2017年9月10日日曜日

マタイの福音書7章13節、14節「山上の説教(40)~狭い門から~」


今から40年ほど前になるでしょうか。私が大学受験の時、ラジオで受験講座を聞いていると、良く耳にしたことばがあります。「~大学は狭き門」ということばでした。今はわかりませんが、当時は入学するのが難しい大学、入社するのに困難な会社等を指して「狭き門」と言われていました。

イエス・キリストが語られた山上の説教は、一般的にも知られた名言、名句の宝庫。今日の個所にある「狭き門から入れ」ということばも、その一つです。しかし、ほかの名言、名句同様、聖書本来の意味とは随分かけ離れた意味で理解されているようです。

私たちが読み進めてきた山上の説教、マタイの福音書5章から7章にわたる長篇説教も、終盤となります。7章の12節まで、神の子どもにふさわしい、義しい生き方について説いてきたイエス様は、その後実践の勧めに入りました。まずは、山上の説教を実践するにあたり、罪の赦しの恵み、神様の教えに従う思い、従う力を求め、受け取るようにと勧めました。神様が天の父として、喜んで私たちに協力してくださるお方であることを示されたのです。先回、先々回はここを学びました。

そして、今日の個所。イエス様は、山上の説教を実践することは、狭き門から入り、細い道を行くようなものですよと、語っておられます。天の父が惜しまずに恵みを与えてくださる私たち神の子ら。私たちも神様の恵みにこたえて、その教えに取り組む覚悟が求められているのです。

 

7:13,14「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

 

 時々、行列のできる店というのが話題になります。ラーメンのおいしい店、和食のおいしい店。中華料理のおいしい店。最近は、インターネットに「その店良いね」と思った人がコメントを載せ、星印で得点までついています。料理なら、種類も味も個人の好みですから、勧める人の数、星の数が多い店を選ぶというのも、一つの方法かもしれません。

 しかし、事が道徳上の善悪、真理の是非となるとどうでしょう。善悪を賛成反対の人数で決める。多数派が義しく、少数派が間違っている。そう簡単には決められないと思います。

 数年前、アメリカのハーバード大学の教授、マイケル・サンデルという人の講義が、本やテレビで話題になりました。正義について論じる人で、学生にも人気のある授業で、日本に来た時も、多くの人が参加したそうです。

この人が「正義について」という本で、紹介していたことがあります。今子どもが欲しいアメリカ人の夫婦が、インドの会社に依頼をすると、その会社と契約しているインド人の女性が子どもを産み、その生まれた子どもをお金で購入するケースが増えているそうです。インド政府も、このような会社を積極的に支援しているとか。

 子どもが欲しい人と、お金が欲しい人。両者が利益を受けて、誰にも迷惑をかけない。政府が規制すれば、不当な人身売買も防げる。裕福な者が貧しいものを助けることになり公共の福祉を進めることになる。だから、このビジネス、この政策は正義だと言うのが、賛成派の考えです。サンデルさんはこれに疑問を呈していますが、皆様は、どう考えるでしょうか。

 賛成派、反対派、中立派。様々な立場があるでしょう。いずれにせよ、多くの人に共通する前提は、人間が神なしで、善悪を判断できるという考え方ではないかと思います。神様の教えを無視して、人間が善悪を決することができると言うのなら、最終的には人数の多い方が正義、声の大きな人、力のある者が正義ということになるのかもしれません。

 しかし、イエス・キリストを信じる私たち神の子は、道徳上の善悪、真理の是非に関する最終的基準は神にあると信じています。神様の教えをもとに、善悪や真理を判断します。ことばを代えれば、神様の御心をどこまでも第一にして生きる者たちです。

 そうだとすれば、山上の説教の教えに従って生きることは、狭い門を入ることです。多くの人が神なしで善悪を判断し行動してよいと考えて、広い門を入ってゆくからです。各々が義しいと思うこと、各々が欲することを行って当然とする広い道を歩んでゆくからです。

それに対して、私たちは何をするにも、神の国とその義を第一とする神の子ら。必然的に、その門を入る人は少なく、その道を歩む人は少なくあります。

むしろ、何事につけても、神様は何を善、何を悪としているかを問い、何をするにも神様の真理に従えるようにと祈り、願うクリスチャンの存在は煙たがれることがあります。自分たちと同じように考え、行動しない神の子らを疎ましく思うこともあるでしょう。国や世間の多数派に従わない信仰者を迫害することだってありましたし、今もあるのです。そう言えば、イエス様はこの説教の冒頭で、この様に語っておられました。

 

5:10~12「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」

 

 山上の説教の冒頭に置かれた八福の教え。そこにある「義のために迫害される者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言うことばが、狭き門を入り、細い道をゆく私たちの苦労を思い、イエス様心から発せられたものであること、改めて覚えさせられます。

 事実、人々がみな暴虐に走り、悪が横行。世界が最低最悪の状態に落ちた、あの旧約聖書のノアの時代。何人かでも救うため、神様がノアに箱舟を作るよう命じた時、招きの声に応じて箱舟に乗って助かったのは、わずかノアの家族八人でした。

イエス様も、神様の救いの招きにこたえて、ご自分を信じる人が余りにも少ないことに心を痛め、時に叱り、時に嘆きの声を上げておられます。

 実情は、昔も今も変わりません。日本において、キリスト教文化に好意を寄せる人は多くても、聖書を読む人、教会を訪れる人は少なくあります。教会を訪れても、聖書の真理を求める人はさらに少なく、イエス・キリストを信じて救われる者は、残念ながら少数派です。

