2017年8月27日日曜日

マタイの福音書7章7節~12節「山上の説教(38)~求め、捜し、たたく者~」


 私が担当する礼拝では、基本的に山上の説教を取り上げてきました。イエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、聖書中最も知られ、親しまれている説教です。私たちが読み進めてきたこの説教も、今日で38回目となります。

 山上の説教には名言、名句が多い。名言、名句の宝庫だと言うことを、これまで何回かお話してきました。今日の箇所もその例に漏れずで、良く知られたことばが登場してきます。それは7節の、

 

 7:7「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

 

です。このことばは、「求めよ。さらば与えられん。求めよさらば与えられん、尋ねよ、さらば見出さん、叩けよ、さらば開かれん」という文語調の方に親しみを感じる。そういう方もいるでしょう。

 ところで、ある辞書に、このことばの意味として、「この世では常に、求める者は得、捜す者は見出し、門を叩く者は開けてもらえる。自分から行動すれば、人々も神も必ず応えてくれる。何かを欲するのなら、それを求めて自ら積極的に動く姿勢が大事だということ」と書かれていました。

また、「何ごとでも、自分の願うことを求め続けるなら、神様がそれを叶えてくれる」。そう理解されていることばでもあります。この様に、聖書の名言が、聖書本来の意味から随分かけ離れ、理解されていることが、しばしばあるものです。

 それでは、イエス様はどのような意味で、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と言われたのでしょうか。

 ここで、山上の説教の流れを振り返ってみたいと思います。山上の説教は、イエス様による「心の貧しい者は、幸いです」という第一声でスタートしました。冒頭に置かれたのは、八つのことばのすべてが、「幸いなるかな」で始まる、八福の教えです。

 続くは、「あなたがたは地の塩、世界の光です」とのイエス様の宣言です。山上の説教の教えに従って生きる私たちの存在が、この世界にとって欠かせないもの、この世界を祝福するものであることが教えられ、励まされるところです。

 また、殺してはならない、姦淫してはならない、目には目を、歯には歯を等、旧約聖書にある戒めの真の意味を説くことにより、さらに、施し、祈り、断食など、宗教的な行いについて説明することにより、神の子どもにふさわしい義しい考え方、生き方を、イエス様は教えてくださいました。

 そして、今日の箇所です。今まで、様々な教えを語ってこられたイエス様が、ここからは、その教えを実践すること、実践の勧めに入ります。イエス様の教えを聞いただけで、私たちは幸いな者となるわけではありません。イエス様の教えを知っただけで、地の塩、世界の光になれるわけでもありません。聞いて、理解した教えを生活に適用すること、実践することを通して、私たちは幸いな者となり、周りの人々を祝福する存在となれるのです。

 その実践の勧めにあたり、イエス様は先ず「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と語られました。何故,イエス様は、私たちに求めよと命じたのでしょうか。また、何を、どの様に、誰に求めよと言われるのでしょうか。

 皆様に質問したいことがあります。皆様は、これまで語られてきたイエス様の教えを、実践しようとしたことはあるでしょうか。その際、何を感じられたでしょうか。従うことができたという満足でしょうか。それとも、願っても、なかなか実践できないと言う無力感や、自分を責める思いでしょうか。

 ある時、イエス様の所に一人の裕福な青年がやって来て、「永遠の命を得るために、自分は何をしたら良いですか」と尋ねる。その様な二人の問答が、聖書に記されています。

 

 マルコ101721「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」

イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」

すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。…」

 

若くして努力を重ね、裕福であった青年が、永遠の命を求めてイエス様のもとに来る。この熱心な好青年が、イエス様に聖書の戒めを示されると、自信満々。私はそのようなことを皆、小さい時から守っていますと答えて、憚りませんでした。

神様の戒めを、人間社会の法律と同じものと考え、実際に人を殺したこともないし、姦淫したこともないし、盗みを働いたこともないから、自分は大丈夫と、正しい人間だと答えたこの青年。

しかし、イエス様の目から見れば、この青年には致命的な欠けがあったのです。それが、びた一文、築いたものは手放すまいと、財産にしがみつく貪欲の罪であることを示された青年は、残念ながらイエス様のもとを去ってゆくことになります。

しかし、イエス様の山上の説教を聞いた私たちは、神様が人の心の奥底まで見られるお方であることを、徹底的に教えられました。あの青年のように、神様の戒めを守ってきましたとは、到底言うことができないでしょう。

イエス様は「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」と言われました。この教えに面と向かうと、私たちは人の悪口を言って、心の中で殺人を犯す自分を思います。

 イエス様は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい」と語りました。これを読むと、私たちは自分にもえぐり出すべき目があることを自覚させられます。

 イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。…自分を愛してくれる者を愛したからと言って、何の報いが受けられるでしょう」と命じました。この教えを前にすると、私たちは、自分の敵を愛せない、いや愛そうとしない自分。時には、自分に良くしてくれる人にさえ、邪険な態度をとる嫌な自分がいることを感じます。

 イエス様は「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」と説きました。私たちは、この言葉の中に、何をするにも、人の目、人の評判を気にしてやまない、自分の姿を見るのです。

 イエス様は「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」」と問いかけました。そう問われて、私たちは、己の欠点は棚上げにして、裁判官気取りで人の欠点を責める高慢な自分の言動に気がつき、心刺されます。

