2017年8月27日日曜日

マタイの福音書7章7節~12節「山上の説教(38)~求め、捜し、たたく者~」


 私が担当する礼拝では、基本的に山上の説教を取り上げてきました。イエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、聖書中最も知られ、親しまれている説教です。私たちが読み進めてきたこの説教も、今日で38回目となります。

 山上の説教には名言、名句が多い。名言、名句の宝庫だと言うことを、これまで何回かお話してきました。今日の箇所もその例に漏れずで、良く知られたことばが登場してきます。それは7節の、

 

 7:7「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

 

です。このことばは、「求めよ。さらば与えられん。求めよさらば与えられん、尋ねよ、さらば見出さん、叩けよ、さらば開かれん」という文語調の方に親しみを感じる。そういう方もいるでしょう。

 ところで、ある辞書に、このことばの意味として、「この世では常に、求める者は得、捜す者は見出し、門を叩く者は開けてもらえる。自分から行動すれば、人々も神も必ず応えてくれる。何かを欲するのなら、それを求めて自ら積極的に動く姿勢が大事だということ」と書かれていました。

また、「何ごとでも、自分の願うことを求め続けるなら、神様がそれを叶えてくれる」。そう理解されていることばでもあります。この様に、聖書の名言が、聖書本来の意味から随分かけ離れ、理解されていることが、しばしばあるものです。

 それでは、イエス様はどのような意味で、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と言われたのでしょうか。

 ここで、山上の説教の流れを振り返ってみたいと思います。山上の説教は、イエス様による「心の貧しい者は、幸いです」という第一声でスタートしました。冒頭に置かれたのは、八つのことばのすべてが、「幸いなるかな」で始まる、八福の教えです。

 続くは、「あなたがたは地の塩、世界の光です」とのイエス様の宣言です。山上の説教の教えに従って生きる私たちの存在が、この世界にとって欠かせないもの、この世界を祝福するものであることが教えられ、励まされるところです。

 また、殺してはならない、姦淫してはならない、目には目を、歯には歯を等、旧約聖書にある戒めの真の意味を説くことにより、さらに、施し、祈り、断食など、宗教的な行いについて説明することにより、神の子どもにふさわしい義しい考え方、生き方を、イエス様は教えてくださいました。

 そして、今日の箇所です。今まで、様々な教えを語ってこられたイエス様が、ここからは、その教えを実践すること、実践の勧めに入ります。イエス様の教えを聞いただけで、私たちは幸いな者となるわけではありません。イエス様の教えを知っただけで、地の塩、世界の光になれるわけでもありません。聞いて、理解した教えを生活に適用すること、実践することを通して、私たちは幸いな者となり、周りの人々を祝福する存在となれるのです。

 その実践の勧めにあたり、イエス様は先ず「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と語られました。何故,イエス様は、私たちに求めよと命じたのでしょうか。また、何を、どの様に、誰に求めよと言われるのでしょうか。

 皆様に質問したいことがあります。皆様は、これまで語られてきたイエス様の教えを、実践しようとしたことはあるでしょうか。その際、何を感じられたでしょうか。従うことができたという満足でしょうか。それとも、願っても、なかなか実践できないと言う無力感や、自分を責める思いでしょうか。

 ある時、イエス様の所に一人の裕福な青年がやって来て、「永遠の命を得るために、自分は何をしたら良いですか」と尋ねる。その様な二人の問答が、聖書に記されています。

 

 マルコ101721「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」

イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」

すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。…」

 

若くして努力を重ね、裕福であった青年が、永遠の命を求めてイエス様のもとに来る。この熱心な好青年が、イエス様に聖書の戒めを示されると、自信満々。私はそのようなことを皆、小さい時から守っていますと答えて、憚りませんでした。

神様の戒めを、人間社会の法律と同じものと考え、実際に人を殺したこともないし、姦淫したこともないし、盗みを働いたこともないから、自分は大丈夫と、正しい人間だと答えたこの青年。

しかし、イエス様の目から見れば、この青年には致命的な欠けがあったのです。それが、びた一文、築いたものは手放すまいと、財産にしがみつく貪欲の罪であることを示された青年は、残念ながらイエス様のもとを去ってゆくことになります。

しかし、イエス様の山上の説教を聞いた私たちは、神様が人の心の奥底まで見られるお方であることを、徹底的に教えられました。あの青年のように、神様の戒めを守ってきましたとは、到底言うことができないでしょう。

イエス様は「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」と言われました。この教えに面と向かうと、私たちは人の悪口を言って、心の中で殺人を犯す自分を思います。

 イエス様は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい」と語りました。これを読むと、私たちは自分にもえぐり出すべき目があることを自覚させられます。

 イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。…自分を愛してくれる者を愛したからと言って、何の報いが受けられるでしょう」と命じました。この教えを前にすると、私たちは、自分の敵を愛せない、いや愛そうとしない自分。時には、自分に良くしてくれる人にさえ、邪険な態度をとる嫌な自分がいることを感じます。

 イエス様は「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」と説きました。私たちは、この言葉の中に、何をするにも、人の目、人の評判を気にしてやまない、自分の姿を見るのです。

 イエス様は「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」」と問いかけました。そう問われて、私たちは、己の欠点は棚上げにして、裁判官気取りで人の欠点を責める高慢な自分の言動に気がつき、心刺されます。

殺人、姦淫、憎しみ、偽善、高慢。山上の説教を実践しようとする時、私たちは自分の罪深さを覚えざるをえません。本来なら、神様に裁かれてしかるべき存在であることを感じるのです。山上の説教を実践しようとする思いに乏しく、力にも欠ける情けない自分が見えてきます。

 この自覚に立つ時、イエス様がここで求めよと命じているものが何であるか、見えてくるように思います。私たちが求めるべきは、救いがたい罪を赦してくださる神様の恵みです。イエス様の教えに従いたいという思いです。イエス様の教えを実践する力です。ことばを代えて言えば、きよめられることです。

 この様な恵みを、神様に求めよ、求め続けよ。どこまでも、執拗に、祈り求めよ。神様は必ずその祈り、その求めに答えて、これ等の恵みを与えてくださるから。イエス様は、罪と無力に悩む私たちを、そう励ましてくださるのです。

 さらに、私たちの信じる神様が、天の父であることを思い起こさせ、弱き私たちを支えておられます。

「いくら何でも、これほど罪深く、情けない者を,神様は助けてくださるのだろうか」。「自分のような出来の悪い者は、見捨てられてしまうのではないか」。そう心細く感じる私たちに、「大丈夫だよ。神様はあなたのことを大切な子どもと思っておられる天の父だから」。そう、イエス様は語りかけてくださるのです。

 

7:9~11「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

 

 人間の親であっても、パンを欲しがる子どもに、固くて食べることのできない石を代わりに与えるようなことはすまい。魚を欲しがる子どもに、恐ろしい蛇を代わりに与えるようなこともしないだろう。

人間の親でさえ、可愛い子どもに必要な良いもの与える愛があるとすれば、なおのこと、天の父なる神様は、あなたがた神の子らに良いものを与えてくださらないことがあろうか。必ず与えてくださると信じよ。そう信じて祈り求めよ。

 イエス様は、私たちの罪のために十字架で死なれました。天の父に求めるなら、私たちは罪の赦しの恵みを受け取ります。この恵みを受け取って、私たちは安心し、自分を責める思いから解放されます。

イエス様は、本来裁かれるべき私たちの代わりに十字架につき、命をも惜しまず、私たちを愛してくださいました。天の父に祈り求めるなら、私たちはイエス様の愛を受け取ります。この愛を味わう時、イエス様の教えに従いたいという思い、従い続ける力が、私たちの心に与えられるのです。

 罪の赦しの恵み、神様の教えを慕う思い、それに従い続ける力。私たちにとって、本当に必要な、これらの良きものを、どのようにしたら得ることができるのか。聖書の教えるところを、聞きたいと思います。

 

Ⅰヨハネ19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

自分の罪を神様に告白する。神様から罪の赦しの恵みを受け取る。神様の愛に励まされて、その教えを慕い、心を尽くして従ってゆく。たとえ自分にガッカリすることがあっても、惜しまずに良いものを与えてくださる神様に信頼し続ける。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。イエス様が求めているのは、このような歩みであることを、私たち確認したいと思うのです。今日の聖句です。

 

Ⅰヨハネ3:23「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

 

イエス様を信じる私たちはみな、神の子どもです。神の子どもは、キリストに似た者へと造りかえられる道を歩んでいます。まだ、道の途中にありますから、罪を犯してしまうこともあります。前進していると感じることもあれば、ひどく後退してしまうこともあるでしょう。そこで、最後に二つのことを確認したいと思います。

一つは、神様が、私たち神の子らを必ず、また確実にキリストの似た者へと造りかえてくださると信頼すること。二つ目は、神様が必ず造りかえてくださることに安心しながら、罪を悔い改め、神様の教えに従う歩みを、何度でも繰り返し、続けること。これが、自分を清くすることです。

求め、探し、たたき続ける者としての歩み。私たち、お互いに励ましあいながら、みなでキリストに似たものへと造りかえられる道を進んでゆきたいと思うのです。

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