2017年12月31日日曜日

ルカの福音書10章38節~42節「神との関係、人との関係を振り返る」


2017年最後の礼拝となりました。いつからか年末恒例になった感のある、この一年間の世相を表す漢字一文字。2017年の一文字は何か。皆様ご存知でしょうか。

北、東西南北の北です。北朝鮮のミサイル発射、九州北部豪雨、北海道産じゃがいもの不作、北海道日本ハムの大谷選手の大リーグ行きや清宮選手の入団、競馬キタサンブラックの大活躍などが選ばれた理由のようです。緊張を覚えたり、心配したり、ドキドキしたり、ワクワクしたり。振り返れば、この一年間の出来事に、様々な思いを抱いたこと思い出します。

しかし、世相を振り返ることも良いのですが、私たち、自分自身のこの一年間の歩み振り返ることも必要ではないかと思います。特に、神を信じる者として、私たちが振り返るべきこと、それは何でしょうか。ある時、イエス様は、私たちに対する神様のすべての命令の中心にあるものとして、二つの戒めを挙げました。

 

マタイ22:3740「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神である主を愛する。神様との関係。隣人を自分自身のように愛する。隣人との関係。私たちの一年の歩みは、この二つの点においてどうであったのか。これを念頭に置いて、今日の個所読み進めてゆきたいと思います。

 

ユダヤの都エルサレムの近く。オリーブ山の麓にベタニヤ村があります。ベタニヤは、「青い果物の家」とか、「貧しい者の家」という意味の小さな村。そこに、イエス様がしばしば足を運んだ家がありました。仲の良い姉妹が暮らすその家を、イエス様は好まれたらしく、この日も旅の途中、一休みしようとされたのです。

 

10:38,39「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」

 

「ある村」というのがベタニヤ村です。ここにマルタとマリヤという姉と妹が登場します。

この二人、同じ血を分かち合いながら性格は正反対。太陽と月でした。お姉さんのマルタは行動派で、妹のマリヤは内省派。姉が動なら妹は静。以後、女性をマルタ型とマリヤ型に分類するひとつの物差しになっています。

 お姉さんのマルタは、イエス様が来てくださるというので、早速台所に立つと、あれもこれもと、料理で奮闘します。マルタは働き者で世話好きで、どうしてイエス様をもてなそうかと考え、片時もじっとしていられなかった様です。一方、妹のマリヤは脇役で、お姉さんのお手伝い。その間、手が空けば、お客さんのお相手等していたのかもしれません。お姉さんが「とつ」なら、妹は「おう」。おうとつコンビで、いつも補い合ってていたのでしょう。

 いつもそうだとはきまっていないまでも、少なくとも、ここの場合は、積極的なマルタと、受動的なマリヤという色分けになっています。

しかし、この日。最初妹のマリヤはいつもの通り、お姉さんと台所で一緒に料理をしていましたが、いつの間にか、イエス様の足下に座り、イエス様の語ることばに耳を傾けている。ところが、姉のマルタはそのまま台所でひとり働き。汗をにじませて立ちまわっていた。

ここにマルタの弱点が現れてしまいます。自分がこんなにも忙しくしていると言うのに、手も足も動かそうとしない妹の姿にストレスがたまり、血圧も上がっていたのでしょう。八つ当たりを演じてしまったのです。

  

10:40「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

 

 八つ当たりです。妹のマリヤに当たったのならともかく、なんと肝心の客人のイエス様に当たってしまった。もてなそうとしている当のお客さんに八つ当たりです。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。」主よ、とは言っていますが、ことばにトゲがあります。剣呑な雰囲気です。

 最上にもてなそうとしていながら、かえって、大切な客に当たってしまう。これでは、一体何のためのもてなし、何のための親切かということになります。行動型の人の欠点、よく仕事ができる人の盲点。本末転倒した姿です。

 お客さんのおもてなしが、いつしか、お客さんのためという目標を乗り越えてしまう。「こうしたい」「ああしたい」という自分の思い、自分の計画の方が主となり、思い通りに動かぬ妹に腹を立て、肝腎なお客さんへの抗議となってしまいました。

  親切心、心配り、気遣い、行動力。それらは、お姉さんマルタの美点です。しかし、残念なことに、一線を越えてしまった。妹に助けをお願いしたらよかったのに、お客さまに八つ当たりしてしまったのです。自分では意識しなかったでしょうが、本末転倒。折角のお客さんにとっては、ありがた迷惑です。

 マルタはイエス様に、「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と、言いましたが、それは無理な話です。客の身分で、「さあ、わたしのためのご馳走づくりを手伝ってきなさい。」なんて、言えるわけがないでしょう。

 私たちは、人のためと思ってやっているうちに、自分の計画が主になってしまって、人を居たたまれなくしてしまうことがあるようです。マルタの好意も親切も、十分にわかります。イエス様としても、感謝の他はなかったでしょう。しかし、その親切が押しつけがましくなってしまっては、残念です。行動型の人が、特に気をつけなければならない盲点でした。

 ですから、イエス様は、マルタらしい親切には十分に感謝しながら、いつくしみながら、優しくマルタを制しています。

 

10:41「主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」

 

「そんなに心配しなくてもよいのに。あなたは色々なことを心配しすぎて、それが思い煩いになってしまっていますね。わたしのために、そこまで心を使ってくれて。本当にありがたいこと、かたじけないことです。しかし、妹が選んだことを取り上げてはいけません」と。

 

10:42「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

  

「必要なことはわずか、いや、一つだけ」と言われたイエス様。この「一つだけ」とは、どういう意味なのでしょうか。ご馳走の品数が一品でよいという意味では、おそらくないでしょう。

 「人生、あれもこれもと思いつけばきりがありませんね。「あれもしたい。これもしなければ」。そんな様々なことで毎日キリキリ舞いしてはいませんか。そのくせ、大事な、最も大事な一つを忘れてはいませんか。人生でも、絶対に必要なものはわずかですよ。いや、ひとつだけですよ。今あなたの妹マリヤが、その一つを選んだことに気がつきませんか。」イエス様からマルタへのメッセージです。

