2017年11月12日日曜日

成長感謝礼拝 ルカの福音書12章13節~21節「神様の恵み正しく使っていますか?」


今日は、成長感謝礼拝。私たちの命について考える礼拝です。命について考えると言う時、三つの視点があるかと思います。命の起源、命の価値、命の目的です。私たちの命は、どこから来たのか。私たちの命に価値はあるのか。私たちの命の意味、目的は何か。日々目の前の用事をこなすのに精一杯。なかなか、命について考える時間がない私たちにとって、成長感謝礼拝は非常に大切な機会です。

 

イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 

これは、世界を創造した神が、私たち一人一人に対して語りかけられたことばです。私たちの命は偶然の産物ではなく、神が創造したものであること。神から見たら、若くても年老いても、健康であっても、病を持っていても、何ができてもできなくても、私たちの存在そのものが、途轍もなく大切であり、かけがえがないものであることを教えています。この言葉によって、命の起源、命の価値について、私たちは確認できますし、生涯確認し続けるべきでしょう。

これらを確かめた上で、今日お話ししたいのは、私たちに与えられた命の意味、目的です。今日取り上げたのは、新約聖書ルカの福音書の12章。大勢の人々を相手に説教をしていたイエス様が、一人の男から、遺産相続という思わぬ問題で相談を受けることになりました。それに対して、イエス様が、譬えをもって、人の命の意味、目的を説くという場面です。

 

12:13「群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。」

 

この時、イエス様は、群衆に弟子たちに、偽善に気をつけよ、人ではなく神を恐れよと語る説教の真っ最中。それが、まだまだ続くと思われました。そんな中、もう待っていられないとばかり、群衆の一人が手をあげ、声をあげたのです。「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と。

 突如、割って入った男の声。それも、遺産相続を巡って争う兄弟を説得してほしいという相談事です。もしかすると、イエス様は苦笑い。こんな依頼は、初めで終わりだったかもしれません。「遺産のことで、兄弟にかけあってください。」場所柄もわきまえず、イエス様の話の腰を折って依頼をしたほどですから、この人もよほど困っていたのでしょう。

 朝に晩に、遺産争いで明け暮れて、心身ともに疲れ果てた。そんな男の顔が目に浮かびます。親が残してくれた財産を、幾らかでも分け前を有利に、と算盤はじいていたのでしょう。その気持ちはわかります。しかし、家庭裁判所の調停官でもないイエス様にまで訴えるとは、いかにこの人が財産に執着していたことか。

その様子を見て取ったのでしょう。イエス様の答えは、さすがに宗教的なものでした。

 

 1214,15「すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 

昔の文語訳には、「人のいのちは所有(もちもの)の豊かさに因らぬなり。」とあります。親譲りの財産争いに心を狂わせる。寝ても覚めても、財産のことが頭から離れない。挙句の果てに、場所柄もわきまえず、叫び出したこの人は、まさにイエス様に頭をはたかれ、目を覚まさなければならない状態にあったと思えます。

 遺産争いで、金の亡者になる。心は金のことで、四六時中占領されている。このような人こそ、「人のいのちは財産にあるのではない。」と、釘をさされる必要があったでしょう。

 この男の霊的な命は、危険に瀕している。このままでは、金銭に心を支配された悲惨な人生が待つばかり。ここに有名な『愚かな金持ち』の譬話が語り出されたのです。

 

12:1621「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』  しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

思い出されるのは、ロシアの作家トルストイの『人にはどれだけの土地が必要か』とう作品です。主人公のパホームは、悪魔から「太陽が沈むまでの間に、お前が走り回った土地を、全部あげよう。」と、誘われます。

パホームは、「一坪でも、半坪でも広い土地を」と、全速力で駆けまわる。日は高い。まだまだ走れる。日が暮れ始めた。急いで走らなければ。もう一まわり、もう少しと駆け回る。日没寸前まで駆けまわって、日没と共に出発点に飛び込んだ。「間に合った。これですべてが俺の土地だ」と安心した途端、パッタリと倒れ、こと切れてしまった。結局、遺体が埋められた一片の土地だけが彼のものになったというお話です。

題して「人にはどれだけの土地が必要か」。結局、人間に必要なのは、自分の身の丈程の土地ではなかったか。トルストイは、土地を獲得することに心を狂わせる人間の悲惨さを描いていました。

さて、イエス様の譬話の主人公は、大収穫を得ました。篤農家です。人一倍働いて、荒れ地を開き、畑を作る。畑の手入れも、水利も万全。祈るより働けとばかり、朝早くから夜遅くまで働いたお陰で大豊作。嬉しい悲鳴を挙げています。

「どうしようか。作物をしまう場所がない。そうだ。あの古い倉庫は取り壊して、もっと大きい倉庫を建てるのだ。わが作物、わが財産を、そこに、たんまりと貯えるのだ。」 

そうして、男はほくそ笑むのです。「わがたましいよ。これからさき何年分もいっぱい物がたくわえられた。さあ、安心して、食べて、飲んで楽しめ。」大満足でした。

 ところが、この勤勉な農夫が、「愚かな者め。」と、呼ばれてしまうのです。一つのことを忘れていたのです。それも、人生で最も大切な一つのことをです。

 

12:20,21「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

死に際して、自らの愚かさに気がついたのは、アレキサンダー大王でした。マケドニヤから登場し、ギリシャ、シリヤ、エジプトを征服。さらには、インドにまで攻め入って、歴史上最大の世界帝国を建設しました。しかし、33歳の若さで死を迎えたアレキサンダーは、「私の死体は、手のひらを開いて埋めよ」と言ったと、伝えられます。

