。

この事について、イエス様がご自身をぶどうの木、私たちをその枝に譬えて教えています。

 

ヨハネ15:910a「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたは私の愛の中にとどまるのです。」

 

イエス様のことばにとどまること、イエス様の弟子になること、イエス様の愛の中にとどまること、イエス様の戒めを守ること。イエス・キリストにつながるとはどういうことか、イエス様ご自身の説明がここにあります。しかし、です。イエス様につながるのは大事なことですが、それだけでは霊的に成長することは難しいと、今日のみことばは告げていました。キリストをかしらとする一つのからだとして、愛し合い仕えあう交わりを築かなければならないと教えられるのです。

それでは教会が一つのからだとして歩むとはどういうことか、私たちが目指すべき交わりはどの様なものか。エルサレム教会を例にして考えてみたいと思います。

 

使徒2:4247「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

 

これは、生まれたばかりのエルサレム教会の様子です。使徒たちの教えを堅く守った。聖餐式を行った。一同の心に神へのおそれがあった。神殿でも教会員の家でも礼拝をささげ、神を賛美した。これらのことばから、人々がしっかりと神様につながり、イエス様につながっていた事が伺えます。

それとともに、彼らは交わりをしました。一切の物を共有し、それぞれの必要に応じて分配していた。毎日宮に集まり、家に集まっては食事を共にしていた。これらから、人々がいかに交わりを大切にしていたか。具体的に愛し合い、仕え合うことを実践していた様子が伝わってきます。

そして、彼らの礼拝や交わりは、周りの人々に好意を持たれ、主も救われる人々を加え、教会を祝福してくださったとあります。生まれたてのエルサレム教会は非常に良いスタート、順調なスタートを切ることができたのです。しかし、時が経ち、教会に加わる人がさらに増えてくると、様々な問題が起こってきました。その一つが交わりの問題です。

 

6:1~4「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

 

エルサレムはユダヤの都。ですから、当時エルサレム教会のクリスチャンは全員がユダヤ人でした。しかし、そこには二つのグループがあったようです。

一つは、ヘブル語を使うユダヤ人クリスチャン。彼らはユダヤ生まれのユダヤ育ち、母国語であるヘブル語を話し、ユダヤの伝統や文化を重んじる人々です。もう一つは、ギリシャ語を話すユダヤ人クリスチャン。彼らは外国生まれの外国育ち、ヘブル語を知らないので、専らギリシャ語を話し、ギリシャローマの伝統や文化の影響を強く受けた人々です。

ヘブル語を話すクリスチャンの多くが、初めの頃からの教会員であったのに対し、ギリシャ語を話すクリスチャンは、エルサレムを訪れて福音を知り、イエス・キリストを信じて、後から教会に加わったと考えられます。その為でしょうか、エルサレムに生活基盤のない彼らは仕事を持つことができず、経済的に貧しい人々が多かったようです。彼らの中のやもめたちが、毎日食事の配給を受けていたとある通りです。

私たちも故郷が同じ人に出会うと親しみが涌いてきます。ことばが通じ、育った環境が似ていると共通の話題も多く、親しくなりやすいものです。ですから、同じ教会の中にグループができるのは自然なことでしょう。しかし、二つのグループの間に不和、対立が起こるとなると、放っては置けません。元々ヘブル語を話すユダヤ人は、自分たちが重んじるユダヤの伝統や文化に疎い人々を軽く見る、見下す傾向があったと言われます。

その様な自己中心の性質がイエス・キリストを信じた後も精算されず、残っていたのでしょう。外国から来たユダヤ人の兄弟は、普段からユダヤ生まれユダヤ育ちの兄弟の言動に、自分たちを軽んじ、見下す心を感じていたのでしょう。自分たちの仲間であるやもめが毎日の食事の交わりの際、なおざりにされたと考える兄弟から苦情の声が上がりました。

何が事の発端であったのか。具体的なことは分かりませんが、使徒たちは全員を集めて、教会全体でこの問題に取り組みます。彼らは「自分たちは、専ら祈りとみことばの奉仕に専念する」と語り、教会の使命として礼拝と伝道を重んじることを確認しました。

