私の母は83歳。長野県の田舎で一人暮らしをしています。最近家に帰ると、母が良く言うことがあります。「俊彦、コンビニって本当に便利だね」言うことばです。五年ほど前、実家のそばにコンビニができた時は、こんな田舎の高齢者しか住んでいないような場所で、コンビニ等やっていけるのかと思ったのですが、母によれば結構繁盛しているそうです。
「農協には売っていない、一人用のごはんやおかずが沢山あり、サバの味噌煮など本当に美味しい。わざわざ郵便局まで行かなくても、そこで年金を受け取ることもできるし、店員さんも親切で、コンサートのチケットも頼むと買ってもらえる」。そう言うのです。
買い物難民と言うのでしょうか。母のように車がなく、バスも通っていない地域に住んでいる一人暮らしの老人にとって、近くのコンビニは重宝なもののようです。
また、この辺にお住まいの方はご存知かもしれません。我が家の近くに大戸屋という食堂があります。この間妻と二人で食事をしていた時、続々と入ってくるお客を見て、妻が言いました。「パパ、主婦が家族と外食する時、この店を選ぶ人は多いと思うよ。だって、しっかりご飯が食べられて、値段も手ごろ。店も明るいし、何よりどんな定食にも野菜がたっぷりついていて、栄養のバランスが良いから」。これは、妻の分析ですが、そう言えば、大戸屋の外にも家族連れが並んでいるのを、よく見かける気がします。
私の田舎にあるコンビニと家の近くにある大戸屋。二つの店には、共通点があります。それは、その地域に住む人が何を願い、欲しているかを考え、それを提供しようとしている点です。もし、自分が一人暮らしの老人だったら、もし、自分が家族の健康を気遣う主婦だったら。そういう姿勢で商売をしていることです。
礼拝の際、読み進めてきた山上の説教。イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教で、聖書中最も有名な説教ですが、今日のテーマは、愛とは人の立場、人の気持ちになって考え、行動するということです。
7:12「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
「律法であり預言者」と言うのは旧約聖書のことです。イエス様の時代、まだ新約聖書はできていませんから、旧約聖書イコ―ル聖書です。つまり、イエス様は「何ごとでも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」との教えは、聖書の中心的な教えだと語っています。聖書には様々な教えがあるけれども、その根本にあるのが、この教えであることを示されたのです。
この隣人愛の教えが、聖書の中心であることを、イエス様は、もう一度語っています。イエス様がこれ程強調されたことを記憶していたのでしょうか。新約聖書には他に三回、合計五回、隣人愛こそ神様の教え、神様の命令の中心であることが記されていました。
そして、他の箇所に比べると、山上の説教におけるイエス様の教えは、具体的でわかりやすい。子どもでも理解できるほどです。ただ隣人を愛せよと言われても、具体的に考えようとしない人間のことを顧みて、優しく、かみ砕いて語るイエス様のお顔が見えてきます。
これが多くの人に、分かりやすく、覚えやすいことばと言う印象を与えたのでしょう。名言、名句の宝庫と言われる山上の説教の中で、このことばも昔から、広く親しまれてきました。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」。誰が言い出しだしたのかは分かりませんが、いつの頃からか、これは黄金律、ゴールデンルールとも呼ばれるようになりました。政治家から経営者さらには無名の人に至るまで、この言葉を座右の銘にした人、あるいはしている人は、それこそ数知れずでしょう。
ところで、これと類似することばを語った人物が、イエス様以外にもいたということが、よく言われます。代表的なのは、お隣中国の人孔子です。「己れの欲せざる所、これを人に施すこと勿れ」。自分がして貰いたくないことを、他人にしてはならないという意味でした。
イエス様の教えは「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」として、積極的であるのに対して、孔子の方は「自分にしてもらいたくないことは、他の人にもしてはならない」とあり、消極的です。
振り返ってみれば、イエス様の勧める隣人愛は、いつも積極的でした。例えば、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とあります。自分に嫌なことを言い、ひどいことを行う相手のことを我慢し、忍耐するだけでも立派な態度、美徳と言えるでしょう。しかし、イエス様はそんな人間社会の常識を飛び越えて、自分を罵る人を愛し、自分を苦しめる人のために祈れと命じられたのです。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」。今日の教えにも、イエス様の積極性が光っています。
「あっ、兄ちゃん、よくも叩いたな。僕にも仕返しさせてくれ」と、叩き返す弟。すると、「いてー。おれはそんなに強く叩かなかったぞ。卑怯者め。」と、兄が叩きかえす。すると、「そんなに痛くなんかなかったぞ。やり過ぎだ」と、弟がやり返す。
そうして、叩かれたら、叩き返す。手のひらが拳骨となり、拳骨が棒となり、棒が鉄砲となり、鉄砲が大砲になり、大砲がミサイルとなる。夫婦、親子、兄弟。隣人同士、国と国。これが、私たちの現実です。
そうだとすれば、自分が叩かれたくないから、叩き返したくなっても我慢する。自分がひどいことを言われるのは嫌だから、言い返したくても忍耐する。人に悪口を言われるのは不愉快だから、自分も人の悪口は言わない。何にせよ、自分にしてもらいたくないことは、他の人にもしない。これだけでも至難の業。世間の常識からすれば、十分な美徳ではないかと思われます。
