十二月に入り、待降節(アドベント)を過ごしています。この時、私たちはキリストの到来に心を向けます。約二千年前、主イエスが来られたこと。そしてイエス様はもう一度来られること。「キリストが来られた」、「キリストはまた来られる」、この二つのキリストの到来の意味と恵みを確認しつつ、クリスマス礼拝へと歩みを進めていきたいと願っています。
今年、待降節で読み進めているのはマタイの福音書。マタイは、旧約聖書に精通しているユダヤ人に向けて福音書を記したと言われます。その冒頭はキリストの系図で、これから記すイエスこそ、約束の救い主であるというメッセージが込められていました。今日はその続き、父ヨセフの視点によるイエス誕生の記録となります。(マリヤは聖霊によってイエスを生むため、正確に言えばヨセフは父ではなく養父である。そのため父ヨセフではなく養父ヨセフと呼ぶのが良いという考えもありますが、この説教では父ヨセフと呼ぶことにします。)
それでは、主イエスの父ヨセフはどのような人でしょうか。皆様はどのような人物と想像するでしょうか。
母マリヤに関して、聖書は所々、言葉や行動、考えたことを記録しています。イエスが死ぬ時にも母マリヤは健在で、イエス様は十字架上から母マリヤに話しかけています。ところが父ヨセフに関しては、イエスが公に活動を開始してからは登場することなく、そのため記録が僅か。どのような人物であったのか、あまり分からないのです。(聖書には記述がないですが、伝承ではイエス様の公の活動の前に死んだとされています。)
ただし全く不明なのではなく、分かることはいくつかあります。
住まいはガリラヤのナザレ。都エルサレムから百キロ強離れた田舎町です。ガリラヤと言えば、預言者イザヤによって「異邦人のガリラヤ」「やみの中」「死の陰の地」(イザヤ9書1節~2節)と言われた地域。ナザレと言えば、聖書に精通した人から、「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1章46節)と言われるような町。当時のユダヤの社会では、期待されず、見下げられているようなところです。
ヨセフの職業は大工でした(マタイ13章55節)。大工の技量がどれ程のものだったか分かりませんが、少なくともマリヤがイエスを生む段階では、貧しい状況(ルカ2章22節~24節)。それでも、イエス様が生まれた後、マリヤとの間には六人以上の子どもがいました(マタイ13章55節)。田舎町の大工。貧しいながらも、必死に働いて家族を養った。イエス様自身、大工でしたので、ヨセフは大工の技を子どもに教えていたことも分かります。
今日の聖書箇所には「正しい人」であったと記されています。これは聖書の教えを守り行う生活をしえいた人という意味です。(罪がないという意味ではありません。)おそらく、ヨセフの両親が、聖書のこと、信仰のことをよく教えたのでしょう。ヨセフ自身も聖書に従うことを良いものとして生きた。品行方正で信仰心篤い人物。ユダヤ人の社会の中で好まれ、尊敬されるような人柄であったと思います。
またマタイの福音書の冒頭に記されたキリストの系図は、そのままヨセフの系図でもあります。親から系図を引き継ぎ、自分自身がダビデ王の子孫に当たることも知っていました。(そもそもヨセフが、自分の系図を正しく引き継いでいたので、マタが系図を記すことが出来たと言えます。)
由緒正しきダビデ王家に属する者。しかし、ヨセフ自身は王族とは思えない状況。都エルサレムから離れた、良いところなしと思われていた田舎町で大工として生きる。それでも、世を恨み、自暴自棄に走るのではない。世が世なら、自分は高い地位に就いていたのにと腐ることもない。貧しい中でも、自分の出来ることを見出し、神の民として精一杯生きている善良な人。ヨセフ自身、神様が約束していた救い主の到来を待ちながら、生きていたでしょう。
このヨセフに、大きな苦難が襲いかかったというのが本日の箇所です。
マタイ1章18節~19節
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」
ヨセフはマリヤという女性と婚約中でした。当時の一般的な婚約期間は約一年。男性は十代後半、女性は十代前半に婚約したと言われます。
今の私たちが考える婚約は、結婚の備えの最終段階。婚約中に、結婚するのはこの相手ではないと思えば、そのまま結婚するより、婚約を破棄する方が良いと考えます。当時のユダヤの婚約は、今の私たちが考える婚約よりも結婚に近いもの。実際に夫婦として生活すること(一つの家に住むこと、性的関係を持つこと)はないものの、社会的には結婚しているとみなされました。そのため、今日の箇所でも、ヨセフのことは「夫」、マリヤのことは「妻」と呼ばれています。
自分には覚えがなく、婚約中の相手が妊娠した。ヨセフの受けた衝撃、狼狽はどれ程のものだったかと思います。
