2017年9月17日日曜日

エペソ人への手紙2章8節~9節「行いによらず、恵によって」


 先日、本屋に行きまして「今年最も読まれている本」として売られている本を見つけました。ご存知でしょうか、「九十歳。何がめでたい」という本。九十歳を超える著名な女流作家によるエッセイ集です。体のあちこちが衰え、新しい機器や新しい言葉にはついていけず、世間の感覚とずれを感じる。歳を重ねる大変さを吐露しながら、時に舌鋒鋭く、時に優しく、ユーモアに満ちた言葉で綴られるエッセイが、大きな反響を生んでいるようです。

その冒頭に、体が弱くなり、文明が進歩したというけれども昔の方が良かったと感じている著者の思いとして、「『九十といえば卒寿というんですか。まあ!おめでとうございます。白寿を目指してどうか頑張って下さいませ。』と挨拶されると、『はあ・・・有難うございます・・・』と答えはするけれど内心は、『卒寿?ナニがめでてえ!』と思っている。」と出てきます。

 「卒寿?ナニがめでて!」「九十歳。何がめでたい」。このようなことは、実際に九十歳を超えている人でないと言えない言葉であり、一般的には祝われる当人が「何がめでたい。」と啖呵を切るところに、面白さがあります。

面白い言葉。しかし同時に大事な問いでもあります。歳をとることにどのような意味があるのか。「めでたい」と言うなら、何故めでたいのか。いかがでしょうか。他の人が歳をとることはめでたいと言える。しかし、自分が歳を重ねることをめでたいことだと思っているでしょうか。歳を重ねることを喜んでいるでしょうか。

 

 歳をとることは何がめでたいのか。むしろ辛いことではないか。というのは、何も最近になって語られるようになったことではありません。古今東西、偉人、哲人、宗教家、歌人、作家、実に多くの人が述べていること。

レオナルド・ダ・ヴィンチの老いに対する嘆きは「おお、時こそは万物を滅ぼし尽くす者、万物をわずかずつ、ゆるやかな死へと追いやる、ねたましき老年。」自分を含め全てのものが死へと近づいているという恐怖を、老いに見る言葉。

 ギリシャ神話では、ティトノスの逸話があります。オーロラ姫という女神が、見目麗しいティトノスに恋をする。彼と永遠に恋を楽しむために、オーロラ姫はティトノスが死なないように願い、叶えられます。二人で恋を楽しむ最中、しかしティトノスは次第に年老いていく。不老ではない不死。容姿端麗だったティトノスは、老醜の姿となり、たまらなくなったオーロラ姫は彼を一室に閉じ込めてしまう。すると、ティトノスはついに蝉になったという悲劇。これもまた老いることの辛さを物語る話と受け止めることが出来ます。

 四日市キリスト教会の初代牧師、小畑進先生がこの四日市での伝道の思い出を記した文章も印象的です。ご年配の方に伝道している時のこと。「おばあさんも、教会へ来て下さい。」と言うと、「そりゃ、足がもういうことをきかんでな。」との答え。「それなら、このトラクトを読んで下さい。」と言うと、「とんと目が悪うてな、とうてい読めない。」との返事。「それなら、話しを聞いて下さい。」と言うと、「耳が遠くて、よう聞こえん。」そこで、大声で話して「聞こえましたか。」と聞くと、「聞こえたことは聞こえたが、アタマがぼけているから、分からない。」と言われたという話。これも、老いの大変さを物語るものとして受け止められるでしょうか。

 

実に多くの人が、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことと感じています。私たちの人生の多くは、まず祖父、祖母が弱くなる姿を見て悲しく思い、やがて父、母が弱くなる姿を見て寂しく感じ、遂には自分自身が弱くなることを経験して愕然とする歩みとなります。

