2017年10月29日日曜日

ヨハネの手紙第一1章9節、10節「罪を言い表す」


自分の信仰生活を振り返り、悔い改めるべきことはないか、改革すべきことはないか。考え、取り組んだことはあるでしょうか。

 個人の信仰でも、神の民・教会(集団)の信仰でも、浮き沈みがあります。成熟し整うこともあれば、衰退し形骸化することもある。聖書に記された信仰者の姿は、完全無欠なものはなく、皆が皆、失敗を繰り返すものです。旧約の神の民も、新約の教会も、繰り返し改革される必要がありました。

信仰者の歩みは浮き沈みがある。そうだとすれば、信仰者は自分自身の歩み、教会の歩みについて吟味し、悔い改めるべきことはないか、改革すべきことはないか、絶えず確認する必要があります。今一度お聞きします。皆様は、自分の信仰生活を省みること、教会の歩みについて吟味することを、どれだけ真剣に取り組んでいるでしょうか。

 信仰生活を省みることはいつでも重要なことですが、今日は特に宗教改革を記念する聖日。(宗教改革記念日は、十月三十一日。その直前の日曜日が、宗教改革を記念する聖日となります。)それも今年は宗教改革五百年を記念する年。この時期、様々なイベントが行われ、新改訳聖書も新しい版が出版されました。私たちはこの記念の時に、礼拝を通して、自分自身の信仰生活、四日市キリスト教会の歩みについて、悔い改めるべきことはないか、改革すべきことはないか。考えたいと思います。

 

 約二千年前。主イエスが活動を開始する直前に、救い主を迎えるよう訴える者がいました。救い主の前に送ると約束されていた預言者、バプテスマのヨハネです。キリストの先駆け、露払いのヨハネ。このヨハネは、どのようにして人々に、救い主を迎える備えをさせたのでしょうか。

 マタイ3章2節

悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。

 

 救い主を迎える備え。それは人々に、救いに対する飢え渇きを覚えさせること。神から離れたままであることの危険性に無自覚になっている者たちに、自分には救い主が必要であることを思い起こさせること。人々に自分の悪のほど、罪深さを覚えさせ、このままではいけないと自覚せしめること。それによって、救い主を待望せしめる。罪の中にいながら、安穏としている者たちに、冷水をぶちかけ目覚めさせる。これが、先駆者ヨハネの使命であり、取り組んだことでした。「悔い改め」の一つの意味は、自分には救い主が必要であると確認することです。

 

 さらにバプテスマのヨハネは、悔い改めを心の中だけのこととはしませんでした。心を神様に向けるだけでなく、生活も変えるように。悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと教えていました。

 ルカ3章10節~14節

群衆はヨハネに尋ねた。『それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。』彼は答えて言った。『下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。』取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。『先生。私たちはどうすればよいのでしょう。』ヨハネは彼らに言った。『決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。』兵士たちも、彼に尋ねて言った。『私たちはどうすればよいのでしょうか。』ヨハネは言った。『だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。』

 

 群衆に、取税人に、兵士に。それぞれ非常に具体的に悔い改めに基づく行いを教えます。悔い改めとは心だけのことではない、言葉だけのことでもない。実際の生活の中で、行いとして、実を結ぶべきものだったのです。想像してみて下さい。もし今の自分の目の前に、バプテスマのヨハネが現れたとしたら、自分の生活をどのように変えるべきだと語られるのか。悔い改めの一つの側面は、心だけのことではない、実際の生活を変えるものでした。

 

 人々に、救い主を迎える準備をさせる働きをしたヨハネが悔い改めを説いていた。悔い改めて、救い主を待望するように。それでは、救い主ご自身はどのようなことを教えられるのか。なんと、その最初の言葉はヨハネと同じ。「悔い改めなさい」というものでした。

 マタイ4章17節

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』

 

 ヨハネが悔い改めを説いたのは、救い主が必要であると自覚させるため。それでは、救い主自身が「悔い改めなさい」と説いたのは、どのような意味があるのか。ヨハネと同じ意図なのか。それとは別な意図があってのことなのか。