マリヤの妊娠を、ヨセフはどのように知ったのか。聖書は記していません。マリヤ自身が伝えたのか。他の人が伝えたのか。
ルカの福音書によれば、御使いから救い主を産むことを告げられたマリヤは、エルサレムにいる親類のエリサベツのもとに向かいます。エリサベツとのやりとりを経て、御使いの宣言が真実であることの確信を強めます。マリヤ自身、そしてマリヤの親類は、聖霊によって身籠ることを受け入れることが出来た。
しかし、ヨセフの立場で考えるとどうでしょうか。マリヤ、あるいはエリサベツは、ヨセフに対して「聖霊によって身籠った」と伝えることが出来たでしょうか。仮に、マリヤ自身がヨセフに伝えたとして、ヨセフは受け入れることが出来たでしょうか。
婚約中の相手が妊娠した。それは相手が自分を裏切ったのか。あるいは乱暴されたのか。どちらも悲劇ですが、「聖霊によって身籠った」と言われたら、この相手は、自分を裏切る上に、謝ることもしないとしか思えない。聖書に従って生きてきた。生活の糧を得るための大工の技術も身につけた。大切な相手を見つけ、婚約して、結婚を待つばかりの状況。一般的には幸せのただ中にあって、絶望的な思いを味わうことになるヨセフ。
婚約中の相手が妊娠した場合。対応は大きく二つです。
一つは、その社会の中で、起こった出来事を訴え出て、自分に非がないことを明らかにすること。この場合、聖書で教えられた定めを厳密に行えば、不貞をおかした者は石打ちで死刑(申命記22章13節~22節)となります。厳密に聖書の定めを適用しないとしても、不貞をおかした者は、その社会の中で真っ当に生きることが難しくなる、晒し者になると言えます。
もう一つは、ひそかに婚約を解消すること。この場合、相手が晒し者とはならない代わりに、自分にも非があるとみなされる危険があります。相手を社会的に守ると同時に、自分が社会的に傷を負う危険性がある。
ヨセフはどうしたのか。悩みつつ、マリヤを晒し者にはしたくない。内密に婚約を解消しようと決意しました。この決断もヨセフの人柄が表れていると思います。自分を裏切ったとしか思えない状況で、それでも出来る限りはマリヤを守ろうとする。失望や怒りにまかせてマリヤを責めるのではなく、自分も社会的傷を負う可能性がありながら、内密に去らせよとした。苦悩の中でも、ヨセフの優しさが光ります。
このヨセフに神様は御使いを送られました。
マタイ1章20節~21節
「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」
御使いは、ヨセフのことをダビデの子と呼びます。その告げた内容をまとめると、マリヤが身籠っているのは聖霊の力によること。マリヤは男の子を産むこと。その子は「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」であること。だから、恐れないでマリヤを受け入れ、その子に名をつけるように命じます。
この御使いの言葉は、ヨセフにはどのような意味があるでしょうか。ヨセフはどのようにこの言葉を聞いたでしょうか。
マリヤの妊娠は、不倫でも、乱暴されたことによるのでもない。この知らせを受けないまま、婚約解消していたら、どうなっていたでしょうか。マリヤに対する疑念は残ったままで婚約解消となる。愛する人に裏切られた傷を抱えながら、怒りや憎しみと戦いながら生きることになる。この知らせを聞くことが出来たのは、ヨセフ自身にとっても幸いなこと。慰め、安堵の言葉でした。
また、ヨセフは聖書に精通した人物です。この御使いの言葉で、マリヤが生む子は、普通の子ではないこと。ヨセフ自身を含め、神様を信じる者が待ち望んでいた約束の救い主を、マリヤが産むことを理解したでしょう。更に言うと、救い主はダビデの子孫として生まれると教えられていました。そのためにはダビデの子孫である自分が、マリヤを受け入れ(結婚し)、その子に名をつける(息子とする)ことで、法的にその子をダビデの家系に連ならせる意味があること。つまり、ここで自分がマリヤを受け入れ、その生まれる子の父となることが、約束の救い主はダビデの子孫から生まれるという約束が成就することだと理解したのです。
ヨセフにとってこの御使いの言葉は、慰め、安堵の言葉であると同時に、重要な使命を託された言葉であったということ。約束の救い主の父の役割を担うように。そのことを通して、神様の約束が成就するのだと言われたのです。
自分がヨセフの立場であったとしたら、この御使いの言葉に、どのように応じたかと考えるところ。果たしてヨセフは、この御使いの言葉にどのように応じたでしょうか。
マタイ1章24節~25節
「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
ヨセフからすれば、与えられた使命を果たすことがどれ程困難なことなのか、想像も出来ない程であったと思います。婚約中に妊娠した女性を妻とする。ヨセフ自身はそれが聖霊によると分かっていても、周りにいる人々にはどのように思われるのか。田舎の貧しい大工である自分が、約束の救い主の父となる。どのように育てたら良いのか。どう考えても力不足。
