2017年8月20日日曜日

マタイの福音書28章18節~20節「一書説教 マタイの福音書~ともにいる救い主~」


 断続的に取り組んできました一書説教。先月、三十九回目が終わり、遂に旧約聖書を走破しました。五年と少し、皆様とともに一書説教に取り組めたことを心から感謝しています。今日から新約聖書に突入します。今一度、ともに聖書を読み進める恵みを皆で味わいたいと思います。

 それでは、三十九回に渡り取り組みました旧約聖書、簡単にまとめるとしたら、どのようにまとめられるでしょうか。皆様はどのようにまとめるでしょうか。色々なまとめ方が考えられますが、特に重要なのは「救い主を送る約束」という視点です。旧約聖書は「やがて来る救い主を指し示す書」。新約聖書は「来られた救い主を指し示す書」。繰り返し、救い主が来ること、その救い主がどのようなお方なのか、あの手この手で語ってきた旧約聖書。送られてきた救い主が、どのようなお方で何を為されたのか記録される新約聖書。特に新約聖書の冒頭四つ、その名も「福音書」「良き知らせの書」と呼ばれる四つの書は、約束の救い主に焦点を当てます。

 順番に一書説教に取り組んできた私たち。救い主を送るという約束を繰り返し聞いてきた者として、新約聖書に突入します。遂に約束の救い主が来られた。とうとう、やって来られた。一体、約束の救い主とはどのような方で、何を為されたのか。今一度、新鮮な思いで、喜びと感動とともに読み進めていきたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 救い主を送るという約束を真正面から受け止める福音書。その一番手を担うのはマタイの福音書です。四つの福音書、それぞれに特徴があり、福音書を読み比べて、それぞれの特徴を味わいたいと思いますが、マタイの福音書の最大の特徴は、旧約聖書を強く意識していることです。著者マタイが意識したのはユダヤ人、旧約聖書をよく知る者たち。救い主を送るという約束を知る者たちに、約束の救い主が来られた。「イエス」こそ、約束の救い主であると伝える渾身の力作。聖書第四十の巻、マタイの福音書に今日は皆で取り組みたいと思います。

 

 全二十八章からなるマタイの福音書。どのように説教としてまとめれば良いのか悩むところですが、今日は三つの特徴を確認することでまとめていきたいと思います。

 一つ目の特徴は、先ほど確認しましたように、ユダヤ人向け、旧約聖書をよく知る者たちへ向けて書かれたということ。マタイの福音書は旧約聖書の引用が福音書中最多。起った出来事が、「預言の成就」であると記されることも多数。(マタイの旧約聖書の引用の仕方は興味深いものです。マタイの福音書を読みながら、引用元の旧約聖書も確認出来ると良いと思います。)

この特徴を把握しておかないと、私たちには興味を持ちにくい箇所があります。例えば、

 

 マタイ1章1節

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

 

 冒頭の系図の箇所。アブラハムに対する約束(創世記12章3節、18章18節など)、ダビデに対する約束(Ⅱサムエル7章12節~14節など)を知る者たちにとって、約束の救い主であるというなら、アブラハムの子孫でありダビデの子孫であるということが、非常に重要なことでした。

 私たちの多くにとって、無味乾燥と感じられる系図ですが、旧約聖書をよく知る者たちへ向けて書かれたことを意識して、「この方こそ、旧約聖書で約束された救い主であること。神様は約束を必ず守られるお方であること」、そのようなマタイの熱意を受け取りながら読みたいと思います。

 

 また、ユダヤ人に向けて書かれたという特徴を知らないと、理解しづらい箇所もあります。例えば、十二弟子を宣教の働きに派遣する際、マタイが記したイエス様の言葉は、

 マタイ10章5節~6節

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。

 

 ツロとシドンの地方に行かれた時、カナン人の女性が悪霊に憑かれた娘の助けを願う場面で、マタイが記したイエス様の言葉は、

 マタイ15章24節

しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。』と言われた。

 