 ところで、何故、私たちは、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことだと思うのでしょうか。よく考えてみると、そのように感じるのは不思議なことでもあります。何しろ、老いるということは誰もが知っていること。分かっていること。知らないことが起こるのではないのです。また、ある日突然老人になるのではなく、徐々に変化していくもの。そうなることは分かっていて、徐々に変化しているのにもかかわらず、私たちは歳を重ね、老いを味わうことが辛く、寂しく、大変に感じるのです。何故でしょうか。何故、老いることを嫌がる気持ちが自分のうちにあるのでしょうか。

 

 何故、歳を重ねることが辛く、寂しいのか。

その最大の理由は、「出来ていたことが出来なくなる」からです。仮に、衰えること、弱くなることがなければ、歳を重ねることは嫌なことではなくなるでしょう。

私たちの人生は、老いを味わうまで、何かが出来るようになることを繰り返します。何も出来ない赤子で生まれてから、出来ることを増やしていく歩みをしているのです。何かが出来るようになることは嬉しいこと。それによって、人から評価されるのも嬉しいこと。そしていつしか、「これが出来る」ことが、自分の存在意義となります。

それが歳を重ねるにつれ、出来たことが出来なくなることを味わいます。それまで築き上げてきたプライドが削ぎ落とされ、自分らしさを失うのではないかという恐怖を味わうことになる。出来ないことが増えれば増える程、自分は必要とされていない。自分は迷惑をかけてばかり。何のために生きているのか分からない思いが強くなる。出来ないことが増えるにつれて、辛さ、寂しさが増すことになる。

 かつて小学校の教師をしていた祖母の最晩年。ベッドの上で生活し、移動する時には車椅子が必要な状態。その祖母が、一番悲しんでいたのは、手が震えて、字が上手くかけなくなったことでした。涙を流しながら、字が上手くかけないことが寂しいと言っていたことを思い出します。字が上手くかけなくても問題はないこと。字が上手くかけなくても、私にとって大切な存在であることを伝えても、本人は字が上手くかけないことを寂しがっていました。全ての人が歳をとる。自分も老化を味わうと分かっていても、「出来ていたことが出来なくなる」というのは、辛いこと。寂しいことなのです。

 

長い前口上になりましたが、多くの人が、歳をとることを苦しみ、悲しむ中で、どのようにしたら歳を重ねることを喜べるのか。歳を重ねることにはどのような意味があるのか。聖書から考えたいのですが、それはつまり、「出来ていたことが出来なくなる」ことにどのような意味があるのか考えること。「出来ていたことが出来なくなる」ことに備えることです。今日は皆様とともに、歳を重ねることの意味の中でも、特に「出来ていたことが出来なくなる」ことに、どのような意味があるのか、考えたいと思います。

 

 それでは、「出来ていたことが出来なくなる」ことに、どのような意味があるのか。聖書はどのように教えているでしょうか。この点、聖書は驚く程積極的な考えを提示します。

 Ⅱコリント4章16節

「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 

 ここに「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。「外なる人」とは私たちの体のこと。「内なる人」は、「心」とか「人格」という意味ですが、ここでは特に、この世界を造られた神様の前での自分自身という意味です。

 「外なる人」が傷つき、弱まり、苦しむ時。それまで「出来ていたことが出来なくなる」時。その時に何が起こるのかと言えば、「内なる人が新たにされていく。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者とされるというのです。

 歳を重ね、体が弱まり、「出来ていたことが出来なくなる」ことを私たちは恐れ、辛く思います。「外なる人」が衰えることを、とても苦しく思う。しかし、聖書はその時こそ重要な時であること。その時こそ、取り組むべきことがあること。自分自身に向き合い、神様に近づく良い時であると言うのです。

 

 考えてみますと、そもそも私たちはこの世界を造り、支配されている神様の恵みによって生きているもの。自分の体も、心も、自分で用意したものではなく、自分の力で命を支えているのでもない。それにもかかわらず、出来ることが増えていく人生を送るにつれ、知らず知らずのうちに、自分の力で生きているかのように思うことが増える。生かされていると思うよりも、生きていると感じる。神様の恵みに目を留めるよりも、自分の力や功績に目を留めるようになることが多いのです。

