2017年4月23日日曜日

エペソ人への手紙4章16節「からだ全体は」


私たちの教会のビジョン、それは「神と人とを愛する教会」です。ビジョンとは私たちが目指す教会の姿です。では、神と人に対する愛を、私たちがどの様に表わすことを、聖書は命じているでしょうか。

 神様に対する愛は私たちがささげる礼拝を通して表されます。神様を知らない人々への愛は伝道によって表されます。そして、お互いへの愛は交わりにおいて表されるのです。礼拝、伝道、交わり。どれも教会の使命として大切にすべきものですが、2017年度私たちが特に大切にしたい事、それは交わりです。

 交わりと言う時、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。共に礼拝すること、共に語り合うこと、共に祈ること、共に食事すること、共に助け合うこと、共に奉仕し共に労苦すること、共に喜び共に悲しむこと。教会の交わりには様々な側面があります。

 皆様はこれまでどのような交わりを経験してきたでしょうか。交わりから受け取ったものは喜びでしょうか。痛みでしょうか。今、交わりが好きでしょうか、それとも少し苦手でしょうか。そもそも、交わりを大切なものとして意識してきたでしょうか。

 この一年間、私たちが皆交わりの意味を学び、交わりに加わり、教会生活を喜ぶことができることを願い、お話を進めてゆきたいと思います。今年度の聖句を、もう一度読んでみたいと思います。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

先ず注目したいのは、キリストによってと言うことばです。一つ前の節でキリストは「教会のかしら」と言われていました。「かしら」には上に立つ者、支配者と言う意味があります。イエス様はかしらとして教会を支配し、守っておられるのです。

かしらにはもう一つ「源」と言う意味があります。イエス様は私たちの霊的成長の源、イエス様によって、私たちはキリストに似た者へと造り変えられてゆくのです。ことばを代えれば、イエス様につながっていなければ、私たちは霊的に成長することはできない存在だということです。

私は10年前脳出血を経験しました。私たちの頭、かしらには脳があります。脳には体の各部分に指令を出す神経が集まっています。私の場合は右の脳が出血しましたから、体の左側にある筋肉の一部分が機能しなくなりました。幸い、私の場合は軽く済みましたが、今でもお風呂に入る時など、右手だけを使って体や頭を洗う自分に気がつくことがあります。意識しないと左を使わなくなっているのです。神経の損傷が深刻な方の場合は、半身不随などで苦しむことになります。つまり、体の各器官にとってかしらとつながっているかどうかは死活問題です。

この事について、イエス様がご自身をぶどうの木、私たちをその枝に譬えて教えています。

 

ヨハネ15:910a「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたは私の愛の中にとどまるのです。」

 

イエス様のことばにとどまること、イエス様の弟子になること、イエス様の愛の中にとどまること、イエス様の戒めを守ること。イエス・キリストにつながるとはどういうことか、イエス様ご自身の説明がここにあります。しかし、です。イエス様につながるのは大事なことですが、それだけでは霊的に成長することは難しいと、今日のみことばは告げていました。キリストをかしらとする一つのからだとして、愛し合い仕えあう交わりを築かなければならないと教えられるのです。

それでは教会が一つのからだとして歩むとはどういうことか、私たちが目指すべき交わりはどの様なものか。エルサレム教会を例にして考えてみたいと思います。

 

使徒2:4247「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

 

これは、生まれたばかりのエルサレム教会の様子です。使徒たちの教えを堅く守った。聖餐式を行った。一同の心に神へのおそれがあった。神殿でも教会員の家でも礼拝をささげ、神を賛美した。これらのことばから、人々がしっかりと神様につながり、イエス様につながっていた事が伺えます。

それとともに、彼らは交わりをしました。一切の物を共有し、それぞれの必要に応じて分配していた。毎日宮に集まり、家に集まっては食事を共にしていた。これらから、人々がいかに交わりを大切にしていたか。具体的に愛し合い、仕え合うことを実践していた様子が伝わってきます。