殺人、姦淫、憎しみ、偽善、高慢。山上の説教を実践しようとする時、私たちは自分の罪深さを覚えざるをえません。本来なら、神様に裁かれてしかるべき存在であることを感じるのです。山上の説教を実践しようとする思いに乏しく、力にも欠ける情けない自分が見えてきます。

 この自覚に立つ時、イエス様がここで求めよと命じているものが何であるか、見えてくるように思います。私たちが求めるべきは、救いがたい罪を赦してくださる神様の恵みです。イエス様の教えに従いたいという思いです。イエス様の教えを実践する力です。ことばを代えて言えば、きよめられることです。

 この様な恵みを、神様に求めよ、求め続けよ。どこまでも、執拗に、祈り求めよ。神様は必ずその祈り、その求めに答えて、これ等の恵みを与えてくださるから。イエス様は、罪と無力に悩む私たちを、そう励ましてくださるのです。

 さらに、私たちの信じる神様が、天の父であることを思い起こさせ、弱き私たちを支えておられます。

「いくら何でも、これほど罪深く、情けない者を,神様は助けてくださるのだろうか」。「自分のような出来の悪い者は、見捨てられてしまうのではないか」。そう心細く感じる私たちに、「大丈夫だよ。神様はあなたのことを大切な子どもと思っておられる天の父だから」。そう、イエス様は語りかけてくださるのです。

 

7:9~11「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

 

 人間の親であっても、パンを欲しがる子どもに、固くて食べることのできない石を代わりに与えるようなことはすまい。魚を欲しがる子どもに、恐ろしい蛇を代わりに与えるようなこともしないだろう。

人間の親でさえ、可愛い子どもに必要な良いもの与える愛があるとすれば、なおのこと、天の父なる神様は、あなたがた神の子らに良いものを与えてくださらないことがあろうか。必ず与えてくださると信じよ。そう信じて祈り求めよ。

 イエス様は、私たちの罪のために十字架で死なれました。天の父に求めるなら、私たちは罪の赦しの恵みを受け取ります。この恵みを受け取って、私たちは安心し、自分を責める思いから解放されます。

イエス様は、本来裁かれるべき私たちの代わりに十字架につき、命をも惜しまず、私たちを愛してくださいました。天の父に祈り求めるなら、私たちはイエス様の愛を受け取ります。この愛を味わう時、イエス様の教えに従いたいという思い、従い続ける力が、私たちの心に与えられるのです。

 罪の赦しの恵み、神様の教えを慕う思い、それに従い続ける力。私たちにとって、本当に必要な、これらの良きものを、どのようにしたら得ることができるのか。聖書の教えるところを、聞きたいと思います。

 

Ⅰヨハネ19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

自分の罪を神様に告白する。神様から罪の赦しの恵みを受け取る。神様の愛に励まされて、その教えを慕い、心を尽くして従ってゆく。たとえ自分にガッカリすることがあっても、惜しまずに良いものを与えてくださる神様に信頼し続ける。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。イエス様が求めているのは、このような歩みであることを、私たち確認したいと思うのです。今日の聖句です。

 

Ⅰヨハネ3:23「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

 

イエス様を信じる私たちはみな、神の子どもです。神の子どもは、キリストに似た者へと造りかえられる道を歩んでいます。まだ、道の途中にありますから、罪を犯してしまうこともあります。前進していると感じることもあれば、ひどく後退してしまうこともあるでしょう。そこで、最後に二つのことを確認したいと思います。

一つは、神様が、私たち神の子らを必ず、また確実にキリストの似た者へと造りかえてくださると信頼すること。二つ目は、神様が必ず造りかえてくださることに安心しながら、罪を悔い改め、神様の教えに従う歩みを、何度でも繰り返し、続けること。これが、自分を清くすることです。

求め、探し、たたき続ける者としての歩み。私たち、お互いに励ましあいながら、みなでキリストに似たものへと造りかえられる道を進んでゆきたいと思うのです。

2017年8月20日日曜日

マタイの福音書28章18節~20節「一書説教 マタイの福音書~ともにいる救い主~」


 断続的に取り組んできました一書説教。先月、三十九回目が終わり、遂に旧約聖書を走破しました。五年と少し、皆様とともに一書説教に取り組めたことを心から感謝しています。今日から新約聖書に突入します。今一度、ともに聖書を読み進める恵みを皆で味わいたいと思います。

 それでは、三十九回に渡り取り組みました旧約聖書、簡単にまとめるとしたら、どのようにまとめられるでしょうか。皆様はどのようにまとめるでしょうか。色々なまとめ方が考えられますが、特に重要なのは「救い主を送る約束」という視点です。旧約聖書は「やがて来る救い主を指し示す書」。新約聖書は「来られた救い主を指し示す書」。繰り返し、救い主が来ること、その救い主がどのようなお方なのか、あの手この手で語ってきた旧約聖書。送られてきた救い主が、どのようなお方で何を為されたのか記録される新約聖書。特に新約聖書の冒頭四つ、その名も「福音書」「良き知らせの書」と呼ばれる四つの書は、約束の救い主に焦点を当てます。

 順番に一書説教に取り組んできた私たち。救い主を送るという約束を繰り返し聞いてきた者として、新約聖書に突入します。遂に約束の救い主が来られた。とうとう、やって来られた。一体、約束の救い主とはどのような方で、何を為されたのか。今一度、新鮮な思いで、喜びと感動とともに読み進めていきたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 救い主を送るという約束を真正面から受け止める福音書。その一番手を担うのはマタイの福音書です。四つの福音書、それぞれに特徴があり、福音書を読み比べて、それぞれの特徴を味わいたいと思いますが、マタイの福音書の最大の特徴は、旧約聖書を強く意識していることです。著者マタイが意識したのはユダヤ人、旧約聖書をよく知る者たち。救い主を送るという約束を知る者たちに、約束の救い主が来られた。「イエス」こそ、約束の救い主であると伝える渾身の力作。聖書第四十の巻、マタイの福音書に今日は皆で取り組みたいと思います。

