2017年4月2日日曜日

マタイの福音書6章14節、15節「山上の説教(31)


今日は一か月振りに礼拝説教を担当することになります。一か月も礼拝説教を担当しないと言うのは、牧師になってから初めての経験ではないかと思います。今朝は少しだけ緊張しています。

ところで、この間青年会のあるメンバーから「山崎先生、山上の説教は後何回位で終わるのですか」と聞かれました。礼拝説教の際、私が基本的に扱ってきた山上の説教、イエス様の説教の中で最も有名な説教も、先回説教全体の真ん中辺にある主の祈りと言う山を越えたばかり。イエス様の語られる一つ一つのことばが、クリスチャンとして私たちの生き方を問うているのを感じながら、読み進めてきました。これからも、その様なことばの連続です。

もし青年会のメンバーが早く終わることを期待しているのなら、大変申し訳ないのですが、まだまだ山上の説教とお付き合いいただかなければならない。そんな気がします。

さて、今日の個所を読まれた皆様は、「おやっ」と思われなかったでしょうか。それは、イエス様が罪の赦しについて教えているからです。罪の赦しについては、主の祈りでも取り上げられていました。イエス様が五番目の祈りとして、「私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人(罪を行った人)を赦しました」と祈るよう、言われた通りです。

それにもかかわらず、主の祈りが終わるや否や、イエス様は再度人を赦すことについて語っています。それも、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」と、格別に強い口調で赦しを命じているのが印象的です。

何故でしょうか。何故、イエス様は人を赦すことについて祈るよう教えたばかりか、その後すぐに人を赦すよう命じたのでしょうか。それは、平和な関係を築くためには赦し合うことが必要と誰もが分かっている。けれども、私たちにとって人を愛することの中で最も難しいのが、人を赦すことだからではないかと思います。

ここで、考えてもらいたいことがあります。皆様にとって、自分が犯してしまった罪を神様や人に対して謝り、赦しを求めることと、人が自分に対してなした罪を赦すこと、どちらが難しいでしょうか。ことばを代えれば、罪の赦しを求める立場に立つことと、罪の赦しを与える立場に立つこと。どちらが難しいことでしょうか。

どちらもそれなりの難しさがあります。自分に非があると認めて謝るためには、へりくだって砕かれた心が必要です。しかし、相手に非があるにもかかわらず、自分の方から相手を赦し、和解するために近づいて行くためには、さらにへりくだった心、砕かれた心が必要とされる。その様な意味で、人を赦すことの方が難しいと言えるかもしれません。

相手の側に非がある場合、私たちは、自分は間違っていない。相手を赦さなくてもよい理由があると思うことができます。「あまりにも自分勝手だから」「きちんと仕事をしないから」「ことばや態度が乱暴だから」等、相手を赦そうとはしない自分の頑固な態度を正当化することができます。相手に非がある分、自分の方が優位にあると考え、とことん相手を追い詰めることさえあるのではないかと思います。

旧約聖書にアブシャロムと言う王子が登場します。アブシャロムは最愛の妹が異母兄弟に乱暴されたことに怒り、兄弟を殺してしまいます。しかし、事はそれで終わりませんでした。アブシャロムは罪を犯した兄弟を叱らず、放任した父親ダビデ王が赦せません。そして、アブシャロムはついに父親を辱め、反乱を起こし、国を二分してしまいます。赦せないと言う固く、重い心を抱えたまま生きることがどんなに苦しいか。どれ程家庭や国を破壊する力をもっているものかを教えてくれる事件です。

 人の罪を赦すと言うと大げさかもしれませんが、何かにつけて対立しやすい人、その言動を責める思いが涌いてくる人、余り近づきたくないと感じる人等との関係も、ここに含めることができると思います。ですから、イエス様は人を赦すことを命じました。

 

6:1415「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」

 

神様に背を向けて生きてきた私たちの中には、自己中心の性質があります。自分の罪の赦しは願っても、人の罪は赦せない。自分の態度にも問題はあるけれど、相手の態度はもっと酷い。だから、相手が最初に謝るべきで、自分から動く理由も責任もない。多くの場合、私たちはこの様な考え方や態度をとりがちではないでしょうか。

そして、この自己中心の性質は、イエス・キリストを信じた私たちの中にも残り、影響を及ぼしています。だからこそ、イエス様は、神の子とされた私たちが神様から受けた罪の赦しの恵みを、他の人にも与えるよう、再度勧められたのです。

昔も今も、私たち人間がいかに神様による罪の赦しの恵みを忘れ易いか。罪に捕らわれた人をあわれむ心がいかに少ないか。欠けているか。そのことを示す、イエス様と弟子ペテロの会話が聖書に記されています。何回人の罪を赦せばよいのか、ペテロがイエス様に尋ねると言う場面です。

 

18:21~35「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 

「何度まで兄弟の罪を赦したらよいか」と尋ねたペテロ。その心には、赦すと言っても当然限度と言うものがあるだろうと言う考えがあったと思います。しかし、イエス様は「七度を七十倍するまで」と答えた。それを聞いて、驚くペテロの顔が目に浮かぶようです。その理由が例え話によって明かされます。

