2018年1月21日日曜日

ルカの福音書11章5節~10節「祈り~願い続ける信仰~」


新しい年になり、礼拝説教では信仰の基本的な事柄を確認しています。一回目が「礼拝」、二回目が「伝道」、今日は「祈り」をテーマとします。祈りとは何か。どのように祈れば良いのか。神様は私たちに、どのようなことを願われているのか。皆様とともに考えていきたいと思います。(例年、年始三回目の説教テーマは「交わり」ですが、二月に予定しているウェルカム礼拝にて「交わり」を扱います。)

 

祈りというテーマは、キリスト教独自のものではありません。全人類、人間ならば誰しも祈る。世界中、あらゆる民族、あらゆる文化を調べると、「宗教」は必ずある。人間は祈る動物と言われます。普段、神などいるかとして生きている人も、自分ではどうにもならない問題にぶつかった時には、つい祈るということがある。

しかし、では誰に祈るのかとなりますと、様々です。日本人は色々なものを祈りの対象にします。先祖、太陽、山、木や石で出来たもの。それは、日本人だけのことではなく、世界中で同様でしょう。「鰯の頭も信心から」という言葉もあります。「祈るという行為が大切なのであって、誰に祈るのかは関係ない。」とを言う人もいますが、本当にそれで良いのでしょうか。

人間は祈るもの。祈らざるをえない本能を持ち、祈り心を持ちながら、しかし、誰に祈ったら良いのか、どのように祈ったら良いのか、分からない人が多くいる状況。

 

 聖書は、誰に祈ったら良いのか分からない状態にある人を、悲惨な状況にあるとして描いています。

 詩篇115篇4節~8節

彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これを信頼する者もみな、これと同じである。

 

 誰に祈れば良いのか分からない。祈りの対象にしてはいけないものに祈る。これは本当に悲惨です。私たちの祈りに、何の応答も出来ないものに必死に祈る。一人相撲、独り言となる祈り。苦難、困難、自分ではどうにも解決出来ないことがあり、それで必死に祈るのに、答えがない。誰に祈ればいいのか分からないというのは、悲惨です。

 このように考えますと、誰に祈ればいいのか知っているということが、どれほど大きな恵みなのか。世界の造り主を知り、信じている。この方に祈れば良いと分かっていることだけでも、本当に感謝なことだと思います。今一度、私たち一同で、主なる神様を知る者、信じる者にされたことを、喜びたいと思います。

 人間は祈る存在。私たちは祈る相手を知っている。世界を造り、支配し、私たちを愛している父なる方に祈ることが出来る。それがどれ程幸いなことなのか、理解している。しかし、それでも私たちは祈ることが苦手。自分の願うように、祈りの生活を送ることは難しいものです。時に、祈ることに喜びがあり、充実した祈りの生活を送れることがあります。しかし、時に、祈りことが空虚に感じること。喜びがない、形骸化した祈りの生活となることがあります。

 先輩カルヴァンは、主なる神様を知りながら祈らない人を、次のように表現しました。「神が全ての良きものの主であって、ご自身に求めよと我々を招いていることを知っても、祈ることをしないのは、地中に宝が埋められていると教えられながら無視している人のようであろう。」簡単に言えば、信仰者が祈らないのは、勿体ないということ。信頼する人から、ここに宝があると言われれば、喜び勇んで掘り出すはず。しかし、何故か「祈り」においては、掘り出さない、無視することがあるのです。

 

 大切さを理解している程、祈ることが出来ない。願うような祈りの生活になっていない。祈りが苦行のように感じられる時。皆様はどうするでしょうか。どのように改善するでしょうか。喜んで祈ることが出来るようになるために、どのようなことに取り組んだら良いか。多くの助言があります。

祈りが喜びであるという人とともに祈る。祈祷会などの定期的に祈る場へ参加する。「祈りとは何か」、聖書や信仰書から学ぶ。祈りについて分かち合う。毎日の中で、祈る場所、時間を定めて習慣とする。祈りの記録をし、神様がどのように答えて下さったのか確認する。これまでの経験から、自分が祈りたくなるのはどのような時か考え、同じ経験をする。あまりに忙しい場合は、生活のペースを落として時間を作る。「喜んで祈れるように」と祈る。あるいは、そのようにお祈りしてもらう。などなど、喜んで祈ることが出来るように、私たちが取り組んだら良いことは、様々あります。

 

 祈りの生活が喜びとなるために、私たちが取り組むと良いことは色々ある。しかし、特に取り組むべきは、神様がどのようなお方であるのか知ること。私たちが祈ることについて、神様はどのような願いをもたれているのか、知ることではないかと思い、今日は一つの箇所を開きます。