 

 全二十八章からなるマタイの福音書。どのように説教としてまとめれば良いのか悩むところですが、今日は三つの特徴を確認することでまとめていきたいと思います。

 一つ目の特徴は、先ほど確認しましたように、ユダヤ人向け、旧約聖書をよく知る者たちへ向けて書かれたということ。マタイの福音書は旧約聖書の引用が福音書中最多。起った出来事が、「預言の成就」であると記されることも多数。(マタイの旧約聖書の引用の仕方は興味深いものです。マタイの福音書を読みながら、引用元の旧約聖書も確認出来ると良いと思います。)

この特徴を把握しておかないと、私たちには興味を持ちにくい箇所があります。例えば、

 

 マタイ1章1節

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

 

 冒頭の系図の箇所。アブラハムに対する約束(創世記12章3節、18章18節など)、ダビデに対する約束(Ⅱサムエル7章12節~14節など)を知る者たちにとって、約束の救い主であるというなら、アブラハムの子孫でありダビデの子孫であるということが、非常に重要なことでした。

 私たちの多くにとって、無味乾燥と感じられる系図ですが、旧約聖書をよく知る者たちへ向けて書かれたことを意識して、「この方こそ、旧約聖書で約束された救い主であること。神様は約束を必ず守られるお方であること」、そのようなマタイの熱意を受け取りながら読みたいと思います。

 

 また、ユダヤ人に向けて書かれたという特徴を知らないと、理解しづらい箇所もあります。例えば、十二弟子を宣教の働きに派遣する際、マタイが記したイエス様の言葉は、

 マタイ10章5節~6節

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。

 

 ツロとシドンの地方に行かれた時、カナン人の女性が悪霊に憑かれた娘の助けを願う場面で、マタイが記したイエス様の言葉は、

 マタイ15章24節

しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。』と言われた。

 

 どちらも強烈にユダヤ人中心の言葉です。これらの言葉は、イエス様が神の民に約束された救い主であることを示すもの。マタイが意識していたユダヤ人に向けて、まさにこのイエスが約束の救い主であることを伝える意図があり、その意図を知らずに読むと、ひどく冷たい言葉に感じられます。

 マタイの福音書を読み通す際、ユダヤ人向けという特徴を意識しながら読みたいと思います。旧約聖書を知る者に「イエス」こそ、約束の救い主であると伝えたい。そのマタイの情熱を感じながら、味わいたいと思います。

(念のため記しておきますと、イエス様はこのカナンの女性とのやりとりの結果、この女性の信仰を褒め、娘を助けます。また、マタイの福音書は全世界に福音を宣べ伝えるようにとの大宣教命令で閉じられます。イエス様はユダヤ人の救い主であると同時に、全ての人の救い主であることも示されます。)

 

 覚えておきたい二つ目の特徴は、イエス様の説教が多く収録されているということ。続くマルコの福音書では、イエス様の行動や奇跡に焦点が当てられ、人々に仕える救い主のイメージが強いのに対し、マタイに記されたイエス様の姿は、王のイメージ、教師のイメージと言えるでしょうか。

 マタイの福音書に記されたイエス様の説教と聞いて、皆様が思い浮かぶのはどの説教、たとえ話になるでしょうか。大きく分けて五つの説教が収録されています。

五章から七章には、極めて有名な「山上の説教」。現在、山崎先生が継続的に説教で扱っています。「心の貧しい者は幸いです」で始まる八つの祝福。地の塩、世の光のたとえ。「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、という教えの本当の意味。善行、祈り、断食をどのように取り組むべきか。主の祈りについて。神の国とその義を第一に求めること。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」という黄金律。岩の上と砂の上に家を建てる者のたとえ。他にも多数ありますが、これら全て山上の説教で語られたものです。

十章には、十二弟子を伝道旅行へ派遣する際に語られた「派遣の説教」の記録。「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなもの」、「また、わたしの名のために、あなたがたは全ての人々に憎まれます。」と、これから起こる苦労、苦難を確認しつつ、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と、励ましも語られています。

十三章には、天の御国をテーマにたとえ話を語られる「七つのたとえ話」が出てきます。種まきのたとえ、毒麦のたとえ、からし種のたとえ、パン種のたとえ、畑に隠された宝のたとえ、良い真珠を捜す商人のたとえ、地引網のたとえ。長いたとも、短いたとえもありますが、中でも種まきのたとえと、毒麦のたとえは、イエス様ご自身の解説付きとなっていて、たとえ話を理解する上で必見の箇所となります。

十八章には、弟子の中で誰が一番偉いのかという問いをきっかけに語られる「信仰共同体について」の説教。「子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と語られ、高慢になることがいかに危険か、神様に赦された者として、他の人々を赦すことが、一万タラント赦された男のたとえ話でまとめられます。

 二十四章から二十五章では、終わりの時、キリストの再臨の時に関する教えが語られる「終末預言」が出てきます。キリストの再臨前に、どのようなことが起こるか教えられるも、それがいつなのかは語られず。そのため、いつ再臨が起っても良いように、備えるように教えられます。二十五章には、再臨の時に起ることを、三つのたとえでまとめられる。賢い花嫁のたとえ、財産を預けて旅に出た主人のたとえ、羊と山羊に分けられる話。