しかし、だからと言って食事の交わりで起こった問題はどうでもよいとしたわけではありません。「あなた方の中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい」と命じると、七人の兄弟に食事の交わりを整える奉仕を託したのです。彼らの行動は、礼拝、伝道とともに、愛し合う交わりを築くことが、どれ程教会にとって大切であるかを教えてくれます。

あの祝福されたエルサレム教会に問題が起こったのなら、私たちの教会の交わりにおいても、問題が起こる可能性があります。何故なら、イエス様を信じても、私たちは罪人。自己中心と言う罪の性質は私たちの中に今も生き残り、活動しているからです。

エルサレム教会の人々が生まれ育った環境から、無意識のうちに影響を受けていたように、私たちも生まれ育った環境から多大な影響を受けています。両親の影響を強く受けた人は、「男はこうあるべし」「女はこうあるべし」と言う理想像を持ち、それを基準に他の人を見るでしょう。金銭を重んじる家庭で育った人は、富む人を重んじ、貧しい人を軽んじるかもしれません。能力重視の教育を徹底的に受けた人は、自分と同じ様な能力の人を重んじ、そうでない人を軽んじるでしょう。

私たちは、それと意識しないまま、自分が身に着けた基準を正しいとして、周りの人のことを軽く見たり、重んじたりしてはいないでしょうか。ある人を良い人、ある人を問題のある人と判断してはしてはいないでしょうか。イエス様に愛されている大切な人とは見ないで、いつの間にか自分中心の見方に立って判断していると言うことはないでしょうか。

私たちの中にある自己中心の性質は私たちの一部となっていますから、非常に気づきにくいと言う面があります。しかし、その様に普段私たちの内に隠れている自己中心の性質に気づかせてくれるのが、教会で不和、対立が起こった場合です。

エルサレム教会の場合、ギリシャ語を話すクリスチャンたちが、やもめたちがいかにつらい思いを味わっているのかを訴えました。その苦情を聞いた使徒と教会は、自分たちの交わりがいつのまにか伝統的なユダヤの文化や風習を重んじる兄弟姉妹に偏っていたこと、自分たちの言動が、弱い立場に立つやもめたちに心細い思いを抱かせてきたことに気がついたのでしょう。

やもめたちの寂しい思いをよく理解し、良く彼女たちに仕えることのできる人を選んで、愛し合う交わりを築き直そうと努めました。自分たちが深い所でイエス・キリスト中心ではなかったことに気がつき、悔い改めたのです。自分一人では気がつかない罪の部分、自己中心の部分に気がつき、神様のみこころを何かをさぐり求め、行動することができたのです。こうして、エルサレムの教会に愛し合い、仕え合う交わりが回復した結果、何が起こったのでしょうか。

 

使徒67「…こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」

 

教会に加わる人が非常に増えて行った。キリスト教に最も敵対していた祭司たちからも次々に信仰にはいる人がいた。イエス・キリストが命を懸けて愛した人として、どんな人をも愛し、大切にする教会の交わり。その交わりが人々の心を動かし、キリスト教反対論者の頑固な心も砕いた。神様はこの様な教会を祝福されたのです。

最後に交わりについて、二つのことを確認したいと思います。

一つ目は、教会の交わりには喜びと言う恵みがあり、痛みと言う恵みもあることです。最初の頃のエルサレム教会には交わりの喜びがあふれていました。しかし、時期を経て、様々な人々が教会に加わった結果、不和対立と言う交わりの痛みを経験することになります。しかし、彼らはこの痛みを通し、罪を悔い改めました。神様のみこころを求め、それを実行することで、一つのからだとして成長して行ったのです。

私たちも同じ道を行きたいと思います。教会はイエス・キリストによって罪赦された、しかし罪人の集まりです。問題が起こることは避けられません。しかし、その中で自分の自己中心の性質に気がつき、それを改めてゆくのか。それとも、自己中心の性質を改めないままで過ごすのか。キリストをかしらとして生きるのか。それとも、自分の古い生き方を守ったまま生きるのか。どちらを取るかで私たちの交わりは大きく変わります。