しかも、時が時でした。この時は主の十字架も近づいて、イエス様が一分でも、一秒でも多くを語り残しておきたい、教えておきたいと思って、訪問されたのではありませんか。時は迫っていたのです。

それを感じたのでしょうか。マリヤは、この時勇気ある行動にでました。と言うのは、その頃ユダヤは男尊女卑の風潮が色濃く、女性が宗教の教師に近づき、直接教えを聞くことは、許されていなかったのです。行動型ではないマリヤのタブーへの挑戦、大胆な行動です。

お姉さんの冷たい視線も承知の上。弟子たちが眉を顰めているのも分かった上で、マリヤは、イエス様のみ言葉を聞くことを選びました。イエス様もマリヤの思いを理解し、受けとめたからこそ、マリヤの選択を称賛したのです。それだけでなく、お姉さんのマルタにも、ご自身の教えを聞くように、耳を傾けるようにと招いておられるように見えます。

人生は多忙です。「あれも欲しい。」「これもしたい。」「これも必要。」「あれもしなければ。」私たちは日々思い煩いがちです。しかし、イエス様は、本来の私たち人間に必要なことはわずか。中でもどうしても必要なことは、神様のみことばを聞くこと、神様の教えを心に刻むこと。神様との関係を第一にせよと勧めているのです。

「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」だから、あなたもそうしなさい。マルタに語られたことばは、私たちにも向けられたものであること、覚えたいのです。

 趣味に励むのはよい。技師になるとか、学校の先生になるとか勉強に励むことはよい。しかし、最後に天国にいけなかったらどうなるのか。出世するのもよい。名誉肩書きをもつのもよい。しかし、しかし、肝腎の天国へ行けなかったらどうなのか。

 地上の試験に受かって、天国の鍵を失ってしまったら。地上では豊かでも、天国では貧しいとしたら。それは、本当に幸いな人生と言えるでしょうか。第一のことを第一に。何よりもまず神のことばを聞け、神の教えに耳を傾けよ、でした。

 明治の時代、有名なクリスチャンの一人に、植村正久と言う牧師がいました。その植村牧師を、ある名古屋の富豪が夕食に招待した時のことです。

 それこそ、日本一の牧師。植村先生が名古屋に来られたというので、自宅に招待し、金に糸目をつけず、次から次へ大ご馳走をふるまいました。食卓に並んだ山海の珍味に関する自慢話でお開きとなった時、植村牧師が富豪に向かって言ったそうです。

 「君。君は、植村牧師をよんだのか、それとも一匹の豚をよんだのか。豚ならば、食わせるだけでよかろう。しかし、もし牧師をよんだのなら、牧師の持てる福音を一言でも聞いたらよかろうに。わたしは豚ではない。」あれもこれもの料理でもてなそうとしましたが、客は満足しなかったという一幕でした。

 私たちも、イエス様を人生にお迎えしていながら、同じようなことをやらかしているのではないでしょうか。無くてならぬものは多くはない。いや唯一つだと言われたイエス様。その一つ、みことばを聞くことをもって、主イエス様をおもてなしする。イエス様が喜ぶおもてなしとはなにか。私たち改めて考えさせられるところです。

 世の中の人は、私たちのことを思って言ってくれます。「礼拝だなんて、毎週教会なんかに行ってばかり。他にも、すべきことが山ほどあるのに」と。「祈るより稼げではないか」とか、「折角の日曜日だろう」「せっかくの青春だろう。折角の人生だろう。他にも楽しいこと、すべきこと、したいことがあるだろうに」と心配してくれます。

 しかし、「実は、私にはこれこそ、人生において最も大事なことなのです、無くてならぬ一つなのです」とお答えする。「一日とか、一生とかで尽きるものではなく、永遠に通ずることなのですから」とお答えしたいのです。

 

 こうして、読み終えた今日の個所。改めて振り返りたいのは、この一年間の歩みです。皆様の、神様との関係、家族、教会の兄弟姉妹、職場や地域社会の隣人との関係は、どうだったでしょうか。

 まず、隣人との関係については、マルタの姿を鏡に考えてみたいと思います。イエス様もそれを認め、感謝したように、マルタの隣人への親切心、心遣い、行動力は彼女の長所でした。果たして、私たちは家族や兄弟姉妹を助けるため、地域の隣人、世界の隣人の必要のため、どれだけ心を配ってきたでしょうか。どれほど、愛を実践してきたでしょうか。振り返ってみたいのです。

他方、マルタの行動力は、隣人を助けるという本来の目的に反して、隣人の心をいたたまれなくさせてしまいました。人のためにと思って始めたことが、いつの間にか自分の思い、自分の計画が主となり、本末転倒。思い通りにならない隣人へのイライラが爆発。八つ当たりで、人を困らせることになったのです。

私たちも、こんな自己中心的な愛で、隣人を困らせ、苦しめたことはなかったか。人を愛することから、人を責めることへ。一線を越えてしまう自分の弱点、欠点を、神様に告白し、助けを求めたいと思うのです。

そして、最後は、イエス様が第一のものを第一にと言われた、神様との関係です。私たちはこの一年、どれほど神様の教えを聞くために、時間をとってきたでしょうか。みことばを通して、神様と交わることが、人生においてどうしても必要な一つのことと言う思いはあったでしょうか。みことばを通して、神様の愛を受け、喜ぶことがなければ、私たちの魂は力を失い、悲惨な状態になること。自覚しているでしょうか。

 最後に、今日の聖句を共に読みたいと思います。

 

マタイ22:3740「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

2017年12月24日日曜日

クリスマス礼拝 マタイの福音書2章1節~12節「降誕~東方の博士たちが~」


イタリアのミラノ大聖堂、カナダのバンフ国立公園、エクアドルのガラパゴス諸島、ナミビアの砂漠、オーストラリアのグレートバリアリーフ、中国の万里の長城。皆様は、これが何だか分かるでしょうか。日本人が、一度は旅行に出かけたいと思っている、人気の場所だそうです。「自分も言ってみたいなあ」と思う場所、「既に行ったことがある」その様な場所があるでしょうか。