 このイエス様が「悔い改めなさい」と言われたことの意味を、どのように受けとめるのか。これが、十六世に起った宗教改革の一つの契機となりました。

 

 カトリック教会では、ラテン語訳の聖書を使用し、イエス様が言われた「悔い改めなさい。」という言葉は、「ペニテンティアしなさい。」となっていました。この「ペニテンティア」という言葉は、カトリック教会の中では特別な意味のある言葉で、「懺悔の秘蹟」を意味する言葉となります。

(カトリック教会では、イエス様によって制定され、教会に委ねられた恵みの儀式が七つあるとし、それを「秘蹟」と呼びます。私たちは、それを二つだけ。洗礼式と聖餐式と考え、「礼典」と呼びます。現在、カトリック教会では赦しの秘蹟という名称になっていますが、懺悔の秘蹟、告解の秘蹟という呼び名もあります。)

 つまり、当時のカトリック教会では、ラテン語聖書に基づいて、主イエスが言われた「悔い改めよ」という言葉を、「懺悔の秘蹟をなせ」という意味。教会に行き、罪を告白し、司祭から赦しの宣言を受けるという儀式をしなさい、という意味だと教えていました。

 

 当時、一般のカトリックの司祭は、原典のヘブル語、ギリシャ語で聖書を読むことは許されていなく、それは大学の教授になってはじめて、許されること。このような状況で、司祭であり大学の教授にもなったマルティン・ルターが登場します。ルターは、ギリシャ語で聖書を読むと、ラテン語訳聖書とは意味が異なるに気付きます。イエス様が言われていることは、懺悔の秘蹟をしなさいとい意味ではない。生活のあらゆる面で、神様以外に向けられていた心を、神様に向けること。方向転換することだと考えるのです。

 

 現在のキリスト教、そして今の私たちの信仰生活に多大な影響を与えた「宗教改革」。一般的には、1517年、10月31日、マルティン・ルターが、ヴィンテンベルグ城教会の門の扉に「九十五箇条の提題」を張り出したことから始まったと言われます。

 その第一条、第二条は次のような言葉です。

第一条

「私たちの主であり師であるイエス・キリストが「悔い改めよ」と言われたとき、彼は信者の全生活が悔い改めであることを望まれたのである。」

 

 第二条

「(悔い改めよという)この言葉が、秘蹟としての懺悔についてのものであると解することは出来ない。」

 

 ルターは、当時の教会のあり方について、様々な側面から糾弾し、宗教改革を行います。イエス様が言われた「悔い改めなさい」という言葉をどのように理解すれば良いのか。これだけを問題にしたのではないのですが、九十五箇条の提題の最初に掲げたのは、この問題。悔い改めよという言葉をどのように理解するのかが、宗教改革の一つの契機になっていることがよく分かります。

 イエス様が言われた「悔い改めなさい。」という言葉。ルターは、「信者の全生活が悔い改めであることを望まれた」と理解しましたが、それでは信者の全生活が悔い改めであるとは、具体的にどのようなこと、どのような生き方となるのでしょうか。皆様は自分の全生活が悔い改めであるとは、どういう意味だと考えるでしょうか。

 

 全生活が悔い改めであるとは、どのような生き方なのか。今日はヨハネの記した手紙を中心に考えたいと思います。

 Ⅰヨハネ1章9節~10節

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。   

 

 主イエスの先駆けとしてバプテスマのヨハネがいましたが、この手紙を記したのは十二弟子の一人のヨハネ。キリストの死と復活、召天後、七十年程生きて、福音書、手紙、黙示録を書きました。バプテスマのヨハネが、キリストの先駆けならば、こちらは後詰のヨハネ。先払いのヨハネに対して、後払いのヨハネ。

 ここでヨハネは、悔い改めの中でも、特に罪を告白すること、罪を言い表すことについて重要なことを教えています。私たちが、罪を言い表すならば、罪は赦され、きよめられるという約束。

 ところで、この言い表すという言葉は、基準に当てはまるかどうか判断するという意味があります。つまり、ここで言われている罪を言い表すとは、自分の感覚として、罪があるかないかを考えるのではない。聖書という基準に沿って、自分には罪があるかどうか考えるということです。