ここで、神様は地上の王に、神様のさばきは王が行う精算に譬えられています。そして、王の判断によれば、しもべが返済すべき負債は1万タラントありました。当時、1タラントは労働者の約15年分の賃金。その1万倍ですから、15万年分の賃金と言う途方もない借金です。

これは、私たちが神様に対して犯した罪は精算不可能、本来なら私たちは神様のさばきによって、滅ぶべき者であることを教えています。しかし、返済できない負債に苦しむしもべを心から可哀想に思った王は、借金を全額免除したと言うのです。

しかし、それほどの恵みを受けたにもかかわらず、同じ仲間に対するしもべの振る舞いは、あわれみに欠けたものでした。このしもべは百デナリと言う1万タラントに比べればチリにも等しい借金に苦しむ人を赦さず、容赦なく牢に閉じ込めたのです。

しもべは主人から受けた恵みを全く忘れているように見えます。借金全額免除を本来自分が受け取るに値しないもの、恵みではなく、当然の権利と思い込んでいるかのようです。

このしもべの行動は、決して他人事とは言えません。神様がどれ程大きな罪の赦しの恵みを与えて下さったか。イエス・キリストが、私たちの罪を赦すため、いかに十字架の上で苦しみ悩まれたか。天の父なる神様の恵みを思わず、イエス様による愛の労苦を忘れるなら、私たちもまたしもべと同じあわれみのない行動を取ることになる。その様な注意、警告として、この例え話を受けとめたいと思います。

同時に、神様が罪の赦しの恵みをくださり、イエス様が十字架で苦しまれたのは、私たちを神の子として生かすため、人を赦すことのできる者へと造り変えてくださるためであることを覚えたいのです。

 

6:1415「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」

 

それにしても、気になることがあります。これを読むと、人の罪を赦すことが天の父から赦されるための条件であるかのように感じます。人を赦すことができないと、私たちも赦されないと教えられているかのように思えるのです。

しかし、ここで「あなたがたの天の父」が二度繰り返されているように、イエス様が語っているのは、イエス様を救い主と信じて神の子とされた者たちです。すべての罪赦され、神様との平和な関係の中にある私たち、どんな時も天の父と子どもと言う安全な関係の中に守られている私たちに対する命令なのです。

例えて言うなら、あるお父さんに二人の子ども兄と弟がいたとします。二人が兄弟喧嘩をしたので、お父さんが喧嘩の原因を作ったお兄さんを呼んで、自分の考えを伝え、弟に謝るように諭したとします。諭された子どもがそれでも謝らなかったら、お父さんはその子の行動を赦すことはありません。また、もしお兄さんが心から謝ったのに、弟の方がそれを受け入れなかったら、お父さんはその弟の行動を赦さないと言うでしょう。

しかし、お父さんが赦さないのはあくまでも喧嘩の際、子どもたちがとった行動です。この様なことで、お父さんが二人と親子の関係を切るとか、子どもたちを愛さなくなるわけではありません。むしろ、お父さんは子どもたちを愛しているので、子どもたちが正しい行動を選んで、愛において成長してほしいと願うからこそ叱るのです。

私たちも、神様に愛されている子どもとして、自分の歩みを良く点検する必要があります。赦していない人はいないか。苦々しい思いを抱いている人はいないか。口をききたくない、顔を合わせたくないと感じる人はいないか。その人の行動を心で責め続けているような人はいないだろうか。

もし、家族の中に、兄弟姉妹の中に、職場や地域にそのような人がいることに気がついたら、赦しに取り組みたいと思うのです。神様から与えられた罪の赦しの恵みを味わい、イエス様の愛に心動かされ、その人の幸いを祈ることから始めてゆけたらと思います。

最後に、確認しておきたいことがあります。人を赦すことは、平らな道を行くことではありません。和解の喜びもあれば、溝が深まる悲しみもあることでしょう。その人を赦したはずなのに、その人が自分にしたこと、言ったことを思い起こして赦せない気持ちになる。そんな自分に落胆することもあります。仲直りしたいと思って近づいても、相手に受け入れてもらえず心痛むこともあるでしょう。

ですから、決して一人でがんばらない方が良いと思います。どんな時も私たちを罪あるまま受け入れ、愛してくださる神様とともに取り組むこと、信仰の仲間と相談したり、祈り合ったりして進めてゆくことをお勧めします。

「私は聖書のほんの一部しか、それもほんのうわっつらしか分かっていなかったが、キリストの「わたしのところへ来なさい」と言うことばについていきたいと思った。私の今の苦しみは洗礼を受けたからと言って少なくなるものではないと思うけれど、人を羨んだり、憎んだり、赦せなかったり、そう言う醜い自分を忍耐強く赦してくれる神の前にひざまづきたい。赦されても赦されても、聖書のいう罪を犯し続けるかもしれない。でも、「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からないのです」と十字架の上から言った清らかな人に従って、生きてみようと思った。」星野富弘さんが洗礼を受けた時の思いを書いた文章です。赦されても赦されても罪を犯し続ける私たち。神様の恵みに守られながら、人を赦すことに取り組み続けたいと思うのです。

 

エペソ4:3132「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

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