私たちはしばしば旅に出ます。観光旅行もその一つですが、他にもビジネスマンは商売のために、政治家は外交のために、新婚のカップルは新婚旅行にと、様々な理由があるでしょう。

また、どうしても会いたい人がいるということも、人を旅へと駆り立てるものかもしれません。私の知人は、初孫の誕生を聞いて一目見たいと思い、ブラジルのサンパウロに出かけて行きました。腰痛と心臓病を抱える知人にとって、飛行機を乗り継いで片道二日近くもかかる地球の裏側への旅は、困難と不安もありましたが、初孫を一目見たい、抱いてみたいという思いが彼を動かした様です。

しかし、二千年前、救い主イエス・キリストがユダヤのベツレヘムに生まれてから、およそ一年後のこと。その救い主のもとに、その頃の常識からすれば理解しがたい旅をしてきた人々がいました。

 

2:1「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来た。」

 

当時ユダヤはローマ帝国に支配される弱小国。そんな国に、遠路はるばる東の国から旅をしてきた博士たち。景色の良い地中海の島に旅をすると言うのなら分かる。政治と経済の中心ローマに旅をすると言うのも理解できます。しかし、有名な観光地もないユダヤ。政治的にも経済的にも力なきユダヤの国に、一体何の用があったと言うのでしょう。彼らは、こう語ります。

 

2:2「彼らは言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

 

博士たちは東の方にある自分たちの国で、「ユダヤ人の王として生まれた方の星」を見たと言っています。この星について、よく言われることがあります。それは、地球から見て土星と木星が重なって見える時に起こる特別な光ではなかったかと言うことです。

その頃、この地方で盛んに行われていた天文学では、土星はユダヤを、木星は王を示す星と考えられていたとされます。実際、紀元前の7年頃に、この地方で特別な光が観測されたことが記録に残されており、イエス様の誕生と重なります。

恐らく、博士と言うのは、星の研究をしていた学者か祭司で、王様の相談役、顧問等として重要な仕事をしていた人々、知識も経験も豊かな賢者であったのでしょう。ユダヤから見て東と言っていますから、彼らの母国はバビロン、現在のイラクか、ペルシャ、今のイラン地方と考えられます。

キリスト教と言うと西洋の宗教、クリスマスと言えば西洋のお祭りと言うイメージがあります。しかし、羊飼いたちが礼拝に来て以来、イエス様を礼拝しに来たのは、私たちと同じ東洋の人であったと言うこの記録は、日本人にも何か嬉しく、キリスト教を身近に感じさせてくれます。

それにしても、博士たちは、どのようにして救い主のことを知ったのでしょうか。聖書は何も語っておらず、よくは分かりませんが、当時この地方には、イスラエルの子孫が散らばって生活をしており、彼らを通して旧約聖書を知り、聖書が教える神を信じる人々がいたと考えられてきました。 

博士たちも、そう言う敬虔な信仰者の一人であったのでしょう。神が与えてくださる救い主は、ユダヤの王として生まれる。このわずかな預言のことばを頼りに、はるか東の国で、日々仕事をし、生活を営んできました。

そこに、待望の救い主がユダヤに生まれたと言う知らせが届きます。今とは違い、その様な知らせが事実なのかどうか、確かめるすべもなかったと思われます。しかし、博士たちの心はその知らせに動かされ、はるかユダヤへと旅立ったのです。どれほど、彼らが神様の約束を信じていたか、救い主の誕生を待ち望んでいたかが伝わってきます。

それにしても、この旅は大変な旅でした。準備だけでも困難の連続だったことが想像できます。博士とは国において高い地位を占める、重要な仕事。旅に出るためには長期の休暇が必要であり、その願いが簡単に認められたとは考えられません。なぜなら、会いに行くのはユダヤの国に生まれた王。博士の国がペルシャにしても、バビロンであるとしても、この訪問には、政治的にも、経済的にも、何のメリットもないからです。

また、長い旅を続けるための物資の準備。黄金、乳香、没薬という高価な贈物の用意。加えて、旅の途中、強盗から身を守るためのガードマンを雇うなど、大変な時間と費用が必要でした。命の危険をも覚悟したうえでの旅でもあったのです。

それなのに、このような旅へと彼らの心を動かしていたものは、ただユダヤの王として生まれた救い主を礼拝したいという、たったひとつの願いであった。そう、聖書は語るのです。

しかも、困難は、それで終わりではありませんでした。ようやくユダヤの国についてみると、博士たちの心を挫くような出来事が待っていたのです。ユダヤの王は、王として生まれた方のことを知りませんでした。宗教家たちも、聖書の預言は知っていましたが、救い主が誕生したことを信じてはいなかったのです。

 

2:3~8「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」」

 

 ヘロデはその功績によってユダヤの王の地位を、ローマ帝国から与えられた人物、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人が嫌う異邦人の王でした。しかも、彼は権力欲の塊で、王の地位を脅かすと思われる者は、妻であろうと、子であろうと、容赦なく抹殺していました。「ヘロデの子どもであるより、ヘロデの豚であるほうが安全だ」。人々が、いかにヘロデを恐れていたかを示すことばです。

ですから、ヘロデ王が「幼子のことが分かったら知らせて欲しい。私も行って拝むから」と、博士たちに語ったのは真っ赤な嘘。本心は、将来邪魔者になるかもしれない子どもを、一刻も早く抹殺したい。恐ろしい計画を心に秘めていたのです。

また、救い主が生まれるとの約束を受けた神の民、ユダヤ人の学者や宗教家たちは、救い主の預言について知ってはいても、救い主が誕生したことを信じていませんでした。「自分たちのような外国人が、遠い国から旅をしてきたというのに、王は何事かを企み、本家本元ユダヤの人々は信じてもいない。これは一体どういうことか。」博士たちは、こんな人々の姿にどれ程驚き、がっかりしたことでしょうか。