 そのような私たちが歳を重ね、肉体的にも社会的にも弱くなり、「出来ていたことが出来なくなる」中で、もう一度自分を見つめ直すことになるのです。自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていると感じる。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩みとなる。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる。この世界を造り支配されている神様を知る者にとって、「出来ていたことが出来なくなる」ことは、実に重要な歩みを送っているのです。

 

この「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」というテーマは、次のように表現されることもあります。

 Ⅱコリント12章9節

「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

 

 この世界を造られた神様抜きに考えるならば、弱くなるのは恐ろしいこと。「出来ていたことが出来なくなる」ことは辛いこと。弱さを誇るなど、とても出来ない。しかし、この世界を造られた神様を前にした時、弱くなることに重要な意味があることを見出すのです。

 「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」。これが真実だとすれば(私は真実だと思っているのですが)、それはつまり、歳を重ね、出来ることが少なくなっても、取り組むべきことがあるということです。非常に弱くなり、助けがないと生きることが出来なくなっても、成長があり、新しい世界が広がっているということです。老いの中でこそ、人生の真髄を見出す歩みがあるのです。

 

 現代は効率主義、能力主義の時代と言われます。素早く出来ること、能力があることが重要。何をなしたのかということが大事とする世にあって、聖書は、その人がどのようなことをしたのかよりも、神様がその人に何をなされたのかに注目するように教えます。

 私がすることではなく、神様のなさることに思いを向けていくこと。何か出来るから存在意義があるのではない。何か出来るから愛されているのでもない。ただただ、私を愛そうとする方がいるから愛されていると気づくこと。これは信仰生活の中で最も大切な姿勢と言うことが出来ます。

 エペソ2章8節~9節

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

 「何をするか」ではなく、「何をして頂いたのか」。これこそ、キリスト教であり、恵みの宗教。行いによらず、恵みによって救われている。行いによらず、恵みによって愛されている。行いによらず、恵みによって生かされている。これが、どれほど重要な福音なのか。

キリストを信じるとは、この福音を信じること。クリスチャンとは、この福音を味わうように召された者。今日の敬老感謝礼拝を一つの契機として、私たち皆で生涯をかけて、この御言葉が真実であると確認していきたいと思います。

 

 最後にいくつかのお勧めとお願いをして終わりにしたいと思います。

 まずは敬老の方へのお勧めとお願いです。歳を重ね、老いることは大変なこと、辛いこと。しかし、弱くなる歩みをする中でも、絶望することはない。むしろ、その時にこそ、取り組むべきことがあると聖書は言います。「内なる人が新たにされる生き方。」「行いによらず、恵みによる信仰生活。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者となる生き方」をするように聖書は教えていました。

人生の先輩、信仰者の先輩へのお勧めというか、お願いは、「行いによらず、恵みによる信仰生活」に取り組んで頂きたいということです。弱くなることを嘆きながらも、内なる人が新たにされる喜びを教えて頂きたいのです。キリストを信じる者ががどのように老いて、どのように天に召されていくのか。その中で、内なる人が新たにされる生き方とは、具体的にどのようなものなのか。天に召される、その時まで、生きる意味があり、取り組みがあることを、その生き様で教えて頂きたいのです。

 

まだ敬老の年になっていない方に申し上げます。私たちの教会に、人生の先輩が来られていることを感謝いたしましょう。その人生に敬意を払いましょう。どのような人生を歩まれたのか、耳を傾けましょう。私たちは皆老いる。その時、人生の先輩の、教会の先輩の生き様をお手本にするのです。

 そして、この信仰の先輩方に続く歩みを私たちもなし、やがては私たちの子、孫、またその次の世代へと信仰を継承していく。キリストがもう一度来られるまで、私がなにをなすかではなく、神様がなされることに注目する信仰。行いによらず、恵みによる信仰を、この地で繰り広げていきたいと思います。

 

 モーセの最晩年。遺言説教の一節。イスラエルの民に、神様がして下さったことを忘れないように。また、そのことを子どもや孫に伝えるようにと語った言葉を、皆さまと共にお読みして終わりたいと思います。今日の聖句です。

 申命記4章9節

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」

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