 イエス様が語られた「真夜中の友人」という名で知られるたとえ話。

 ルカ11章5節~7節

また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』

 

 話自体は簡単なものです。真夜中に、旅の友人が、自分の家に来た。イスラエル地方では、日中の暑さを避けるために、夕方から夜中にかけて旅をすることはよくあったようです。旅の友の突然の訪問。電話などない時代。真夜中に旅の友の訪問を受けた人も、戸惑ったでしょう。とはいえ、友との交わりは嬉しいもの。歓迎したい、もてなしたい。ところが、自分の家には友人に食べてもらうものが何もない。現代の日本であれば、二十四時間営業の店は多くあり、真夜中でも問題なく買いに行けますが、二千年前のイスラエルではそうはいきません。出来ることと言えば、近所の友人からパンを分けてもらうこと。真夜中でもお構いなしに、友人宅へ行き、パンを無心します。

 パンを分けて欲しいと言われた人からすれば、大変迷惑な話。寝ている時に声がして、パンを分けて欲しいと言われる。現代の私たちであれば、それ程大変なことではないかもしれません。スイッチ一つで電気をつけ、玄関の鍵をあけて、残っているパンを渡す。しかし、二千年前のこと。家の中で灯りをともすだけで大変なこと。ガサゴソと動けば、寝ている子どもたちを起こすことにもなる。閂や錠をあけるのも一苦労。怪我をした、病気をしたというならまだしも、友をもてなしたいからパンを分けてくれと言う。願うならば、明日の朝でいいではないか。非常識、無礼、無法ではないか。子どもも寝ているし、戸締りもした。勘弁してくれという答え。断るというのが普通というか、当然というか。

 それでは、断られた人はどうしたら良いか。意外なことに、頼み続けたら良いと話が続くのです。

 

 ルカ11章8節

 「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。』

 

 非常識なお願いをして断られた。それでも頼み続けた場合、どうなるか。友の頼みといえど断った人でも、しつこく頼めば、たまらなくなり、遂には起き上がってパンを渡すでしょう、という話なのです。話自体は簡単。しかし、これは一体何の勧めなのかと首を傾げたくなります。自分の願いを叶えるためならば、友の都合も考えずに願い続ければ良いということなのか。願いを実現させるには、何よりしつこさが大事という教訓なのか。常識に反する強要の勧めと理解して良いのか。

 一体何の勧めなのかと言えば、意外や意外、祈りの勧めと言うのです。

 

 ルカ11章9節~10節

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

 

 真夜中の友人のたとえをもって、私たちが互いに願いをぶつけ合ったら、友人関係は簡単に壊れるでしょう。皆が皆、相手のことを考えずに、自分の願いを押し通すとしたら、大変なこと。

 しかし、こと祈りにおいては、斯くあるべし。「求め続けよ、捜し続けよ、叩きぬけ。」と言われるのです。「もう分かったから」と神様が降参するように祈り続けよと勧められる。「夜中で寝ている、面倒かけてくれるな」と言う姿。実際の神様とはかけ離れた立場に、父なる神をおいて、天の父が音をあげる程の祈りをするようにと言われる。

 大胆なたとえ話と感じます。仮に、この話が聖書に無く、私が創作したものとして語ったとしたら、おそらく多くの人に非難されるでしょう。父なる神をどのようなものだと思っているのか。天の父を、寝ぼけ眼の友人に見立てるなど、不遜極まりないと。そのように考えますと、これは神の一人子であるイエス様しか語りえないようなたとえ話と言えます。

 

 それでは、私たちはこのたとえ話を聞いて、どのように思うでしょうか。よし、祈り続けようと思えるでしょうか。

 これほど明確に、祈り続けるように、願い続けるようにと教えられても、私たちは自分の願いを祈り続けることに躊躇してしまう、止めてしまうことが度々あります。短い期間ならば願うことは出来る。しかし、期待通りに実現していないことを願い続けるのは大変なこと。祈り続けているのに何も変わらない。願いが実現しない度に失望を繰り返すのは、辛いことなのです。

何より、自分の願いを祈り続けることは正しいことなのか、戸惑うことがあります。それも、非常識なまで願い続ける。恵みを強奪するような祈りの姿勢は良いのだろうかと感じられる。

聖書で教えられる祈りとは、自分の願いを神様に叶えてもらうことではなく、むしろ私自身を神様に向けることではないか。自分を中心にして神を動かすのではなく、神様が中心で自分を神様に合わせることではないか。