しかし、それでも彼らの心は挫けることはありませんでした。神様が彼らとともにおられたからです。用いられたのは、母国で見たあの星です。

 

2:9,10「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 

 星が博士たちの行く道を先導し、幼子のところまで進み、その上にとどまったとあります。もし、この星の導きがなかったら、どうだったでしょう。小さな町とは言え、ベツレヘムにはイエス様と同じ頃に生まれた子どもは他にもいたはずですから、博士たちは家々を訪ね歩かなければならず、迷ってしまったかもしれません。

暗い夜空のもと、心細く歩み道。その道を照らすひとつの星。その星を仰ぎ、導かれてゆく博士たち。彼らがお得意の天文学でも、はかり知ることのできない不思議な星の動きに、神様の守りを覚えた彼らは、非常に喜んだとあります。

インマヌエル。神様はいつも私たちともにおられる。先週学びましたメッセージを、今日の個所にも確認することができます。私たちの人生にも、先の見えない暗い道を、ひとり心細く歩むことがあるでしょう。しかし、そのような時でも、神様はともにいてくださる。最も良いところへ導いてくださる。この時の博士たちの喜びを、私たちも共に感じることができる所ではないかと思います。

そして、ついに博士らは念願のユダヤの王、救い主をその目で見ることができたのです。

 

 2:11,12「そして、その家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

 

黄金は王に対するささげもの。乳香は祭司に対するささげもの。没薬は死者に対するささげもの。博士たちはイエス様がどのような生涯送られるのか、それをおぼろげながらも知っていたのでは、とも言われるところです。

しかし、彼らがどれほど救い主について知っていたとしても、現在の私たちが知るところに比べれば、はるかに小さく、部分的であったはずです。私たちはこの幼子が、やがて神様の教えを説き、罪人のため十字架に命をささげ、死んでくださった方であることを知っています。ですから、遠くから礼拝しに来る人がいたとしても当然ではないかと考えます。

しかし、博士たちが置かれた状況を思えば、これは本当に常識を超えた旅、驚くべき旅としか言いようがありません。そして、この点にこそ、マタイが博士たちの旅を聖書に記した意味があったのです。

何度も言いますが、博士たちの旅の目的、それは約束の救い主を礼拝する、ただそれだけでした。「私たちは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに、つまり礼拝しに来ました。」彼ら自身が語っているとおりです。

この世の常識から言えば何の利益もない旅。多くの時間と費用をかけ、危険を覚悟の上でなければ出来ない旅。その目的はただひとつ、幼子イエス・キリストを礼拝することのみ。それ以外の目的はなしでした。

しかも、これだけの時間、費用、犠牲を費やしてなしたことは、ただ一度幼子の救い主をひれ伏して礼拝すること、黄金、乳香、没薬をささげて、救いの神に感謝をあらわすことだけだったのです。このただ一度の礼拝に、博士らは満足したのです。

 幼子のイエス様のために、博士たちが為した犠牲と献身。これを真の神礼拝と言わずして、他に何と言うのでしょうか。博士たちにとって、神を礼拝することはこれ程の犠牲を払ったとしても、行う価値のあること。この世の富や地位を守ることより、はるかに大切なことであったのです。

 現在の私たちよりも、はるかに少なく、部分的にしか救い主を知ってはいなかった博士たち。しかも、その救い主はまだ赤ん坊で、貧しいユダヤ人夫婦の大工の幼子であったのに、礼拝をささげた博士たち。この礼拝につい思い巡らす時、彼らよりも救い主とその恵みについて、はるかによく知る私たちの礼拝は、果たしてどうかと問われます。

私たちは、神様を礼拝するために旅をする必要はなくなりました。イエス様が、いつもともにいてくださるからです。私たちはいつでもどこでも神様に近づき、親しく呼びかけ、礼拝することができるようになりました。

これは、博士たちに比べると大きな恵み、彼らも羨むほどの恵みです。しかし、その様な恵みの中にあるために、かえって礼拝が形式的で、心の真実に欠けるものとなってしまうことがないかどうか、今日ひとりひとり振り返りたいと思います。

果たして、私たちには、あの博士たちのように、大きな犠牲を支払うことになっても、神様を礼拝したいという願いがあるでしょうか。私たちにとって、神様とは、自分が持てる最もよいものをささげる価値のあるお方でしょうか。私たちは、神を神としてふさわしく礼拝するために、どれほど聖書を読み、考え、時間を用いているでしょうか。

神様に背いた人間が失ったもの。それは、礼拝すべき神とその髪を礼拝する心です。イエス様は、人間が礼拝すべき神と、神を礼拝する心を示すため、この世界に生まれてくださいました。今朝、私たちは東方の博士たちの姿に、真の礼拝の心を見、それを学びたいと思うのです。神様を礼拝することを、この世の何よりも価値あることと考える者。神様を礼拝することひとつで、心満たされる者。私たち皆で、その様な歩みをしてゆきたいと思います。今日の聖句です。

 

ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

2017年12月17日日曜日

マタイの福音書1章18節~25節「待降節(3)~命じられたとおりに~」


 十二月に入り、待降節(アドベント)を過ごしています。この時、私たちはキリストの到来に心を向けます。約二千年前、主イエスが来られたこと。そしてイエス様はもう一度来られること。「キリストが来られた」、「キリストはまた来られる」、この二つのキリストの到来の意味と恵みを確認しつつ、クリスマス礼拝へと歩みを進めていきたいと願っています。

 今年、待降節で読み進めているのはマタイの福音書。マタイは、旧約聖書に精通しているユダヤ人に向けて福音書を記したと言われます。その冒頭はキリストの系図で、これから記すイエスこそ、約束の救い主であるというメッセージが込められていました。今日はその続き、父ヨセフの視点によるイエス誕生の記録となります。(マリヤは聖霊によってイエスを生むため、正確に言えばヨセフは父ではなく養父である。そのため父ヨセフではなく養父ヨセフと呼ぶのが良いという考えもありますが、この説教では父ヨセフと呼ぶことにします。)

