新しい年、第一回目の聖日礼拝となります。皆様とともに礼拝が出来ることを、心から嬉しく思います。これからの一年間、四日市キリスト教会員と地域の方々にとって、喜び溢れる礼拝をささげることが出来るように、祝福をお祈りしています。
新しい年を迎え、第一回目の礼拝。新しいとか、第一回目と言いましても、先の聖日から一週間経っただけ。具体的に何かが新しくなったわけではないのですが、それでも私たちはこのような機会に新たな歩みを心がけます。新年一回目の聖日礼拝は、心機一転、これを良い機会として自分の歩みを整えることに取り組みます。過ぎし一年間を振り返り、感謝すること、反省すること。新たな一年を見据えて、目標や計画を立てること。今一度、自分にとって大事なことは何か再確認すること、などなど、この時期に取り組むと良いことはいくつもあります。
年初めの礼拝説教では、私たちにとって大事なことは何か。何故大事なのか。どのように大事なのか。確認するために、信仰の基本的な事柄を確認しています。今日のテーマは「礼拝」。私たちにとって礼拝とは何故大事なのか。どのように大事なのか。皆で考えていきたいと思います。
「礼拝」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、まさに今私たちがささげている聖日礼拝ではないかと思います。主イエスを信じる者が、キリストの復活を記念する日曜日に一つところに集まる。私たちからは祈りや賛美、神様からは聖書の言葉や説教。言葉によって神様と交わる。この聖日礼拝は、私たち信仰者にとって非常に重要なものだと思いますが、何故大事なのでしょうか。「聖日礼拝は何故大事なのか。」と聞かれたら、皆様はどのように答えるでしょうか。
聖日礼拝が何故大事なのか。色々な答え方がありますが、答えの一つは、聖日礼拝が「神を愛すること」だからです。聖書が教える最も重要な戒めは、「神を愛し、隣人を愛する」ことですが、具体的にどのように神を愛し、隣人を愛したら良いのか。十に分けて教えられた十戒。その第四戒が、
出エジプト記20章8節
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」
というものでした。神様が定めた週の一日を、聖なる日とする。神様のものとする。神様のための日とする。神を愛する具体的なことの一つとして、聖日礼拝があります。つまり、私たちは毎週、神様を愛するように招かれているということです。毎週、神様を愛するのか、自分の好きなように生きるのか、決断をしていると言うことも出来ます。
そのように、神様を愛すること。その戒めを守ることは、信仰者にとって負担ではなく、喜びであるとも教えられています。
ヨハネの手紙第一5章3節
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」
聖日礼拝をささげることが、神様を愛することの具体的な現われであり、重荷とはならない。むしろそれによって、大きな喜びを得ると言われる。いかがでしょうか。神様を愛する決断とともに、この礼拝に集われているでしょうか。聖日礼拝をささげることに、喜びはあるでしょうか。
ところで、聖書が教える礼拝は、聖日礼拝だけではありません。キリストを信じる者は、礼拝者として生きるように教えられていますが、それは日曜日の一時間、教会に集まることだけを意味しているのではありません。礼拝者として生きるとは、生活の全てで、神様を認め、神を神として生きることです。
聖書には次のような言葉があります。
ローマ12章1節
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いいたします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
キリストによって罪から救い出された。「そういうわけですから」、自分自身を生きた供え物としてささげなさいと言われます。
旧約の時代、神様にささげられる供え物は、穀物や油、乳香などの元々命のないもの。あるいは、動物などの命のあるものは殺してからささげられました。供え物になるとは死ぬということ。ところが、ここで生きた供え物として自分をささげるようにと言われます。生まれながらの自分、罪にまみれた自分は死に、新しく生まれた者として、永遠の命を持つ者として生きるように。
キリストを信じた者は、自分自身を生きた供え物としてささげる。生活のあらゆる場面で、神様を認め、神様の栄光を現す歩みをする。日時や場所は関係なく、いつでもどこでも礼拝者として生きるように教えられています。