 主の祈りで教えられる、まず祈るべきことは、神様のことでした。真夜中の友人のたとえで語られた、非常識でも願い続けることと、大きな違いを感じます。イエス様のゲツセマネでの祈りも、血の汗を流しながら願いながらも、「あなた(父なる神様)のみこころのように、なさってください。」と願うもの。執拗に自分の願いを訴える姿とは、大きく異なる印象です。

(正確に言えば、主の祈りで教えられているのは、祈りの中身が中心。真夜中の友人のたとえで教えられているのは、祈りの態度が中心。たとえの中で願っているパンも、自分のためのパンではなく、友人のためのパンでした。そのため、主の祈りで教えられることと、真夜中の友人のたとえで教えられることを対比して、その教えの内容が異なる印象と言うのは、雑な議論です。それでも、主の祈りを教えられた直後に、真夜中の友人のたとえ話を聞くと、違和感のある話となっていると言えます。)

 

 しかし、それでも、イエス様がこの真夜中の友人のたとえを語られたことの重みを今日は味わいたいと思います。

 神様は私のことを私以上に知っていて下さる。私に最も必要な恵みを注いで下さる。私が祈らなくても、神様の私に対する愛は変わらない。(これらは、事実ですが)そのように考えて、「熱心に祈ること」を止めないように。私たちが祈らないと、神様は願うことを行えないということではありません。私たちが祈らなくても神様が困るわけではない。しかし、神様は、私たちの祈りを待っておられる方。私たちの祈りを楽しみにされているお方。私たちが願い続ける信仰生活を送ることを、願っておられるお方。敢えて、非常識と思われるような話を以て、執拗に願うようにと言われる。綺麗ごとの交わりではない。私たちが必死に神様と交わることを願われている。「さあ、来なさい。」「さあ、願いなさい。」と私たちを祈りへと招いているお方として、今日は神様を覚えたいと思います。

 

 以上、真夜中の友人のたとえ話でした。祈りの生活が喜びとなるために、私たちが取り組むと良いことのうち、神様がどのようなお方であるのか知ることを願い、今日は真夜中の友人のたとえを確認しました。不思議なたとえ話。一読して、驚き、首を傾げたくなる話ですが、そこに示された私たちの神様の姿は、実に親しく私たちと交わることを願われているお方でした。

 私たちが喜んで祈ることが出来る。その根本的な理由は、私たちが祈りたいと思う前に、神様が私たちを祈りへと招いて下さっているからでした。人間関係でそれをしたら非常識と思われる。そのような願い方でも良い。ともかく、「あなたが祈ることを待っていますよ。」との神様からの招きを、今日確認します。私たちは、この神様の招きにどのように応じるでしょうか。

 今日の聖句を皆様とともにお読みしたいと思います。

 詩篇65篇2節

祈りを聞かれる方よ。みともにすべての肉なる者が参ります。

 

 神様が私たちを祈りへと招いて下さっている。その招きに、この詩篇の告白のように応じたいと思います。祈る度に、神様が私を祈りへと招いて下さっていることを、覚えたいと思います。

 私たち一同で、祈りという神様との親しい交わりを喜び、楽しみながら、この一年の信仰生活を全うしていきたいと思います。

2018年1月14日日曜日

コロサイ人への手紙4章2節~6節「伝道~福音を知らない人々への愛~」


皆様は、発明王エジソンをご存知でしょうか。「20世紀を発明した男」とも呼ばれるエジソンは、様々なものを発明しました。中でも有名なのは電球の発明です。正確に言えば、電球そのものを最初に発明したのは、イギリス人のスワンと言う人です。でも、スワンの電球は寿命が短すぎて役に立たなかった。それを、長時間の使用に耐えて、誰でも買うことのできる安価なものに改良したのがエジソンでした。

 19世紀後半、電球の要、フィラメントに竹が良いことを発見したエジソンは、最適な竹が日本の京都にあることを知ると、会社を造ってこれを輸入。誰でもが家庭生活で使うことのできる電球を世界に送り出すことに、情熱を傾けたのです。

「世界中の家庭で、人々が夜も安心して暮らせるように」と言う夢を持っていたエジソンの電球にかける思いは非常に深く、誰もがその情熱と努力に圧倒されたと言われます。ある新聞は、「何百万個もの電球を世界に送り出したエジソンの発明によって、世界から夜が消えた」と、たたえたそうです。