残念ながら交わりに問題が起こってしまった時、相手についてうんぬんする前に、自分の考え方や言動を振り返り、自己中心の性質に気がつく者でありたいと思います。たとえ痛みを伴うとしても、へりくだって人を愛すると言うみこころに従う者でありたいと思うのです

二つ目は、教会に愛し合い、仕え合う交わりがある時、その交わりが神を知らない人々の心を動かす伝道になり、宣教になると言うことです。

「レスザンゼロ」と言う小説があります。富、成功、権力を持つ人々の裏側にある霊的な貧しさをありありと描いた本です。舞台はアメリカのロスアンゼルス。主人公はそこに住む大金持ちの子ども、十代の若者たちです。その主人公の一人が叫ぶ場面が忘れられません。「私を愛してくれる人は誰もいないの。僕を心にかけてくれる人は誰もいないの。どうしようもなくなった時、泣き出したくなった時、一緒にいてくれる人は誰もいないの」。これはアメリカだけでなく世界中の、十代の若者だけでなくあらゆる世代の人々の心にある叫びではないかと思います。

子どもの心にも、大人の心にも、老人の心にも、富める人の心にも、貧しい人の心にも、健康な人の心にも病の人の心にもあるこの叫びに応えるのが、あなた方教会ですよ。今日の礼拝で、私たちはこの様に語りかける神様のみ声を聞きたいと思います。イエス・キリストをかしらとする教会の交わり。この一年、私たち皆で愛し合い、仕え合う交わりを築いてゆきたいと思うのです。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

2017年4月16日日曜日

イースター礼拝コリント人への手紙Ⅰ15章20~22節「初穂として」


AD30年の4月7日、金曜日と考えられています。私たちの救い主、イエス・キリストが十字架にかかり死なれました。約三年にわたり、ご自身が神の子であり、約束の救い主であることを示し続けられたイエス。その結果、当時の宗教家のリーダーたちの妬みを買い、扇動された群衆たちの叫びと、不正な裁判によって、十字架につけられます。罪人を救いに来られた方を、罪人が殺してしまう。万事休す。一巻の終わり。救いの道は絶たれたと思われる絶望的な事件。

ところが、三日目の朝、日曜日にイエス・キリストが復活されました。ご自身、約束の救い主であることの最大のしるしと言われていた復活です。この復活によって、イエスの十字架の死が、ただの人間の死ではなかったことが明らかになります。聖書が語る通り、イエスの死は、罪人に対する罰を身代わりに受けたもの。人々が十字架につけたのですが、それは同時に、イエス様ご自身が罪人を救うために命を捨てる歩みであったこと。その上、その死は死で終わらず、死に打ち勝たれたことが、示されたのです。このイエス・キリストを私の救い主と信じる者。十字架での死と復活が、私のための御業であったと信じる者は、罪から救われるのです。

 救い主が死に、罪人が救われる道は閉ざされた。もう終わり、打つ手なし、絶体絶命と思われたところからの大逆転。新時代の幕開けとなったキリストの復活を、この聖日、皆様とともに祝います。皆様とともに礼拝が出来ることを大変嬉しく思います。今一度、約二千年前に主イエスが復活されたことが、今の私たちにとってどのような意味があるのか。どれ程大きな恵みであるのか。ともに味わうことが出来るようにと願っています。

 

 開きます聖書箇所は、パウロがコリントの教会に宛てた手紙。今朝はこの箇所を中心に、主イエスの復活の意味を確認します。

コリント人への手紙は、様々なテーマが扱われていますが、今日開く十五章は、特に復活がテーマでした。パウロは、かなりの分量を割いて、キリストの復活について語るのですが、その背景にあるのは、コリントの教会内に、死者の復活はないと言っている人たちがいたからです。

 Ⅰコリント15章12節

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

 