 それでは、主イエスの父ヨセフはどのような人でしょうか。皆様はどのような人物と想像するでしょうか。

 母マリヤに関して、聖書は所々、言葉や行動、考えたことを記録しています。イエスが死ぬ時にも母マリヤは健在で、イエス様は十字架上から母マリヤに話しかけています。ところが父ヨセフに関しては、イエスが公に活動を開始してからは登場することなく、そのため記録が僅か。どのような人物であったのか、あまり分からないのです。(聖書には記述がないですが、伝承ではイエス様の公の活動の前に死んだとされています。)

ただし全く不明なのではなく、分かることはいくつかあります。

住まいはガリラヤのナザレ。都エルサレムから百キロ強離れた田舎町です。ガリラヤと言えば、預言者イザヤによって「異邦人のガリラヤ」「やみの中」「死の陰の地」(イザヤ9書1節~2節)と言われた地域。ナザレと言えば、聖書に精通した人から、「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1章46節)と言われるような町。当時のユダヤの社会では、期待されず、見下げられているようなところです。

 ヨセフの職業は大工でした(マタイ13章55節)。大工の技量がどれ程のものだったか分かりませんが、少なくともマリヤがイエスを生む段階では、貧しい状況(ルカ2章22節~24節)。それでも、イエス様が生まれた後、マリヤとの間には六人以上の子どもがいました(マタイ13章55節)。田舎町の大工。貧しいながらも、必死に働いて家族を養った。イエス様自身、大工でしたので、ヨセフは大工の技を子どもに教えていたことも分かります。

今日の聖書箇所には「正しい人」であったと記されています。これは聖書の教えを守り行う生活をしえいた人という意味です。(罪がないという意味ではありません。)おそらく、ヨセフの両親が、聖書のこと、信仰のことをよく教えたのでしょう。ヨセフ自身も聖書に従うことを良いものとして生きた。品行方正で信仰心篤い人物。ユダヤ人の社会の中で好まれ、尊敬されるような人柄であったと思います。

 またマタイの福音書の冒頭に記されたキリストの系図は、そのままヨセフの系図でもあります。親から系図を引き継ぎ、自分自身がダビデ王の子孫に当たることも知っていました。(そもそもヨセフが、自分の系図を正しく引き継いでいたので、マタが系図を記すことが出来たと言えます。)

 由緒正しきダビデ王家に属する者。しかし、ヨセフ自身は王族とは思えない状況。都エルサレムから離れた、良いところなしと思われていた田舎町で大工として生きる。それでも、世を恨み、自暴自棄に走るのではない。世が世なら、自分は高い地位に就いていたのにと腐ることもない。貧しい中でも、自分の出来ることを見出し、神の民として精一杯生きている善良な人。ヨセフ自身、神様が約束していた救い主の到来を待ちながら、生きていたでしょう。

 このヨセフに、大きな苦難が襲いかかったというのが本日の箇所です。

 マタイ1章18節~19節

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 ヨセフはマリヤという女性と婚約中でした。当時の一般的な婚約期間は約一年。男性は十代後半、女性は十代前半に婚約したと言われます。

今の私たちが考える婚約は、結婚の備えの最終段階。婚約中に、結婚するのはこの相手ではないと思えば、そのまま結婚するより、婚約を破棄する方が良いと考えます。当時のユダヤの婚約は、今の私たちが考える婚約よりも結婚に近いもの。実際に夫婦として生活すること(一つの家に住むこと、性的関係を持つこと)はないものの、社会的には結婚しているとみなされました。そのため、今日の箇所でも、ヨセフのことは「夫」、マリヤのことは「妻」と呼ばれています。

 自分には覚えがなく、婚約中の相手が妊娠した。ヨセフの受けた衝撃、狼狽はどれ程のものだったかと思います。

 マリヤの妊娠を、ヨセフはどのように知ったのか。聖書は記していません。マリヤ自身が伝えたのか。他の人が伝えたのか。

ルカの福音書によれば、御使いから救い主を産むことを告げられたマリヤは、エルサレムにいる親類のエリサベツのもとに向かいます。エリサベツとのやりとりを経て、御使いの宣言が真実であることの確信を強めます。マリヤ自身、そしてマリヤの親類は、聖霊によって身籠ることを受け入れることが出来た。

しかし、ヨセフの立場で考えるとどうでしょうか。マリヤ、あるいはエリサベツは、ヨセフに対して「聖霊によって身籠った」と伝えることが出来たでしょうか。仮に、マリヤ自身がヨセフに伝えたとして、ヨセフは受け入れることが出来たでしょうか。

 婚約中の相手が妊娠した。それは相手が自分を裏切ったのか。あるいは乱暴されたのか。どちらも悲劇ですが、「聖霊によって身籠った」と言われたら、この相手は、自分を裏切る上に、謝ることもしないとしか思えない。聖書に従って生きてきた。生活の糧を得るための大工の技術も身につけた。大切な相手を見つけ、婚約して、結婚を待つばかりの状況。一般的には幸せのただ中にあって、絶望的な思いを味わうことになるヨセフ。

 婚約中の相手が妊娠した場合。対応は大きく二つです。

一つは、その社会の中で、起こった出来事を訴え出て、自分に非がないことを明らかにすること。この場合、聖書で教えられた定めを厳密に行えば、不貞をおかした者は石打ちで死刑(申命記22章13節~22節)となります。厳密に聖書の定めを適用しないとしても、不貞をおかした者は、その社会の中で真っ当に生きることが難しくなる、晒し者になると言えます。

 もう一つは、ひそかに婚約を解消すること。この場合、相手が晒し者とはならない代わりに、自分にも非があるとみなされる危険があります。相手を社会的に守ると同時に、自分が社会的に傷を負う危険性がある