 「世界を手に入れたと思ったのは愚かなり。今、死に臨んで、私は一片の土地も持って行く事ができない。そうであるなら、私の手のひらをあけて、アレキサンダーは何も手にすることなく人生を終えたことを示し、後に続く人への戒めとせよ。」そう言い残したというのです。

 21節には「神の前に富まない者」とあります。確かに、この主人公は、神を覚えず、「俺が」「俺が」の人だったようです。その声に、「神」という言葉は一度も出てきません。収穫を携えて、神に感謝の礼拝をささげる気配もありません。収穫や財産を、どう隣人ために役立てようか、そんな思案をした様子もないのです。

 この17,18節を原文通りに訳しますと、「私はどうしよう。私の作物をたくわえおく場所が私にはない。」「私はこうしよう。私の倉をこわして、私はもっと大きいのを建て、私の穀物や財産をみなそこにしまっておこう。そして、私のたましいにこう言おう。…」「私は」「私の」の連発です。この人の人生は、自分のこと、自分の財産のことで、一色でした。

  あのミレーの晩鐘の画にあるように、遠く聞こえる教会の夕べの鐘の音に、神のあわれみにぬかずき、夫婦して、神に感謝をささげる。そんな生き方を欠いていたのです。人の命は、神の恵みによって支えられ、守られている。この大切な一点を忘れていました。

 光と熱を与える太陽も、作物を生む豊かな土地も、撒く種も、土地を潤す雨も、そして、何よりも、この健康な体も、神の恵みとする信仰を欠いていた。自分のこと、自分の財産のことで終始して、神のことにも、隣人のことにも心を向けることのない人生だったのです。そんなことだから、その人生観の何と貧弱なことか。

 

12:19「そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安して、食べて、飲んで、楽しめ。」

 

朝早くから夜遅くまで、懸命に働いてきた、この人の最高の喜びは、口と腹を満たすこと。夜を日についで、働きに働く人生の目的は、ただただ食って飲むことに尽きたと言う貧しさです。

こうして、この短い例え話を読み終えると、私たちに問いかけるイエス様の声が聞こえてくるように思われます。

「あなたは、神から与えれた尊い命、様々な恵みを何のために使ってきましたか。」

「今夜、召されたとしたら、神のみ前に携えてゆけるものがありますか。」

「神に対して、富と言えるものを、どれだけ持っていますか。」

 

森永の創業者森永太一郎は、大正の時代、日本のキャラメル王、東洋の菓子王と呼ばれました。アメリカで初めてキャラメルを口にした太一郎は、その瞬間、菓子職人になることを決意。アメリカで苦しく厳しい修業を重ねた後帰国して、東京で小さな菓子工場を始めます。「キリスト・イエス 罪人を救わんために世に来たりたまえり。」「義は国を高くし、罪は民を辱める。」工場には、聖書の言葉を記した看板を掲げてのスタートです。

太一郎はアメリカの日本人教会で洗礼を受け、熱心なクリスチャンになっていました。チョコレート、マシュマロ、キャラメルなど、森永にしか作れないお菓子を箱車に乗せて、東京の街を売り歩いたのです。「耶蘇の菓子屋」と陰口をたたかれながら、次々にヒット商品を生み出し、工場は発展してゆきます。

ところが、事業の繁栄とともに、太一郎の足は教会から遠のき、30年もの間神から離れ、事業拡張に身も心も費やしてしまうのです。後にこの時のことを振り返って、語っています。「私は名利の奴隷となり、金銭や物質の崇拝者となっていた。百万長者を夢見て野心満々たる時は、神に感謝の念を抱くことも、皆無だった。事業の成功も、己の努力と能力の賜物と思い上がっていたのだ。」

ところが、二度妻を亡くすという悲しみの中で、彼はようやく、いかに神の前に貧しい歩みをしてきたかに気がつきました。事業の成功も、神から受けた特別な恵みであることを思い、思い上がった自分の生き方を悔い改めたのです。

涙ながらに祈る太一郎の心に、「主よ、みもとに近づかん」と言う讃美歌が湧いてきました。それは、長い間いつも心の底に響いていた「わたしのもとに帰れ」という神の声への応答だったのです。

「ただ神にのみ忠実なしもべとして、神の恵みを証しするために生きる。」日本のキャラメル王、東洋の菓子王が、神のしもべとなる。創業当時、聖書のことばとエンゼルマークをシンボルとして掲げたその原点に立ち返った森永太一郎は、あらゆる人にキリストの福音を伝えるべく巡り歩きました。

また、関東大震災の際には、工場が被災を免れたことを神に感謝するとともに、自ら社員とともに日比谷公園などに出てゆきました。被災者のためにビスケットやキャラメルを配る。コンデンスミルクを水に溶かして飲ませる。私財を寄付して、その分政府の米を被災者のために出すよう大臣と交渉するなど、寄る辺なき人々のために力を尽くしたのです。

神の栄光を表わすために、自らの命を使う。苦しむ隣人を助けるために、自分に与えられた恵みを惜しまずささげる。イエス様が言われた、神の前に富む者とは、こういう人のことと、私たち教えられたいのです。

 私たちには、森永太一郎ほどの財産も能力もないかもしれません。しかし、私たちひとりひとりに、神に与えられた命があります。神に与えられた恵みがあります。それを、神の栄光のため、隣人のため、社会のために使うことはできるのです。

 今日の礼拝で、もう一度神が与えてくれた命の意味を考えること、神の前に富む者として生きることに取り組んでゆきたいと思います。今日の聖句です。

 

 ルカ1231「何はともあれ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられます。」

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