 今日は、新年第2回目の礼拝です。例年、私たち皆で、新たな思いを抱いてクリスチャンとしての歩みを進めてゆきたいと願い、信仰生活の基本を扱ってきました。今日は、先週の礼拝に続いて伝道について学びたいと思います。

エジソンが、「世界中の人々が夜も安心して生活できるように」と願い、電球の普及に対して強い思いを持っていたとするなら、世界中の人々の心に希望の光を与えることのできる聖書の福音を知っている私たちクリスチャンは、その福音を伝えることに、どれ程の思いを持っているのか。持つべきなのか。まず、そのことを確認したいのです。

コロサイ人への手紙は、使徒パウロがローマの獄中から書き送ったものです。何故パウロが鎖につながれていたかと言うと、キリスト教信仰のゆえにユダヤの都エルサレムで捕らえられ、殺されそうになったところを、危うくカイザリヤの町に逃れ、今このローマで最終的な裁判をうけるため幽閉されていたからです。その様なパウロがコロサイ教会の兄弟姉妹に願ったこと。それは、自分のために祈ることでした。

 

4:2~4「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」

 

普通、鎖につながれた人が、自分のために祈ってほしいと願うとしたら、何でしょうか。獄中から解放され自由になること、裁判で無罪になること、健康のことなどでしょう。もちろん、パウロもこれらのことを願わなかったわけではないと思われます。しかし、パウロにはこれらに勝る一つの願いがありました。

それは、自分がそれをもって救われたキリストの福音、世界中の人々に罪からの救いと永遠の命の希望を与えることができる福音を語ることです。

「私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。」

福音を語ったため獄に繋がれたのに、そこでなおも福音を語ることを願うパウロ。自由に福音を伝えられないことが、自らの不自由や苦しみよりも気になって仕方がない使徒の姿は、私たちに、「あなたは伝道への思い、福音を知らない人々の魂への関心がどれ程あるか」と問いかけてきます。

思い出されるのは、江戸時代、日本がキリシタン禁令、鎖国政策でキリスト教に対し固く門を閉ざしていた時代。福音のためにイタリアから海を渡ってやってきた宣教師バチスタ・フォン・シドッチのことです。

シドッチは死を覚悟して日本に渡りましたが、やがて捕らえられ、神に祈ることのみ許された状態で、切支丹屋敷に幽閉されます。直接伝道はできませんでしたが、その人徳と学識は、キリスト教反対の立場に立つ、日本の役人にも大きな影響を与えました。

ある日、寒い冬にもかかわらず、薄い夏服を着ていたシドッチを可哀そうに思い、ひとりの役人が着物を差し出そうとしました。すると、それを断り、こう言ったそうです。「私が日本に来たのは、皆様にイエス・キリストを知っていただくため。それなのに、日本に来てからというもの、私は皆様に迷惑をかけてばかりで、大変心苦しく思っています。その上、着物まで貰うわけには参りません。それと、冬になり、毎日雪が降る寒さの中、多くの人が私を警護してくださるのが誠に申し訳ない。昼間はともかく、夜は私を鎖で縛り、皆様なゆっくりお休みください。私は絶対に逃げたりしませんから。」

これを聞いて、キリスト教とは本当に凄いものだと感心した役人が、密かにキリスト教に改心。シドッチから洗礼を受けることを願ったと言われます。獄中に置かれたパウロの思い、そして恐らく切支丹屋敷に幽閉されたシドッチの思いでもあったことば、紹介したいと思います。

 

Ⅱテモテ2:910「私は福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。 ですから、私は(神に)選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

 

パウロにしてもシドッチにしても、どうしてこれ程福音のために仕えることができのでしょうか。それは、福音を知らない人々に対する神様の思い、神様の愛をよくよく心に刻んでいたからでした。

 

Ⅰテモテ2:4「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

 

世界のどこで生きるにしても、どんな仕事についていても、家庭でも、地域でも、職場でも病院でも、たとえ獄に捕らわれたとしても、神様の、神様を知らない人々への思いを、自分の思いとして生きる。神様が福音を知らない人々の永遠の運命を心配するように、私たちも人々の永遠の運命について心を砕く。伝道を意識して日々生きる者でありたいと思います。

そして、パウロは、コロサイ教会の兄弟姉妹にも、同じ思いを抱いて生活する様勧めるのです。

 

4:5、6「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」

 

コロサイは、今のトルコに国にあった経済都市で、温泉で有名な観光地でもありました。富裕な市民も多かったのですが、宗教的には当時の他の町と同じく、偶像崇拝が盛んな異教の町だったのです。その様な町で生活するクリスチャンのために、パウロはまず「外部の人に対して賢明にふるまえ」と勧めています。