 どちらも強烈にユダヤ人中心の言葉です。これらの言葉は、イエス様が神の民に約束された救い主であることを示すもの。マタイが意識していたユダヤ人に向けて、まさにこのイエスが約束の救い主であることを伝える意図があり、その意図を知らずに読むと、ひどく冷たい言葉に感じられます。

 マタイの福音書を読み通す際、ユダヤ人向けという特徴を意識しながら読みたいと思います。旧約聖書を知る者に「イエス」こそ、約束の救い主であると伝えたい。そのマタイの情熱を感じながら、味わいたいと思います。

(念のため記しておきますと、イエス様はこのカナンの女性とのやりとりの結果、この女性の信仰を褒め、娘を助けます。また、マタイの福音書は全世界に福音を宣べ伝えるようにとの大宣教命令で閉じられます。イエス様はユダヤ人の救い主であると同時に、全ての人の救い主であることも示されます。)

 

 覚えておきたい二つ目の特徴は、イエス様の説教が多く収録されているということ。続くマルコの福音書では、イエス様の行動や奇跡に焦点が当てられ、人々に仕える救い主のイメージが強いのに対し、マタイに記されたイエス様の姿は、王のイメージ、教師のイメージと言えるでしょうか。

 マタイの福音書に記されたイエス様の説教と聞いて、皆様が思い浮かぶのはどの説教、たとえ話になるでしょうか。大きく分けて五つの説教が収録されています。

五章から七章には、極めて有名な「山上の説教」。現在、山崎先生が継続的に説教で扱っています。「心の貧しい者は幸いです」で始まる八つの祝福。地の塩、世の光のたとえ。「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、という教えの本当の意味。善行、祈り、断食をどのように取り組むべきか。主の祈りについて。神の国とその義を第一に求めること。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」という黄金律。岩の上と砂の上に家を建てる者のたとえ。他にも多数ありますが、これら全て山上の説教で語られたものです。

十章には、十二弟子を伝道旅行へ派遣する際に語られた「派遣の説教」の記録。「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなもの」、「また、わたしの名のために、あなたがたは全ての人々に憎まれます。」と、これから起こる苦労、苦難を確認しつつ、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と、励ましも語られています。

十三章には、天の御国をテーマにたとえ話を語られる「七つのたとえ話」が出てきます。種まきのたとえ、毒麦のたとえ、からし種のたとえ、パン種のたとえ、畑に隠された宝のたとえ、良い真珠を捜す商人のたとえ、地引網のたとえ。長いたとも、短いたとえもありますが、中でも種まきのたとえと、毒麦のたとえは、イエス様ご自身の解説付きとなっていて、たとえ話を理解する上で必見の箇所となります。

十八章には、弟子の中で誰が一番偉いのかという問いをきっかけに語られる「信仰共同体について」の説教。「子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と語られ、高慢になることがいかに危険か、神様に赦された者として、他の人々を赦すことが、一万タラント赦された男のたとえ話でまとめられます。

 二十四章から二十五章では、終わりの時、キリストの再臨の時に関する教えが語られる「終末預言」が出てきます。キリストの再臨前に、どのようなことが起こるか教えられるも、それがいつなのかは語られず。そのため、いつ再臨が起っても良いように、備えるように教えられます。二十五章には、再臨の時に起ることを、三つのたとえでまとめられる。賢い花嫁のたとえ、財産を預けて旅に出た主人のたとえ、羊と山羊に分けられる話。

 

説教を聞くとして、誰の説教を聞きたいかと言えば、イエス様の説教以上に聞きたい説教はないでしょう。御言葉の解き明かしではなく、御言葉そのものである方の説教。マタイが、イエス様の説教を多く記録してくれたことを大変嬉しく思います。

この五つの説教の間に、イエス様がなされた奇跡や、祭司や律法学者たちとの論争が記され、最後に十字架と復活の記録になります。流れを意識しながら、五つの説教の特徴を確認しつつ、読み進めたいと思います。

 

