2017年12月3日日曜日

イザヤ書7章1節~14節「待降節(1)~その名を「インマヌエル」と~」


今日から待降節、アドベントの礼拝となります。昨年は、ルカの福音書からイエス・キリスト誕生の意味を考えてきましたので、今年はマタイの福音書を取り上げるつもりです。但し、マタイの福音書そのものに入る前に、今日は先ず、旧約聖書に示された救い主に関する預言を見てゆきます。

人類の先祖アダムが神様に背いて以来、人間の心は罪に汚れ、この世界には様々な混乱がもたらされました。それに対して、神様は早速手を打ちました。一人の救い主をこの世界に送り、人類を罪から救い、この世界を新しくしようとされたのです。その為に預言者たちを通し、救い主に関する多くの預言を語ってきました。

旧約聖書に記された救い主の預言は300以上あるとも言われ、メシヤ預言とかキリスト預言と呼ばれています。そこには、救い主が生まれる町や家系についての預言があります。罪人の代わりに神の罰を受けて苦しむ救い主、王として到来する救い主の預言もあります。罪からの救い、平和をもたらすことなど働きに関する預言もあれば、柔和で優しいなど性格についての預言もある。実に、様々な面から来るべき救い主ついて語られているのです。

今日取り上げるのは、それらの中でも、インマヌエル預言と呼ばれる有名なもの。イエス様誕生の際、マタイが記した預言として、よくクリスマスの礼拝で読まれることばです。

 

マタイ1:22,23「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 

この預言は、イエス様誕生から遡ることおそよ700年前、預言者イザヤを通して語られました。これは、元々どのような状況で語られた預言なのか。当時の人々にとって、どのような意味を持っていた預言なのか。考えてゆきたいと思います。

その頃、イスラエルは南ユダと北イスラエルという二つの国に分裂。イザヤが活動した南ユダを治めていたのはアハズと言う王でした。アハズの時代、緊迫する国際情勢の中、南ユダは、アラムと北イスラエルの連合軍に攻め込まれるという危機的状況にあったのです。

 

7:1「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。」

 

イザヤの時代、南ユダはウジヤ、ヨタム、アハズと三人の王が順番に治めていましたが、この時の王はアハズ。アハズは真の神を捨て、偶像崇拝にふける。不信仰な悪王でした。

 

Ⅱ列王記16:13「アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、【主】の目にかなうことを行わず、イスラエルの王たちの道に歩み、【主】がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。」

 

「異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねた」とある様に、アハズは、周りの国々で礼拝されていた偶像を頼んでいました。我が子を犠牲にして、偶像の神モレクにささげるほど、心奪われていたのです。

それに対して、神様のさばきが下りました。神様はアラムと北イスラエルの連合軍によって南ユダを攻撃させたのです。元々一つの国であった南ユダと北イスラエルが、何故戦いを交えることになったのか。理由は、国際情勢にありました。

当時、この地方の国々にとって、最大の脅威はアッシリアという大国です。アラムは北イスラエルと手を結び、アッシリヤに対抗しました。両国は南ユダにも仲間に加わるよう迫りますが、アッシリヤに従うことで難を逃れようと考えたアハズは、これを拒絶。

これに対しアラム、北イスラエル連合軍は攻撃を開始します。連合軍は多くの人々を虜にして、南ユダを苦しめますが、南ユダを仲間に加えるという目論見は果たすことができませんでした。これが、彼らは「エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。」という言葉の意味するところと考えられます。

しかし、最終的に国は守られるとしても、連合軍に侵攻された南ユダの人々やアハズ王にしてみれば、恐れるべき状態だったでしょう。人々は慌てふためきました。

 

7:2「ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」

 

アハズ王もダビデの子孫であることから、ここでは「ダビデの家」と呼ばれています。アラム侵攻の知らせを聞いた王も、人々も、心は林の木々が風に揺れるごとし。恐れと不安、戦々恐々の状態でした。しかも、侵攻する連合軍の勢いは勇ましく、南ユダを占領しようと、意気盛んだったのです。このような状況で、神様がイザヤを遣わし、語らせたのは「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはいけない」ということばでした。

 

7:3~9「そこで【主】はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう』と。

神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。──六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。──また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」

 

「タベアルの子」が誰なのかは良くわかっていません。しかし、要するに、言うことを聞かないアハズに代えて、自分たちの指示通り行動する者を王とすること、即ち、ダビデ王朝断絶が、彼らの目的でした。

それに対して、「アラムと北イスラエルの連合軍は、あなたたちを我がものにしようと悪事を企てているが、心を弱らせてはならない。彼らは燻る木切れのようなもの。すぐにその勢いは消えてしまう。彼らの目的は実現しないし、起こりえない。だから、あなたがたはわたしを信頼して、静かにしていなさい。恐れてはならならない。」これが、神様からのメッセージです。