 私がキリスト教の洗礼を受けたのは、大学生の時ですが、やはり狭い門を入る緊張感と言いましょうか。少なからず不安、恐れがありました。

実家は仏教曹洞宗の家。曾祖父の代まで、三代続いた坊主の家系であり、檀家として、善福寺という村のお寺とは長く深い関係がありました。家族にはもちろん、親戚にも、学校の先生にも友人にも友人の家族にも、クリスチャンはいませんでした。そこで生活することは、檀家としての役割を忠実に行うこと。それが当たり前のように求められる環境です。

 幸いにして、大学生の私は東京で生活していましたから、家族や親戚からのプレッシャーは少なかったと思います。もし、あの時実家で暮らしていたとしたら、強固な反対なしに洗礼が受けられたとは到底思えません。皆様の中にも、同じような境遇の中、いやもっと厳しい境遇の中でキリスト教信仰という狭い門をくぐった方もいらっしゃることでしょう。

 しかし、今日のことばは、キリスト教信仰に入る前の人のためであると同時に、すでにイエス様を信じ、キリスト教信仰の歩みをしている者への勧めです。勿論、私たちが信仰に入る時に感じる門の狭さも説いています。しかし、イエス様を信じて、キリスト教信仰の道を歩んでいる者たちへの励ましでもあるのです。

 イエス様は、滅びに至る門は大きく、その道は広い。しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭いと言われました。皆様はご自分が歩む道の狭さを感じたことはあるでしょうか。それはどの様な時、どのような困難でしょうか。ある時、イエス様がたとえ話をされました。

 

 マルコ4:2101420「イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。……種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

 

道端にまかれた種を襲うサタンの誘惑。岩地にまかれた種を苦しめる、外側からの困難や迫害。いばらの中に撒かれた種が悩まされる世の心遣い、富の惑わし、様々な欲望。これらのたとえは、私たちが狭い門を入った後、信仰の道を進み続けることが、決して容易ではないことを物語っています。

ところで、昔インドでは、ココナッツを使って罠とし、サルを捕まえていたという話があります。中の実をくりぬいたココナッツに、サルの手が入るほどの穴をあけ、その中に好物のコメを入れる。そのココナッツを木に鎖で縛っておく。そこにサルがやってきて、手を突っ込んでコメを掴むと、一杯のコメを掴んだ手は大きくなり、サルはコメを掴んだままでは手を抜けない状態になってしまう。しかし、人間が捕まえに来ても、サルはコメを掴んだ手を放そうとはしないので、まんまと捕らえられてしまったと言うのです。

このように、何かが妨げとなり、私たちの心や行動を縛っているので、神様に信頼し、従うことができない状況があります。富や所有物に心縛られて、神様に信頼できないことがあります。仕事の成功、人々の評判が気になって、神様の教えには心あらずという状況もあるでしょう。人を責める思いで心が占領され、神様の愛を味わえないこともあるでしょう。あるいは、悪い習慣や罪の楽しみが邪魔をして、神様と交わることができないことだってあると思います。

イエス様は、私たちがこのような状況に陥ることをよくご存じでした。ですから、自分を縛るもの、自分と神様の関係を妨げているものに気をつけなさい。気がついたら、それを悔い改めて、手放し、捨ててしまいなさい。そう命じているのです。神様に従う道は、広くはない。やはり細い。決して平端でも、容易でもない。誰もが、そのことを覚悟して進まなければならない道なのです。

 最後に、細い道を進み続けるためには、どうすればよいのかを考えたいと思います。

第一は、広い道、細い道。各々の先に待っているものが何であるかを理解し、しっかりと見つめることです。イエス様は、神を無視し続ける道は滅びへの道、神様に従い続ける道はいのちへの道。この他に道はなしと言われました。

広い道は、様々なものに心縛られ、不自由で、争いが絶えない道。行き着く先は神様の愛のない、滅びの世界です。細い道は、罪の赦しを受け取る道。神様との平和を喜び、人を愛し愛される喜びがある道。行き着く先は、神様の愛と義で満たされた,命の世界です。

分け登る ふもとの道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という歌があります。どのような道を歩んでも、最後は皆同じ富士山の頂上、良い世界に辿り着くという意味で、日本人の宗教心を表すものと言われています。

しかし、イエス様は、私たちが神なしの道を行くのか、神に従う道を行くのかで、地上の人生も死後の世界も全く異なることを、教えられました。だから狭き門から入れ、細き道を進めと言う、励ましのお声を聞きました。私たちが進みゆく道の先に、本当のいのちの世界があることを覚え、歩み続けたいと思います。

第二は、この道を歩むのは、一人ではないこと、神様が備えてくださった信仰の仲間がいることを忘れないことです。困難な道を、助け合い、励ましあい、時には戒め合いながら、一緒に歩んでゆく。神様は交わりと言う助けを、私たちに与えてくださいました。教会の交わりと言う助けから離れないように、そこで自分が養われ、成長することを目指して、私たちの信仰歩み、進めて行きたいと思うのです。

第三は、イエス・キリストがともにいてくださることです。イエス様は、山上の説教を教えてくださった教師にとどまりません。自らそれを実行し、私たちが従うべき模範となられました。さらに、狭き門をくぐり、細き道を行く私たちのそばにいて、共に重荷を負い、喜んで力を貸してくださる救い主なのです。

罪に誘われる時も、試練の中にある時も、思い煩いや心配に悩むと時も、困難な働きをなす時も、わたしがあなたとともにいること、そばにいることを忘れないように。いつも、イエス様が語りかけてくださる御声を聞きながら、私たち日々信仰の道、細き道を歩む者でありたいと思うのです。

 

マタイ2820b「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

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