2017年11月26日日曜日

詩篇51篇10篇~19篇「私にきよい心を造り」


今朝の礼拝では、詩篇51篇を取り上げます。前回11月の第一聖日の礼拝では、この詩篇の前半を取り上げました。今回は後半の10節から最後の19節まで、読み進めてゆきたいと思います。

この第51篇は、悔い改めの詩篇として最も有名なもの。それも、イスラエルを統一した偉大な王、敬虔な信仰者ダビデが、部下の妻を奪って姦淫を犯し、その部下を戦場に送って戦死せしめ、挙句の果てに知らんぷりを決め込むという自身の体験を背景としていますから、その告白の一つ一つに、私たちも息を呑み、思いをひそめることになります。

姦淫、殺人、偽証という三つの大罪に落ちたダビデが、神様に向かって何を語り、何を願ったのか。神様はダビデにどう答えたのか。先回は罪とは何か、悔い改めとは何か、神による罪の赦しとは何かを考えてきました。それに対して後半は、罪赦されたダビデが、神に何を願ったのか。神に対し、隣人に対し、どう応答し、どう生きようとしたのか。罪赦された者の生き方に焦点が当てられています。

ダビデは、罪を赦してもらったことで一安心。神に祈り求めることをやめたわけではありませんでした。罪の深みから引き揚げられたダビデが求めたもの。それは、一体何だったのでしょうか。これ以上さばきを下さないようにという願いでしょうか。それとも、名誉回復の願いだったでしょうか。

罪によって、ダビデは子どもを失いました。王としての名誉も失いました。そうだとすれば、これ以上の苦しみは味わいたくないと願うこと、王としての名誉回復がはたされることを願ったとしても、おかしくはない気がします。しかし、そうではありませんでした。ダビデが祈り願ったのは、自分の内にきよい心が造られることであり、神を真実に礼拝することだったのです。この二つに集中していました。

 

51:10、11「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」

 

 ダビデは、今回の経験を通して、自分の内にきよい心がないことを嫌というほど感じてきたのでしょう。ふとした事から姦淫を犯し、それを隠すために忠実な部下を戦場に送りました。何事もなかったように、信仰深い王としてふるまっていました。敬虔で評判のダビデが、一皮むけば、姦夫であり、殺人者であり、偽善者だったという恐ろしさです。

 罪に揺さぶられ続けた、脆くて、醜くて、卑しい心が、少しばかりの修正では、どうにもならないと悟ったのでしょう。ダビデは、きよい心に修正してくださいではなく、きよい心を創造して欲しいと神にお願いしています。自分には頼めない、人にも頼めない。ただ神に頼るほか道はない。そう思い定めた者の祈りでした。

 そんな時、ダビデが思い出していたのは義父サウルのことだったのかもしれません。人々の期待を受け、順調に王として歩み始めたサウルが、いつしか高慢となった。妬みの化け物となり、ダビデを追い回す殺人鬼に落ちてしまった。聖霊がその人から取り去られたら、どうなるのか。その変わり果てた姿をサウルに見ていたダビデだからこそ、「私から聖霊を取り去らないでください」と実感を込めて願ったのでしょう。

聖霊が去った人は、罪を行えば行うほど、罪の力に縛られて行く。罪に鈍感になる。しかし、聖霊がおられるなら、たとえ罪を犯しても、その罪を悔い改め、「きよい心を造ってください」と神に信頼することができる。この時ほど、聖霊の神をダビデが意識したこと、感謝したこと、求めたことはなかったかもしれません。そして、神にきよい心を創造されたダビデの態度や行動が、変化してゆきます。

51:12,13「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」

 

罪を悔い改めなることがなかった時、ダビデが一体どのような思いで、神を礼拝し、王として人々に仕えていたのか。その一端を知る手掛かりがここにあります。ここで、ダビデは「救いの喜びを返してください。喜んで仕える霊を与えてください」と祈っています。救いの喜び、神と人に仕える喜びを、ダビデは失っていたのだと思います。