しかし、惜しむらくは、消極的な隣人愛の勧めには、どこか自分のためという影が付きまとっています。自分が叩かれたくないから、叩き返したくても我慢する。自分がひどいことを言われるのは嫌だから、言い返したくても忍耐する。自分を守るための我慢、忍耐です。自分を守るための賢い対応、知恵ある対処という気がします。
それに対して、イエス様の教えには、自分を守るという姿勢は感じられません。むしろ、自分が好きになれない人でも、自分が不利な状況になっても、人の立場に立ち、人の欲することを行う。行動にあらわされた愛を大切にしているのです。
イエス様の勧める隣人愛実践の例が、旧約聖書の律法として記録されていました。
出エジプト23:4、5「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」
当時、牛やロバは貴重な労働力であり、大切な財産でした。そのことを踏まえて、自分だったら、この場合どう行動するのか。考えてみてください。自分を憎く思う人のロバや牛なら、助けてやりたくないという気持ちはわかる。いや、自分には、助ける義理も義務もないと考えるのが、当時も今も普通でしょう。
しかし、そうであっても、その人に協力して助けてあげなさいという勧めです。
イエス様自身も、自らこの隣人愛を実行されました。ひとつの例を挙げれば、どのような労働も禁じられていた安息日に、手の病を患う人を癒したことがあげられます。
マルコ3:1~6「イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。
それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。」
最後の所に、パリサイ人とヘロデ党という、普段は仲が悪い指導者同士が、肩よせ合って、イエス様を抹殺する相談をしたとあります。指導者たちの敵意をあおることを承知の上、自分が危険な状況になることを覚悟の上で、手の萎えた人の願いのために尽くしたイエス様の姿です。
自分を憎む人のことを我慢するにとどまらず、その立場に立って、その人が欲すると思うことを行う。たとえ、自分が非常に不利な状態になることが分かっていても、苦しむ人の願いを察して、それを助ける。こうした、聖書の律法、イエス様の実例を見てきますと、具体的でわかりやすいと思われたこの教えが、それを実行するとなると高い壁のように、行く手を遮るのを感じるのです。
聖書は、私たちはみな神様の前に罪人であると教えています。その一つの意味は、神様に背いた時から、私たちの隣人愛は自己中心なものとなってしまったと言うことです。
私たちは、自分が人に何をして欲しいかについては、よく考えます。妻に尊敬してほしい。夫に話を聞いて欲しい、共感してほしい。周りの人からねぎらいのことばが欲しい。上司に働きを評価してほしい。部下に自分のことを信頼してほしい。
問題はその次です。今度は、それと同じことを相手にもしてあげたことがあるだろうかと考えてみてほしいのです。自分の話は聞いて欲しいのに、他の人の話にはあまり関心がなく、時間ばかり気にしている。自分のことは認めてほしいのに、他の人のことは案外無視している。自分は不当に扱われたと抗議するけれど、立場が逆になれば、人の気持ちなど意に介さない。どこまでも、徹底的に自己中心なのが、私たちの現実ではないでしょうか。
また、私たちの隣人愛は、自分を守るため、自分の利益のため、という側面を持っています。私の母が暮らす田舎にできたコンビニや、我が家の近くにある大戸屋が、不利益を覚悟して、地域の人々の願いに応えるとは思えません。敵対するライバル店のために、塩を送るような親切をするとも考えられません。
しかし、私たちも同じではないでしょうか。自分に嫌なこと、不当なことをしてくる人に対しては、我慢や忍耐が精一杯。とても、心からその人の欲することを行って、助けようとは思えません。自分が不利益になることを覚悟の上で、人のことを顧み、人の願いに応えることも、本当に至難の業と思えます。
そうだとすれば、何故イエス様は、この積極的な隣人愛の実践を勧め、命じているのでしょうか。それは、イエス様を信じる私たちが神様の子どもだからです。私たちが神様の子どもとして愛され、本来なら受け取る資格のない良いものを受け取っているからです。
前回学んだ7:7~11をお読みします。
7:7~11「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
神様は、私たちの価値に応じたものをくださるのではありません。神様は、私たちが裁かれるべき罪人であるにも関わらず、良いものを与えてくださるのです。日々の糧、健康、仕事、大切な家族や友人、何よりも罪の赦しの恵み、永遠の命など、それらを受け取る価値のない私たちを良いもので満たしてくださるお方なのです。
私たちの神様は、父が子どもを恵みを惜しまないように、私たちに恵みを注がれるお方であることをよく知ること。神様の恵みを喜び、味わうこと。神様との交わりを通して、心励まされ、隣人愛の実践に取り組むこと。それが、イエス様の願いではないかと思います。
果たして、私たちは神様が与えてくださった恵みをどれほど数え、感謝しているでしょうか。受けて当然のものと考えてはいないでしょうか。神様の恵みを味わうために、日々の生活の中で、どれほど時間を取っているでしょうか。
どこまでも自己中心で罪深い私たちに、惜しみなく赦しと恵みを与えてくださる神様に心を向けつつ、一歩一歩進む隣人愛の道。イエス様の歩まれたその道を、私たち皆で進んでゆきたいと思うのです。今日の聖句です。
マタイ7:12「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
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