 覚えておきたい三つ目の特徴は、マタイの示すイエス様の姿は、「私たちとともにおられる」という強調点があること。

 冒頭、系図を記したマタイは、続いてヨハネの視点から、主イエスの誕生を記します。そして、キリストの誕生を次のようにまとめました。

 マタイ1章22節~23節

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 

 主イエスが誕生したというのは、どのような意味があるのか。マタイはイザヤの言葉を引用して、この出来事は「インマヌエル」、神様がともにおられるという出来事だとまとめました。

 

 そして、この福音書を閉じる時、どのような言葉で閉じていたでしょうか。

 マタイ28章18節~20節

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』

 

 大宣教命令と呼ばれる、これもまた極めて有名な箇所。キリストの弟子に与えられた使命は、全世界でキリストの弟子を生み出すこと。しかし、その使命を自分の力で果たすのではなく、いっさいの権威が与えられているキリストとともに行う。主イエスの「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」という言葉でこの福音書は閉じられます。

 書物の最初と最後に同じテーマを記すことで、この書全体で言いたいテーマを明示する手法で、マタイが言いたいことは、「約束の救い主は私たちとともにおられる方である。」ということ。マタイの示すイエス様の姿は、「私たちとともにおられる」という強調点があるのです。

 

 考えてみますと、イエス様には特筆すべき様々な強調点があると思うのですが、マタイは「ともにいる救い主である」ということを強調しました。何故でしょうか。おそらく、これにはマタイ自身の経験、キリストの弟子になる時のことが関係していると思います。

 マタイ9章9節~13節

イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』

 

マタイは、イエス様に召されて十二弟子の一人となりました。その前は、取税人。ローマに支配されていた当時、ローマに納める税金を取り立てる取税人は、売国奴とも、公の泥棒とも考えられていた職業。その社会では、取税人は裁判で証言能力がないとされました。取税人という職業を選ぶだけで、これ以上ない程、徹底的に嫌わる状況。主イエスの中心的な弟子の中に、元取税人がいたというのは、相当印象的なことだったと思います。

 そのマタイが、声をかけられ主イエスについて行くのですが、その時、イエス様と自分の友人たちを招き食事会を開きます。ともかく嬉しかったのでしょう。その食事の場に、当時の指導的宗教家たちがやってきて、「なぜ、あなたがたの先生、つまりイエスは、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか。」と質問しました。これは、マタイにとって、非常に辛い言葉だったと思います。自分が非難されるのならば、まだいい。ところが、自分が弟子になり、自宅に招いた結果、イエス様が非難されてしまった。自分のせいで、主イエスが非難される。これは、辛かったと思います。

 しかし、そのマタイの耳に聞こえてきたイエス様の声は、「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」でした。マタイと一緒に食事をしていて、非難されたイエス様は、いや、私はそのために来たのだ、と言います。マタイはこの言葉を直に聞きました。皆から、蔑まれ、つまはじきにされ、証言能力がないとされるほどの人格否定をされる中で生きてきたマタイにとって、このイエス様の言葉は、言いようのない励ましの言葉だったと想像します。このような私とともにいて下さる。いや、私といるために来たと言って下さる。そのことを実感したマタイの筆による、イエス様の姿。

 マタイの思いを意識しつつ、私たち自身にとっても、イエス様はともにおられる救い主であること。あるいは、私にとって、イエス様はこのようなお方だと考えていきたいと思います。

 

 以上、マタイの福音書です。一書説教として扱うべきと思うことがあまりに多く、ごくわずかなことしかまとめられていないように思いますが、あとは是非とも一人一人、マタイの福音書を実際に読んで頂きたいと思います。遂に約束の救い主が来られた。とうとう、やって来られた。一体、約束の救い主とはどのような方で、何を為されたのか。今一度、新鮮な思いで、喜びと感動とともに読み進めていきたいと思います。

 

 旧約聖書が指し示している救い主。神様が送ると約束した救い主。それは、間違いなく、このイエスであるということ。神の民の本来の生き方はどのようなものなのか。王として神の民に告げるイエス。教師として弟子を教えるイエス。私とともにおられる救い主。

 このようなマタイの感動、熱気、何としてでもこの救い主を知らせたいという思いを意識しながら、私たち一同で、深く深くイエス・キリストを味わいたいと思います。

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