礼拝することも、王としての働きも、重荷でしかなかったでしょう。何の喜びもなく、形式的な礼拝をささげ、義務的に仕事をこなす日々が続いていたのではないでしょうか。

もちろん、礼拝することや奉仕をすることに喜びがない原因が、常に悔い改めない罪にあるというわけではありません。体調がすぐれなかったり、精神的なストレスを抱えている場合もあるでしょう。しかし、私たちが悔い改めないままにしている罪が、救いの喜びを消し、本来喜びであるべき礼拝や奉仕を、重荷に変えてしまう。ダビデは、それを身をもって経験したのです。

この時、罪と真剣に取り組み、罪の赦しの恵みを存分に味わったダビデは、徐々に救いの喜び、神と人に仕える喜びを回復したようです。そして、その喜びは、神の恵みを教える伝道という形をとって、現れました。「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」と。

しかし、このダビデのことばに、「ちょっと待てよ」と違和感を感じる人もおられるでしょう。あれだけの大罪を犯しておきながら、他の人を教えましょうとは、少々傲慢ではないか。罪人の説教など、だれが耳を傾けるのか。そんな声も聞こえてきそうです。

けれども、一体説教とは何でしょうか。人一倍品行方正な人が、誰からも指一本指される心配のない人物が、正しいルールを垂れることだったのでしょうか。他の宗教はいざ知らず、キリスト教はそういう宗教ではなかったし、そうあってはならないと思います。

人一倍己の罪を自覚する者が、自分をたたき台として、神の恵みを証しする。それが、聖書の示すひとつの伝道なのです。例えば、パウロはこう語っていました。

 

Ⅰテモテ1:13~15「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

パウロは、キリスト教迫害の鬼であった自分をまな板の上にのせて、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値する」と力を込めて説いています。旧約に、「私は咎ある者として生まれた」と告白するダビデがいれば、新約には自らを「罪人のかしら」と告白してはばからないパウロがいる。二人とも、普通なら隠しておきたいような、恥ずかしい前歴を公にして、神の恵みの計り知れない深さを証ししました。どれだけ多くの人が、二人の証しによって救われたことでしょう。

 日本にも明治の時代、発作的に人を殺してしまい、23年間の獄中生活を送るも、その獄中でキリストを信じて回心し、模範囚となって明治天皇の恩赦を受けた好地由太郎が、伝道者となりました。その好地由太郎から洗礼を受けたいと、ノリタケの創設者森村男爵が願い出たというお話は有名です。

私たちも獄中生活の経験はありませんが、かっては罪という牢獄に閉じ込められ、逃れることのできなかった罪人です。その牢獄から、ただ神の恵みによって解放された私たちに、ダビデやパウロ、好地由太郎のような救いの喜びはあるでしょうか。

自ら救いの喜びを味わった者が、他の人にもこの喜びをお伝えする。喜びが喜びを生む、喜びの連鎖。旧約から新約へ。新約から現代へ。私たちもこんな喜びの輪に加えられた一人であること、改めて覚えさせられるところです。さて、ここで最も有名な17節を含む段落に入ります。

 

51:14~17「神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

 

血の罪というのは、直接ダビデが手を下したわけではないにせよ、忠実な部下を戦いの最前線に送り死に至らしめた、間接的な殺人を指すと思われます。もう一度、自分が救い出された罪の深みを振り返り、「よくぞあんな深くて暗い穴から私を助けてくれました」と神に向かって感謝をささげる。そんなダビデの姿が目に浮かびます。

重病人の病が癒え、人々の前で健康回復を祝うように、ここでダビデは、罪という重病を癒され、きよい心を回復、高らかに歌うことを望んでいるのです。それも自らの回復を祝い、歌うというよりも、罪を赦し給う神の義を歌いたい。もし私の口を開いてくださるなら、神の誉れを歌いたいと言うのです。

褒められるべきは回復した私ではなく、回復の恵みを与えてくださった神。私が喜び歌いたいのは、私のことではなく、神よ、あなたのことです。そんなダビデの声に、私たちも心合わせたくなります。けれども、本来人間は神ではなく、自分を賛美したがる存在でした。

 

ルカ18:9~11「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」

 

このパリサイ人のように、人は多かれ少なかれ、他人を比べて自分を誇り、自分のしたことを賛美したい性質を持っています。しかし、自分の罪に慄き神の恵みを知ったダビデは、この様な態度こそ神が嫌い、退けるものであることを弁えるようになりました。そして、心低くされたダビデは、神が最も喜ばれるささげものとは何かを見出したのです。

