2017年8月6日日曜日

マタイの福音書7章6節「山上の説教(37)~豚に真珠~」


今日の個所には、日本人にも馴染みのある「豚に真珠」と言う格言が登場します。このことばの源が聖書にあると聞いて、驚く方、意外に思う方もおられるでしょう。豚に真珠。他に、猫に小判、馬の耳に念仏と言うのも、ほぼ同じ意味のことばとして挙げることができるでしょうか。

豚に真珠の価値は分らない。猫に小判の価値は計れない。馬にはありがたい念仏も通じない。豚、猫、馬と動物の名前があげられますが、要するに、どんなに貴重な物も、その価値分からない人がいる。どれ程尊い教えにも、反発する人がいる。そういう人間のもつ愚かさ、頑固さを、印象的に伝えています。

そうだとすれば、このような格言が私たちイエス・キリストを信じる者にとって、一体どんな意味があるのか。神様を天の父と信じる私たちの生き方に、どのような影響を与えるものなのか。イエス様の教えるところに耳を傾けたいと思います。

イエス様が、故郷ガリラヤの山で語られた山上の説教も37回目。先回は、「さばいてはいけません。さばかれないためです」(7:1)として、人の欠点を注意したり、人の課題を指摘する際、私たちが抱く高慢な思い、私たちが示す人を責める言動。これが戒められました。

「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(7:5)とある様に、人を正す前に、まず神様の前で自分を省みよ。自分の思い、自分の言動を正すことから始めよ、と言う勧めです。

こうして、人にケチをつけたり、非難したりすることを避けよと命じたイエス様。しかし、だからといって、人のことについて一切判断したり、見分けたりしてはならないとは言っていません。むしろ、聖書には「人のことをわきまえ知れ」とか「偽預言者を警戒しなさい」等、人のことを判断し、見分けるようにと言う勧めが、随所に見られます。

ですから、イエス様は、公平に正しく人のことを判断できるよう、先ず私たちの中から人をさばく心と態度を取り去ることを命じました。その上で、人の心の状態を正しく判断することを求めている。それが、今日の6節です。

 

7:6「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」

 

犬や豚を大切に飼っている方々、特に犬や豚を家族同然と感じている愛犬家、愛豚家にとっては、心外でしょうが、イエス様の時代の文化においては、犬も豚も汚れた動物とみなされていました。そのために、しばしば、神様の教えに反発する、頑固で愚かな人間の姿を示すものとして、犬と豚は登場してきます。

 

 箴言26:11「犬は自分の吐いた物に戻る。」

 Ⅱペテロ2:22「豚は泥の中にころがる。」

 

「聖なるもの」は、もともと神殿で神にささげられた供え物のことですが、イエス様は神の国の教え、神様の真理と言う意味で使っていると考えられます。福音と言い換えても良いでしょう。「真珠」も同じく神様の真理、福音を指しています。

神様の真理を語っても、犬や豚の様に、その価値が理解できず、受け入れない人がいる。間違った生き方に戻ってゆく人がいる。福音を伝えても、嘲ったり、怒りを向ける人もいる。だから、そう言う態度を取る人、そういう心の状態にある人には、神様の真理を伝えることを控えよ。そう、イエス様は弟子たちに教えているのです。

勿論、私たちは誰が神様の教えに対して頑固なのか。怒りを感じるぐらい反発心で満ちているのか。判断することはできません。前もってそのような判断を下すことは、イエス様が禁じている「人をさばくこと」にあたります。しかし、実際に福音を伝えた時の反応、態度によって、その人の心の状態が判断できるし、判断しなければならないと言うことでしょう。

実際、聖書の中には、イエス様のこの様な行動が描かれています。ある時、五千人もの人が腹を空かせているのをあわれに思ったイエス様は、二匹の魚と五つのパンで人々を満ちたらせると言う大奇跡を行いました。けれども、人々がそれをきっかけにご自分を地上の王にしようと考え始めたことを知ったイエス様は、彼らに教えるのをやめました。

 

ヨハネ6:1415「人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」

 

これ以上教えたり、奇跡を行うことは、人々にとって豚に真珠。ますますイエス様を罪からの救い主とする信仰から遠ざけ、ユダヤの王とする思いを強めるばかりと判断されたのでしょう。イエス様は人々から離れ、一人山に退かれたのです。

また、使徒の働きには、パウロがギリシャのコリントの町で伝道した際、ユダヤ人たちが激しく反抗したことが記録されていました。

 

使徒18:46「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。」

 

 イエスが救い主と言う福音を示されたユダヤ人は、パウロに反抗し、罵りました。神の真理を足で踏みつけました。これに対して、パウロはユダヤ人に背を向け、ギリシャの異邦人へと向かったのです。

 以上、イエス様と使徒パウロの例を見てきました。もし、私たちが本当に人を助けようと思うなら、相手の心の状態を理解すること、その人にふさわしい時や伝え方を考えること。福音に関心を持っている人に心を向け、行動すべきことを教えられたいと思います。

 時も場所もわきまえず、相手の心の状態も考えず、ただ闇雲に神のことばを伝えればよいと言うものではない。相手にとって最善の機会を待ち、それをとらえて行動する。私たちがこうした面でも成熟してゆけたらと思います。