 コリント教会に集う人々の中に、「死者の復活はない」と言っている人がいました。これは、どういう意味でしょうか。

 イエスは約束の救い主だと信じている。イエスを救い主と信じれば、罪から救われるというのは信じる。しかし、イエスが復活したというのは信じられない。それが本当に起こった出来事だとは信じられないということでしょうか。

 それとも、イエスが復活したことは信じる。神の子であり、約束の救い主であるから、イエスご自身が復活されたことは、ありうること。しかし、イエス以外の人間が復活することはありえない。自分自身含め、人間は死んだら終わり。死者が復活することはない、ということでしょうか。

 コリント教会の中にいた、「死者の復活はない」と言っている人が、キリストの復活自体を信じられないと言っているのか。それとも、キリストの復活は信じるけれども、私たち人間の復活は信じられないと言っているのか。どちらなのか正確には分かりませんが、パウロはどちらの方向にも目を向けて、十五章を記しています。つまり、キリストの復活は、実際に起った出来事であることを繰り返し確認し、それと同時に、その復活の意味を確認するのです。

 

 まずはイエス様の復活が実際に起った出来事であると確認します。

 Ⅰコリント15章3節~8節

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

 

 聖書の中でも極めて有名な箇所。この箇所の内容は、キリスト教の最も早い段階で、信条としてキリストを信じる者たちに受け継がれた内容と考えられています。

「福音」、「良き知らせ」の中心、最も大切なこととして、第一にキリストの十字架の死、第二に埋葬、第三に復活、第四が復活したイエスの登場という、四つのこと。とはいえ、死と埋葬、復活と登場と見れば、福音の中心はキリストの死と復活という二つの出来事と言えます。キリストの死と復活、どちらも大事なのですが、ここでパウロは、特に復活が事実であることを、しつこく主張しているように感じます。

 復活は聖書が示していたこと。ケパ(ペテロ)も、十二弟子も、ヤコブも、使徒も、何よりパウロ自身も復活したイエス様に会っている。五百人以上の者が、復活したイエス様に会っている。この手紙がコリント教会に届けられた当時は、多くの生き証人に会い確認することが出来る状況でした。

 

 なぜ、ここまで繰り返し、復活が事実であると主張する必要があったのでしょうか。

それだけ、人間にとって復活は信じられない、信じ難いことだからです。復活が事実であるとは思えないというのは、何もコリント教会だけのことではありませんでした。

 そもそも、イエス様は十字架にかかる前、ご自身の復活を繰り返し宣言していました。三日の後と、日にちまで指定していました。その宣言は、主イエスに敵対する者たちも把握していた程です。(マタイ27章63節)

ところが、その三日目、キリストの復活を待っていた弟子たちは一人もいませんでした。誰一人、復活を信じていなかったのです。弟子たちは、イエスが復活したという証言を聞いても、信じられません。(ルカ24章11節、ヨハネ20章25節)復活したイエス様に出会った時も、最初は復活を信じられませんでした。(ルカ24章37節)さらに言うと、復活したイエス様に会っても、それでも疑いをやめなかった者たちもいました。(マタイ28章17節)

 キリストの弟子の姿からも、コリント教会の中にいた人の姿からも、復活を信じることは難しいことが分かります。パウロが力を入れて説明すればするほど、それだけキリストの復活を事実と受け入れることが難しいのだと分かります。

 

 それでも、キリストの復活というのは、信じるべきこと。「信じられないなら、まあ良いです」というものではない。「キリストが身代わりに十字架で死なれたことを信じれば、キリストの復活は信じなくても良い」というものではない。キリストが復活されたことは、救いに必要な信じるべきことでした。

 いかがでしょうか。皆様は、キリストの復活を歴史的事実と受け止めているでしょうか。

 

 パウロはこのように、キリストの復活が歴史的な事実であることを繰り返し告げ、続いて、復活の意味について確認します。

 Ⅰコリント15章20節~22節

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

 

 主イエスの復活は、どのような意味があるのか。その意味について、パウロはここでアダムによって死が入ったことと対比して、キリストの復活の意味を説明します。

 世界が造られた当初、世界は非常に良かったと言われています。最初の人、アダムもエバも非常に良い状態。人は死なない存在、死と無関係でした。今の私たちは、死ぬのが当たり前。死なない状態をイメージすることすら出来ない程、死は身近です。

