2017年11月26日日曜日

詩篇51篇10篇~19篇「私にきよい心を造り」


今朝の礼拝では、詩篇51篇を取り上げます。前回11月の第一聖日の礼拝では、この詩篇の前半を取り上げました。今回は後半の10節から最後の19節まで、読み進めてゆきたいと思います。

この第51篇は、悔い改めの詩篇として最も有名なもの。それも、イスラエルを統一した偉大な王、敬虔な信仰者ダビデが、部下の妻を奪って姦淫を犯し、その部下を戦場に送って戦死せしめ、挙句の果てに知らんぷりを決め込むという自身の体験を背景としていますから、その告白の一つ一つに、私たちも息を呑み、思いをひそめることになります。

姦淫、殺人、偽証という三つの大罪に落ちたダビデが、神様に向かって何を語り、何を願ったのか。神様はダビデにどう答えたのか。先回は罪とは何か、悔い改めとは何か、神による罪の赦しとは何かを考えてきました。それに対して後半は、罪赦されたダビデが、神に何を願ったのか。神に対し、隣人に対し、どう応答し、どう生きようとしたのか。罪赦された者の生き方に焦点が当てられています。

ダビデは、罪を赦してもらったことで一安心。神に祈り求めることをやめたわけではありませんでした。罪の深みから引き揚げられたダビデが求めたもの。それは、一体何だったのでしょうか。これ以上さばきを下さないようにという願いでしょうか。それとも、名誉回復の願いだったでしょうか。

罪によって、ダビデは子どもを失いました。王としての名誉も失いました。そうだとすれば、これ以上の苦しみは味わいたくないと願うこと、王としての名誉回復がはたされることを願ったとしても、おかしくはない気がします。しかし、そうではありませんでした。ダビデが祈り願ったのは、自分の内にきよい心が造られることであり、神を真実に礼拝することだったのです。この二つに集中していました。

 

51:10、11「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」

 

 ダビデは、今回の経験を通して、自分の内にきよい心がないことを嫌というほど感じてきたのでしょう。ふとした事から姦淫を犯し、それを隠すために忠実な部下を戦場に送りました。何事もなかったように、信仰深い王としてふるまっていました。敬虔で評判のダビデが、一皮むけば、姦夫であり、殺人者であり、偽善者だったという恐ろしさです。

 罪に揺さぶられ続けた、脆くて、醜くて、卑しい心が、少しばかりの修正では、どうにもならないと悟ったのでしょう。ダビデは、きよい心に修正してくださいではなく、きよい心を創造して欲しいと神にお願いしています。自分には頼めない、人にも頼めない。ただ神に頼るほか道はない。そう思い定めた者の祈りでした。

 そんな時、ダビデが思い出していたのは義父サウルのことだったのかもしれません。人々の期待を受け、順調に王として歩み始めたサウルが、いつしか高慢となった。妬みの化け物となり、ダビデを追い回す殺人鬼に落ちてしまった。聖霊がその人から取り去られたら、どうなるのか。その変わり果てた姿をサウルに見ていたダビデだからこそ、「私から聖霊を取り去らないでください」と実感を込めて願ったのでしょう。

聖霊が去った人は、罪を行えば行うほど、罪の力に縛られて行く。罪に鈍感になる。しかし、聖霊がおられるなら、たとえ罪を犯しても、その罪を悔い改め、「きよい心を造ってください」と神に信頼することができる。この時ほど、聖霊の神をダビデが意識したこと、感謝したこと、求めたことはなかったかもしれません。そして、神にきよい心を創造されたダビデの態度や行動が、変化してゆきます。

51:12,13「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」

 

罪を悔い改めなることがなかった時、ダビデが一体どのような思いで、神を礼拝し、王として人々に仕えていたのか。その一端を知る手掛かりがここにあります。ここで、ダビデは「救いの喜びを返してください。喜んで仕える霊を与えてください」と祈っています。救いの喜び、神と人に仕える喜びを、ダビデは失っていたのだと思います。

礼拝することも、王としての働きも、重荷でしかなかったでしょう。何の喜びもなく、形式的な礼拝をささげ、義務的に仕事をこなす日々が続いていたのではないでしょうか。

もちろん、礼拝することや奉仕をすることに喜びがない原因が、常に悔い改めない罪にあるというわけではありません。体調がすぐれなかったり、精神的なストレスを抱えている場合もあるでしょう。しかし、私たちが悔い改めないままにしている罪が、救いの喜びを消し、本来喜びであるべき礼拝や奉仕を、重荷に変えてしまう。ダビデは、それを身をもって経験したのです。

この時、罪と真剣に取り組み、罪の赦しの恵みを存分に味わったダビデは、徐々に救いの喜び、神と人に仕える喜びを回復したようです。そして、その喜びは、神の恵みを教える伝道という形をとって、現れました。「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」と。

しかし、このダビデのことばに、「ちょっと待てよ」と違和感を感じる人もおられるでしょう。あれだけの大罪を犯しておきながら、他の人を教えましょうとは、少々傲慢ではないか。罪人の説教など、だれが耳を傾けるのか。そんな声も聞こえてきそうです。

けれども、一体説教とは何でしょうか。人一倍品行方正な人が、誰からも指一本指される心配のない人物が、正しいルールを垂れることだったのでしょうか。他の宗教はいざ知らず、キリスト教はそういう宗教ではなかったし、そうあってはならないと思います。