51:16、17「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」

 

この言葉を説明するには、先程のイエス様の例え話に登場する収税人の姿を見れば十分でしょう。

 

ルカ18:13,14「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 

自分の無価値を思い、ただ胸を叩き、神の憐れみを願う収税人のささげたものこそ、砕かれた霊、悔いた心でした。ダビデが、「神よ、それをあなたはさげすまれません。」と言ったように、イエス様も、この収税人が神に義と認められた。神に喜ばれ、神に受け入れられたと教えています。イエス様の目から見れば、ダビデや収税人こそ、真の礼拝者なのです。

こうして、一段落すると、最後はダビデの目が広く国民に開いて、その礼拝となって結ばれます。

 

51:18,19「どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。」

 

シオン、エルサレムは、神の民イスラエルのことを指しています。「シオンにいつくしみを施してください」「エルサレムの城壁を築いてください」と言い、国民への神の恵みと守りを願っているのは、ダビデの心に王としての自覚が働いたからでしょう。自分の罪のために国が揺らぎ、国民までもが崩れてしまうことがないように。どうぞ、私だけでなく、この民全体に救いの恵みを示してください。そのような願いを、ダビデは抱くに至りました。私たちも、自分のためだけでなく、教会のために、日本の国民のために、神の恵み、神の憐れみを祈る者であれと教えられます。

最後に二つのことを確認したいと思います。一つ目。皆様には自らが味わい経験した救いの恵み、救いの喜びを、人々に伝える思いあるでしょうか。

来週から待降節が始まります。「キリストは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばはまことであり、そのまま受け入れるに値する」と力を込めたパウロのことばを思い巡らし、自らの救いを喜ぶ者、救いの喜びを伝える喜びを味わう者となりたいと思うのです。

二つ目。日々の礼拝、聖日の礼拝において、神が最も喜ぶ捧げものとは何かを考えて、礼拝を重ねてゆきたいと思います。神の前で、自らの心がどのような状態にあるのかを意識しながら、礼拝する者でありたいのです。神が絶対にさげすむことのない心、むしろ、尊び、喜び、受け入れてくださる心を、ささげる者でありたいと思うのです。今日の聖句です。

 

51:17「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」

2017年11月19日日曜日

ウェルカム礼拝 ヨハネの福音書15章12節~14節 「友を通して受ける恵み」


 よく言われる言葉に「人は一人では生きられない」というものがあります。仮に完全に一人で生きるとなると、衣食住の確保だけでも大変なこと。水を汲み、食料を探し、安全な寝床を確保することが出来るのか。出来たとして、どれだけ生き延びることが出来るのか。また仮に、衣食住が整備された環境の中で生きるとしても、一人だけで毎日を過ごすとしたら。他の人と交流のない状況だとしたら、どこまで耐えることが出来るのか。肉体的にも、精神的にも、人が一人で生きることは極めて困難です。

 このように考えますと、今私たちが生きていられるのは、これまで「共に生きる」人がいたから。意識していようが、いなかろうが、共に生きる人がいたからここまで生きることが出来たと言えます。

 

今年度、「共に生きる恵み」というテーマでウェルカム礼拝を行っています。一人で生きているわけではない、多くの人に囲まれながら生きている私たち。

共に生きる人を通して、どのような恵みを受けているのか。その中でも、今日は主に「友」がテーマです。共に生きるとはどのようなことか、「友」を通して、私たちはどのような恵みを受けているのか、皆様とともに考えたいと思います。

 

人は一人では生きられないということは、私たちは感覚的に、あるいは経験的にその通りだと思いますが、このテーマで、聖書はどのように教えているでしょうか。

聖書も、人は一人では生きられない、それどころか、そもそも、人間は他の人と共に生きる存在として造られたと教えています。私たちはもともと、他の人と共に生きるように造られた者。神様が世界を造り、人間を造られた時。神様は、最初の人アダムに対して次のように言われました。

 創世記2章18節

神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』

                  

 神様は、人間を造られた時、一人でいるのは良くない、と言われました。「良くない」とはどういう意味なのか。

通常、「良い」というのは、目的に沿っていること、目的を果たすのに適切であるということを意味します。良い鉛筆というのは、書くのに適しているというもの。良いバットというのは、ボールを打つのに適しているというもの。仮に、どれ程良い鉛筆でも、ボールを打つという目的には沿わない。鉛筆として良いものでも、良いバットではないのです。