 ヨセフはどうしたのか。悩みつつ、マリヤを晒し者にはしたくない。内密に婚約を解消しようと決意しました。この決断もヨセフの人柄が表れていると思います。自分を裏切ったとしか思えない状況で、それでも出来る限りはマリヤを守ろうとする。失望や怒りにまかせてマリヤを責めるのではなく、自分も社会的傷を負う可能性がありながら、内密に去らせよとした。苦悩の中でも、ヨセフの優しさが光ります。

 このヨセフに神様は御使いを送られました。

 マタイ1章20節~21節

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』

 御使いは、ヨセフのことをダビデの子と呼びます。その告げた内容をまとめると、マリヤが身籠っているのは聖霊の力によること。マリヤは男の子を産むこと。その子は「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」であること。だから、恐れないでマリヤを受け入れ、その子に名をつけるように命じます。

 この御使いの言葉は、ヨセフにはどのような意味があるでしょうか。ヨセフはどのようにこの言葉を聞いたでしょうか。

マリヤの妊娠は、不倫でも、乱暴されたことによるのでもない。この知らせを受けないまま、婚約解消していたら、どうなっていたでしょうか。マリヤに対する疑念は残ったままで婚約解消となる。愛する人に裏切られた傷を抱えながら、怒りや憎しみと戦いながら生きることになる。この知らせを聞くことが出来たのは、ヨセフ自身にとっても幸いなこと。慰め、安堵の言葉でした。

また、ヨセフは聖書に精通した人物です。この御使いの言葉で、マリヤが生む子は、普通の子ではないこと。ヨセフ自身を含め、神様を信じる者が待ち望んでいた約束の救い主を、マリヤが産むことを理解したでしょう。更に言うと、救い主はダビデの子孫として生まれると教えられていました。そのためにはダビデの子孫である自分が、マリヤを受け入れ(結婚し)、その子に名をつける(息子とする)ことで、法的にその子をダビデの家系に連ならせる意味があること。つまり、ここで自分がマリヤを受け入れ、その生まれる子の父となることが、約束の救い主はダビデの子孫から生まれるという約束が成就することだと理解したのです。

 ヨセフにとってこの御使いの言葉は、慰め、安堵の言葉であると同時に、重要な使命を託された言葉であったということ。約束の救い主の父の役割を担うように。そのことを通して、神様の約束が成就するのだと言われたのです。

 自分がヨセフの立場であったとしたら、この御使いの言葉に、どのように応じたかと考えるところ。果たしてヨセフは、この御使いの言葉にどのように応じたでしょうか。

 

 マタイ1章24節~25節

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

 

ヨセフからすれば、与えられた使命を果たすことがどれ程困難なことなのか、想像も出来ない程であったと思います。婚約中に妊娠した女性を妻とする。ヨセフ自身はそれが聖霊によると分かっていても、周りにいる人々にはどのように思われるのか。田舎の貧しい大工である自分が、約束の救い主の父となる。どのように育てたら良いのか。どう考えても力不足。

それでもヨセフは、命じられたとおりにマリヤを迎え、子どもに名前を付けます。困難、力不足と思われても、それでも神様に従う。このヨセフの決断によって、救い主はダビデの子孫であるということが成就するのです。

 

 ヨセフの決断によって、神様の言葉が成就した。これは非常に興味深く、よく考えるべきことです。

ヨセフが、マリヤを受け入れ、子に名前を付けたので、預言が成就した。ということは、ヨセフがマリヤとの婚約を解消していたら、神の言葉は成就しなかったのでしょうか。神様は真実な方ではないということになったのでしょうか。そうではないでしょう。神の言葉は必ず実現します。仮にヨセフがマリヤを受け入れなかったとしたら、他の方法でイエス様がダビデの子孫となったでしょう。

 神の言葉は必ず実現する。そうだとすれば、ヨセフがどのように決断しても、神様が困るというわけではない。神様は、ご自身の計画を進めるのに、神の民に協力を求めることがありますが、神の民が協力しなければ計画が進められないわけではないのです。それでは、御使いがヨセフに告げた「マリヤを受け入れ、その子に名を付けなさい。」という命令は、誰のためかと言えば、ヨセフ自身のため、あるいはマリヤのためということになります。

 仮に、ヨセフが御使いの言葉を無視していたらどうなったでしょうか。マリヤとの関係は壊れることになります。それはヨセフにとっても、マリヤにとっても辛いことでしょう。また、神様がヨセフを信頼して、ヨセフに任せたいと思われた、約束の救い主の父となる役割。それは重責だったと思いますが、その役割から逃げるとしたら、苦労とともに大きな恵みであるその使命を自ら放棄することになります。御使いを通して告げらえたことに従わないことは、ヨセフ自身を不幸にする道なのです。

 婚約中に妊娠した女性を受け入れ、約束の救い主を育てていく生涯を送る。それは大変困難な道に見えますが、それが、神様が用意された道であれば、それ程祝福された道、安全な道はなく、この時ヨセフは、命じられたとおりにすることが出来たのです。

 

 以上、マタイの福音書に記された父ヨセフの視点によるキリスト誕生の記録でした。

キリストの誕生とは、神の一人子が人となること。罪人の身代わりとして死ぬために生まれること。人間が神様から離れたのに、神様の方から人間を救うために手をうって下さったこと。そして、救い主を信じる者は、神様と交わる者となる。つまり、キリストの誕生とは、まさに「神様が私たちとともにおられる」ことを意味するもの。主イエスの誕生は、まさに「インマヌエル」という出来事。

しかし、「イエス様の誕生」だけが、神様が私たちとともにおられることを示す出来事ではありません。神様は救い主誕生というこの時、ヨセフにも目を留めていました。混乱し狼狽している時、絶妙のタイミングで御使いを送り、その混乱を取り除き、使命を与え、進むべき道を示されました。救い主が誕生するという大事を前に、ヨセフが混乱しようが、マリヤが困ろうが関係無いというのではない。救い主誕生という出来事が、ヨセフやマリヤにとっても喜びとなることを、神様は望んでおられたのです。