キリスト教のことを知らない人々にとっては、私たちクリスチャンの普段の言動が良くも悪くも、キリスト教の証しになります。人々は、私たちが人生の問題に直面した時、病、失望、落胆などに陥いる時、それらにどう対応するか、注目しています。特に、人間関係がどうなのか、見ていると思います。

誰かにがっかりさせられた時でも、柔和な態度で接しているか。それとも、相手をさばき、責めているのか。思うようにことが進まない時、不愛想で横柄な態度になるのか。親切に、忍耐深く接しているのか。人々は、私たちが語ることばよりも、態度に関心があるのです。

先週、英語で賛美歌を歌う会がありました。そこには、富倉兄弟がガンで入院していた市立病院の看護師の方も見えました。「死の危険と隣り合わせの治療を受けているのに、結果はすべて神様にゆだねて、治療に取り組む富倉さんに励まされた。」「ご夫妻がお互いを思いやる関係を見て、私もあんな夫婦になりたいと思い、お二人に悩みを相談して、助けられました。」そんなお話を聞くことができて、とても嬉しく思いました。賢くふるまうこと、私たちも心に留めたいと思うのです。

次に、使徒は「機会を十分に用いて生かしなさい」と命じていました。私たちは伝道について計画を立てて進めてゆくことがあります。これには必要な面もありますが、伝道が計画通りに進むとは限りません。

聖書を見ても、使徒たちは思わぬ場所で、思わぬ人に出会い、福音を伝えています。しかし、それは彼らが伝道について何も備えていなかったということではありません。私たちが「福音を伝える機会を与えてください」と祈り、伝道を意識して歩む時、神様が生かすべき機会を与えてくださるのはないかと思うのです。

今年で4年目になる、菰野の千草園と言う社会福祉法人の救護施設での集会も、最初は一人の男性の求道の思いから始まりました。その男性が「こういう学びを、自分たちだけでやるのはもったいない。入所者の人たちにも呼び掛けてやりましょうよ」と何度も言うものですから、私も腰を上げて責任者に願い出ると、案の定「宗教活動は、内ではちょっと…」と迷惑そうでした。

どうしてもと言うのなら、「賛美歌を歌わない」「キリスト信仰や教会の礼拝を勧めない」と言う条件を付けられました。その様な状態で始めたのですが、今ではすっかり信用されて、「私たちは体のケアはできても、心のケアはできないから、集会続けてくださいよ。クリスマスにはコンサートもお願いします。讃美歌もどんどん歌ってください。」向こうからリクエストされる迄になったのです。神様は思わぬところに伝道の機会を備えてくださっていたと感じています。

また、「あなたがたのことばが、親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」とも勧められています。いくら聖書の福音を知っているからと言って、押しつけるような言い方、相手が自由に選べないような強引な伝え方は、かえって相手の心を離れさせます。

参考になるのは、パウロが、アテネで伝道した際、開口一番伝えたことばです。

 

使徒17:22「そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。」

 

もちろん、パウロはアテネの人々が信じていた偶像の神々を認めたわけではありません。しかし、彼らの宗教心の厚さを認め、尊敬を示しているのです。相手の生き方、良い点を認め、尊敬することから入る伝道。私たちも見習いたい、パウロの態度です。

最後の勧めは、「ひとりひとりに対する答え方」を考える。相手の身になって、語ることです。人間は十人十色。性格、考え方、反応の仕方、関心、それぞれ異なります。

キリスト教について理論的な説明を求める人がいます。天地創造や奇跡について疑問を感じている人もいます。こんな時、クリスチャンならどうするか。聖書はどう教えているのか。生活上の知恵や心のよりどころとなることばを求める人も入れば、私たちの経験を聞きたい人もいるでしょう。慰めてほしい人、悩みを聞いてほしい人、そばにいてほしい人。具体的なアドバイスを聞きたい人。人によって求めるものは様々です。

 こうして見ると、パウロの勧めは、どれも一朝一夕でできるものではありません。私たちが相手を愛し、仕えると決意する必要があります。実際に時間を共に過ごすことも必要でしょう。私たち自身が成長し、整えられてゆく必要もあります。実際にやってみて、余り上手くいかなかったことも経験し、工夫、修正することも大切ではないかと思います。

 しかし、神様の目で見る時、この世界には、自分のことを気にかけ、ともに時間を過ごしてくれる誰かを探し求めている人がいます。自分が、神様にとって大切な存在であること、自分の人生には意味があることを知る必要のある人がたくさんいるのです。