人が一人でいるのは良くない。それはつまり、一人だけでは、人間が造られた目的に沿わないということです。

それでは、私たち人間は何のために造られたのか。神様は、一人でいたアダムに対して、もう一人の人間を造り、互いに助け合う関係を築くように言われました。助け合う、仕え合う、愛し合う。そのように生きることが、目的に沿った生き方、人間にとって良いのです。

 

 一般的に言われる、「人が一人では生きられない」という言葉。それは主に、一人だけで、肉体的、精神的に生き続けることが困難という意味だと思います。それに対して、聖書が言う「人が一人では生きられな」というのは、そもそも私たちは共に生きる者として存在しているということ。他の者を無視して生きるというのは、本来の生き方ではないという意味です。そして共に生きるというのも、ただ共にいるだけではなく、助け合う、仕え合う、愛し合う関係を築くことを意味します。

 

 聖書によりますと、人間が造られた当初、人間はその目的に沿って生きることが出来ました。そのままであれば、友人関係は最高のもの。誰とでも、助け合い、仕え合い、愛し合う関係を築くことが出来る。誰とでも、最高の友だちとなれる。神様が人間に願っておられたことは、全ての人間が互いに助け合い、仕え合い、愛し合うこと。全ての人が、互いに良い友となること。

 

ところが、人間は神を無視して生きること。神を愛さないことを選択します。最初に造られた人間、アダムとエバが、神を無視して生きることを選択した結果、その二人から生まれた全ての人間が神を無視して生きることになります。つまり、私たちは生まれながらにして、神を無視して生きる者だと言うのです。このことを、聖書は次のように表現しています。

 

 ローマ3章10節~12節

・・・『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。』

 

 ここで言われている、「義人はいない」とか「すべての人が迷い出た」というのは、皆が皆、神様を無視する存在であること。その結果、本来の生き方が出来なくなったことを意味します。

 もともと、助け合い、仕え合い、愛し合うために造られた私たち。誰とでも、とても良い友人となれたはずの私たち。しかし、神を無視する存在となったことによって、そのような生き方が出来なくなった。それが、今の私たちだと聖書は教えています。

いかがでしょうか。このような聖書の教えを、皆様はどのように受けとめるでしょうか。

 

 実際に、私たちの築き上げる友人関係はどのようなものでしょうか。皆様は、「友」、「友人関係」は好きでしょうか。

友達と時間を使うことが、とても好きという方。空いている時間があれば、出来るだけ友達との時間に充てたいと思う方。いらっしゃると思います。一緒にいて楽しいと思える友人がいること、新たな人と苦労なく友人関係を築けるとしたら、それは大きな恵みと言えます。

 しかし、友人関係が苦手という方もいらっしゃるのではないかと思います。一人でいる方が良い。他の人にどのように思われるのか、とても気になる。これまで友人関係でひどく傷ついたことがある。あるいは、友人を傷つけてしまい、同じことをしてしまうのではないかと恐れがある。人生が長くなればなるほど、友から受ける喜び、友から受ける難しさその両方味わうのが一般的だと思います。友人関係が楽しいと感じる時もあれば、苦しく感じる時もある。

 あるいは、そもそも自分には友と言えるような人はいないと感じている方もいるでしょうか。

 

古今東西、友や友情をテーマにした小説、映画は数知れず、友に関する熟語、諺、格言も多くあります。これまで多くの人が友、友情について語りましたが、友の素晴らしさ、友情の美しさを表現したものもあれば、友や友情の脆さ、儚さ、あるいは友による裏切りをテーマにしたものもあります。

 聖書に記された格言の中にも、友人関係において、良い関係、悪い関係、どちらもあることを教える言葉があります。

 箴言18章24節

滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟より親密な者もいる。

 

残念ながら、友から受けるものは、必ずしも良いものだけではないのです。場合によっては、友からひどい害を受けることもあるのです。

 