人一倍己の罪を自覚する者が、自分をたたき台として、神の恵みを証しする。それが、聖書の示すひとつの伝道なのです。例えば、パウロはこう語っていました。

 

Ⅰテモテ1:13~15「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

パウロは、キリスト教迫害の鬼であった自分をまな板の上にのせて、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値する」と力を込めて説いています。旧約に、「私は咎ある者として生まれた」と告白するダビデがいれば、新約には自らを「罪人のかしら」と告白してはばからないパウロがいる。二人とも、普通なら隠しておきたいような、恥ずかしい前歴を公にして、神の恵みの計り知れない深さを証ししました。どれだけ多くの人が、二人の証しによって救われたことでしょう。

 日本にも明治の時代、発作的に人を殺してしまい、23年間の獄中生活を送るも、その獄中でキリストを信じて回心し、模範囚となって明治天皇の恩赦を受けた好地由太郎が、伝道者となりました。その好地由太郎から洗礼を受けたいと、ノリタケの創設者森村男爵が願い出たというお話は有名です。

私たちも獄中生活の経験はありませんが、かっては罪という牢獄に閉じ込められ、逃れることのできなかった罪人です。その牢獄から、ただ神の恵みによって解放された私たちに、ダビデやパウロ、好地由太郎のような救いの喜びはあるでしょうか。

自ら救いの喜びを味わった者が、他の人にもこの喜びをお伝えする。喜びが喜びを生む、喜びの連鎖。旧約から新約へ。新約から現代へ。私たちもこんな喜びの輪に加えられた一人であること、改めて覚えさせられるところです。さて、ここで最も有名な17節を含む段落に入ります。

 

51:14~17「神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

 

血の罪というのは、直接ダビデが手を下したわけではないにせよ、忠実な部下を戦いの最前線に送り死に至らしめた、間接的な殺人を指すと思われます。もう一度、自分が救い出された罪の深みを振り返り、「よくぞあんな深くて暗い穴から私を助けてくれました」と神に向かって感謝をささげる。そんなダビデの姿が目に浮かびます。

重病人の病が癒え、人々の前で健康回復を祝うように、ここでダビデは、罪という重病を癒され、きよい心を回復、高らかに歌うことを望んでいるのです。それも自らの回復を祝い、歌うというよりも、罪を赦し給う神の義を歌いたい。もし私の口を開いてくださるなら、神の誉れを歌いたいと言うのです。

褒められるべきは回復した私ではなく、回復の恵みを与えてくださった神。私が喜び歌いたいのは、私のことではなく、神よ、あなたのことです。そんなダビデの声に、私たちも心合わせたくなります。けれども、本来人間は神ではなく、自分を賛美したがる存在でした。

 

ルカ18:9~11「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」

 

このパリサイ人のように、人は多かれ少なかれ、他人を比べて自分を誇り、自分のしたことを賛美したい性質を持っています。しかし、自分の罪に慄き神の恵みを知ったダビデは、この様な態度こそ神が嫌い、退けるものであることを弁えるようになりました。そして、心低くされたダビデは、神が最も喜ばれるささげものとは何かを見出したのです。

51:16、17「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」

 

この言葉を説明するには、先程のイエス様の例え話に登場する収税人の姿を見れば十分でしょう。

 

ルカ18:13,14「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 

自分の無価値を思い、ただ胸を叩き、神の憐れみを願う収税人のささげたものこそ、砕かれた霊、悔いた心でした。ダビデが、「神よ、それをあなたはさげすまれません。」と言ったように、イエス様も、この収税人が神に義と認められた。神に喜ばれ、神に受け入れられたと教えています。イエス様の目から見れば、ダビデや収税人こそ、真の礼拝者なのです。

こうして、一段落すると、最後はダビデの目が広く国民に開いて、その礼拝となって結ばれます。

 

51:18,19「どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。」

 

シオン、エルサレムは、神の民イスラエルのことを指しています。「シオンにいつくしみを施してください」「エルサレムの城壁を築いてください」と言い、国民への神の恵みと守りを願っているのは、ダビデの心に王としての自覚が働いたからでしょう。自分の罪のために国が揺らぎ、国民までもが崩れてしまうことがないように。どうぞ、私だけでなく、この民全体に救いの恵みを示してください。そのような願いを、ダビデは抱くに至りました。私たちも、自分のためだけでなく、教会のために、日本の国民のために、神の恵み、神の憐れみを祈る者であれと教えられます。

最後に二つのことを確認したいと思います。一つ目。皆様には自らが味わい経験した救いの恵み、救いの喜びを、人々に伝える思いあるでしょうか。

来週から待降節が始まります。「キリストは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばはまことであり、そのまま受け入れるに値する」と力を込めたパウロのことばを思い巡らし、自らの救いを喜ぶ者、救いの喜びを伝える喜びを味わう者となりたいと思うのです。

二つ目。日々の礼拝、聖日の礼拝において、神が最も喜ぶ捧げものとは何かを考えて、礼拝を重ねてゆきたいと思います。神の前で、自らの心がどのような状態にあるのかを意識しながら、礼拝する者でありたいのです。神が絶対にさげすむことのない心、むしろ、尊び、喜び、受け入れてくださる心を、ささげる者でありたいと思うのです。今日の聖句です。

 

51:17「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」

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