皆様は、発明王エジソンをご存知でしょうか。「20世紀を発明した男」とも呼ばれるエジソンは、様々なものを発明しました。中でも有名なのは電球の発明です。正確に言えば、電球そのものを最初に発明したのは、イギリス人のスワンと言う人です。でも、スワンの電球は寿命が短すぎて役に立たなかった。それを、長時間の使用に耐えて、誰でも買うことのできる安価なものに改良したのがエジソンでした。
19世紀後半、電球の要、フィラメントに竹が良いことを発見したエジソンは、最適な竹が日本の京都にあることを知ると、会社を造ってこれを輸入。誰でもが家庭生活で使うことのできる電球を世界に送り出すことに、情熱を傾けたのです。
「世界中の家庭で、人々が夜も安心して暮らせるように」と言う夢を持っていたエジソンの電球にかける思いは非常に深く、誰もがその情熱と努力に圧倒されたと言われます。ある新聞は、「何百万個もの電球を世界に送り出したエジソンの発明によって、世界から夜が消えた」と、たたえたそうです。
今日は、新年第2回目の礼拝です。例年、私たち皆で、新たな思いを抱いてクリスチャンとしての歩みを進めてゆきたいと願い、信仰生活の基本を扱ってきました。今日は、先週の礼拝に続いて伝道について学びたいと思います。
エジソンが、「世界中の人々が夜も安心して生活できるように」と願い、電球の普及に対して強い思いを持っていたとするなら、世界中の人々の心に希望の光を与えることのできる聖書の福音を知っている私たちクリスチャンは、その福音を伝えることに、どれ程の思いを持っているのか。持つべきなのか。まず、そのことを確認したいのです。
コロサイ人への手紙は、使徒パウロがローマの獄中から書き送ったものです。何故パウロが鎖につながれていたかと言うと、キリスト教信仰のゆえにユダヤの都エルサレムで捕らえられ、殺されそうになったところを、危うくカイザリヤの町に逃れ、今このローマで最終的な裁判をうけるため幽閉されていたからです。その様なパウロがコロサイ教会の兄弟姉妹に願ったこと。それは、自分のために祈ることでした。
4:2~4「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」
普通、鎖につながれた人が、自分のために祈ってほしいと願うとしたら、何でしょうか。獄中から解放され自由になること、裁判で無罪になること、健康のことなどでしょう。もちろん、パウロもこれらのことを願わなかったわけではないと思われます。しかし、パウロにはこれらに勝る一つの願いがありました。
それは、自分がそれをもって救われたキリストの福音、世界中の人々に罪からの救いと永遠の命の希望を与えることができる福音を語ることです。
「私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。」
福音を語ったため獄に繋がれたのに、そこでなおも福音を語ることを願うパウロ。自由に福音を伝えられないことが、自らの不自由や苦しみよりも気になって仕方がない使徒の姿は、私たちに、「あなたは伝道への思い、福音を知らない人々の魂への関心がどれ程あるか」と問いかけてきます。
思い出されるのは、江戸時代、日本がキリシタン禁令、鎖国政策でキリスト教に対し固く門を閉ざしていた時代。福音のためにイタリアから海を渡ってやってきた宣教師バチスタ・フォン・シドッチのことです。
シドッチは死を覚悟して日本に渡りましたが、やがて捕らえられ、神に祈ることのみ許された状態で、切支丹屋敷に幽閉されます。直接伝道はできませんでしたが、その人徳と学識は、キリスト教反対の立場に立つ、日本の役人にも大きな影響を与えました。
ある日、寒い冬にもかかわらず、薄い夏服を着ていたシドッチを可哀そうに思い、ひとりの役人が着物を差し出そうとしました。すると、それを断り、こう言ったそうです。「私が日本に来たのは、皆様にイエス・キリストを知っていただくため。それなのに、日本に来てからというもの、私は皆様に迷惑をかけてばかりで、大変心苦しく思っています。その上、着物まで貰うわけには参りません。それと、冬になり、毎日雪が降る寒さの中、多くの人が私を警護してくださるのが誠に申し訳ない。昼間はともかく、夜は私を鎖で縛り、皆様なゆっくりお休みください。私は絶対に逃げたりしませんから。」
これを聞いて、キリスト教とは本当に凄いものだと感心した役人が、密かにキリスト教に改心。シドッチから洗礼を受けることを願ったと言われます。獄中に置かれたパウロの思い、そして恐らく切支丹屋敷に幽閉されたシドッチの思いでもあったことば、紹介したいと思います。
Ⅱテモテ2:9、10「私は福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。
ですから、私は(神に)選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。
パウロにしてもシドッチにしても、どうしてこれ程福音のために仕えることができのでしょうか。それは、福音を知らない人々に対する神様の思い、神様の愛をよくよく心に刻んでいたからでした。
Ⅰテモテ2:4「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
世界のどこで生きるにしても、どんな仕事についていても、家庭でも、地域でも、職場でも病院でも、たとえ獄に捕らわれたとしても、神様の、神様を知らない人々への思いを、自分の思いとして生きる。神様が福音を知らない人々の永遠の運命を心配するように、私たちも人々の永遠の運命について心を砕く。伝道を意識して日々生きる者でありたいと思います。
そして、パウロは、コロサイ教会の兄弟姉妹にも、同じ思いを抱いて生活する様勧めるのです。
4:5、6「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」
コロサイは、今のトルコに国にあった経済都市で、温泉で有名な観光地でもありました。富裕な市民も多かったのですが、宗教的には当時の他の町と同じく、偶像崇拝が盛んな異教の町だったのです。その様な町で生活するクリスチャンのために、パウロはまず「外部の人に対して賢明にふるまえ」と勧めています。