 この箇所を記したマタイは、「主イエスの誕生」だけでなく、神様がヨセフをこのように守り、励まし、導かれたことも、「神様が私たちとともにおられること」を意味するとして、次のようにまとめました。

 

マタイ1章22節~23節

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」

 

 皆様は、どのような時に、神様は私とともにおられることを味わってきたでしょうか。確かに、神様は私とともにおられると感じたのは、いつのことでしょうか。

 待降節を過ごしている私たち。今日の箇所を通して、私たちの神様は、神の民を守り、励まし、導かれる方である確信を強めたいと思います。私たちの神様が確かに「インマヌエル」な方であることを再確認したいと思います。

その上で、自分に与えられている使命に生きる決心を新たにしたいと思います。困難、不安、力不足と思われることでも、神様に従うことが最も安全であり、幸いであること。安全、安心、自分にとって良いと思うことでも、それが神様に従わないことであれば、それ程危険なことはない。

神を愛し、隣人を愛すること。遣わされた場所で、地の塩、世の光として生きること。キリストを宣べ伝えること。教会を建て上げることに取り組むこと。今の自分が、特に取り組むように言われていることは何でしょうか。嫌なこと、危険なこと、自分には出来ないと思うことでも、神様がともにおられることを確信して、私たち皆で、神の民の人生を全うしたいと思います。

2017年12月10日日曜日

マタイの福音書1章1節~17節「待降節(2)~イエス・キリストの系図~」


今日は待降節、アドベントの礼拝、第2週目となります。先回は、神様が遣わす救い主が、どのような時にも私たちとともにいます神であること、旧約聖書イザヤの預言の中に確かめました。

 

イザヤ7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

 

危機の時にも心が揺れるばかり。神様に信頼しようとしないユダの人々、神さま以外のものに助けを求めた不敬虔な王アハズ。これら罪人のために、神様が与えたインマヌエル預言、その一部は旧約の時代に、また、およそ2000年前、文字通り幼子イエス様の誕生において実現したのです。

2000年前ユダヤに生まれたイエス様を、旧約において約束された救い主、神が遣わされた真の救い主として紹介する。この視点は、今日取り上げる、マタイの福音書第1章にも通じています。

 

1:1「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」

 

何か人生のためになる名言、格言があるかと期待して新約聖書を開くと、そこにいきなり突きつけられる、日本人には馴染みのない、チンプンカンプンの人名の羅列。いくら有名なイエス・キリストの系図と言われても、これを見ただけで聖書を閉じてしまった人がいるとも言われる所。皆様にも少し忍耐して、付き合っていただく必要があるかと思います。

まず初めに登場するアブラハムは、紀元前2000年と言いますから、今からおよそ3000年前の人。神の民として最初に選ばれた人物で、神様に命じられるまま故郷を離れ、約束の地に旅立った信仰の人。ユダヤ人から信仰の父として敬われてきた人物です。

アブラハムが故郷を旅立つに際し、神様が与えられたことばがこれです。

 

12:1~3「【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」」

 

「地上のすべての民族は、アブラハムよ、あなたによって祝福される。」この約束は、やがてアブラハムに待望の子が生まれた時、「あなたの子孫によって祝福される」と更新されます。そして、アブラハムの子孫がもたらす祝福とは、神様から私の民と呼ばれ、神様を私の神と呼び交わす、この世界のあらゆる民族が、神様との親しい関係に入ることでした。今日、私たちは、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによって、この預言が実現したことを、キリスト教の世界的な広がりのうちに確かめることができます。

また、次に登場するダビデは、紀元前1000年の人。イスラエルを統一した王として有名ですが、ご自分を信頼するダビデをことさらに愛した神様は、その子孫を祝福し、その子孫の内から救い主が出ると預言されました。この預言はいくつもありますが、その内の一つを取り上げます。

 

エゼキエル34:2324「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。」

 

エゼキエルは、ダビデの時代から400年ほど後に活躍した預言者です。その時代、ユダの王や宗教家たちは、貧しい者を苦しめ、弱い者を踏みにじり、私利私欲を肥やす。あるべき王、あるべき宗教家の姿からは程遠い状態にありました。このような悲惨な状態にある民を哀れんだ神様は、ダビデのしもべと呼ばれる救い主を送ると語っています。その救い主が羊飼いとなり、民を養い、世話をすることで、人々は、神様との親しい交わりを取り戻すことができると、約束されたのです。

この預言も、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」そう語られ、事実十字架に命を捨てられたイエス様によって、実現しました。

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」「私たちが信じ、述べ伝えているイエス様は、これこの様に旧約聖書の昔から、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として証しされてきたんですよ。」マタイは、神様から旧約聖書をもらっていた神の民、同胞ユダヤ人のために、この系図をもって語りかけたのです。

それでは、ユダヤ人とは神の民にふさわしく、神様に信頼してきた人々だったのでしょうか。アブラハムの子孫、ダビデの子孫である彼らは、救い主を与えられるにふさわしい、信仰の歩みをしてきた民だったのでしょうか。

実は、まったくそうではなかったことが、続く系図によって明らかにされるのです。

 

1:2~16「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」

 

ユダヤ人は神の民の資格として、信仰とともに血筋を尊びました。神の民に属することを証明する系図が重んじられたのです。そう考えますと、この系図には少し不思議、異例な点があります。

それは、4人の女性のことです。ユダヤ人の系図に女性が登場する場合、栄誉ある女性に限られていました。例えば、アブラハムの妻サラのようにです。しかし、イエス様の系図に登場するのは、栄誉ある女性ではありませんし、中には隠しておきたい女性もいます。

一番手は、「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」(3節)とあるタマルです。ここに登場するユダはイスラエル12部族の一つ、ユダ族の父祖。タマルはユダの長男の妻、つまりユダの嫁でした。けれども、何をしでかしたのか。この長男は神の怒りを買い、死んでしまいます。当時、この地方で行われていた風習に従い、タマルはユダの次男の嫁となりますが、次男はタマルと一つになることを拒絶し、神に命を奪われます。