「礼拝」をテーマに説教をする時、聖日礼拝に焦点を当てることもありますし、生活の全てで礼拝者として生きることに焦点を当てることもあります。今回は、生活の全てで礼拝者として生きること。いつでもどこでも、神様を認め、神を神として生きることについて、皆様とともに考えたいと思います。
過ぎし一年は、「礼拝者」という視点では、どのような一年だったでしょうか。いつでもどこでも、神様を認め、神を神として生きることに取り組めたでしょうか。神様を身近に感じながら生きたでしょうか。それとも、神様を遠くに感じながら歩んだ一年だったでしょうか。
自分の歩んだ一年を振り返りますと、私自身、礼拝者として不甲斐ない歩みをしてきたかと思います。聖日の礼拝は欠かすことなくささげる。人の目のあるところでは、神様を認め、神を神として生きているような姿をとる。しかし、どれだけ真剣に、生きた供え物として生きてきたか。日々の生活を「礼拝者」として過ごしてきたかと問われると、実に恥ずかしい歩みであったと思います。
信仰者を、日々の礼拝から遠ざけるものが、いくつかあります。
私たちの課題として考えられる一つのことは、「罪」の問題。人は自分が罪を犯していると自覚している時、神様から遠ざかろうとします。罪の自覚がありながら、やめられない時。悔い改めていない罪がある時。出来るだけ、神様を意識しないで生きようとします。
「罪」の中にいると、神様との交わりから遠ざかることは、最初の人、アダムとエバが罪を犯した時の姿が如実に示しています。
創世記3章8節
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」
アダムとエバが、してはならないと命じられたことをした直後。本来神様から隠れたいと思っても、隠れることなど出来ないにも関わらず、罪の中にいる時、神様から隠れよう、離れようとしたというのが印象的です。いかがでしょうか。このような経験、自覚はあるでしょうか。
生活の全てで礼拝者として生きることを目指すならば、私たちは罪から離れる必要があります。もし、罪の自覚があるならば、罪を告白し悔い改めること。神様に助けを求めることに、この礼拝で取り組みたいと思います。
また「使命から逃げる」という思いが問題になることもあります。愛するように、仕えるように。伝道するように、奉仕をするように。祈るように、ささげるように。神様から使命が示されていると思いつつ、取り組めないことがある時。神様を意識したくない、離れたいと思うようになります。
使命から逃げようとしている時、神様との交わりから遠ざかることは、預言者ヨナの姿が如実に示しています。
ヨナ1章1節~3節
「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとして、立って、ヨッパに下った。」
敵国(ニネベ・アッシリヤ)に行くよう言われた預言者ヨナ。自分の活動を通して、敵国が悔い改めた場合、神様は裁きを取り止めると考えたヨナは、その使命から逃れようとします。(実際に、ヨナが懸念した通り、ヨナの活動を通してニネベは悔い改め、裁きを回避することになります。)敵を愛することが出来なかったヨナ。聖書は使命から逃げたヨナの姿を、「主の御顔を避けて」と表現しました。
いかがでしょうか。聖日礼拝の中で、聖書を読む中で、祈りの中で、キリスト者の交わりの中で、取り組むように示されたことがありながら、それに取り組めないということを経験したことはあるでしょうか。
生活の全てで礼拝者として生きることを目指すならば、私たちは神様からの使命に忠実である必要があります。もし、使命から逃げたいという思いがあるならば、与えられた使命に取り組むことが出来るように。その力を祈り求めることに、この礼拝で取り組みたいと思うのです。
また神様以外のものを第一として生きることが問題となることもあります。神様以外のものを第一にしつつ、日々の生活の中で神様を意識することは出来ない。イエス様の言葉が思い出されます。
マタイ6章24節
「だれも、ふたりの主人に仕えることは出来ません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」
心の中で、最も大切にしているものは何でしょうか。自分の意識はともかくとして、実際の生活を振り返る時、最も大切にしているものは何でしょうか。神様を第一として生きているでしょうか。