キリスト教のことを知らない人々にとっては、私たちクリスチャンの普段の言動が良くも悪くも、キリスト教の証しになります。人々は、私たちが人生の問題に直面した時、病、失望、落胆などに陥いる時、それらにどう対応するか、注目しています。特に、人間関係がどうなのか、見ていると思います。
誰かにがっかりさせられた時でも、柔和な態度で接しているか。それとも、相手をさばき、責めているのか。思うようにことが進まない時、不愛想で横柄な態度になるのか。親切に、忍耐深く接しているのか。人々は、私たちが語ることばよりも、態度に関心があるのです。
先週、英語で賛美歌を歌う会がありました。そこには、富倉兄弟がガンで入院していた市立病院の看護師の方も見えました。「死の危険と隣り合わせの治療を受けているのに、結果はすべて神様にゆだねて、治療に取り組む富倉さんに励まされた。」「ご夫妻がお互いを思いやる関係を見て、私もあんな夫婦になりたいと思い、お二人に悩みを相談して、助けられました。」そんなお話を聞くことができて、とても嬉しく思いました。賢くふるまうこと、私たちも心に留めたいと思うのです。
次に、使徒は「機会を十分に用いて生かしなさい」と命じていました。私たちは伝道について計画を立てて進めてゆくことがあります。これには必要な面もありますが、伝道が計画通りに進むとは限りません。
聖書を見ても、使徒たちは思わぬ場所で、思わぬ人に出会い、福音を伝えています。しかし、それは彼らが伝道について何も備えていなかったということではありません。私たちが「福音を伝える機会を与えてください」と祈り、伝道を意識して歩む時、神様が生かすべき機会を与えてくださるのはないかと思うのです。
今年で4年目になる、菰野の千草園と言う社会福祉法人の救護施設での集会も、最初は一人の男性の求道の思いから始まりました。その男性が「こういう学びを、自分たちだけでやるのはもったいない。入所者の人たちにも呼び掛けてやりましょうよ」と何度も言うものですから、私も腰を上げて責任者に願い出ると、案の定「宗教活動は、内ではちょっと…」と迷惑そうでした。
どうしてもと言うのなら、「賛美歌を歌わない」「キリスト信仰や教会の礼拝を勧めない」と言う条件を付けられました。その様な状態で始めたのですが、今ではすっかり信用されて、「私たちは体のケアはできても、心のケアはできないから、集会続けてくださいよ。クリスマスにはコンサートもお願いします。讃美歌もどんどん歌ってください。」向こうからリクエストされる迄になったのです。神様は思わぬところに伝道の機会を備えてくださっていたと感じています。
また、「あなたがたのことばが、親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」とも勧められています。いくら聖書の福音を知っているからと言って、押しつけるような言い方、相手が自由に選べないような強引な伝え方は、かえって相手の心を離れさせます。
参考になるのは、パウロが、アテネで伝道した際、開口一番伝えたことばです。
使徒17:22「そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。」
もちろん、パウロはアテネの人々が信じていた偶像の神々を認めたわけではありません。しかし、彼らの宗教心の厚さを認め、尊敬を示しているのです。相手の生き方、良い点を認め、尊敬することから入る伝道。私たちも見習いたい、パウロの態度です。
最後の勧めは、「ひとりひとりに対する答え方」を考える。相手の身になって、語ることです。人間は十人十色。性格、考え方、反応の仕方、関心、それぞれ異なります。
キリスト教について理論的な説明を求める人がいます。天地創造や奇跡について疑問を感じている人もいます。こんな時、クリスチャンならどうするか。聖書はどう教えているのか。生活上の知恵や心のよりどころとなることばを求める人も入れば、私たちの経験を聞きたい人もいるでしょう。慰めてほしい人、悩みを聞いてほしい人、そばにいてほしい人。具体的なアドバイスを聞きたい人。人によって求めるものは様々です。
こうして見ると、パウロの勧めは、どれも一朝一夕でできるものではありません。私たちが相手を愛し、仕えると決意する必要があります。実際に時間を共に過ごすことも必要でしょう。私たち自身が成長し、整えられてゆく必要もあります。実際にやってみて、余り上手くいかなかったことも経験し、工夫、修正することも大切ではないかと思います。
しかし、神様の目で見る時、この世界には、自分のことを気にかけ、ともに時間を過ごしてくれる誰かを探し求めている人がいます。自分が、神様にとって大切な存在であること、自分の人生には意味があることを知る必要のある人がたくさんいるのです。
今、自分の周りに、その様な人がいるのか。それは誰なのか。一人一人、神様の前で、考えながら、伝道の歩みを進めてゆきたいと思います。
最後に、伝道は一人で行うものではないこと覚えておきたいと思います。
聖書は、私たちが教会の仲間と一緒に伝道に取り組むことを勧めています。足の不自由な男の友人たちは、四人で協力して彼を、イエス様のところに連れてきました。イエス様が弟子たちを伝道旅行に遣わした時、いつも二人一組でした。パウロにも多くの協力者がいましたし、今日の手紙でも自分が伝道できるよう祈ってほしいと書いています。
聖書の説明が得意な人、証が得意な人、人の話をよく聞ける人、もてなし上手な人。家を提供できる人。祈る人。様々な賜物が集まり伝道に取り組む。そんな教会になれたらと思います。
また、伝道は神様に信頼して行う働きでもあります。今日の聖句です。
Ⅰコリント3:6「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」
パウロが植えて、アポロが水をそそぐ。しかし、人を信仰へ導き、成長させるのは神様ご自身だと言われています。私たちは与えられた賜物を尽くす。しかし、結果は神様に期待して待つ。伝道は農業と同じ。時間と努力、忍耐と神信頼が必要な尊い働きであることを確認して、この一年伝道に励んでゆきたいと思うのです。
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