 「これまで、どのような友達がいましたか?」と聞かれたら、皆様は具体的に誰が思い浮かぶでしょうか。

私自身思い返してみますと、人生のそれぞれの時期に特に仲が良かった友だちを思い出しました。ここで具体的に名前を挙げても、意味はないのですが、一応思い出した友達の名前を挙げると、幼稚園の時は「ひろあき君」、小学生の時は「かっつん」と「にの」。中学生の時は「やま」。高校生の時は、「むぎ」と「きむ」。大学生の時は「のり」。

それぞれに、楽しかった思い出、良い思い出があるのですが、今考えると、なぜあんな酷いことをしたのか、酷いことを言ったのか。喧嘩別れしたわけではなく、良い関係だったはずですが、今振り返ると、自分が友達にした悪いことも思い返されて、今更ながらに謝りたい気持ちになります。

 いかがでしょうか。これまでの友人関係を振り返って、自分の未熟さに頭を抱えるようなことはあるでしょうか。

 

 このように、もともとは全ての人と互いに助け合い、仕え合い、愛し合うこと。全ての人と、互いに良い友となることが出来る者として造られた人間が、実際にはそうではない。憎しみ合い、搾取し合い、支配し合う関係になる。精一杯良い関係を築いても、ほころびがある状態となっている。

 それでは、どうしたら良いのか。私たちはどのようにしたら、本来の生き方が出来るのか。聖書によると、このような私たちのために、神様は救い主を送られました。それが約二千年前に生まれた、イエス・キリスト。イエスという救い主です。

イエス・キリストが私たちにもらす「救い」とは何か。それは、私たちが神様を無視した結果、失ったものを再び手に入れること。本来のあるべき状態への回復。本当の意味で、支え合い、仕え合い、愛し合うことが出来るように変えられていくこと。本当の意味で、友人関係を築きあげることが出来るようになること。

 

世界の造り主を無視した結果、悲惨な状況にある私たち。その私たちを助け出す救い主が送られてきた。イエス・キリストを私の救い主として信じることで、私たちはあるべき状態へと回復してゆく。この話は、キリスト教の中心中の中心のメッセージ。聖書の中心中の中心のメッセージです。これをまとめて、聖書は次のように表現していました。

 

 ヨハネ3章16節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

 この聖書の言葉に、「御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりも滅びることなく」とあります。「信じる者が、滅びることなく」。これを逆に言えば、「信じない者は滅びていく」という意味です。神を無視して、多くを失った状態。これを聖書は滅びだと言います。自力で回復することが出来なく、救い主が必要である。滅びの中にある者が、それにもかかわらず、救い主を信じないとするならば、ますます滅びの中を突き進んでいく。

 片や救い主を信じる者に与えられるもの。もともと造られた目的に従って生きることが出来るようになること。支え合い、仕え合い、愛し合う関係を築き上げることが出来るようになること。本当の友人関係を築くことが出来るようになること。これらを聖書は「永遠のいのち」と表現していました。この「永遠のいのち」は、救い主を信じる全ての者にもたらされるのです。

 

 これと同じことを、「友」という表現を用いて、主イエスが語られた場面があります。

 ヨハネ15章12節~14節

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 

 イエス様を信じる者は、イエス様の友となる。イエス様の友であるしるしは、友同士で互いに愛し合うこと。それも、イエス様が私たちを愛したように、互いに愛し合うこと。それはつまり、もともと造られた目的に沿って、互いに愛し合うということ。

 正しい友人関係を築くことが出来ない私たちと、まず友になって下さり、命を捨てるほどに愛を注ぎ、互いに愛し合うように教える救い主。このイエスを、自分の救い主と信じることを心からお勧めいたします。

 

 以上のことを踏まえまして、最後に、友を通して受ける恵みについて、確認したいと思います。

 聖書が教える神様は、世界を造り、支配されているお方。私たちが、この時代、この地域に生きているというのは、この神様の計画によると教えられています。

私たちはたまたま、この時代、この地域で生きるように生まれたのではない。神様がそのように決められた。そうだとすれば、これまで私たちに与えられた友は、全て神様からの恵みと言えます。私たちが神様を無視した結果、正しい関係を築くことが出来なかったとしても、それでも、友がいるということ。その友を通して受ける、喜び、楽しみ、励ましは、神様が私たちに与えて下さる恵みでした。

 