積極的に神様から離れようとは思わない、主の御顔を避けようとはしていなくても、神様以外のものを自分の主人とすることで、神様との関係に距離を置いている。日々の生活で、主なる神様でないものを礼拝して生きる者となっていることがあります。
自分の心の中、自分の生活を点検しつつ、神様を第一として生きる決心を、この礼拝でしたいと思います。
このように、私たち自身が神様から離れようとする、神様から隠れようとすることがあり、課題がある時は、それぞれ取り組む必要があります。それに加えて聖書は、神様がご自身を隠すことがあると教えています。
イザヤ45章15節
「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。」
聖書の中に、記されている私たちの神様の姿の多くは、ここに記されているのとは反対の姿。私たちにご自身を現す神様、積極的に私たちと関わろうとされる神様。しかし、私たちの神様は確かに「ご自身を隠す神」でもあるのです。
なぜ、神様はご自身を隠されるのか。その理由が、私たちの罪のため。義なる神様が、罪人を罰するという意味で、ご自身を隠すと言われる箇所があります(イザヤ57章17節など)。しかし、積極的な意味で、ご自身を隠すことがある。なぜ、神様はご自身を隠されるのか。
それは、私たちが積極的に神様と関わるように。仮に私たちが、神様を遠くに感じることがあっても、それでも神様との関わりを求めるように。私たちをより深い信仰の世界へ導くために、神様がご自身を隠されることがあります。
(イエス様の話された、真夜中の友人のたとえ(ルカ11章)や、不正な裁判官のたとえ(ルカ18章)が思い出されます。また、私たち自身が人の目を気にしないようにという意味で、神様は隠れたところにおられると語られるところもあります。(マタイ6章))
私に問題があるのではなく、神様がご自身を隠される。そのことを通して、私たちの信仰が成長するように促される。先輩カルヴァンは、ご自身を隠させる神様と、私たちの関係について、次のようにまとめています。
「神はしばしば眠りこけ、怠けているように装われる。そうでも、しないと、われわれが無為と怠慢の中に居座るから。神は眠っているのであろうか、怠けておられるのであろうか・・・。と、恐れ、あわてる時われわれの祈りの熱心はかき立てられ、神なしにはありえない自分であることを自覚させられ、必死に神の門を叩きはじめるのである。」
いかがでしょうか。ご自身を隠される神様を、必死に探し求めたという経験はあるでしょうか。順風満帆ではない、逆境と感じる信仰生活の時。苦しみや悲しみに覆われている時。神様が遠く離れているように思われる時。そのような時こそ、神様を覚える時、神を神とする時であると、今日確認いたします。
以上、礼拝について、主に日々の生活の中で礼拝者として生きることについて確認してきました。最後に、復活されたイエス様が、弟子たちに使命を与えられる箇所を確認して終わりにしたいと思います。
マタイ28章16節~20節
「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
弟子たちが復活の主イエスに出会い、礼拝した場面。興味深いことに、復活の主に出会っているその場で、なおも疑いをもった者がいました。イエスの復活を信じられなかったのか。イエスが救い主であることを信じられなかったのか。ともかく、復活したイエス様に出会い礼拝するというこれ以上ない祝福の場面で、なおも疑った者がいたというのは印象的です。揺らぐ信仰。その弟子を前にして、それでも使命を与え、約束を下さる救い主。いつも、ともにいるという約束です。
新年一回目の聖日礼拝、過ぎし一年、「礼拝者」という視点では、どのような一年だったのか振り返りたいと思います。仮に、礼拝者として不甲斐ない歩みだったとしても。揺れに揺れた信仰生活だったとしても。神様が遠く離れていると感じられたとしても。それでも神様は、私たちとともにおられることを確認します。
またこれからの一年間、「礼拝者」として、どのように歩みたいのか。考えたいと思います。罪を悔い改めること。使命から逃げ出さないこと。神様を第一とすること。神様がご自身を隠しておられると感じられる時、信仰の成長の機会と捉えて、神を神とすること。これらのことに取り組みつつ、一同で「礼拝者」として一年を歩んでいきたいと思います。
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