2017年12月10日日曜日

マタイの福音書1章1節~17節「待降節(2)~イエス・キリストの系図~」


今日は待降節、アドベントの礼拝、第2週目となります。先回は、神様が遣わす救い主が、どのような時にも私たちとともにいます神であること、旧約聖書イザヤの預言の中に確かめました。

 

イザヤ7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

 

危機の時にも心が揺れるばかり。神様に信頼しようとしないユダの人々、神さま以外のものに助けを求めた不敬虔な王アハズ。これら罪人のために、神様が与えたインマヌエル預言、その一部は旧約の時代に、また、およそ2000年前、文字通り幼子イエス様の誕生において実現したのです。

2000年前ユダヤに生まれたイエス様を、旧約において約束された救い主、神が遣わされた真の救い主として紹介する。この視点は、今日取り上げる、マタイの福音書第1章にも通じています。

 

1:1「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」

 

何か人生のためになる名言、格言があるかと期待して新約聖書を開くと、そこにいきなり突きつけられる、日本人には馴染みのない、チンプンカンプンの人名の羅列。いくら有名なイエス・キリストの系図と言われても、これを見ただけで聖書を閉じてしまった人がいるとも言われる所。皆様にも少し忍耐して、付き合っていただく必要があるかと思います。

まず初めに登場するアブラハムは、紀元前2000年と言いますから、今からおよそ3000年前の人。神の民として最初に選ばれた人物で、神様に命じられるまま故郷を離れ、約束の地に旅立った信仰の人。ユダヤ人から信仰の父として敬われてきた人物です。

アブラハムが故郷を旅立つに際し、神様が与えられたことばがこれです。

 

12:1~3「【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」」

 

「地上のすべての民族は、アブラハムよ、あなたによって祝福される。」この約束は、やがてアブラハムに待望の子が生まれた時、「あなたの子孫によって祝福される」と更新されます。そして、アブラハムの子孫がもたらす祝福とは、神様から私の民と呼ばれ、神様を私の神と呼び交わす、この世界のあらゆる民族が、神様との親しい関係に入ることでした。今日、私たちは、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによって、この預言が実現したことを、キリスト教の世界的な広がりのうちに確かめることができます。

また、次に登場するダビデは、紀元前1000年の人。イスラエルを統一した王として有名ですが、ご自分を信頼するダビデをことさらに愛した神様は、その子孫を祝福し、その子孫の内から救い主が出ると預言されました。この預言はいくつもありますが、その内の一つを取り上げます。

 

エゼキエル34:2324「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。」

 

エゼキエルは、ダビデの時代から400年ほど後に活躍した預言者です。その時代、ユダの王や宗教家たちは、貧しい者を苦しめ、弱い者を踏みにじり、私利私欲を肥やす。あるべき王、あるべき宗教家の姿からは程遠い状態にありました。このような悲惨な状態にある民を哀れんだ神様は、ダビデのしもべと呼ばれる救い主を送ると語っています。その救い主が羊飼いとなり、民を養い、世話をすることで、人々は、神様との親しい交わりを取り戻すことができると、約束されたのです。

この預言も、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」そう語られ、事実十字架に命を捨てられたイエス様によって、実現しました。

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」「私たちが信じ、述べ伝えているイエス様は、これこの様に旧約聖書の昔から、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として証しされてきたんですよ。」マタイは、神様から旧約聖書をもらっていた神の民、同胞ユダヤ人のために、この系図をもって語りかけたのです。

それでは、ユダヤ人とは神の民にふさわしく、神様に信頼してきた人々だったのでしょうか。アブラハムの子孫、ダビデの子孫である彼らは、救い主を与えられるにふさわしい、信仰の歩みをしてきた民だったのでしょうか。

実は、まったくそうではなかったことが、続く系図によって明らかにされるのです。

 

1:2~16「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」

 

ユダヤ人は神の民の資格として、信仰とともに血筋を尊びました。神の民に属することを証明する系図が重んじられたのです。そう考えますと、この系図には少し不思議、異例な点があります。

それは、4人の女性のことです。ユダヤ人の系図に女性が登場する場合、栄誉ある女性に限られていました。例えば、アブラハムの妻サラのようにです。しかし、イエス様の系図に登場するのは、栄誉ある女性ではありませんし、中には隠しておきたい女性もいます。

一番手は、「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」(3節)とあるタマルです。ここに登場するユダはイスラエル12部族の一つ、ユダ族の父祖。タマルはユダの長男の妻、つまりユダの嫁でした。けれども、何をしでかしたのか。この長男は神の怒りを買い、死んでしまいます。当時、この地方で行われていた風習に従い、タマルはユダの次男の嫁となりますが、次男はタマルと一つになることを拒絶し、神に命を奪われます。

その様子を見て、嫁のタマルに不吉な影を感じたのでしょうか。三男が残っているにも関わらず、口実を設けて、ユダはタマルを家から追い払ってしまったのです。けれども、舅ユダの仕打ちに、タマルは抵抗しました。何と遊女になりすましてユダの前に現れ、気を引くと、ユダと交わり、二人の子をなしたと言うのです。

これに驚いたユダは、タマルがこの様な忌まわしい行為に及んだ責任は、彼女を三男の嫁に迎えようとしなかった、自身の不誠実にあると罪を認めました。神様はユダを赦し、ユダは彼の子孫から救い主が生まれるという祝福を受けることになります。しかし、選ばれたのはユダに残された三男ではなく、タマルとの忌まわしい関係によって生まれた子ども、パレスとザラでした。ここに、私たちは神様の恵みの不思議さ、深さを見ることができます。