 また、イエスという救い主であり、私たちの友となるお方が送られていること。友を通して受ける恵みと言って、この友である救い主から頂く恵み程、重要なものはないでしょう。造られた目的に従って生きることが出来るようになること。支え合い、仕え合い、愛し合う関係を築き上げることが出来るようになること。本当の友人関係を築くことが出来るようになること。「永遠のいのち」と呼ばれる恵みを、私たちはイエスという救い主の友から頂くのです。

 

 さらに、この「永遠のいのち」を頂いた者同士、互いに愛し合う関係を築き上げていく。造られた目的に従って生きることが出来るようになった者同士で、新たに友となっていく恵みがあります。この信仰の友を通して頂く恵みは、格別なもの。ともに祈り、ともに礼拝をささげ、ともに奉仕をし、ともに教会を建て上げていく。励まし合い、支え合い、時には罪を指摘し注意し合う。苦しみ、悲しみも、感動、喜びも分かち合える交わり。しかも、それが天国でも続く、永遠の友人関係であるという恵みでした。

 

 私たち一同で、今一度、自分に与えられた友を通して、どれ程大きな恵みが与えられているのか、再確認したいと思います。また、イエスを救い主と信じていない方は、自分の救い主と信じることが出来ますように。主イエスを友として、信仰の友との新しい関係が広がりますように。すでにイエスを救い主と信じてる方は、自分に与えられている恵みの大きさがどれ程なのか、再確認することが出来ますように。永遠の命を存分に味わう関係を築き上げることが出来るように願いつつ、礼拝を続けていきたいと思います。

2017年11月12日日曜日

成長感謝礼拝 ルカの福音書12章13節~21節「神様の恵み正しく使っていますか?」


今日は、成長感謝礼拝。私たちの命について考える礼拝です。命について考えると言う時、三つの視点があるかと思います。命の起源、命の価値、命の目的です。私たちの命は、どこから来たのか。私たちの命に価値はあるのか。私たちの命の意味、目的は何か。日々目の前の用事をこなすのに精一杯。なかなか、命について考える時間がない私たちにとって、成長感謝礼拝は非常に大切な機会です。

 

イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 

これは、世界を創造した神が、私たち一人一人に対して語りかけられたことばです。私たちの命は偶然の産物ではなく、神が創造したものであること。神から見たら、若くても年老いても、健康であっても、病を持っていても、何ができてもできなくても、私たちの存在そのものが、途轍もなく大切であり、かけがえがないものであることを教えています。この言葉によって、命の起源、命の価値について、私たちは確認できますし、生涯確認し続けるべきでしょう。

これらを確かめた上で、今日お話ししたいのは、私たちに与えられた命の意味、目的です。今日取り上げたのは、新約聖書ルカの福音書の12章。大勢の人々を相手に説教をしていたイエス様が、一人の男から、遺産相続という思わぬ問題で相談を受けることになりました。それに対して、イエス様が、譬えをもって、人の命の意味、目的を説くという場面です。

 

12:13「群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。」

 

この時、イエス様は、群衆に弟子たちに、偽善に気をつけよ、人ではなく神を恐れよと語る説教の真っ最中。それが、まだまだ続くと思われました。そんな中、もう待っていられないとばかり、群衆の一人が手をあげ、声をあげたのです。「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と。

 突如、割って入った男の声。それも、遺産相続を巡って争う兄弟を説得してほしいという相談事です。もしかすると、イエス様は苦笑い。こんな依頼は、初めで終わりだったかもしれません。「遺産のことで、兄弟にかけあってください。」場所柄もわきまえず、イエス様の話の腰を折って依頼をしたほどですから、この人もよほど困っていたのでしょう。

 朝に晩に、遺産争いで明け暮れて、心身ともに疲れ果てた。そんな男の顔が目に浮かびます。親が残してくれた財産を、幾らかでも分け前を有利に、と算盤はじいていたのでしょう。その気持ちはわかります。しかし、家庭裁判所の調停官でもないイエス様にまで訴えるとは、いかにこの人が財産に執着していたことか。

その様子を見て取ったのでしょう。イエス様の答えは、さすがに宗教的なものでした。

 