そして、彼らの礼拝や交わりは、周りの人々に好意を持たれ、主も救われる人々を加え、教会を祝福してくださったとあります。生まれたてのエルサレム教会は非常に良いスタート、順調なスタートを切ることができたのです。しかし、時が経ち、教会に加わる人がさらに増えてくると、様々な問題が起こってきました。その一つが交わりの問題です。

 

6:1~4「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

 

エルサレムはユダヤの都。ですから、当時エルサレム教会のクリスチャンは全員がユダヤ人でした。しかし、そこには二つのグループがあったようです。

一つは、ヘブル語を使うユダヤ人クリスチャン。彼らはユダヤ生まれのユダヤ育ち、母国語であるヘブル語を話し、ユダヤの伝統や文化を重んじる人々です。もう一つは、ギリシャ語を話すユダヤ人クリスチャン。彼らは外国生まれの外国育ち、ヘブル語を知らないので、専らギリシャ語を話し、ギリシャローマの伝統や文化の影響を強く受けた人々です。

ヘブル語を話すクリスチャンの多くが、初めの頃からの教会員であったのに対し、ギリシャ語を話すクリスチャンは、エルサレムを訪れて福音を知り、イエス・キリストを信じて、後から教会に加わったと考えられます。その為でしょうか、エルサレムに生活基盤のない彼らは仕事を持つことができず、経済的に貧しい人々が多かったようです。彼らの中のやもめたちが、毎日食事の配給を受けていたとある通りです。

私たちも故郷が同じ人に出会うと親しみが涌いてきます。ことばが通じ、育った環境が似ていると共通の話題も多く、親しくなりやすいものです。ですから、同じ教会の中にグループができるのは自然なことでしょう。しかし、二つのグループの間に不和、対立が起こるとなると、放っては置けません。元々ヘブル語を話すユダヤ人は、自分たちが重んじるユダヤの伝統や文化に疎い人々を軽く見る、見下す傾向があったと言われます。

その様な自己中心の性質がイエス・キリストを信じた後も精算されず、残っていたのでしょう。外国から来たユダヤ人の兄弟は、普段からユダヤ生まれユダヤ育ちの兄弟の言動に、自分たちを軽んじ、見下す心を感じていたのでしょう。自分たちの仲間であるやもめが毎日の食事の交わりの際、なおざりにされたと考える兄弟から苦情の声が上がりました。

何が事の発端であったのか。具体的なことは分かりませんが、使徒たちは全員を集めて、教会全体でこの問題に取り組みます。彼らは「自分たちは、専ら祈りとみことばの奉仕に専念する」と語り、教会の使命として礼拝と伝道を重んじることを確認しました。

しかし、だからと言って食事の交わりで起こった問題はどうでもよいとしたわけではありません。「あなた方の中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい」と命じると、七人の兄弟に食事の交わりを整える奉仕を託したのです。彼らの行動は、礼拝、伝道とともに、愛し合う交わりを築くことが、どれ程教会にとって大切であるかを教えてくれます。

あの祝福されたエルサレム教会に問題が起こったのなら、私たちの教会の交わりにおいても、問題が起こる可能性があります。何故なら、イエス様を信じても、私たちは罪人。自己中心と言う罪の性質は私たちの中に今も生き残り、活動しているからです。

エルサレム教会の人々が生まれ育った環境から、無意識のうちに影響を受けていたように、私たちも生まれ育った環境から多大な影響を受けています。両親の影響を強く受けた人は、「男はこうあるべし」「女はこうあるべし」と言う理想像を持ち、それを基準に他の人を見るでしょう。金銭を重んじる家庭で育った人は、富む人を重んじ、貧しい人を軽んじるかもしれません。能力重視の教育を徹底的に受けた人は、自分と同じ様な能力の人を重んじ、そうでない人を軽んじるでしょう。

私たちは、それと意識しないまま、自分が身に着けた基準を正しいとして、周りの人のことを軽く見たり、重んじたりしてはいないでしょうか。ある人を良い人、ある人を問題のある人と判断してはしてはいないでしょうか。イエス様に愛されている大切な人とは見ないで、いつの間にか自分中心の見方に立って判断していると言うことはないでしょうか。