 今、自分の周りに、その様な人がいるのか。それは誰なのか。一人一人、神様の前で、考えながら、伝道の歩みを進めてゆきたいと思います。

 最後に、伝道は一人で行うものではないこと覚えておきたいと思います。

 聖書は、私たちが教会の仲間と一緒に伝道に取り組むことを勧めています。足の不自由な男の友人たちは、四人で協力して彼を、イエス様のところに連れてきました。イエス様が弟子たちを伝道旅行に遣わした時、いつも二人一組でした。パウロにも多くの協力者がいましたし、今日の手紙でも自分が伝道できるよう祈ってほしいと書いています。

 聖書の説明が得意な人、証が得意な人、人の話をよく聞ける人、もてなし上手な人。家を提供できる人。祈る人。様々な賜物が集まり伝道に取り組む。そんな教会になれたらと思います。

 また、伝道は神様に信頼して行う働きでもあります。今日の聖句です。

 

 Ⅰコリント36「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」

 

 パウロが植えて、アポロが水をそそぐ。しかし、人を信仰へ導き、成長させるのは神様ご自身だと言われています。私たちは与えられた賜物を尽くす。しかし、結果は神様に期待して待つ。伝道は農業と同じ。時間と努力、忍耐と神信頼が必要な尊い働きであることを確認して、この一年伝道に励んでゆきたいと思うのです。

2018年1月7日日曜日

マタイの福音書28章16節~20節「礼拝~神を神とする~」


新しい年、第一回目の聖日礼拝となります。皆様とともに礼拝が出来ることを、心から嬉しく思います。これからの一年間、四日市キリスト教会員と地域の方々にとって、喜び溢れる礼拝をささげることが出来るように、祝福をお祈りしています。

 新しい年を迎え、第一回目の礼拝。新しいとか、第一回目と言いましても、先の聖日から一週間経っただけ。具体的に何かが新しくなったわけではないのですが、それでも私たちはこのような機会に新たな歩みを心がけます。新年一回目の聖日礼拝は、心機一転、これを良い機会として自分の歩みを整えることに取り組みます過ぎし一年間を振り返り、感謝すること、反省すること。新たな一年を見据えて、目標や計画を立てること。今一度、自分にとって大事なことは何か再確認すること、などなど、この時期に取り組むと良いことはいくつもあります。

 年初めの礼拝説教では、私たちにとって大事なことは何か。何故大事なのか。どのように大事なのか。確認するために、信仰の基本的な事柄を確認しています。今日のテーマは「礼拝」。私たちにとって礼拝とは何故大事なのか。どのように大事なのか。皆で考えていきたいと思います。

 

 「礼拝」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、まさに今私たちがささげている聖日礼拝ではないかと思います。主イエスを信じる者が、キリストの復活を記念する日曜日に一つところに集まる。私たちからは祈りや賛美、神様からは聖書の言葉や説教。言葉によって神様と交わる。この聖日礼拝は、私たち信仰者にとって非常に重要なものだと思いますが、何故大事なのでしょうか。「聖日礼拝は何故大事なのか。」と聞かれたら、皆様はどのように答えるでしょうか。

 聖日礼拝が何故大事なのか。色々な答え方がありますが、答えの一つは、聖日礼拝が「神を愛すること」だからです。聖書が教える最も重要な戒めは、「神を愛し、隣人を愛する」ことですが、具体的にどのように神を愛し、隣人を愛したら良いのか。十に分けて教えられた十戒。その第四戒が、

出エジプト記20章8節

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

 というものでした。神様が定めた週の一日を、聖なる日とする。神様のものとする。神様のための日とする。神を愛する具体的なことの一つとして、聖日礼拝があります。つまり、私たちは毎週、神様を愛するように招かれているということです。毎週、神様を愛するのか、自分の好きなように生きるのか、決断をしていると言うことも出来ます。

そのように、神様を愛すること。その戒めを守ることは、信仰者にとって負担ではなく、喜びであるとも教えられています。

ヨハネの手紙第一5章3節

神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

 

聖日礼拝をささげることが、神様を愛することの具体的な現われであり、重荷とはならない。むしろそれによって、大きな喜びを得ると言われる。いかがでしょうか。神様を愛する決断とともに、この礼拝に集われているでしょうか。聖日礼拝をささげることに、喜びはあるでしょうか。

 

ところで、聖書が教える礼拝は、聖日礼拝だけではありません。キリストを信じる者は、礼拝者として生きるように教えられていますが、それは日曜日の一時間、教会に集まることだけを意味しているのではありません。礼拝者として生きるとは、生活の全てで、神様を認め、神を神として生きることです。