 1214,15「すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 

昔の文語訳には、「人のいのちは所有(もちもの)の豊かさに因らぬなり。」とあります。親譲りの財産争いに心を狂わせる。寝ても覚めても、財産のことが頭から離れない。挙句の果てに、場所柄もわきまえず、叫び出したこの人は、まさにイエス様に頭をはたかれ、目を覚まさなければならない状態にあったと思えます。

 遺産争いで、金の亡者になる。心は金のことで、四六時中占領されている。このような人こそ、「人のいのちは財産にあるのではない。」と、釘をさされる必要があったでしょう。

 この男の霊的な命は、危険に瀕している。このままでは、金銭に心を支配された悲惨な人生が待つばかり。ここに有名な『愚かな金持ち』の譬話が語り出されたのです。

 

12:1621「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』  しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

思い出されるのは、ロシアの作家トルストイの『人にはどれだけの土地が必要か』とう作品です。主人公のパホームは、悪魔から「太陽が沈むまでの間に、お前が走り回った土地を、全部あげよう。」と、誘われます。

パホームは、「一坪でも、半坪でも広い土地を」と、全速力で駆けまわる。日は高い。まだまだ走れる。日が暮れ始めた。急いで走らなければ。もう一まわり、もう少しと駆け回る。日没寸前まで駆けまわって、日没と共に出発点に飛び込んだ。「間に合った。これですべてが俺の土地だ」と安心した途端、パッタリと倒れ、こと切れてしまった。結局、遺体が埋められた一片の土地だけが彼のものになったというお話です。

題して「人にはどれだけの土地が必要か」。結局、人間に必要なのは、自分の身の丈程の土地ではなかったか。トルストイは、土地を獲得することに心を狂わせる人間の悲惨さを描いていました。

さて、イエス様の譬話の主人公は、大収穫を得ました。篤農家です。人一倍働いて、荒れ地を開き、畑を作る。畑の手入れも、水利も万全。祈るより働けとばかり、朝早くから夜遅くまで働いたお陰で大豊作。嬉しい悲鳴を挙げています。

「どうしようか。作物をしまう場所がない。そうだ。あの古い倉庫は取り壊して、もっと大きい倉庫を建てるのだ。わが作物、わが財産を、そこに、たんまりと貯えるのだ。」 

そうして、男はほくそ笑むのです。「わがたましいよ。これからさき何年分もいっぱい物がたくわえられた。さあ、安心して、食べて、飲んで楽しめ。」大満足でした。

 ところが、この勤勉な農夫が、「愚かな者め。」と、呼ばれてしまうのです。一つのことを忘れていたのです。それも、人生で最も大切な一つのことをです。

 

12:20,21「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

死に際して、自らの愚かさに気がついたのは、アレキサンダー大王でした。マケドニヤから登場し、ギリシャ、シリヤ、エジプトを征服。さらには、インドにまで攻め入って、歴史上最大の世界帝国を建設しました。しかし、33歳の若さで死を迎えたアレキサンダーは、「私の死体は、手のひらを開いて埋めよ」と言ったと、伝えられます。

 「世界を手に入れたと思ったのは愚かなり。今、死に臨んで、私は一片の土地も持って行く事ができない。そうであるなら、私の手のひらをあけて、アレキサンダーは何も手にすることなく人生を終えたことを示し、後に続く人への戒めとせよ。」そう言い残したというのです。

 21節には「神の前に富まない者」とあります。確かに、この主人公は、神を覚えず、「俺が」「俺が」の人だったようです。その声に、「神」という言葉は一度も出てきません。収穫を携えて、神に感謝の礼拝をささげる気配もありません。収穫や財産を、どう隣人ために役立てようか、そんな思案をした様子もないのです。

 この17,18節を原文通りに訳しますと、「私はどうしよう。私の作物をたくわえおく場所が私にはない。」「私はこうしよう。私の倉をこわして、私はもっと大きいのを建て、私の穀物や財産をみなそこにしまっておこう。そして、私のたましいにこう言おう。…」「私は」「私の」の連発です。この人の人生は、自分のこと、自分の財産のことで、一色でした。

  あのミレーの晩鐘の画にあるように、遠く聞こえる教会の夕べの鐘の音に、神のあわれみにぬかずき、夫婦して、神に感謝をささげる。そんな生き方を欠いていたのです。人の命は、神の恵みによって支えられ、守られている。この大切な一点を忘れていました。

