2017年8月13日日曜日

マルコの福音書1章35節~38節「信仰者の勇気(3)~1人になる勇気~」

 
 世界を創り支配されている神様は、私たちに対して色々な方法で恵みを下さいます。その中でも、自分の周りにいる人を通して、神様から頂く恵みは格別のものがあります。親を通して頂く恵み。夫や妻を通して頂く恵み。子どもを通して頂く恵み。兄弟を通して頂く恵み。教会の仲間を通して頂く恵み。会社の同僚や、友人知人を通して頂く恵み。

 
自分のことを大切に育ててくれた親。人生の多くの時間を共有してきた伴侶。ともにいるだけで力をもらった子ども。切磋琢磨しながら、影響を与え会った兄弟。祈り合い、励まし合い、ともに礼拝をささげ、ともに教会をたて上げてきた教会員。同じ時代、同じ地域で生きた人々。

仮に、自分の人生にそのような人間関係、そのような交わりがなかったとしたら、私たちの人生はどれ程寂しいものになっていたでしょうか。寂しいだけの問題ではない。仲間との交わりが無ければ、今の自分とは異なる人格になっていたと思うのです。

 

 聖書は、様々な表現を通して、人を通して得られる恵み、その中でも特にキリスト者の交わりを通して得られる恵みについて、教えていました。

詩篇133篇1節、3節

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。・・・主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」 

 

 マタイ18章20節

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 

 箴言27章17節

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」

 

 他にも交わりの祝福を教えている箇所は多数挙げられます。引き続き、人を通して頂く恵み、キリスト者の交わりの祝福を覚えて、積極的に交わりの中に加わることを願います。

しかし今日は、仲間との交わりではなく、一人になることの意味に注目したいと思います。仲間とともに神様に向き合うことは大事なことですが、一人で神様に向き合うことも大事なこと。イエス様の姿から、一人になることの意味、静まることの意味、一人で神様に向き合う重要性を確認していきたいと思います。

 

 開きますマルコの福音書一章は、イエス様が公に救い主の活動を開始された頃の記録。「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(14~15節)と始まり、弟子たちを集め、二十一節からカペナウムという町での出来事が記されます。

 ある安息日の一日。主イエスが会堂で教えているところ叫び出した悪霊を追い出す事件が起こる。その後、熱病で寝ていた弟子ペテロの姑を癒し、もてなしを受ける。この段階で、会堂での奇跡、あるいはペテロ(シモン)の姑に対する癒しがカペナウムの人たちに伝わり、夕暮れ、安息日の終わりをきっかけに、イエス様のもとへ集まってきました。

 マルコ1章32節~34節a

「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。」

 

 日が暮れ、安息日が終わり、病の中にある人たち、悪霊につかれた人たちが手を引かれ、あるいは担がれ、「もしや癒されるかも」と期待しつつイエスのもとに連れてこられる。同時に、噂は本当なのか、奇跡を目撃したいと野次馬としてつめかけて来た人たちもいたでしょう。町中の者が集まって来たというのですから、その熱狂ぶりが分かります。この時、イエス様がいたのはペテロの家。田舎漁師の家ですから、それほど大きな家ではなかったと思われます。そこに、続々と人々が集まる。日が沈み、暗さが増す中で、一つの家に多くの人が群がる。熱気と喧噪、興奮に包まれた異様な状況。

 この中でイエス様は、連れて来られた病人を癒し、悪霊を追い出します。同じことが書いてあるルカの福音書には、「イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた」(ルカ4章40節)とあります。イエス様がその力を使えば、一言のもとに、集いし者たちの全ての病を癒し、悪霊を追い出すことが出来るのですが、ひとりひとりの痛みや苦しみに手を置かれることを選ばれました。人の弱さに向き合い、寄り添う救い主。主イエスの優しさ、麗しさが示される一つの場面です。

 

 ところで、「この日」イエス様がなしたことは、悪霊を追い出すことと、病人を癒すことだけではありませんでした。会堂に入って、教えていました(何を教えていたと書いてありませんが、十四節に記されている福音を教えていたと考えられます)。人々は、その教えに驚いたとも記されています。