 

説教を聞くとして、誰の説教を聞きたいかと言えば、イエス様の説教以上に聞きたい説教はないでしょう。御言葉の解き明かしではなく、御言葉そのものである方の説教。マタイが、イエス様の説教を多く記録してくれたことを大変嬉しく思います。

この五つの説教の間に、イエス様がなされた奇跡や、祭司や律法学者たちとの論争が記され、最後に十字架と復活の記録になります。流れを意識しながら、五つの説教の特徴を確認しつつ、読み進めたいと思います。

 

 覚えておきたい三つ目の特徴は、マタイの示すイエス様の姿は、「私たちとともにおられる」という強調点があること。

 冒頭、系図を記したマタイは、続いてヨハネの視点から、主イエスの誕生を記します。そして、キリストの誕生を次のようにまとめました。

 マタイ1章22節~23節

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 

 主イエスが誕生したというのは、どのような意味があるのか。マタイはイザヤの言葉を引用して、この出来事は「インマヌエル」、神様がともにおられるという出来事だとまとめました。

 

 そして、この福音書を閉じる時、どのような言葉で閉じていたでしょうか。

 マタイ28章18節~20節

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』

 

 大宣教命令と呼ばれる、これもまた極めて有名な箇所。キリストの弟子に与えられた使命は、全世界でキリストの弟子を生み出すこと。しかし、その使命を自分の力で果たすのではなく、いっさいの権威が与えられているキリストとともに行う。主イエスの「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」という言葉でこの福音書は閉じられます。

 書物の最初と最後に同じテーマを記すことで、この書全体で言いたいテーマを明示する手法で、マタイが言いたいことは、「約束の救い主は私たちとともにおられる方である。」ということ。マタイの示すイエス様の姿は、「私たちとともにおられる」という強調点があるのです。

 

 考えてみますと、イエス様には特筆すべき様々な強調点があると思うのですが、マタイは「ともにいる救い主である」ということを強調しました。何故でしょうか。おそらく、これにはマタイ自身の経験、キリストの弟子になる時のことが関係していると思います。

 マタイ9章9節~13節

イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』

 

マタイは、イエス様に召されて十二弟子の一人となりました。その前は、取税人。ローマに支配されていた当時、ローマに納める税金を取り立てる取税人は、売国奴とも、公の泥棒とも考えられていた職業。その社会では、取税人は裁判で証言能力がないとされました。取税人という職業を選ぶだけで、これ以上ない程、徹底的に嫌わる状況。主イエスの中心的な弟子の中に、元取税人がいたというのは、相当印象的なことだったと思います。

 そのマタイが、声をかけられ主イエスについて行くのですが、その時、イエス様と自分の友人たちを招き食事会を開きます。ともかく嬉しかったのでしょう。その食事の場に、当時の指導的宗教家たちがやってきて、「なぜ、あなたがたの先生、つまりイエスは、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか。」と質問しました。これは、マタイにとって、非常に辛い言葉だったと思います。自分が非難されるのならば、まだいい。ところが、自分が弟子になり、自宅に招いた結果、イエス様が非難されてしまった。自分のせいで、主イエスが非難される。これは、辛かったと思います。

 しかし、そのマタイの耳に聞こえてきたイエス様の声は、「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」でした。マタイと一緒に食事をしていて、非難されたイエス様は、いや、私はそのために来たのだ、と言います。マタイはこの言葉を直に聞きました。皆から、蔑まれ、つまはじきにされ、証言能力がないとされるほどの人格否定をされる中で生きてきたマタイにとって、このイエス様の言葉は、言いようのない励ましの言葉だったと想像します。このような私とともにいて下さる。いや、私といるために来たと言って下さる。そのことを実感したマタイの筆による、イエス様の姿。

 マタイの思いを意識しつつ、私たち自身にとっても、イエス様はともにおられる救い主であること。あるいは、私にとって、イエス様はこのようなお方だと考えていきたいと思います。

 

 以上、マタイの福音書です。一書説教として扱うべきと思うことがあまりに多く、ごくわずかなことしかまとめられていないように思いますが、あとは是非とも一人一人、マタイの福音書を実際に読んで頂きたいと思います。遂に約束の救い主が来られた。とうとう、やって来られた。一体、約束の救い主とはどのような方で、何を為されたのか。今一度、新鮮な思いで、喜びと感動とともに読み進めていきたいと思います。

 

 旧約聖書が指し示している救い主。神様が送ると約束した救い主。それは、間違いなく、このイエスであるということ。神の民の本来の生き方はどのようなものなのか。王として神の民に告げるイエス。教師として弟子を教えるイエス。私とともにおられる救い主。

 このようなマタイの感動、熱気、何としてでもこの救い主を知らせたいという思いを意識しながら、私たち一同で、深く深くイエス・キリストを味わいたいと思います。

2017年8月13日日曜日

マルコの福音書1章35節~38節「信仰者の勇気(3)~1人になる勇気~」

 
 世界を創り支配されている神様は、私たちに対して色々な方法で恵みを下さいます。その中でも、自分の周りにいる人を通して、神様から頂く恵みは格別のものがあります。親を通して頂く恵み。夫や妻を通して頂く恵み。子どもを通して頂く恵み。兄弟を通して頂く恵み。教会の仲間を通して頂く恵み。会社の同僚や、友人知人を通して頂く恵み。