二番手、三番手は、「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」(5節)とある、ラハブとルツです。

ラハブは、聖書の他の個所では「遊女ラハブ」と呼ばれています。ラハブはエリコの町に住む女性で、その機知と勇気によって、追手からイスラエルの斥候を逃がし、迫りくる神のさばきから逃れることができました。そんな女性であるのに、その職業の故でしょうか。現在残されているユダヤ人の手による文書の中に、ラハブがダビデ王の先祖の家系に属していることに触れているものは、ひとつもないそうです。しかし、イエス様の系図には残されている。ここにも、神様の恵みが何たるものかが物語られているでしょう。

他方、ルツは姑ナオミに対する従順、神を信じ、従うことの熱心。忠実な働きぶりを、男性に見初められて良き結婚を恵まれたなど、聖書の中でもひときわ人気の高い女性です。女性にも男性にも好かれ、尊敬される人です。

けれども、ルツは異邦人でした。それも、旧約聖書において、最も厳しく非難されたモアブ人だったのです。イスラエルの民が出エジプトの際、旅の途中「ちょっと休憩させてほしい」と頼んだのがモアブ人。しかし、モアブ人はイスラエルを呪い、酷い目に合わせました。この出来事にちなんで、神の民の集会に絶対に加わることができない民として、何度もモアブ人が挙げられています。しかし、人々が憎み、嫌った民にも、神様の恵みは及んできたではないか。マタイは、そう語っているように思えます。

最後は、「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」(6節)とある、ウリヤの妻です。名前が記されていないのは、誰もがこの女性とダビデの関係を知っていたからでしょう。

ダビデは忠実な部下ウリヤが戦いに出ている間、その妻バテ・シェバを見初め、情欲に動かされて彼女を召すと関係を結び、バテ・シェバは身ごもります。それを隠すために、ダビデはウリヤを戦場に送りますが、その際、密かに「ウリヤを最前線に送り、これを戦死せしめよ」との指令を出して、殺人に手を染めました。

後に預言者に糾弾され、ダビデは罪を悔い改めますが、ダビデの家庭を次々と悲劇が襲うことになります。それらが神のさばきであることを、聖書は記しています。「ダビデに、バテ・シェバによって」ではなく、「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」とあるところに、ダビデの犯した罪の酷さが際立ち、強調されているとも言われます。私たちも、ダビデの犯した罪を思えば思うほど、なおもそれを覆う神様の恵みを、ここに見ることができるでしょう。

こうして、無味乾燥な人名の羅列、退屈極まりない系図と思われたイエス様の系図に、私たちの思いを超える神様の恵みが輝いているのを見てきました。そして、それをもう一度確認させてくれるのが、17節のことばです。

 

1:17「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 

アブラハムからキリストまで、14代ずつ三つに分けてまとめられた系図。このことには、どの様な意味があるのでしょうか。聖書には、137等、完全数と呼ばれる数字があります。その数字によって、神様のわざの完成や完全さをあらわすものです。

14は7×7、それをさらに三つ重ねることによって、イエス様の誕生によって神様の救いの計画が完成したこと、また、人間の罪にもかかわらず、神様の恵みは完全であることが示されている。そう考えられてきたところです。

確かに、アブラハムからダビデまでの14代。賞賛すべき信仰者は遊女ラハブと異邦人の女性ルツであり、ユダにしてもダビデにしても、錚々たるユダヤの父祖たちは忌まわしいことを行い、酷い罪に陥っていました。続く、ダビデからバビロン移住までの14代では、イスラエルの国が二つに分裂。北イスラエルは滅び、南ユダはバビロンに強制移住させられました。神の民が神に背いたことに対する、神のさばきです。そして、バビロン移住からキリストまでの14代。この時代、ダビデ王朝の栄光は消え去り、子孫の一人ヨセフは、ナザレと言う小さな村の大工に過ぎなかったのです。

以上、イエス様誕生に至る系図を読み終えて、私たちが心に留めるべきことは、何でしょうか。

 一つ目は、神様の恵みの計り知れない深さです。たとえ、その職業が卑しいものであっても、たとえ、キリスト教信仰に反対してきた家の者であっても、神様はその人の心にある信仰を見て、恵みを与えてくださいます。たとえ、それが不誠実であれ、忌まわしい行いであれ、姦淫であれ、殺人であれ、人間が犯すどのような罪も、神様の恵みはこれを覆うことができるのです。

 二つ目は、揺らぐことのない神様の真実です。この系図を通して、たとえ神の民であっても、神様から救い主を頂く資格はないことを教えられます。ユダも、ダビデ王も、どの時代の人々も、救い主を与えられるに価する生き方をしてはいません。しかし、それは私たちも同じでしょう。けれども、人間がどんなにいい加減で、不真実であっても、神様の側は一度誓った約束を破らず、必ず果たしてくださる。イエス様の誕生はその確かなしるしでした。

 待降節は、自分の罪を覚える時です。同時に、私たちに対する神様の恵みの計り知れない深さを確認する時です。神様の揺るがない真実に感謝し、賛美する時でもあります。この季節、私たちみなで、このような歩みを進めてゆけたらと思うのです。今日の聖句です。

 

ローマ5:20b「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

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