 マルコ1章21節~22節

「それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられたからである。」

 

 日中、会堂で語られた教えに人々は驚嘆していました。しかし、その夜の人々の関心は、悪霊を追い出すことや病人を癒すことに集中していたのです。町中の者が集まりながら、その教えを聞こうとする者たちがいたと記されていないのです。残念というか、やはりというか。

おそらく今日でも、教会の看板に「病気を癒します」と掲げた方が、人が集まるのではないかと思います。「永遠のいのち」という看板は、私たちキリスト者からすればこれ以上ない重要なものですが、多くの人にはあまり重きがないもののように思われる。この時のカペナウムも似たような状況と言えるでしょうか。

 

 約束の救い主として公の活動を開始されたイエス様。病気を癒すことも、弱さの中にある人に寄り添うことも、救い主として大事なこととして、取り組まれました。しかし、救い主の働きの中心は、病気を癒すことではありません。一時的な癒しではなく、永遠のいのちを与えることこそ、救い主のなすこと。

 病人の癒し、悪霊が追い出される度に上がる拍手喝采に囲まれ、人々がますます熱狂する中で、果たしてイエス様の心はどのような思いであったのか。皆様は、この時のイエス様の気持ちをどのようなものだと想像するでしょうか。

 

 この夜、人々はいつまでペテロの家に集まっていたのか記されていませんが、それでも時間は進み、活動的な長い一日が終わります。そしてマルコは、続く早朝のことに焦点をあてます。

 マルコ1章35節

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 

 昨晩の喧噪から、明け方の静けさへ。夕方、町中の者が集まってきたのに対し、明け方、一人で寂しい所へ行かれた。マルコの筆は、動から静というコントラストを強調しているようです。

イエス様はその夜、弟子ペテロの家で泊まられたでしょう。周りには弟子たちがいました。つまり、弟子たちとともに、祈ることも出来る状況。しかし、一人で寂しいところに行き、一人で祈りに専念されました。

 なぜ、仲間とともに祈るのではなく、一人で祈ることを選ばれたのか。その理由は明確には記されていません。しかし、イエス様にとって、一人で祈る時間が大事であったということは、よく分かります。

 

十字架直前、ゲツセマネというところで祈る際、イエス様は弟子たちにもともに祈ることを求めました。聖書には、仲間とともに祈ることを願うイエス様の姿もある。同時に、一人で祈りに専念するイエス様の姿もある。仲間とともに祈ることも大事、しかし一人で祈ることも大事なのです。

それでは、一体この時、イエス様は何を祈っておられたのか。この祈りの時間は、イエス様にとって、どのような意味があったのでしょうか。

 マルコ1章35節~38節

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、『みんながあなたを捜しております。』と言った。イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。

 

 朝、暗いうちから祈っておられたイエス様。そこに弟子たちがかけつけてきます。「ともに祈らせて下さい」ではない。「みなが、探しています。」という報告でした。カペナウムの昨晩の熱狂は、昨晩だけのものではない。いや、むしろ更に拍車をかけた状況。

 弟子のペテロにも、群衆の熱が伝わっている印象があります。早朝、自分の家に人々が来て、主イエスに会いたいと言ったのでしょう。昨晩来ることが出来なかったのか。昨晩の続きをしてほしいということなのか。そこでペテロがイエス様を起こしに行くと、宿泊したはずのイエス様がいない。慌てて近隣を探したところ、祈っておられるイエス様を見つけたので、「みなが、探しています。」という報告、つまり「来て下さい」という願いとなったのです。

 

 つまり、カペナウムの町には、まだまだイエス様が活躍する余地があった。病の癒し、悪霊の追い出しというだけでも、イエス様が必要であった。更に言えば、「福音を聞きたい」という人が現れてもいない状況なのですから、「福音を知らせる」という意味でも、この町ですべきことはあるのです。