 
自分のことを大切に育ててくれた親。人生の多くの時間を共有してきた伴侶。ともにいるだけで力をもらった子ども。切磋琢磨しながら、影響を与え会った兄弟。祈り合い、励まし合い、ともに礼拝をささげ、ともに教会をたて上げてきた教会員。同じ時代、同じ地域で生きた人々。

仮に、自分の人生にそのような人間関係、そのような交わりがなかったとしたら、私たちの人生はどれ程寂しいものになっていたでしょうか。寂しいだけの問題ではない。仲間との交わりが無ければ、今の自分とは異なる人格になっていたと思うのです。

 

 聖書は、様々な表現を通して、人を通して得られる恵み、その中でも特にキリスト者の交わりを通して得られる恵みについて、教えていました。

詩篇133篇1節、3節

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。・・・主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」 

 

 マタイ18章20節

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 

 箴言27章17節

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」

 

 他にも交わりの祝福を教えている箇所は多数挙げられます。引き続き、人を通して頂く恵み、キリスト者の交わりの祝福を覚えて、積極的に交わりの中に加わることを願います。

しかし今日は、仲間との交わりではなく、一人になることの意味に注目したいと思います。仲間とともに神様に向き合うことは大事なことですが、一人で神様に向き合うことも大事なこと。イエス様の姿から、一人になることの意味、静まることの意味、一人で神様に向き合う重要性を確認していきたいと思います。

 

 開きますマルコの福音書一章は、イエス様が公に救い主の活動を開始された頃の記録。「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(14~15節)と始まり、弟子たちを集め、二十一節からカペナウムという町での出来事が記されます。

 ある安息日の一日。主イエスが会堂で教えているところ叫び出した悪霊を追い出す事件が起こる。その後、熱病で寝ていた弟子ペテロの姑を癒し、もてなしを受ける。この段階で、会堂での奇跡、あるいはペテロ(シモン)の姑に対する癒しがカペナウムの人たちに伝わり、夕暮れ、安息日の終わりをきっかけに、イエス様のもとへ集まってきました。

 マルコ1章32節~34節a

「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。」

 

 日が暮れ、安息日が終わり、病の中にある人たち、悪霊につかれた人たちが手を引かれ、あるいは担がれ、「もしや癒されるかも」と期待しつつイエスのもとに連れてこられる。同時に、噂は本当なのか、奇跡を目撃したいと野次馬としてつめかけて来た人たちもいたでしょう。町中の者が集まって来たというのですから、その熱狂ぶりが分かります。この時、イエス様がいたのはペテロの家。田舎漁師の家ですから、それほど大きな家ではなかったと思われます。そこに、続々と人々が集まる。日が沈み、暗さが増す中で、一つの家に多くの人が群がる。熱気と喧噪、興奮に包まれた異様な状況。

 この中でイエス様は、連れて来られた病人を癒し、悪霊を追い出します。同じことが書いてあるルカの福音書には、「イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた」(ルカ4章40節)とあります。イエス様がその力を使えば、一言のもとに、集いし者たちの全ての病を癒し、悪霊を追い出すことが出来るのですが、ひとりひとりの痛みや苦しみに手を置かれることを選ばれました。人の弱さに向き合い、寄り添う救い主。主イエスの優しさ、麗しさが示される一つの場面です。

 

 ところで、「この日」イエス様がなしたことは、悪霊を追い出すことと、病人を癒すことだけではありませんでした。会堂に入って、教えていました(何を教えていたと書いてありませんが、十四節に記されている福音を教えていたと考えられます)。人々は、その教えに驚いたとも記されています。

 マルコ1章21節~22節

「それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられたからである。」

 

 日中、会堂で語られた教えに人々は驚嘆していました。しかし、その夜の人々の関心は、悪霊を追い出すことや病人を癒すことに集中していたのです。町中の者が集まりながら、その教えを聞こうとする者たちがいたと記されていないのです。残念というか、やはりというか。

おそらく今日でも、教会の看板に「病気を癒します」と掲げた方が、人が集まるのではないかと思います。「永遠のいのち」という看板は、私たちキリスト者からすればこれ以上ない重要なものですが、多くの人にはあまり重きがないもののように思われる。この時のカペナウムも似たような状況と言えるでしょうか。

 

 約束の救い主として公の活動を開始されたイエス様。病気を癒すことも、弱さの中にある人に寄り添うことも、救い主として大事なこととして、取り組まれました。しかし、救い主の働きの中心は、病気を癒すことではありません。一時的な癒しではなく、永遠のいのちを与えることこそ、救い主のなすこと。

 病人の癒し、悪霊が追い出される度に上がる拍手喝采に囲まれ、人々がますます熱狂する中で、果たしてイエス様の心はどのような思いであったのか。皆様は、この時のイエス様の気持ちをどのようなものだと想像するでしょうか。

 

 この夜、人々はいつまでペテロの家に集まっていたのか記されていませんが、それでも時間は進み、活動的な長い一日が終わります。そしてマルコは、続く早朝のことに焦点をあてます。

 マルコ1章35節

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 

 昨晩の喧噪から、明け方の静けさへ。夕方、町中の者が集まってきたのに対し、明け方、一人で寂しい所へ行かれた。マルコの筆は、動から静というコントラストを強調しているようです。

イエス様はその夜、弟子ペテロの家で泊まられたでしょう。周りには弟子たちがいました。つまり、弟子たちとともに、祈ることも出来る状況。しかし、一人で寂しいところに行き、一人で祈りに専念されました。