それでもヨセフは、命じられたとおりにマリヤを迎え、子どもに名前を付けます。困難、力不足と思われても、それでも神様に従う。このヨセフの決断によって、救い主はダビデの子孫であるということが成就するのです。
ヨセフの決断によって、神様の言葉が成就した。これは非常に興味深く、よく考えるべきことです。
ヨセフが、マリヤを受け入れ、子に名前を付けたので、預言が成就した。ということは、ヨセフがマリヤとの婚約を解消していたら、神の言葉は成就しなかったのでしょうか。神様は真実な方ではないということになったのでしょうか。そうではないでしょう。神の言葉は必ず実現します。仮にヨセフがマリヤを受け入れなかったとしたら、他の方法でイエス様がダビデの子孫となったでしょう。
神の言葉は必ず実現する。そうだとすれば、ヨセフがどのように決断しても、神様が困るというわけではない。神様は、ご自身の計画を進めるのに、神の民に協力を求めることがありますが、神の民が協力しなければ計画が進められないわけではないのです。それでは、御使いがヨセフに告げた「マリヤを受け入れ、その子に名を付けなさい。」という命令は、誰のためかと言えば、ヨセフ自身のため、あるいはマリヤのためということになります。
仮に、ヨセフが御使いの言葉を無視していたらどうなったでしょうか。マリヤとの関係は壊れることになります。それはヨセフにとっても、マリヤにとっても辛いことでしょう。また、神様がヨセフを信頼して、ヨセフに任せたいと思われた、約束の救い主の父となる役割。それは重責だったと思いますが、その役割から逃げるとしたら、苦労とともに大きな恵みであるその使命を自ら放棄することになります。御使いを通して告げらえたことに従わないことは、ヨセフ自身を不幸にする道なのです。
婚約中に妊娠した女性を受け入れ、約束の救い主を育てていく生涯を送る。それは大変困難な道に見えますが、それが、神様が用意された道であれば、それ程祝福された道、安全な道はなく、この時ヨセフは、命じられたとおりにすることが出来たのです。
以上、マタイの福音書に記された父ヨセフの視点によるキリスト誕生の記録でした。
キリストの誕生とは、神の一人子が人となること。罪人の身代わりとして死ぬために生まれること。人間が神様から離れたのに、神様の方から人間を救うために手をうって下さったこと。そして、救い主を信じる者は、神様と交わる者となる。つまり、キリストの誕生とは、まさに「神様が私たちとともにおられる」ことを意味するもの。主イエスの誕生は、まさに「インマヌエル」という出来事。
しかし、「イエス様の誕生」だけが、神様が私たちとともにおられることを示す出来事ではありません。神様は救い主誕生というこの時、ヨセフにも目を留めていました。混乱し狼狽している時、絶妙のタイミングで御使いを送り、その混乱を取り除き、使命を与え、進むべき道を示されました。救い主が誕生するという大事を前に、ヨセフが混乱しようが、マリヤが困ろうが関係無いというのではない。救い主誕生という出来事が、ヨセフやマリヤにとっても喜びとなることを、神様は望んでおられたのです。
この箇所を記したマタイは、「主イエスの誕生」だけでなく、神様がヨセフをこのように守り、励まし、導かれたことも、「神様が私たちとともにおられること」を意味するとして、次のようにまとめました。
マタイ1章22節~23節
「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
皆様は、どのような時に、神様は私とともにおられることを味わってきたでしょうか。確かに、神様は私とともにおられると感じたのは、いつのことでしょうか。
待降節を過ごしている私たち。今日の箇所を通して、私たちの神様は、神の民を守り、励まし、導かれる方である確信を強めたいと思います。私たちの神様が確かに「インマヌエル」な方であることを再確認したいと思います。
その上で、自分に与えられている使命に生きる決心を新たにしたいと思います。困難、不安、力不足と思われることでも、神様に従うことが最も安全であり、幸いであること。安全、安心、自分にとって良いと思うことでも、それが神様に従わないことであれば、それ程危険なことはない。
神を愛し、隣人を愛すること。遣わされた場所で、地の塩、世の光として生きること。キリストを宣べ伝えること。教会を建て上げることに取り組むこと。今の自分が、特に取り組むように言われていることは何でしょうか。嫌なこと、危険なこと、自分には出来ないと思うことでも、神様がともにおられることを確信して、私たち皆で、神の民の人生を全うしたいと思います。
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