私たちの中にある自己中心の性質は私たちの一部となっていますから、非常に気づきにくいと言う面があります。しかし、その様に普段私たちの内に隠れている自己中心の性質に気づかせてくれるのが、教会で不和、対立が起こった場合です。

エルサレム教会の場合、ギリシャ語を話すクリスチャンたちが、やもめたちがいかにつらい思いを味わっているのかを訴えました。その苦情を聞いた使徒と教会は、自分たちの交わりがいつのまにか伝統的なユダヤの文化や風習を重んじる兄弟姉妹に偏っていたこと、自分たちの言動が、弱い立場に立つやもめたちに心細い思いを抱かせてきたことに気がついたのでしょう。

やもめたちの寂しい思いをよく理解し、良く彼女たちに仕えることのできる人を選んで、愛し合う交わりを築き直そうと努めました。自分たちが深い所でイエス・キリスト中心ではなかったことに気がつき、悔い改めたのです。自分一人では気がつかない罪の部分、自己中心の部分に気がつき、神様のみこころを何かをさぐり求め、行動することができたのです。こうして、エルサレムの教会に愛し合い、仕え合う交わりが回復した結果、何が起こったのでしょうか。

 

使徒67「…こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」

 

教会に加わる人が非常に増えて行った。キリスト教に最も敵対していた祭司たちからも次々に信仰にはいる人がいた。イエス・キリストが命を懸けて愛した人として、どんな人をも愛し、大切にする教会の交わり。その交わりが人々の心を動かし、キリスト教反対論者の頑固な心も砕いた。神様はこの様な教会を祝福されたのです。

最後に交わりについて、二つのことを確認したいと思います。

一つ目は、教会の交わりには喜びと言う恵みがあり、痛みと言う恵みもあることです。最初の頃のエルサレム教会には交わりの喜びがあふれていました。しかし、時期を経て、様々な人々が教会に加わった結果、不和対立と言う交わりの痛みを経験することになります。しかし、彼らはこの痛みを通し、罪を悔い改めました。神様のみこころを求め、それを実行することで、一つのからだとして成長して行ったのです。

私たちも同じ道を行きたいと思います。教会はイエス・キリストによって罪赦された、しかし罪人の集まりです。問題が起こることは避けられません。しかし、その中で自分の自己中心の性質に気がつき、それを改めてゆくのか。それとも、自己中心の性質を改めないままで過ごすのか。キリストをかしらとして生きるのか。それとも、自分の古い生き方を守ったまま生きるのか。どちらを取るかで私たちの交わりは大きく変わります。

残念ながら交わりに問題が起こってしまった時、相手についてうんぬんする前に、自分の考え方や言動を振り返り、自己中心の性質に気がつく者でありたいと思います。たとえ痛みを伴うとしても、へりくだって人を愛すると言うみこころに従う者でありたいと思うのです

二つ目は、教会に愛し合い、仕え合う交わりがある時、その交わりが神を知らない人々の心を動かす伝道になり、宣教になると言うことです。

「レスザンゼロ」と言う小説があります。富、成功、権力を持つ人々の裏側にある霊的な貧しさをありありと描いた本です。舞台はアメリカのロスアンゼルス。主人公はそこに住む大金持ちの子ども、十代の若者たちです。その主人公の一人が叫ぶ場面が忘れられません。「私を愛してくれる人は誰もいないの。僕を心にかけてくれる人は誰もいないの。どうしようもなくなった時、泣き出したくなった時、一緒にいてくれる人は誰もいないの」。これはアメリカだけでなく世界中の、十代の若者だけでなくあらゆる世代の人々の心にある叫びではないかと思います。

子どもの心にも、大人の心にも、老人の心にも、富める人の心にも、貧しい人の心にも、健康な人の心にも病の人の心にもあるこの叫びに応えるのが、あなた方教会ですよ。今日の礼拝で、私たちはこの様に語りかける神様のみ声を聞きたいと思います。イエス・キリストをかしらとする教会の交わり。この一年、私たち皆で愛し合い、仕え合う交わりを築いてゆきたいと思うのです。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

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