 なぜ、仲間とともに祈るのではなく、一人で祈ることを選ばれたのか。その理由は明確には記されていません。しかし、イエス様にとって、一人で祈る時間が大事であったということは、よく分かります。

 

十字架直前、ゲツセマネというところで祈る際、イエス様は弟子たちにもともに祈ることを求めました。聖書には、仲間とともに祈ることを願うイエス様の姿もある。同時に、一人で祈りに専念するイエス様の姿もある。仲間とともに祈ることも大事、しかし一人で祈ることも大事なのです。

それでは、一体この時、イエス様は何を祈っておられたのか。この祈りの時間は、イエス様にとって、どのような意味があったのでしょうか。

 マルコ1章35節~38節

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、『みんながあなたを捜しております。』と言った。イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。

 

 朝、暗いうちから祈っておられたイエス様。そこに弟子たちがかけつけてきます。「ともに祈らせて下さい」ではない。「みなが、探しています。」という報告でした。カペナウムの昨晩の熱狂は、昨晩だけのものではない。いや、むしろ更に拍車をかけた状況。

 弟子のペテロにも、群衆の熱が伝わっている印象があります。早朝、自分の家に人々が来て、主イエスに会いたいと言ったのでしょう。昨晩来ることが出来なかったのか。昨晩の続きをしてほしいということなのか。そこでペテロがイエス様を起こしに行くと、宿泊したはずのイエス様がいない。慌てて近隣を探したところ、祈っておられるイエス様を見つけたので、「みなが、探しています。」という報告、つまり「来て下さい」という願いとなったのです。

 

 つまり、カペナウムの町には、まだまだイエス様が活躍する余地があった。病の癒し、悪霊の追い出しというだけでも、イエス様が必要であった。更に言えば、「福音を聞きたい」という人が現れてもいない状況なのですから、「福音を知らせる」という意味でも、この町ですべきことはあるのです。

 ところが、イエス様は「近くの別の村里へ行き、福音を知らせよう。」と言われます。それこそ、自分の使命であると。

 カペナウムでも取り組むべきことはあり、他の町でもすべきことがある。私たちの目には、カペナウムに留まっても、救い主の使命を果たすことが出来る状況に見えるのですが、しかしイエス様は、他の町へ行こうと言われる。何故なのか。何故、他の町へ行こうとされるのか。その理由は記されていませんが、これが、イエス様が一人で祈られた結果。一人で父なる神様に向き合いイエス様が出された結論でした。

 

 イエス様が公に救い主として活動されたのは約三年。その間に行くべき町、なすべきことは山のようにありました。この時、カペナウムに留まり、活動を続けるのか。別な町へ向かうのか。片方が良く、片方が悪いという選択ではなく、どちらも意味があるような選択をする時。イエス様は一人で静まり、父なる神様と祈りの時をもたれました。

 全知全能、神の子である主イエスが、決断する時には祈られた。それも、一人で、他に邪魔されることのない状況で祈られた。このことに、一人になることの意味、静まることの意味、一人で神様に向き合う重要性が如実に現れているように思います。

 このイエス様の姿を、私たちはどのように受け止めるでしょうか。どれだけ真剣に、一人になること、静まること、一人で神様に向き合うことの重要性を受け止めるでしょうか。

 

 私たちの人生は選択の連続です。今日何を食べるか、どのような服を着るかなどの、小さな選択もあれば、進学、就職、結婚のような大きな選択もある。何かを選択する時、特に自分の人生に大きな影響がある選択をする時。あるいは自分の使命は何なのか、どのように生きることが神様の目的に沿ったことなのか考える時。私たちはどれだけ真剣に祈り、一人で神様に向き合ってきたでしょうか。

 現代の日本に生きる私たち。一人で神様に向き合うことに時間を使うのには、ある意味で勇気が必要です。

 活動的であること、生産的であること、経済的に意味のあることは重要。非活動的なこと、何かを作り出すこともなく、経済的に意味のないことは価値がないという考え方が蔓延しています。このような時代にあって、一人静かに、神様との時間を持つことに、本当に重要な意味があると信じなければ、とても取り組めません。

 また、事あるごとによく祈ること、一人で神様に向き合うことに取り組んでも、それで万事うまくいくわけでもありません。祈りの中で、これこそ、私に与えられた使命。これこそ、神様の導きと確信をしても、後になってそうではなかったと思うこともあります。一人で神様に向き合うことに取り組んでも、状況は変わらず、引き続き悩みながら、選択を続けていくこともある。それでも、一人静かに、神様との時間を持つことに重要な意味があると信じることが出来るかどうか。

 選択をする時、決断をする時、自分の使命を確認する時。イエス・キリストですら、一人静かに、祈りの時間をもたれた。神様との時間を持たれた。このイエス様の姿を、私たちはどのように受け止めるでしょうか。どれだけ真剣に、一人になること、静まること、一人で神様に向き合うことの重要性を受け止めるでしょうか。

 まさに今、多くの人にとって休みの時期となりました。この時、是非とも、一人静かに、神様との交わりを持つことが出来ますように。今一度、自分は何故、命が与えられ、この時代、この場所で生かされているのか。与えられた使命はどのようなものか。神様との関係でよく考えることが出来ますように。一人静かに、神様との交わりの時間を持つことが、私たちにとって喜びとなりますように。皆で祈りたいと思います。

