2017年11月19日日曜日

ウェルカム礼拝 ヨハネの福音書15章12節~14節 「友を通して受ける恵み」


 よく言われる言葉に「人は一人では生きられない」というものがあります。仮に完全に一人で生きるとなると、衣食住の確保だけでも大変なこと。水を汲み、食料を探し、安全な寝床を確保することが出来るのか。出来たとして、どれだけ生き延びることが出来るのか。また仮に、衣食住が整備された環境の中で生きるとしても、一人だけで毎日を過ごすとしたら。他の人と交流のない状況だとしたら、どこまで耐えることが出来るのか。肉体的にも、精神的にも、人が一人で生きることは極めて困難です。

 このように考えますと、今私たちが生きていられるのは、これまで「共に生きる」人がいたから。意識していようが、いなかろうが、共に生きる人がいたからここまで生きることが出来たと言えます。

 

今年度、「共に生きる恵み」というテーマでウェルカム礼拝を行っています。一人で生きているわけではない、多くの人に囲まれながら生きている私たち。

共に生きる人を通して、どのような恵みを受けているのか。その中でも、今日は主に「友」がテーマです。共に生きるとはどのようなことか、「友」を通して、私たちはどのような恵みを受けているのか、皆様とともに考えたいと思います。

 

人は一人では生きられないということは、私たちは感覚的に、あるいは経験的にその通りだと思いますが、このテーマで、聖書はどのように教えているでしょうか。

聖書も、人は一人では生きられない、それどころか、そもそも、人間は他の人と共に生きる存在として造られたと教えています。私たちはもともと、他の人と共に生きるように造られた者。神様が世界を造り、人間を造られた時。神様は、最初の人アダムに対して次のように言われました。

 創世記2章18節

神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』

                  

 神様は、人間を造られた時、一人でいるのは良くない、と言われました。「良くない」とはどういう意味なのか。

通常、「良い」というのは、目的に沿っていること、目的を果たすのに適切であるということを意味します。良い鉛筆というのは、書くのに適しているというもの。良いバットというのは、ボールを打つのに適しているというもの。仮に、どれ程良い鉛筆でも、ボールを打つという目的には沿わない。鉛筆として良いものでも、良いバットではないのです。

人が一人でいるのは良くない。それはつまり、一人だけでは、人間が造られた目的に沿わないということです。

それでは、私たち人間は何のために造られたのか。神様は、一人でいたアダムに対して、もう一人の人間を造り、互いに助け合う関係を築くように言われました。助け合う、仕え合う、愛し合う。そのように生きることが、目的に沿った生き方、人間にとって良いのです。

 

 一般的に言われる、「人が一人では生きられない」という言葉。それは主に、一人だけで、肉体的、精神的に生き続けることが困難という意味だと思います。それに対して、聖書が言う「人が一人では生きられな」というのは、そもそも私たちは共に生きる者として存在しているということ。他の者を無視して生きるというのは、本来の生き方ではないという意味です。そして共に生きるというのも、ただ共にいるだけではなく、助け合う、仕え合う、愛し合う関係を築くことを意味します。

 

 聖書によりますと、人間が造られた当初、人間はその目的に沿って生きることが出来ました。そのままであれば、友人関係は最高のもの。誰とでも、助け合い、仕え合い、愛し合う関係を築くことが出来る。誰とでも、最高の友だちとなれる。神様が人間に願っておられたことは、全ての人間が互いに助け合い、仕え合い、愛し合うこと。全ての人が、互いに良い友となること。

 

ところが、人間は神を無視して生きること。神を愛さないことを選択します。最初に造られた人間、アダムとエバが、神を無視して生きることを選択した結果、その二人から生まれた全ての人間が神を無視して生きることになります。つまり、私たちは生まれながらにして、神を無視して生きる者だと言うのです。このことを、聖書は次のように表現しています。

 

 ローマ3章10節~12節

・・・『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。』

 

 ここで言われている、「義人はいない」とか「すべての人が迷い出た」というのは、皆が皆、神様を無視する存在であること。その結果、本来の生き方が出来なくなったことを意味します。