また、神様に背いた北イスラエルがやがて滅び、神の民ではなくなることを告げ、「わたしを信頼しなければ、あなたがたダビデの家、南ユダの国も長く立つことはできない。」そう警告されました。

神様はアラムと北イスラエルの王の企みが阻止することを宣言するとともに、恐れることなく、神様を信頼して立つよう、イザヤを遣わして、アハズを諭したのです。

しかし、他の聖書の個所を見ますと、神様の寛容と導きにもかかわらず、アハズは神様に信頼しませんでした。むしろ、アッシリヤと手を結ぼうとして、逆に反撃され、酷い目に合っています。危機を逃れるために、偶像の神モレクに我が子をささげるという忌まわしい礼拝さえ行いました。アハズは、神様の差し出した、助けの手を拒んだのです。

けれども、その様な王アハズのために、神様はさらに語ります。

 

7:10~14「【主】は再び、アハズに告げてこう仰せられた。「あなたの神、【主】から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。するとアハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」

そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。」見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

 

神様は「わたしからしるしを求めなさい」と言われました。しかも「よみの深み、あるいは、上の高いところから」と語っておられます。これは、「あなたが望むどのようなしるしでもよいから、求めてよい」ということでしょう。神様はへりくだり、アハズに近づいて、アハズがご自身を信頼するよう背中を押しています。頑固なアハズを励ましておられるのです。

それなのに、アハズときたら、「私は求めません。主を試みません。」と応じました。これは一見、「私は主を信頼しているから、しるしなど求めない、主を試みるようなことはしない。」そんな敬虔な態度と見えます。しかし、そうではないでしょう。アハズは、アハズを苦しめる連合軍を退け、国を守ると保証してくださった上で、さらにそのことを示すしるしを求めてもよい、そこまで言われた神様のあわれみを退け、これを拒んだのです。

なぜなら、アハズは初めから神様を信頼していませんでした。先程も言ったように、アハズ王が頼っていたのは、アッシリアであり、偶像の神だったのです。

アハズが神様のあわれみの招きを拒んだ時、イザヤも神様もどれ程悲しく思われたか。それが、「あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか」ということばに伺われます。「煩わす」ということばには、「ひどく疲れさせる、途方に暮れさせる」という意味があります。イザヤも、神様もアハズのためにどれ程心を砕き、忍耐をもって接してこられたことか。

それでは、「ここまでわたしを拒み続ける、不敬虔で頑固なアハズなど、もう放っておけ。」神様はそう思われたのでしょうか。そうではありませんでした。アハズのために、神様はなおも寛容を示し、自らしるしを与えられたのです。それが、インマヌエル預言でした。

 

7:14「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

 

この預言は、救い主イエス・キリストが処女マリヤから生まれたことを知っている私たちからすると、受け入れやすいものです。しかし、アハズ王の時代の人々にとっては、不思議な預言、理解しがたいことばであったと思われます。

「インマヌエル」は「私たちとともに」を意味する「インマーヌー」と神を意味する「エル」から成っています。「神が私たちとともにいる」、あるいは「私たちとともにいる神」と訳すことができるでしょう。

事実、この時代、アラムと北イスラエルに苦しめられる南ユダの人々とともにおられた神様は、連合軍を退け、神の民を守られました。その後大国アッシリヤが侵略した際も、神の民とともにおられ、民を守られたのです。そのことを預言したことばを見ておきたいと思います。

 

イザヤ8:9,10「国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。」

 

この預言の最後に登場する「神が、私たちとともにおられる」がインマヌエルということばです。神様は旧約の時代も、民とともにおられることを示し、インマヌエル預言を実現されました。しかし、それからおよそ700年後、文字通り処女から生まれた一人の男の子がこの預言を実現したことを、私たちは知っています。神様の預言が単なることばではなく、歴史の事実であることを確かめることができるのです。

私たちは、イザヤの時代よりもはるかに近く、親しく、いつも共にいてくださる神、イエス様を知っていますが、皆様はこの恵み、自覚しているでしょうか。

イエス様は、あの南ユダの人々のように、私たちが現実の厳しさの中で動揺してしまう時、静まって神様を信頼することができない時、そのような時であっても、私たちを離れず、ともにいてくださるお方です。

私たちは、病や経済的不安、先の見えない苦しみなど、様々な理由で心が揺れ動きます。神様に信頼しなければと思っても、なかなか神様に信頼することができない者です。時には、アハズのように神様以外のものに助けを求めてしまうこともあるでしょう。しかし、そうであったとしても、イエス様は私たちを離れず、私たちともに共にいてくださるお方、インマヌエルの神なのです。最後に、インマヌエルの神様からの語りかけを、皆で聞きたいと思います。

 

イザヤ4110「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

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