 最後に、神様との交わりの麗しさを歌った旧約の名詩篇の冒頭を読み、説教を終えたいと思います。

 詩篇65篇1節~4節

「神よ。あなたの御前には静けさがあり、

 シオンには賛美があります。

 あなたに誓いが果たされますように。

 祈りを聞かれる方よ。

 みもとにすべての肉なる者が参ります。

 咎が私を圧倒しています。

 しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を

 赦してくださいます。

 幸いなことよ。

 あなたが選び、近寄せられた人、

 あなたの大庭に住むその人は。

 私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の

 良いもので満ち足りるでしょう。」

2017年8月6日日曜日

マタイの福音書7章6節「山上の説教(37)~豚に真珠~」


今日の個所には、日本人にも馴染みのある「豚に真珠」と言う格言が登場します。このことばの源が聖書にあると聞いて、驚く方、意外に思う方もおられるでしょう。豚に真珠。他に、猫に小判、馬の耳に念仏と言うのも、ほぼ同じ意味のことばとして挙げることができるでしょうか。

豚に真珠の価値は分らない。猫に小判の価値は計れない。馬にはありがたい念仏も通じない。豚、猫、馬と動物の名前があげられますが、要するに、どんなに貴重な物も、その価値分からない人がいる。どれ程尊い教えにも、反発する人がいる。そういう人間のもつ愚かさ、頑固さを、印象的に伝えています。

そうだとすれば、このような格言が私たちイエス・キリストを信じる者にとって、一体どんな意味があるのか。神様を天の父と信じる私たちの生き方に、どのような影響を与えるものなのか。イエス様の教えるところに耳を傾けたいと思います。

イエス様が、故郷ガリラヤの山で語られた山上の説教も37回目。先回は、「さばいてはいけません。さばかれないためです」(7:1)として、人の欠点を注意したり、人の課題を指摘する際、私たちが抱く高慢な思い、私たちが示す人を責める言動。これが戒められました。

「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(7:5)とある様に、人を正す前に、まず神様の前で自分を省みよ。自分の思い、自分の言動を正すことから始めよ、と言う勧めです。

こうして、人にケチをつけたり、非難したりすることを避けよと命じたイエス様。しかし、だからといって、人のことについて一切判断したり、見分けたりしてはならないとは言っていません。むしろ、聖書には「人のことをわきまえ知れ」とか「偽預言者を警戒しなさい」等、人のことを判断し、見分けるようにと言う勧めが、随所に見られます。

ですから、イエス様は、公平に正しく人のことを判断できるよう、先ず私たちの中から人をさばく心と態度を取り去ることを命じました。その上で、人の心の状態を正しく判断することを求めている。それが、今日の6節です。

 

7:6「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」

 

犬や豚を大切に飼っている方々、特に犬や豚を家族同然と感じている愛犬家、愛豚家にとっては、心外でしょうが、イエス様の時代の文化においては、犬も豚も汚れた動物とみなされていました。そのために、しばしば、神様の教えに反発する、頑固で愚かな人間の姿を示すものとして、犬と豚は登場してきます。

 

 箴言26:11「犬は自分の吐いた物に戻る。」

 Ⅱペテロ2:22「豚は泥の中にころがる。」

 

「聖なるもの」は、もともと神殿で神にささげられた供え物のことですが、イエス様は神の国の教え、神様の真理と言う意味で使っていると考えられます。福音と言い換えても良いでしょう。「真珠」も同じく神様の真理、福音を指しています。

神様の真理を語っても、犬や豚の様に、その価値が理解できず、受け入れない人がいる。間違った生き方に戻ってゆく人がいる。福音を伝えても、嘲ったり、怒りを向ける人もいる。だから、そう言う態度を取る人、そういう心の状態にある人には、神様の真理を伝えることを控えよ。そう、イエス様は弟子たちに教えているのです。

勿論、私たちは誰が神様の教えに対して頑固なのか。怒りを感じるぐらい反発心で満ちているのか。判断することはできません。前もってそのような判断を下すことは、イエス様が禁じている「人をさばくこと」にあたります。しかし、実際に福音を伝えた時の反応、態度によって、その人の心の状態が判断できるし、判断しなければならないと言うことでしょう。

実際、聖書の中には、イエス様のこの様な行動が描かれています。ある時、五千人もの人が腹を空かせているのをあわれに思ったイエス様は、二匹の魚と五つのパンで人々を満ちたらせると言う大奇跡を行いました。けれども、人々がそれをきっかけにご自分を地上の王にしようと考え始めたことを知ったイエス様は、彼らに教えるのをやめました。

 

ヨハネ6:1415「人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」

 

これ以上教えたり、奇跡を行うことは、人々にとって豚に真珠。ますますイエス様を罪からの救い主とする信仰から遠ざけ、ユダヤの王とする思いを強めるばかりと判断されたのでしょう。イエス様は人々から離れ、一人山に退かれたのです。

また、使徒の働きには、パウロがギリシャのコリントの町で伝道した際、ユダヤ人たちが激しく反抗したことが記録されていました。

 

使徒18:46「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。」

 

 イエスが救い主と言う福音を示されたユダヤ人は、パウロに反抗し、罵りました。神の真理を足で踏みつけました。これに対して、パウロはユダヤ人に背を向け、ギリシャの異邦人へと向かったのです。

 以上、イエス様と使徒パウロの例を見てきました。もし、私たちが本当に人を助けようと思うなら、相手の心の状態を理解すること、その人にふさわしい時や伝え方を考えること。福音に関心を持っている人に心を向け、行動すべきことを教えられたいと思います。

