2017年11月5日日曜日

詩篇51篇1節~9節「つみの悔い改めと神の恵み」


皆様はどの様な時、喜びを感じるでしょうか。御馳走を食べた時、友人と親しく話ができた時でしょうか。音楽や絵画に心打たれた時でしょうか。家族が重い病から回復したり、仕事が成功したり、経済的な祝福が与えられた時でしょうか。神様は様々な喜びを与えて、私たちの人生を豊かなものにしてくださいます。

確かに、食物、友人、芸術、仕事、家族。それらの者がもたらす歓びがなかったとしたら、私たちの人生は、寂しいものになるでしょう。しかし、人生に神様を知る者にしか味わうことのできない喜びがあるとしたら、それが何であるのか。皆様は分かるでしょうか。

人として生まれ、この喜びを知らずに過ごしているとしたら、これほど残念なことはない。そう、聖書が教える喜びとは何か。思いつくでしょうか。それは、神様に自分の罪を赦されると言う喜びでした。

今日取り上げたのは、詩篇51篇です。詩篇は全体で150篇。内容によって感謝の詩篇、賛美の詩篇、知恵の詩篇、信頼の詩篇、悔い改めの詩篇などに分類されます。単純に分類できないものもありまし、一つの詩篇にいくつもの内容が混じっているものもあります。

この51篇は、悔い改めの詩篇として最も有名なもの。作者ダビデが自身の深刻な罪を告白していることもあり、多くの人々に愛されてきました。皆様の中にも、この詩篇を心の拠り所にしている方、おられるのではないかと思います。

今回は、罪の悔い改めと神の恵みをテーマとし、今日の礼拝と11月第四週の礼拝、二回にわたってこの詩篇を取り上げ、読み進めてゆきたいと考えています。

まず、この詩篇の背景となる出来事を確認しておきます。1節の前のことば書きです。

 

「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」

 

これはどういうことか。イスラエルの王であるダビデが、前線で戦っている忠実な部下の妻を奪い、挙句の果てに、その仕業が知られぬようにと、部下を最前線に立てて戦死せしめました。そして、知らん顔を決め込んでいたのです。

敬虔な信仰者であるダビデが姦淫、殺人、偽りと、恐ろしい罪に落ち込んでしまいました。しかし、ひとりの預言者が、ダビデが隠していた罪を告発し、悔い改めにいたらしめたのです。バテシェバとは忠実な部下の妻であり、ナタンはダビデの罪を暴いた預言者の名です。

こうして、王、勇士、詩人として名声に包まれていたダビデが、身ぐるみはがされ、ひとりの罪人として、その本性をあらわにされた時、一体どう行動したのでしょうか。

 

51:1~3「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。」

「神よ」、とダビデはまっすぐ神様に向かっています。不思議な気がします。普通、人間は自分の罪に気が付いた時、神から離れようとするのではないでしょうか。悪戯をした子どもが親から隠れるように、聖なる神から隠れようとはしないでしょうか。

しかし、ダビデは逆でした。自分の醜い現実に気が付いて、むしろ、神に近づき、神の懐に飛び込んでいったのです。これは、自然にできることではありません。「神様に赦しえない罪はない」「どんな罪も受けとめてくださる、あわれみ深い神様がいる」。そんな信仰によって選んだ行動だったのです。

あれだけの罪を犯したダビデなら、償いを果たして、苦しみや刑罰を受けて、それから神様のもとに来て祈るべきだと、私たちは思うかもしれません。しかし、ダビデがこの時頼りにしていたのは、自分の償いでも、行いでもありませんでした。ダビデが頼りにしたのは、ただ神様の恵みであり、ただ神様のあわれみだったのです。

恵みとは、契約を結んだ者同士が、どこまでも相手に誠実を尽くすことです。たとえ相手が契約に違反しても、なお相手に対して誠実を尽くそうとする態度です。また、あわれみは、深い懐からあふれ出るような同情心です。

 

出エジプト346,7「…主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者…」

 

自分の罪に気が付いた時、行くべきは、私たちを恵みによって扱ってくださる神様の所。あわれみ深い神様の懐に飛び込むこと。ダビデから、そう教えられたいと思います。

そして、神様の懐に飛び込んだダビデが願ったのは、罪の赦しです。「私のそむきの罪をぬぐい去ってください」「私の咎を洗い去り」「私の罪からきよめてください」。ひたすらに、徹底的に、完全な罪の赦しを願うダビデの姿が目に浮かんできます。

 

イザヤ4325「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

 

神様が私たちの罪を拭い去るとは、私たちの罪を二度と思い出さないこと。そこまで、赦してくださる神の恵みに、ダビデはすがっていたのです。いや、二度と思い出さないどころか、私の咎を洗い去り、私の罪から私をきよめてくださいと祈る。外側にあらわれた罪を洗るばかりか、自分の内側をきよめてもらうことまで、神に祈り、頼っていたのです。

何故、そこまで、ダビデは神様に願い、頼ったのでしょうか。それは、この事件をきっかけに、自分の罪が救い難いものであること、自分の努力では、どうにもならないほど酷く病んでいて、癒しがたいものであることを知ったからでした。

ここで、ダビデは自分のなした悪を三つのことばで言い表しています。私の背きの罪、私の咎、私の罪。共通するのは、不注意からのミスとか、うっかり犯してしまった罪ではなく、私たちが神のみ心を知りながら、意識的に犯す罪を意味していることです。ダビデは、心の痛みを感じながら、それを無視し、神の戒めを知りながら、それに逆らって、悪を重ねたことを認めていました。