 光と熱を与える太陽も、作物を生む豊かな土地も、撒く種も、土地を潤す雨も、そして、何よりも、この健康な体も、神の恵みとする信仰を欠いていた。自分のこと、自分の財産のことで終始して、神のことにも、隣人のことにも心を向けることのない人生だったのです。そんなことだから、その人生観の何と貧弱なことか。

 

12:19「そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安して、食べて、飲んで、楽しめ。」

 

朝早くから夜遅くまで、懸命に働いてきた、この人の最高の喜びは、口と腹を満たすこと。夜を日についで、働きに働く人生の目的は、ただただ食って飲むことに尽きたと言う貧しさです。

こうして、この短い例え話を読み終えると、私たちに問いかけるイエス様の声が聞こえてくるように思われます。

「あなたは、神から与えれた尊い命、様々な恵みを何のために使ってきましたか。」

「今夜、召されたとしたら、神のみ前に携えてゆけるものがありますか。」

「神に対して、富と言えるものを、どれだけ持っていますか。」

 

森永の創業者森永太一郎は、大正の時代、日本のキャラメル王、東洋の菓子王と呼ばれました。アメリカで初めてキャラメルを口にした太一郎は、その瞬間、菓子職人になることを決意。アメリカで苦しく厳しい修業を重ねた後帰国して、東京で小さな菓子工場を始めます。「キリスト・イエス 罪人を救わんために世に来たりたまえり。」「義は国を高くし、罪は民を辱める。」工場には、聖書の言葉を記した看板を掲げてのスタートです。

太一郎はアメリカの日本人教会で洗礼を受け、熱心なクリスチャンになっていました。チョコレート、マシュマロ、キャラメルなど、森永にしか作れないお菓子を箱車に乗せて、東京の街を売り歩いたのです。「耶蘇の菓子屋」と陰口をたたかれながら、次々にヒット商品を生み出し、工場は発展してゆきます。

ところが、事業の繁栄とともに、太一郎の足は教会から遠のき、30年もの間神から離れ、事業拡張に身も心も費やしてしまうのです。後にこの時のことを振り返って、語っています。「私は名利の奴隷となり、金銭や物質の崇拝者となっていた。百万長者を夢見て野心満々たる時は、神に感謝の念を抱くことも、皆無だった。事業の成功も、己の努力と能力の賜物と思い上がっていたのだ。」

ところが、二度妻を亡くすという悲しみの中で、彼はようやく、いかに神の前に貧しい歩みをしてきたかに気がつきました。事業の成功も、神から受けた特別な恵みであることを思い、思い上がった自分の生き方を悔い改めたのです。

涙ながらに祈る太一郎の心に、「主よ、みもとに近づかん」と言う讃美歌が湧いてきました。それは、長い間いつも心の底に響いていた「わたしのもとに帰れ」という神の声への応答だったのです。

「ただ神にのみ忠実なしもべとして、神の恵みを証しするために生きる。」日本のキャラメル王、東洋の菓子王が、神のしもべとなる。創業当時、聖書のことばとエンゼルマークをシンボルとして掲げたその原点に立ち返った森永太一郎は、あらゆる人にキリストの福音を伝えるべく巡り歩きました。

また、関東大震災の際には、工場が被災を免れたことを神に感謝するとともに、自ら社員とともに日比谷公園などに出てゆきました。被災者のためにビスケットやキャラメルを配る。コンデンスミルクを水に溶かして飲ませる。私財を寄付して、その分政府の米を被災者のために出すよう大臣と交渉するなど、寄る辺なき人々のために力を尽くしたのです。

神の栄光を表わすために、自らの命を使う。苦しむ隣人を助けるために、自分に与えられた恵みを惜しまずささげる。イエス様が言われた、神の前に富む者とは、こういう人のことと、私たち教えられたいのです。

 私たちには、森永太一郎ほどの財産も能力もないかもしれません。しかし、私たちひとりひとりに、神に与えられた命があります。神に与えられた恵みがあります。それを、神の栄光のため、隣人のため、社会のために使うことはできるのです。

 今日の礼拝で、もう一度神が与えてくれた命の意味を考えること、神の前に富む者として生きることに取り組んでゆきたいと思います。今日の聖句です。

 

 ルカ1231「何はともあれ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられます。」