 ところが、イエス様は「近くの別の村里へ行き、福音を知らせよう。」と言われます。それこそ、自分の使命であると。

 カペナウムでも取り組むべきことはあり、他の町でもすべきことがある。私たちの目には、カペナウムに留まっても、救い主の使命を果たすことが出来る状況に見えるのですが、しかしイエス様は、他の町へ行こうと言われる。何故なのか。何故、他の町へ行こうとされるのか。その理由は記されていませんが、これが、イエス様が一人で祈られた結果。一人で父なる神様に向き合いイエス様が出された結論でした。

 

 イエス様が公に救い主として活動されたのは約三年。その間に行くべき町、なすべきことは山のようにありました。この時、カペナウムに留まり、活動を続けるのか。別な町へ向かうのか。片方が良く、片方が悪いという選択ではなく、どちらも意味があるような選択をする時。イエス様は一人で静まり、父なる神様と祈りの時をもたれました。

 全知全能、神の子である主イエスが、決断する時には祈られた。それも、一人で、他に邪魔されることのない状況で祈られた。このことに、一人になることの意味、静まることの意味、一人で神様に向き合う重要性が如実に現れているように思います。

 このイエス様の姿を、私たちはどのように受け止めるでしょうか。どれだけ真剣に、一人になること、静まること、一人で神様に向き合うことの重要性を受け止めるでしょうか。

 

 私たちの人生は選択の連続です。今日何を食べるか、どのような服を着るかなどの、小さな選択もあれば、進学、就職、結婚のような大きな選択もある。何かを選択する時、特に自分の人生に大きな影響がある選択をする時。あるいは自分の使命は何なのか、どのように生きることが神様の目的に沿ったことなのか考える時。私たちはどれだけ真剣に祈り、一人で神様に向き合ってきたでしょうか。

 現代の日本に生きる私たち。一人で神様に向き合うことに時間を使うのには、ある意味で勇気が必要です。

 活動的であること、生産的であること、経済的に意味のあることは重要。非活動的なこと、何かを作り出すこともなく、経済的に意味のないことは価値がないという考え方が蔓延しています。このような時代にあって、一人静かに、神様との時間を持つことに、本当に重要な意味があると信じなければ、とても取り組めません。

 また、事あるごとによく祈ること、一人で神様に向き合うことに取り組んでも、それで万事うまくいくわけでもありません。祈りの中で、これこそ、私に与えられた使命。これこそ、神様の導きと確信をしても、後になってそうではなかったと思うこともあります。一人で神様に向き合うことに取り組んでも、状況は変わらず、引き続き悩みながら、選択を続けていくこともある。それでも、一人静かに、神様との時間を持つことに重要な意味があると信じることが出来るかどうか。

 選択をする時、決断をする時、自分の使命を確認する時。イエス・キリストですら、一人静かに、祈りの時間をもたれた。神様との時間を持たれた。このイエス様の姿を、私たちはどのように受け止めるでしょうか。どれだけ真剣に、一人になること、静まること、一人で神様に向き合うことの重要性を受け止めるでしょうか。

 まさに今、多くの人にとって休みの時期となりました。この時、是非とも、一人静かに、神様との交わりを持つことが出来ますように。今一度、自分は何故、命が与えられ、この時代、この場所で生かされているのか。与えられた使命はどのようなものか。神様との関係でよく考えることが出来ますように。一人静かに、神様との交わりの時間を持つことが、私たちにとって喜びとなりますように。皆で祈りたいと思います。

 最後に、神様との交わりの麗しさを歌った旧約の名詩篇の冒頭を読み、説教を終えたいと思います。

 詩篇65篇1節~4節

「神よ。あなたの御前には静けさがあり、

 シオンには賛美があります。

 あなたに誓いが果たされますように。

 祈りを聞かれる方よ。

 みもとにすべての肉なる者が参ります。

 咎が私を圧倒しています。

 しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を

 赦してくださいます。

 幸いなことよ。

 あなたが選び、近寄せられた人、

 あなたの大庭に住むその人は。

 私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の

 良いもので満ち足りるでしょう。」

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