 時も場所もわきまえず、相手の心の状態も考えず、ただ闇雲に神のことばを伝えればよいと言うものではない。相手にとって最善の機会を待ち、それをとらえて行動する。私たちがこうした面でも成熟してゆけたらと思います。

 それでは、神を認めない人、福音に反対、反抗する人、そういう人々の心が変わるのを、ただ待っていればよいのでしょうか。その間、何もすべきことがないのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。参考になるのは、十字架上のイエス様の姿です。

 

 ルカ23:3338「「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」

 

 世界史上最も残酷な刑と言われる十字架。その十字架の苦しみを忍びながら、イエス様は、宗教指導者、民衆、ローマの兵士、あらゆる人からの嘲りと罵りを受けとめていました。人々のために十字架にかかられたのに、その人々から迫害される。私だったら、「いい加減にしろ」と大声をあげ、怒り爆発。ありとあらゆることばを用いて、罵り返していたことでしょう。

 しかし、イエス様はそうされませんでした。ペテロは、このイエス様の行動に神様への信頼を見ています。

 

 Ⅰペテロ2:2223「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」

 

 福音に反対する人のために、私たちができる第一のこと。それは、行動による証です。たとえ、ことばで福音を伝えられなくとも、私たちには、相手に対する行動によって、神様が真実な方、愛の方であることを証しする自由が与えられています。言われたら言い返したい。やられたらやり返したい。そんな古い自分に死に、神様のみこころに従う事を選ぶ。その様な生き方をもって、福音の力を人々に示す者となりたく思います。

 第二は、祈ることです。この場面、イエス様の体にも心にも殆ど力は残っていなかったことでしょう。十字架の前には、鞭打ちの刑を受けました。これで死んでしまう人もいたと言う程過酷な刑罰です。さらに、体を釘づけにされ、呼吸もできない状態で体を上下させねばならない苦しみ。加えて、心が折られるような嘲りのことばを浴びせられました。

 そのような状態で、イエス様は残された力を振り絞って、天の父に祈ったのです。それも、自分を助けてほしいと言う祈りではなく、自分を苦しめる人々を赦してほしいと言う祈りでした。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 それこそ、犬の様にイエス様を踏みにじり、豚の様にイエス様に引き裂いた人々のために、祈られたイエス様。彼らの救い、彼らの幸いを誰よりも願ったイエス様。このイエス様の様に、私たちも、キリスト教に反対し、私たちを苦しめる人のために、その人々の救いと幸いのために、祈る者でありたいのです。

 この様なイエス様の行動、そして祈りから、果たして何が生まれたでしょうか。多くの人が嘲り、罵る中、二人の人の心に変化が生まれたことを聖書は告げています。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗の一人は、「イエス様。あなたが御国の位におつきになる時には、私を思い出してください」と告白しました。イエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、「この人は、本当に正しい方であった」。そう呟きました。イエス様の行動、そして祈りは、確実に神様の恵みを人に伝え、その人生に影響を与えていたのです。

 私も信仰の友から同じ恵みを受けました。「キリスト教は信じられない」「教会など行きたくない」と何度断っても、いやな顔一つせず、日曜日の朝になると教会に誘うため、アパートのドアを叩いてくれた信仰の友。信仰を持ってから半年。あることに躓いて、教会を離れた私のために、ずっと祈り続けてくれた兄弟姉妹。彼らの行動、彼らの祈りがなければ、今の私はなかったと思います。

 山下金次郎長老から、お聞きした証しがあります。親に無断でキリスト教の洗礼を受けた娘さんを、金次郎長老は迫害したそうです。反対されても教会に行くことをやめない娘さんを、柱にしばりつけたことも、教会に怒鳴り込んだことも数知れず、だったそうです。

当時、金次郎長老は大工の棟梁。この地域は仏教の影響が色濃く、金次郎長老は、個人の住宅だけでなく神社仏閣の建築にも携わることがあり、キリスト教信仰などもっての他と言うお考えでした。ご自分は勿論のこと、家族がキリスト教信仰など持ったら、大工の仕事も失い、一族郎党路頭に迷うかもしれないと言う不安もあったようです。

 しかし、反対されても、縛られても、親に歯向かうことのない娘さん。教会の礼拝に行くことをやめようとしない娘さんの姿に脱帽。娘がこれ程信じている神とはいったい何者ぞ。そう言う思いで教会に行き、ついにキリスト教迫害の鬼が、イエス様に養われる一匹の羊に変えられてしまった。そう笑って、証ししてくださいました。

 私たちが神様を信頼してなす行動。人の救いと幸いのために神にささげる祈り。それが、いかに人を変えるものかを見てきました。

 しかし、ことばによって福音を伝えられない時でも、私たちにできることがもう一つあります。それは、相手がキリスト教信仰について尋ねて来た時、それに応える備えをしておくことです。今日の聖句です。

 

 Ⅰペテロ3:15,16「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」

 

皆様は、キリスト教信仰について尋ねられた時に備えて、どんな準備をしているでしょうか。自分の救いの証しを書いておく。いつでも、人に渡せるように持ち歩く。キリスト教のことが簡単にわかるトラクトを用意する。この聖書のことばから、自分の生き方について話ができる、そんな聖句を準備しておくことも良いのではないかと思います。

 皆様一人一人の周りに、神様が置いてくださった家族、友、同僚、地域の隣人を愛すること、祈ること、説明を求めて来た時のために準備すること。私たち皆でその様な歩みを進めてゆきたいと思います。