 非常に良い状態であったアダムが、神様が禁じた唯一のこと、善悪の知識の木の実を食べます。それをしたら死ぬと言われたことをしてしまった。その結果、死に支配さえた存在となります。神を神と思わず、自分中心に生きる歩みとなる。肉体が死ぬ存在となっただけでなく、生き方自体が堕落してしまったのです。

 この死の影響は、アダムだけに留まりませんでした。アダムから生まれ出る者、つまり全人類に、この死の影響が広がりました。今の私たちが、死ぬのが当たり前、死が身近であるのは、私たちが死に支配された状態のアダムから生まれ出たからです。このことを、パウロは「死がひとりの人を通して来た」とか「アダムにあってすべての人が死んでいる」と言っています。

 

 そして、この最初の人の状態が、それに続く全ての人に影響するという原理が、キリストと、キリストを信じる者に当てはまるというのが、ここで宣言されていることです。

 死に支配された私たちを、その支配から助け出すために救い主が来られた。その救い主がしたことは一度死なれて、復活された。つまり死に打ち勝たれた、ということです。そして、この死に打ち勝つということは、イエス様にだけ当てはまるのではなく、主イエスを救い主と信じる者、キリストと一体となる者にも当てはまるというのが、ここで教えられていることです。

 聖書の中には、蘇りを経験した人たちがいます。ラザロや、ヤイロの娘、ナインという町にいた寡の息子を、イエス様は蘇らせました。しかし、その人たちの蘇りは、その人たちだけに当てはまること。その人たちが蘇ったから、私たちも同様に蘇るとは教えられていません。(また、一度蘇りを経験したこれらの人は、その後、再度死ぬことになりました。この点でキリストの復活と決定的に異なります。)

しかし、キリストの復活は、キリストにだけ起こることではなく、キリストを信じる者にも起こるというのです。このことをパウロは、「死者の復活もひとりの人を通して来た」とか、「キリストによってすべての人が生かされる」と言っているのです。

 

 今の私たちからすれば約二千年前の出来事。しかし、キリストの復活は、今の私たちにも関係があるというのです。主イエスを私の救い主と信じる者は、主イエスが死に打ち勝たれたように、死の支配から抜け出すことになる。キリストが復活したように、キリストを信じる者も復活する。キリストの復活には、最初の人の状態が、それに続く全ての人に影響するという原理が、当てはまるのだと教えられているのです。

 いかがでしょうか。キリストの復活の意味を、このようなものとして受けてきたでしょうか。

 

 ところで、パウロはキリストの復活の意味を説明する時に、私たちからすると、意味が分かりづらい表現を用いています。「眠った者(死んだ者)の初穂としてよみがえられた。」「初穂」というたとえ。キリストは眠った者の初穂としてよみがえられた、とはどういう意味でしょうか。

キリストが十字架で死なれ、復活された時。ユダヤ人は、過ぎ越しの祭(それに続く初穂の祭)を行っていました。これは調度、初物の収穫の時期で、この時神殿の祭壇には、収穫の初穂である麦がささげられていました。

なぜ、収穫の初穂がささげられたのか。それは、収穫の初穂が、それから収穫される全ての麦の代表であり、シンボルであると聖書で教えられていたからです。神の民は、神様の定めた通り、収穫の初穂をささげることで、収穫の全ては神様のものであることを示しました。初穂をささげるとは、収穫の最初のものをささげるという意味だけでなく、収穫の全てをささげることを意味していました。

 初穂が収穫全部を代表するのと同様に、キリストの復活はキリストに連なる者を代表する。初穂がささげられれば、収穫全てがささげられたとされるように、キリストが復活すれば、キリストにつらなる全ての者も復活する。これが、パウロが言いたかったことです。