 聖書には次のような言葉があります。

 ローマ12章1節

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いいたします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 

 キリストによって罪から救い出された。「そういうわけですから」、自分自身を生きた供え物としてささげなさいと言われます。

旧約の時代、神様にささげられる供え物は、穀物や油、乳香などの元々命のないもの。あるいは、動物などの命のあるものは殺してからささげられました。供え物になるとは死ぬということ。ところが、ここで生きた供え物として自分をささげるようにと言われます。生まれながらの自分、罪にまみれた自分は死に、新しく生まれた者として、永遠の命を持つ者として生きるように。

キリストを信じた者は、自分自身を生きた供え物としてささげる。生活のあらゆる場面で、神様を認め、神様の栄光を現す歩みをする。日時や場所は関係なく、いつでもどこでも礼拝者として生きるように教えられています。

 「礼拝」をテーマに説教をする時、聖日礼拝に焦点を当てることもありますし、生活の全てで礼拝者として生きることに焦点を当てることもあります。今回は、生活の全てで礼拝者として生きること。いつでもどこでも、神様を認め、神を神として生きることについて、皆様とともに考えたいと思います。

 過ぎし一年は、「礼拝者」という視点では、どのような一年だったでしょうか。いつでもどこでも、神様を認め、神を神として生きることに取り組めたでしょうか。神様を身近に感じながら生きたでしょうか。それとも、神様を遠くに感じながら歩んだ一年だったでしょうか。

 

 自分の歩んだ一年を振り返りますと、私自身、礼拝者として不甲斐ない歩みをしてきたかと思います。聖日の礼拝は欠かすことなくささげる。人の目のあるところでは、神様を認め、神を神として生きているような姿をとる。しかし、どれだけ真剣に、生きた供え物として生きてきたか。日々の生活を「礼拝者」として過ごしてきたかと問われると、実に恥ずかしい歩みであったと思います。

 

信仰者を、日々の礼拝から遠ざけるものが、いくつかあります。

 私たちの課題として考えられる一つのことは、「罪」の問題。人は自分が罪を犯していると自覚している時、神様から遠ざかろうとします。罪の自覚がありながら、やめられない時。悔い改めていない罪がある時。出来るだけ、神様を意識しないで生きようとします。

 「罪」の中にいると、神様との交わりから遠ざかることは、最初の人、アダムとエバが罪を犯した時の姿が如実に示しています。

 創世記3章8節

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 

 アダムとエバが、してはならないと命じられたことをした直後。本来神様から隠れたいと思っても、隠れることなど出来ないにも関わらず、罪の中にいる時、神様から隠れよう、離れようとしたというのが印象的です。いかがでしょうか。このような経験、自覚はあるでしょうか。

 生活の全てで礼拝者として生きることを目指すならば、私たちは罪から離れる必要があります。もし、罪の自覚があるならば、罪を告白し悔い改めること。神様に助けを求めることに、この礼拝で取り組みたいと思います。

 

 また「使命から逃げる」という思いが問題になることもあります。愛するように、仕えるように。伝道するように、奉仕をするように。祈るように、ささげるように。神様から使命が示されていると思いつつ、取り組めないことがある時。神様を意識したくない、離れたいと思うようになります。

 使命から逃げようとしている時、神様との交わりから遠ざかることは、預言者ヨナの姿が如実に示しています。

 ヨナ1章1節~3節

アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとして、立って、ヨッパに下った。

 

 敵国(ニネベ・アッシリヤ)に行くよう言われた預言者ヨナ。自分の活動を通して、敵国が悔い改めた場合、神様は裁きを取り止めると考えたヨナは、その使命から逃れようとします。(実際に、ヨナが懸念した通り、ヨナの活動を通してニネベは悔い改め、裁きを回避することになります。)敵を愛することが出来なかったヨナ。聖書は使命から逃げたヨナの姿を、「主の御顔を避けて」と表現しました。

いかがでしょうか。聖日礼拝の中で、聖書を読む中で、祈りの中で、キリスト者の交わりの中で、取り組むように示されたことがありながら、それに取り組めないということを経験したことはあるでしょうか。

生活の全てで礼拝者として生きることを目指すならば、私たちは神様からの使命に忠実である必要があります。もし、使命から逃げたいという思いがあるならば、与えられた使命に取り組むことが出来るように。その力を祈り求めることに、この礼拝で取り組みたいと思うのです。

 