その様子を見て、嫁のタマルに不吉な影を感じたのでしょうか。三男が残っているにも関わらず、口実を設けて、ユダはタマルを家から追い払ってしまったのです。けれども、舅ユダの仕打ちに、タマルは抵抗しました。何と遊女になりすましてユダの前に現れ、気を引くと、ユダと交わり、二人の子をなしたと言うのです。

これに驚いたユダは、タマルがこの様な忌まわしい行為に及んだ責任は、彼女を三男の嫁に迎えようとしなかった、自身の不誠実にあると罪を認めました。神様はユダを赦し、ユダは彼の子孫から救い主が生まれるという祝福を受けることになります。しかし、選ばれたのはユダに残された三男ではなく、タマルとの忌まわしい関係によって生まれた子ども、パレスとザラでした。ここに、私たちは神様の恵みの不思議さ、深さを見ることができます。

二番手、三番手は、「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」(5節)とある、ラハブとルツです。

ラハブは、聖書の他の個所では「遊女ラハブ」と呼ばれています。ラハブはエリコの町に住む女性で、その機知と勇気によって、追手からイスラエルの斥候を逃がし、迫りくる神のさばきから逃れることができました。そんな女性であるのに、その職業の故でしょうか。現在残されているユダヤ人の手による文書の中に、ラハブがダビデ王の先祖の家系に属していることに触れているものは、ひとつもないそうです。しかし、イエス様の系図には残されている。ここにも、神様の恵みが何たるものかが物語られているでしょう。

他方、ルツは姑ナオミに対する従順、神を信じ、従うことの熱心。忠実な働きぶりを、男性に見初められて良き結婚を恵まれたなど、聖書の中でもひときわ人気の高い女性です。女性にも男性にも好かれ、尊敬される人です。

けれども、ルツは異邦人でした。それも、旧約聖書において、最も厳しく非難されたモアブ人だったのです。イスラエルの民が出エジプトの際、旅の途中「ちょっと休憩させてほしい」と頼んだのがモアブ人。しかし、モアブ人はイスラエルを呪い、酷い目に合わせました。この出来事にちなんで、神の民の集会に絶対に加わることができない民として、何度もモアブ人が挙げられています。しかし、人々が憎み、嫌った民にも、神様の恵みは及んできたではないか。マタイは、そう語っているように思えます。

最後は、「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」(6節)とある、ウリヤの妻です。名前が記されていないのは、誰もがこの女性とダビデの関係を知っていたからでしょう。

ダビデは忠実な部下ウリヤが戦いに出ている間、その妻バテ・シェバを見初め、情欲に動かされて彼女を召すと関係を結び、バテ・シェバは身ごもります。それを隠すために、ダビデはウリヤを戦場に送りますが、その際、密かに「ウリヤを最前線に送り、これを戦死せしめよ」との指令を出して、殺人に手を染めました。

後に預言者に糾弾され、ダビデは罪を悔い改めますが、ダビデの家庭を次々と悲劇が襲うことになります。それらが神のさばきであることを、聖書は記しています。「ダビデに、バテ・シェバによって」ではなく、「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」とあるところに、ダビデの犯した罪の酷さが際立ち、強調されているとも言われます。私たちも、ダビデの犯した罪を思えば思うほど、なおもそれを覆う神様の恵みを、ここに見ることができるでしょう。

こうして、無味乾燥な人名の羅列、退屈極まりない系図と思われたイエス様の系図に、私たちの思いを超える神様の恵みが輝いているのを見てきました。そして、それをもう一度確認させてくれるのが、17節のことばです。

 

1:17「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 

アブラハムからキリストまで、14代ずつ三つに分けてまとめられた系図。このことには、どの様な意味があるのでしょうか。聖書には、137等、完全数と呼ばれる数字があります。その数字によって、神様のわざの完成や完全さをあらわすものです。

14は7×7、それをさらに三つ重ねることによって、イエス様の誕生によって神様の救いの計画が完成したこと、また、人間の罪にもかかわらず、神様の恵みは完全であることが示されている。そう考えられてきたところです。

確かに、アブラハムからダビデまでの14代。賞賛すべき信仰者は遊女ラハブと異邦人の女性ルツであり、ユダにしてもダビデにしても、錚々たるユダヤの父祖たちは忌まわしいことを行い、酷い罪に陥っていました。続く、ダビデからバビロン移住までの14代では、イスラエルの国が二つに分裂。北イスラエルは滅び、南ユダはバビロンに強制移住させられました。神の民が神に背いたことに対する、神のさばきです。そして、バビロン移住からキリストまでの14代。この時代、ダビデ王朝の栄光は消え去り、子孫の一人ヨセフは、ナザレと言う小さな村の大工に過ぎなかったのです。

以上、イエス様誕生に至る系図を読み終えて、私たちが心に留めるべきことは、何でしょうか。

 一つ目は、神様の恵みの計り知れない深さです。たとえ、その職業が卑しいものであっても、たとえ、キリスト教信仰に反対してきた家の者であっても、神様はその人の心にある信仰を見て、恵みを与えてくださいます。たとえ、それが不誠実であれ、忌まわしい行いであれ、姦淫であれ、殺人であれ、人間が犯すどのような罪も、神様の恵みはこれを覆うことができるのです。

 二つ目は、揺らぐことのない神様の真実です。この系図を通して、たとえ神の民であっても、神様から救い主を頂く資格はないことを教えられます。ユダも、ダビデ王も、どの時代の人々も、救い主を与えられるに価する生き方をしてはいません。しかし、それは私たちも同じでしょう。けれども、人間がどんなにいい加減で、不真実であっても、神様の側は一度誓った約束を破らず、必ず果たしてくださる。イエス様の誕生はその確かなしるしでした。

 待降節は、自分の罪を覚える時です。同時に、私たちに対する神様の恵みの計り知れない深さを確認する時です。神様の揺るがない真実に感謝し、賛美する時でもあります。この季節、私たちみなで、このような歩みを進めてゆけたらと思うのです。今日の聖句です。

 

ローマ5:20b「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」