 いかがでしょうか。よく分かるたとえでしょうか。説明されても分かりづらいたとえでしょうか。

 現代の日本に住む私たちにとって、初穂のたとえが分かりやすいかどうかはともかくとしまして、私個人としてはこのようなパウロの表現はとても好きです。何としてでも、キリストの復活の意味を知ってもらいたいという熱意が溢れているように感じます。「キリストは眠った者の初穂としてよみがえられた。」今朝は、この言葉を前に、その意味だけでなく、何としてでもその意味を知ってもらいたい、信じてもらいたいというパウロの熱意、神様の熱意を受け取りたいと思います。

 


一般的に言えば、キリストの復活を信じられることも、その意味を信じられることも、大変難しいことではないかと思います。もし、自分が信じることが出来ているとしたら(ここに集いし多くの方は信じていると思いますが)、それは本当に大きな恵みを頂いていることになります。私たち皆で、キリストの復活を通して、どれ程大きな恵みを頂いているのか味わうことで、キリストの復活をお祝いしたいと思います。

2017年4月9日日曜日

ルカの福音書23章32節~43節「父よ。彼らをお赦しください。」


今日は受難節の礼拝です。受難節は復活祭、イースター礼拝の前の46日間を指しています。この間、キリスト教会では伝統的にイエス・キリストが十字架で受けた苦難、苦しみについて考え、イースターに備えてきました。ですから、今年のイースター礼拝は来週ですから、正確に言えば、今日は受難節最後の礼拝と言えるでしょうか。

私たちクリスチャンはつねにイエス様の十字架について思い巡らす者、十字架の意味について考えるべき者です。とは言え、非常に忙しい時代にあって、一つのことに集中して思いを巡らす時間はなかなか取れるものではありません。せめて、今日から始まる一週間はイエス様の受けた苦しみは何のためであったのか。私たち、いつもより集中して考えることができたらと思います。

今週金曜日には、イエス様が十字架にかかられた日にちなんで聖餐礼拝を行います。皆様がより深く十字架の苦しみを思い、イエス様を身近な存在として感じるための時間として、用いていただけたらと願っています。

ところで、十字架をテーマにした讃美歌は沢山ありますが、その中の一つに聖歌の396番「十字架のかげに」があります。一番には「十字架のかげにいずみわきて いかなる罪もきよめつくす。おらせたまえ このみを主よ 十字架のかげにとこしえまで」と歌われています。私はここにある「十字架のかげにいずみわく」と言うことばが好きです。

十字架の元には、神様の恵みと言う汲めども尽きせぬいずみがある。コップの水は飲んだら空っぽです。しかし、神様の恵みはコップの水ではありません。いずみから涌いてくる水です。飲んでも飲んでも尽きることがないものです。この泉の豊かさに、どれほど多くの人が心潤され、生き返る思いを味わってきたことか。

今日の礼拝も、イエス様の十字架と言う泉から心潤される水、いのちの水を飲むことができるようにと願い、お話を進めてゆきたいと思います。

紀元30年頃、春を迎えたユダヤの国。ある金曜日の午前9時。都エルサレムは異様な興奮で包まれていました。翌日に控えたユダヤ人にとって最大の祭り、過ぎ越しの祭りを祝うため、都はごった返していましたが、人々の心を捉えていたのはお祭りではなく、一人の男の十字架刑です。

処刑の場所はゴルゴダ。当時その場所は「どくろ」と呼ばれ、普段は人が近づくような所ではありませんでした。しかし、この日に限り、大勢の人が集まってきました。それは、一時は群衆から崇められたイエス様、他方ユダヤ教の指導者からは敵とみなされたイエス様が十字架で処刑されることを知ったからです。

この時、イエス様は直前に受けた鞭打ちによる痛みと出血、喉の渇きに悩み、すでに体は力を失っていました。聖書には、イエス様が十字架の木を背負うことができずに倒れた為、代わりの者が木を背負ったと記されています。そんな状態のまま十字架に釘づけにされたのですから、その痛みがどれ程イエス様の体と心から力を奪っていったことか。私たちは容易に想像することができます。

そして、この時十字架の周りには、様々な人たちが集まってきました。人々はイエス様のことをどう思ったのでしょうか。イエス様に何を言い、どう接したのでしょうか。先ずは、イエス様とともに十字架につけられた二人の犯罪人です。