 もともと、助け合い、仕え合い、愛し合うために造られた私たち。誰とでも、とても良い友人となれたはずの私たち。しかし、神を無視する存在となったことによって、そのような生き方が出来なくなった。それが、今の私たちだと聖書は教えています。

いかがでしょうか。このような聖書の教えを、皆様はどのように受けとめるでしょうか。

 

 実際に、私たちの築き上げる友人関係はどのようなものでしょうか。皆様は、「友」、「友人関係」は好きでしょうか。

友達と時間を使うことが、とても好きという方。空いている時間があれば、出来るだけ友達との時間に充てたいと思う方。いらっしゃると思います。一緒にいて楽しいと思える友人がいること、新たな人と苦労なく友人関係を築けるとしたら、それは大きな恵みと言えます。

 しかし、友人関係が苦手という方もいらっしゃるのではないかと思います。一人でいる方が良い。他の人にどのように思われるのか、とても気になる。これまで友人関係でひどく傷ついたことがある。あるいは、友人を傷つけてしまい、同じことをしてしまうのではないかと恐れがある。人生が長くなればなるほど、友から受ける喜び、友から受ける難しさその両方味わうのが一般的だと思います。友人関係が楽しいと感じる時もあれば、苦しく感じる時もある。

 あるいは、そもそも自分には友と言えるような人はいないと感じている方もいるでしょうか。

 

古今東西、友や友情をテーマにした小説、映画は数知れず、友に関する熟語、諺、格言も多くあります。これまで多くの人が友、友情について語りましたが、友の素晴らしさ、友情の美しさを表現したものもあれば、友や友情の脆さ、儚さ、あるいは友による裏切りをテーマにしたものもあります。

 聖書に記された格言の中にも、友人関係において、良い関係、悪い関係、どちらもあることを教える言葉があります。

 箴言18章24節

滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟より親密な者もいる。

 

残念ながら、友から受けるものは、必ずしも良いものだけではないのです。場合によっては、友からひどい害を受けることもあるのです。

 

 「これまで、どのような友達がいましたか?」と聞かれたら、皆様は具体的に誰が思い浮かぶでしょうか。

私自身思い返してみますと、人生のそれぞれの時期に特に仲が良かった友だちを思い出しました。ここで具体的に名前を挙げても、意味はないのですが、一応思い出した友達の名前を挙げると、幼稚園の時は「ひろあき君」、小学生の時は「かっつん」と「にの」。中学生の時は「やま」。高校生の時は、「むぎ」と「きむ」。大学生の時は「のり」。

それぞれに、楽しかった思い出、良い思い出があるのですが、今考えると、なぜあんな酷いことをしたのか、酷いことを言ったのか。喧嘩別れしたわけではなく、良い関係だったはずですが、今振り返ると、自分が友達にした悪いことも思い返されて、今更ながらに謝りたい気持ちになります。

 いかがでしょうか。これまでの友人関係を振り返って、自分の未熟さに頭を抱えるようなことはあるでしょうか。

 

 このように、もともとは全ての人と互いに助け合い、仕え合い、愛し合うこと。全ての人と、互いに良い友となることが出来る者として造られた人間が、実際にはそうではない。憎しみ合い、搾取し合い、支配し合う関係になる。精一杯良い関係を築いても、ほころびがある状態となっている。

 それでは、どうしたら良いのか。私たちはどのようにしたら、本来の生き方が出来るのか。聖書によると、このような私たちのために、神様は救い主を送られました。それが約二千年前に生まれた、イエス・キリスト。イエスという救い主です。

イエス・キリストが私たちにもらす「救い」とは何か。それは、私たちが神様を無視した結果、失ったものを再び手に入れること。本来のあるべき状態への回復。本当の意味で、支え合い、仕え合い、愛し合うことが出来るように変えられていくこと。本当の意味で、友人関係を築きあげることが出来るようになること。

 