また神様以外のものを第一として生きることが問題となることもあります。神様以外のものを第一にしつつ、日々の生活の中で神様を意識することは出来ない。イエス様の言葉が思い出されます。

マタイ6章24節

だれも、ふたりの主人に仕えることは出来ません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

 

心の中で、最も大切にしているものは何でしょうか。自分の意識はともかくとして、実際の生活を振り返る時、最も大切にしているものは何でしょうか。神様を第一として生きているでしょうか。

積極的に神様から離れようとは思わない、主の御顔を避けようとはしていなくても、神様以外のものを自分の主人とすることで、神様との関係に距離を置いている。日々の生活で、主なる神様でないものを礼拝して生きる者となっていることがあります。

 自分の心の中、自分の生活を点検しつつ、神様を第一として生きる決心を、この礼拝でしたいと思います。

 

 このように、私たち自身が神様から離れようとする、神様から隠れようとすることがあり、課題がある時は、それぞれ取り組む必要があります。それに加えて聖書は、神様がご自身を隠すことがあると教えています。

 イザヤ45章15節

イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。

 

 聖書の中に、記されている私たちの神様の姿の多くは、ここに記されているのとは反対の姿。私たちにご自身を現す神様、積極的に私たちと関わろうとされる神様。しかし、私たちの神様は確かに「ご自身を隠す神」でもあるのです。

 なぜ、神様はご自身を隠されるのか。その理由が、私たちの罪のため。義なる神様が、罪人を罰するという意味で、ご自身を隠すと言われる箇所があります(イザヤ57章17節など)。しかし、積極的な意味で、ご自身を隠すことがある。なぜ、神様はご自身を隠されるのか。

 それは、私たちが積極的に神様と関わるように。仮に私たちが、神様を遠くに感じることがあっても、それでも神様との関わりを求めるように。私たちをより深い信仰の世界へ導くために、神様がご自身を隠されることがあります。

(イエス様の話された、真夜中の友人のたとえ(ルカ11章)や、不正な裁判官のたとえ(ルカ18章)が思い出されます。また、私たち自身が人の目を気にしないようにという意味で、神様は隠れたところにおられると語られるところもあります。(マタイ6章))

 私に問題があるのではなく、神様がご自身を隠される。そのことを通して、私たちの信仰が成長するように促される。先輩カルヴァンは、ご自身を隠させる神様と、私たちの関係について、次のようにまとめています。

「神はしばしば眠りこけ、怠けているように装われる。そうでも、しないと、われわれが無為と怠慢の中に居座るから。神は眠っているのであろうか、怠けておられるのであろうか・・・。と、恐れ、あわてる時われわれの祈りの熱心はかき立てられ、神なしにはありえない自分であることを自覚させられ、必死に神の門を叩きはじめるのである。」

 いかがでしょうか。ご自身を隠される神様を、必死に探し求めたという経験はあるでしょうか。順風満帆ではない、逆境と感じる信仰生活の時。苦しみや悲しみに覆われている時。神様が遠く離れているように思われる時。そのような時こそ、神様を覚える時、神を神とする時であると、今日確認いたします。

 

 以上、礼拝について、主に日々の生活の中で礼拝者として生きることについて確認してきました。最後に、復活されたイエス様が、弟子たちに使命を与えられる箇所を確認して終わりにしたいと思います。

 マタイ28章16節~20節

しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

 

 弟子たちが復活の主イエスに出会い、礼拝した場面。興味深いことに、復活の主に出会っているその場で、なおも疑いをもった者がいました。イエスの復活を信じられなかったのか。イエスが救い主であることを信じられなかったのか。ともかく、復活したイエス様に出会い礼拝するというこれ以上ない祝福の場面で、なおも疑った者がいたというのは印象的です。揺らぐ信仰。その弟子を前にして、それでも使命を与え、約束を下さる救い主。いつも、ともにいるという約束です。

 新年一回目の聖日礼拝、過ぎし一年、「礼拝者」という視点では、どのような一年だったのか振り返りたいと思います。仮に、礼拝者として不甲斐ない歩みだったとしても。揺れに揺れた信仰生活だったとしても。神様が遠く離れていると感じられたとしても。それでも神様は、私たちとともにおられることを確認します。

 またこれからの一年間、「礼拝者」として、どのように歩みたいのか。考えたいと思います。罪を悔い改めること。使命から逃げ出さないこと。神様を第一とすること。神様がご自身を隠しておられると感じられる時、信仰の成長の機会と捉えて、神を神とすること。これらのことに取り組みつつ、一同で「礼拝者」として一年を歩んでいきたいと思います。