 

23:32、33「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」

 

当時、普通のローマ市民は罪を犯しても十字架の刑を受けることはありませんでした。十字架刑に処されたのは、余程酷い罪を犯した犯罪者で市民以外の者と言われます。最初はこの様な二人が、二人ともイエス様を罵っていたとマタイの福音書には記されています。

 

マタイ2744「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」

 

「同じ様に」と言うのは、二人が他の人々と同じく、「お前が本当に神の子なら、十字架から降りて、自分を救ってみろ」とののしったことを物語っています悪事を尽くしてきた二人の犯罪人。彼らの人生に残された時間はわずかです。それなのに、二人は貴重な残りの時間を、これまでの歩みを悔いるどころか、人をののしるために用いたのです。それも、自分たちと同じ苦しい境遇にあるイエス様を、人々と同じ側に立ち虐めると言う身勝手さです。

次は、イエス様を十字架につけた後、死を見届けるためそこにいたローマの兵士たちです。彼らはくじ引きに夢中になっていました。

 

ルカ2334b「…彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」

 

十字架の囚人が身に着けていた着物を貰う。それは、処刑を執行した兵士に与えられる報酬です。しかし、息もつげずに苦しむ人の体から着物を脱がせ、それを分配するためくじ引きに興じるというあわれみのなさはどうでしょう。彼らはイエス様の苦しみに無関心であるように見えます。イエス様をまるで物の様に扱っています。

さらに、兵士たちは残酷です。くじ引きに夢中になっていた彼らは、周りの騒ぎに気がつくと、自分たちも一緒にとばかり、嘲る者の仲間に入りました。

 

ルカ23:36-38「兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄ってきて、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え。』と言った。『これはユダヤ人の王。』と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」

 

 彼らは「これはユダヤ人の王。と書いた札」即ち罪状書きを確認したうえで、「もしお前が本当にユダヤの王なら、ユダヤの国を救うことは無理でも、自分のことぐらい救ってみたらどうだ」と、あざ笑いました。弱い者を踏みにじる残酷な態度です。

イエス様に差し出されたぶどう酒も、彼らのあわれみを示すものではありません。確かに、ぶどう酒は一時的に肉体の痛みを和らげ、渇きを癒しました。しかし、その後には、さらに激しい痛みと渇きをもたらす副作用があったのです。それを知っていた兵士たちが、さも親切そうに差し出す姿が目に浮かぶところです。

三番目は、民衆です。この中には、つい昨日までイエス様をユダヤの王と思い、自分たちをローマの支配から解放してくれると期待していた者が大勢混じっていました。

 

ルカ2335a「民衆はそばに立って眺めていた。」

 

「ただ眺めていた」だけの彼らは善人だったでしょうか。どうも、違ったようです。人々が眺めていたのは、自分たちの期待を裏切り、十字架上に苦しむイエス様を嘲るためでした。他の聖書には、民衆たちが「あなたが救い主なら、十字架から降りてみろ」とイエス様に向かい、嘲りのことばを浴びせたと書かれています。

彼らは、二人の犯罪人の様に、酷い人生を送ってきたわけではありません。兵士のように、イエス様を直接十字架に釘づけたわけではありません。ユダヤ教の指導者たちのように、イエス様を敵視してきた訳でもありません。ただただ、自分たちの期待を裏切ったイエス様に腹が立ち、王と崇めていたイエス様を責めているのです。

最後に、「イエスを十字架につけよ」と裁判で主張し続けてきたユダヤ教指導者たちは、してやったり。イエス様に対し勝ち誇り、あざ笑っています。

 

ルカ2335b「…指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』」

 

 イエス様が十字架から降りてこられないと分かった上で、「もし、お前が神から遣わされたキリスト救い主だというなら、自分を救ってみろ」と言い放った時、彼らは良い気分を味わっていたかもしれません。目の上のたん瘤、邪魔者だったイエス様を卑しめることで、溜飲を下げることができたからです。