世界の造り主を無視した結果、悲惨な状況にある私たち。その私たちを助け出す救い主が送られてきた。イエス・キリストを私の救い主として信じることで、私たちはあるべき状態へと回復してゆく。この話は、キリスト教の中心中の中心のメッセージ。聖書の中心中の中心のメッセージです。これをまとめて、聖書は次のように表現していました。

 

 ヨハネ3章16節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

 この聖書の言葉に、「御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりも滅びることなく」とあります。「信じる者が、滅びることなく」。これを逆に言えば、「信じない者は滅びていく」という意味です。神を無視して、多くを失った状態。これを聖書は滅びだと言います。自力で回復することが出来なく、救い主が必要である。滅びの中にある者が、それにもかかわらず、救い主を信じないとするならば、ますます滅びの中を突き進んでいく。

 片や救い主を信じる者に与えられるもの。もともと造られた目的に従って生きることが出来るようになること。支え合い、仕え合い、愛し合う関係を築き上げることが出来るようになること。本当の友人関係を築くことが出来るようになること。これらを聖書は「永遠のいのち」と表現していました。この「永遠のいのち」は、救い主を信じる全ての者にもたらされるのです。

 

 これと同じことを、「友」という表現を用いて、主イエスが語られた場面があります。

 ヨハネ15章12節~14節

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 

 イエス様を信じる者は、イエス様の友となる。イエス様の友であるしるしは、友同士で互いに愛し合うこと。それも、イエス様が私たちを愛したように、互いに愛し合うこと。それはつまり、もともと造られた目的に沿って、互いに愛し合うということ。

 正しい友人関係を築くことが出来ない私たちと、まず友になって下さり、命を捨てるほどに愛を注ぎ、互いに愛し合うように教える救い主。このイエスを、自分の救い主と信じることを心からお勧めいたします。

 

 以上のことを踏まえまして、最後に、友を通して受ける恵みについて、確認したいと思います。

 聖書が教える神様は、世界を造り、支配されているお方。私たちが、この時代、この地域に生きているというのは、この神様の計画によると教えられています。

私たちはたまたま、この時代、この地域で生きるように生まれたのではない。神様がそのように決められた。そうだとすれば、これまで私たちに与えられた友は、全て神様からの恵みと言えます。私たちが神様を無視した結果、正しい関係を築くことが出来なかったとしても、それでも、友がいるということ。その友を通して受ける、喜び、楽しみ、励ましは、神様が私たちに与えて下さる恵みでした。

 

 また、イエスという救い主であり、私たちの友となるお方が送られていること。友を通して受ける恵みと言って、この友である救い主から頂く恵み程、重要なものはないでしょう。造られた目的に従って生きることが出来るようになること。支え合い、仕え合い、愛し合う関係を築き上げることが出来るようになること。本当の友人関係を築くことが出来るようになること。「永遠のいのち」と呼ばれる恵みを、私たちはイエスという救い主の友から頂くのです。

 

 さらに、この「永遠のいのち」を頂いた者同士、互いに愛し合う関係を築き上げていく。造られた目的に従って生きることが出来るようになった者同士で、新たに友となっていく恵みがあります。この信仰の友を通して頂く恵みは、格別なもの。ともに祈り、ともに礼拝をささげ、ともに奉仕をし、ともに教会を建て上げていく。励まし合い、支え合い、時には罪を指摘し注意し合う。苦しみ、悲しみも、感動、喜びも分かち合える交わり。しかも、それが天国でも続く、永遠の友人関係であるという恵みでした。

 

 私たち一同で、今一度、自分に与えられた友を通して、どれ程大きな恵みが与えられているのか、再確認したいと思います。また、イエスを救い主と信じていない方は、自分の救い主と信じることが出来ますように。主イエスを友として、信仰の友との新しい関係が広がりますように。すでにイエスを救い主と信じてる方は、自分に与えられている恵みの大きさがどれ程なのか、再確認することが出来ますように。永遠の命を存分に味わう関係を築き上げることが出来るように願いつつ、礼拝を続けていきたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