 それでは、神を認めない人、福音に反対、反抗する人、そういう人々の心が変わるのを、ただ待っていればよいのでしょうか。その間、何もすべきことがないのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。参考になるのは、十字架上のイエス様の姿です。

 

 ルカ23:3338「「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」

 

 世界史上最も残酷な刑と言われる十字架。その十字架の苦しみを忍びながら、イエス様は、宗教指導者、民衆、ローマの兵士、あらゆる人からの嘲りと罵りを受けとめていました。人々のために十字架にかかられたのに、その人々から迫害される。私だったら、「いい加減にしろ」と大声をあげ、怒り爆発。ありとあらゆることばを用いて、罵り返していたことでしょう。

 しかし、イエス様はそうされませんでした。ペテロは、このイエス様の行動に神様への信頼を見ています。

 

 Ⅰペテロ2:2223「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」

 

 福音に反対する人のために、私たちができる第一のこと。それは、行動による証です。たとえ、ことばで福音を伝えられなくとも、私たちには、相手に対する行動によって、神様が真実な方、愛の方であることを証しする自由が与えられています。言われたら言い返したい。やられたらやり返したい。そんな古い自分に死に、神様のみこころに従う事を選ぶ。その様な生き方をもって、福音の力を人々に示す者となりたく思います。

 第二は、祈ることです。この場面、イエス様の体にも心にも殆ど力は残っていなかったことでしょう。十字架の前には、鞭打ちの刑を受けました。これで死んでしまう人もいたと言う程過酷な刑罰です。さらに、体を釘づけにされ、呼吸もできない状態で体を上下させねばならない苦しみ。加えて、心が折られるような嘲りのことばを浴びせられました。

 そのような状態で、イエス様は残された力を振り絞って、天の父に祈ったのです。それも、自分を助けてほしいと言う祈りではなく、自分を苦しめる人々を赦してほしいと言う祈りでした。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 それこそ、犬の様にイエス様を踏みにじり、豚の様にイエス様に引き裂いた人々のために、祈られたイエス様。彼らの救い、彼らの幸いを誰よりも願ったイエス様。このイエス様の様に、私たちも、キリスト教に反対し、私たちを苦しめる人のために、その人々の救いと幸いのために、祈る者でありたいのです。

 この様なイエス様の行動、そして祈りから、果たして何が生まれたでしょうか。多くの人が嘲り、罵る中、二人の人の心に変化が生まれたことを聖書は告げています。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗の一人は、「イエス様。あなたが御国の位におつきになる時には、私を思い出してください」と告白しました。イエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、「この人は、本当に正しい方であった」。そう呟きました。イエス様の行動、そして祈りは、確実に神様の恵みを人に伝え、その人生に影響を与えていたのです。

 私も信仰の友から同じ恵みを受けました。「キリスト教は信じられない」「教会など行きたくない」と何度断っても、いやな顔一つせず、日曜日の朝になると教会に誘うため、アパートのドアを叩いてくれた信仰の友。信仰を持ってから半年。あることに躓いて、教会を離れた私のために、ずっと祈り続けてくれた兄弟姉妹。彼らの行動、彼らの祈りがなければ、今の私はなかったと思います。

 山下金次郎長老から、お聞きした証しがあります。親に無断でキリスト教の洗礼を受けた娘さんを、金次郎長老は迫害したそうです。反対されても教会に行くことをやめない娘さんを、柱にしばりつけたことも、教会に怒鳴り込んだことも数知れず、だったそうです。

当時、金次郎長老は大工の棟梁。この地域は仏教の影響が色濃く、金次郎長老は、個人の住宅だけでなく神社仏閣の建築にも携わることがあり、キリスト教信仰などもっての他と言うお考えでした。ご自分は勿論のこと、家族がキリスト教信仰など持ったら、大工の仕事も失い、一族郎党路頭に迷うかもしれないと言う不安もあったようです。

 しかし、反対されても、縛られても、親に歯向かうことのない娘さん。教会の礼拝に行くことをやめようとしない娘さんの姿に脱帽。娘がこれ程信じている神とはいったい何者ぞ。そう言う思いで教会に行き、ついにキリスト教迫害の鬼が、イエス様に養われる一匹の羊に変えられてしまった。そう笑って、証ししてくださいました。

 私たちが神様を信頼してなす行動。人の救いと幸いのために神にささげる祈り。それが、いかに人を変えるものかを見てきました。

 しかし、ことばによって福音を伝えられない時でも、私たちにできることがもう一つあります。それは、相手がキリスト教信仰について尋ねて来た時、それに応える備えをしておくことです。今日の聖句です。

 

 Ⅰペテロ3:15,16「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」

 

皆様は、キリスト教信仰について尋ねられた時に備えて、どんな準備をしているでしょうか。自分の救いの証しを書いておく。いつでも、人に渡せるように持ち歩く。キリスト教のことが簡単にわかるトラクトを用意する。この聖書のことばから、自分の生き方について話ができる、そんな聖句を準備しておくことも良いのではないかと思います。

 皆様一人一人の周りに、神様が置いてくださった家族、友、同僚、地域の隣人を愛すること、祈ること、説明を求めて来た時のために準備すること。私たち皆でその様な歩みを進めてゆきたいと思います。

 

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