さらに、ダビデは「私の罪は、いつも私の目の前にある」と告白しています。罪は私の近くにある。私は罪から一歩たりとも離れることができない。私は罪に誘惑されやすい者。王であろうと、勇士であろうと、神を信じる者であろうと、私たちは皆、地上にある限り、罪の影響を受けずにはいられない存在。これもまた、ダビデがこの事件から学んだ教訓だったでしょう。

信仰の成熟度は、罪を犯した時、それをどこまで率直に認めるか。その態度の中に現れると言われます。「あの時は疲れていたから」、「つい魔がさしたから」と言い訳をする。「あの人がこう言ったから」、「あの人の態度が酷かったから」、「状況が悪かったから、タイミングが悪かったから」。そう言って、人のせい、環境のせいにする。

その様な抜きがたい性質を持つ私たちにとって、ダビデの姿は、罪を率直に、潔く認めることの大切さを教えてくれます。

次は、神様の前に自分の罪を持ち出すダビデのことばです。

 

51:4「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」

 

このことばを読んで、「おやっ」と思った方がいるかもしれません。ダビデはバテシェバに悪をなし、その夫である部下に罪を犯したのではなかったか。それなのに、何故神様に向かって、私はあなたに、ただあなたに罪を犯しましたと言うのかと。

神様は、聖書において教え、律法と言う形で、善悪の基準を定めています。親や配偶者、子どもや兄弟、誰だれさんと言う隣人に対する罪は、そのまま神に対する罪と言うことです。

もし、神に対する罪と言う意識に欠けるとしたら、どうでしょう。人間の考える善悪の基準はいい加減なところがあります。時代とともに変わってゆくものもあります。例えば、姦淫も、ダビデの時代と現代とでは、随分人々のとらえ方が違います。「不倫が罪なんて古い、古い」と言う人も大勢いることでしょう。

ロシアの作家ドストエフスキーが、「神がいなければ、すべてのことが許される」と言いました。善悪の基準は神にあるという考え方が失われれば、善悪の基準は曖昧となります。人間同士が良しとすれば、以前は悪であったことも、悪でなくなってゆくでしょう。事実、そういう時代になってきた気がします。

そうだとすれば、「私の罪は神に対するもの。私の罪は、神の審判を受けるべきもの。神よ。あなたのさばきはことごとく正しい。」こう告白したダビデの態度は、非常に大切なものと思えてきます。神を知らない人が恐れるのは、この世の裁判所です。しかし、神を知る者は、天にある裁判所を恐れて生きる。私たちも持つべき信仰ではないかと思います。

はたして、預言者ナタンが来た時、ダビデにさばきが宣告されました。生まれてくる子どもは死ぬこと。今後、家庭内に醜い争いが起こる事。やがて、ダビデの妻が他の男と寝るようになる事。ダビデは、神のさばきに一切文句を言わず、これを受け入れたのです。

こうして、自分の罪に面と向き合ったダビデは、ついに、「私は罪ある者として、この世に生まれてきた。」と告白するに至ります。

 

51:5「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」

 

今ダビデは、自分の罪が、たまたま犯してしまった、あれこれの行いではなく、自分自身が罪の塊のような存在だと究明しています。生まれた時から、いや母の胎にいた時から、私は罪を持っていたと追及しているのです。

さて、私たちは、ダビデが神様に近づき、自分の罪と面と向かい、ついに罪の塊とまで自分を追求する姿を見てきました。しかし、ダビデが神様の懐に飛び込んだのは、神様の恵みとあわれみに信頼していたからです。神様の恵みとあわれみで、罪の塊のような自分を赦し、きよめて欲しかったからです。

ですから、ダビデは罪の底から、懸命の祈りをささげることができました。

 

51:69「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。」

 

ヒソプと言うのは、当時庭の石垣などに生えていたミント系の草のことです。これが60センチほどに成長すると刈り取り、束にして、きよめの儀式の際、血を塗るための道具として用いられました。ヒソプで血を塗られた人は、神にさばかれることなく、その罪を赦され、祭司からきよいと宣言されたのです。

また、イスラエル人にとって、雪で有名な場所と言えば、レバノン山脈です。レバノン山脈には三千メートル級の山々が連なり、一年のうち半年は雪に覆われていました。ダビデも、レバノンの山に輝く雪の白さ、一点の汚れもない、美しい白さを知っていたのでしょう。

「神様。あなたの罪の贖いの血で洗い、きよめてください。そうずれば、罪の塊のような私も、あのレバノンの雪よりも白くなれるのです。罪によって砕かれ、粉々にされた私の骨、私の心も、喜びを取り戻すことができます。」

この様なダビデの祈りほど、罪を悲しむ者、罪に苦しむ者を慰め、励ます祈りはないと思います。ダビデに取って、私たちにとって、さばきの神は赦しの神、聖なる神は恵みの神であることを確信させてくれる、祈りだからです。

以上、詩篇51篇の前半を読み終え、最後にひとつのことを確認しておきます。

 それは、もし、自分の罪を認めないのが、神様の前に高慢であるなら、罪を認めるだけでとどまることも、恵みとあわれみの神様に対し、高慢な態度であることです。

自分を罪の塊のような人間と思い定めたダビデが祈ったように、私たちも「私の罪を赦してください。罪の中に生まれた私を雪よりも白くしてください。」と、神様に祈り求めることができますし、祈り求めなければならないと思います。何よりも、神様が、その様な私たちの祈りを喜んでくださること、忘れないようにしたいと思うのです。

 

イザヤ1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と【主】は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

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