 自分たちの罪は横において、イエス様をののしる二人の犯罪人。イエス様の苦しみにはてんで無関心、くじ引きに興じていた兵士たち。自分たちの願い通りに行動しなかったことに失望し、期待を裏切ったイエス様を責めた群衆。邪魔者だったイエス様を十字架につけ、思いのままあざ笑い優越感を感じていたであろう指導者たち。

 イエス・キリストの十字架の場面には、人間がどんなに邪悪な行いをするものか、人間の罪がいかに深いものかが示されています。旧約聖書のエレミヤ書には、私たちは自分の罪の深さを知ることも、直すこともできないとあります。

 

エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」

十字架上の犯罪人も、兵士たちも、群衆も、宗教指導者たちも、決して私たちにとって他人ではないと思います。私たちは、自分の罪は棚上げにしておいて、人をののしったことはないでしょうか。人の苦しみを思いやることなく、自分の利益のことばかり考えて行動したことはないでしょうか。相手が自分の願い通りに行動しないからと言う理由で怒りを爆発。相手を責めたことはないでしょうか。邪魔に感じていた人が弱り果てているのを見て、心の中で優越感を覚えたことはないでしょうか。自分の中に、こんな邪悪な心があったのかと感じたことはないでしょうか。

 このような犯罪人、兵士、群衆、宗教指導者、そして私たちに対しイエス様は何をされたのか。それは、天の父に対して祈ることでした。

 

 ルカ2324a「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。』…」

 

 元のことばを見ますと、イエス様は祈りをささげ続けたことがわかります。犯罪人たちがののしった時も、兵士が着物をはぎ取った時も、群衆がご自分に怒りを向け責めた時も、宗教指導者があざ笑った時も、イエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」と祈り続けたと言うのです。

 皆様に考えてほしいことがあります。もし、このイエス様の様な状況に自分が置かれたら、何を思うでしょうか。神様に対して何を祈るでしょうか。

この場面、イエス様は非常に苦しい状況にありました。肉体的な痛み、心をくじくような人々の行動やことばを浴びせられていたのです。それにも関わらず、イエス様は天の父に対して、「わたしをこの様な苦しみから救い出してください」とは祈っていません。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と祈り続けたのです。

イエス様の関心はご自分のことではありませんでした。イエス様の心はご自分を苦しめる者の一人一人に向けられ、彼らの罪の赦しこそイエス様最大の関心だったのです。だからこそ、残されたわずかな力を振り絞って、イエス様は十字架にとどまり、罪人のために祈り続けたのです。

しかし、イエス様の祈りが周りの誰にも届かず、虚しく消えてゆくのかと思われたその瞬間です。二人の犯罪人の内のひとりがイエス様の全身全霊の愛を受け取ったのでしょう。その心が新たにされ、180度イエス様に対する態度が変えられました。

 

23:39~43「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 

イエス様が御国の位につくとは、イエス様が神の国の王救い主であることをこの人が信じたことを示しています。「私を思い出してください」は、この人が自分の罪を認め、罪人の自分をあわれみ、救ってくださるように願うことばです。さっきまで、罵りを口にしていた者の心が一変、イエス様を神の子救い主と受け入れたのです。そして、イエス様は「あなたは今日、わたしとともにパラダイス、天国にいます」と即座に約束し、祝福されました。

今日の個所を読み終え、最後に確認したいと思います。十字架の上で罪の贖いを遂げるその時、イエス様の心は救いがたい罪を持つ私たち一人一人に向けられていました。皆様はこのことを信じるでしょうか。十字架の上で現されたイエス様の愛は、罪で固くなった私たちの心を癒し、造り変える力をもっていました。皆様には、どんな時も神様に愛されていると言う平安があるでしょうか。罪を離れ、イエス・キリストを信頼し、従ってゆく思いが、心の中に生まれ、成長しているでしょうか。

私たち皆が十字架のもとにある神様の恵み、イエス・キリストの愛と言う泉から、命の水を汲み続ける歩み、続けてゆきたいと思います。今日の聖句です。

 

Ⅰペテロ2:24 「キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」