 

 私が高校生の時のこと。友人に、キリスト教の説明している中で、聖書は全ての人が罪人であると教えているという話になった時。友人に自分のことを罪人だと思うかと聞いたところ、罪人だと思うという返答でした。(その返答を聞いて、イエス様を紹介しやすいかもしれないと思いました。ところが)どうして罪人だと思うのか聞いたら、自分は肉なり魚なり、他の生き物を食べて生きている。多くの生き物を食べて生きてきた自分は、罪人だと思うという答え。(その答えを聞いて、イエス様を紹介する前に、伝えないといけないことが多くある気がするけれども、どのように伝えたら良いのか悩むことになりました。)

 「自分を罪人だと思う。」これはとても聖書的な告白に聞こえますが、しかし、なぜそのように思うのか。聖書の教えていないことで、自分を罪人だと思うとしても、それは正しい告白とは言えないのです。罪を言い表す、罪を告白するとは、自分の判断基準でどう思うのかではなく、聖書に照らして罪があるか、ないか。あるとしたら、どのような罪があるのか、告白するということでした。

 

 ところで聖書は、キリストを信じることで罪を赦されると教えていました。どの罪が赦されるのでしょうか。全ての罪が赦されます。キリストを信じる前に犯した罪も、その時に犯している罪も、これから犯す罪も。過去も、現在も、未来も、キリストを信じることで全ての罪が赦されます。自分が把握している罪も、自分で知らずに犯した罪も、告白した罪も、告白出来なかった罪も、全ての罪が赦される。キリストを信じることで、あらゆる罪が赦されるというのが、私たちの信じている福音です。

 キリストを信じる者は、完全に罪赦された者。キリストを信じた者を、罪に定めることは誰にも出来ないのです。それでは何故、キリストを信じる者にも、罪を言い表すこと、罪を悔い改めることが勧められているのでしょうか。既に罪赦されているのに、何故、罪を告白する必要があるのでしょうか。

 

 もう一度、ヨハネの言葉を確認します。

 Ⅰヨハネ1章9節~10節

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

ヨハネは、聖書の基準に沿って、自分の罪を言い表す時に、どのような恵みが与えられるのか。「罪は赦され」、「悪からきよめられる」という恵みが与えられると言います。

既に完全に罪赦されている者に、罪が赦される恵みが与えられる。これは、どういう意味でしょうか。キリストを信じた者が、新たに罪を犯した場合、告白しないと、新たな罪は赦されないということでしょうか。そうではありません。(カトリック教会は、洗礼後に犯した罪が赦されるためには、懺悔の秘蹟が必要と教えていますが、私たちは、聖書はそのように教えていないと考えています。)そうではなく、罪を告白することで、罪が赦されている恵みを再確認するということです。

キリストを信じる者。既に完全に罪赦された者が、どうせ罪赦されているのだからと、自分の罪に対して無感覚になるようにとは教えられていません。むしろ、罪赦されているけれども、罪を犯す度に言い表すことを通して、この罪も赦されていたと再確認すること。繰り返し、罪の赦しの恵みを味わうようにと教えられているのです。

 

そして、もう一つ。罪を言い表す時に、「悪からきよめられる」恵みも与えられると言います。罪赦された者として、二度と罪を犯したくないと思っても、それが出来ない私たち。その悪から抜け出すために、私たちが出来ることは、自分を打ち叩いて頑張るのではなく、罪を言い表すことでした。罪の赦しだけでなく、悪からきよめられるという点でも、神様の助けを願うということ。あのバプテスマのヨハネが教えていた、悔い改めに相応しい実を結ぶために、私たちが真っ先に取り組むべきは、罪を言い表すことでした。

ここで重要となるのは、自分は本当に悪からきよめられたいと思うのか、ということです。自分でも気が付きやすい表面的な悪は、きよめられたいと願いやすい。しかし、心の奥底にある罪、悪について、本当にきよめられたいと願っているのか。自分の欲望、怒りや憎しみ、罪だと分かっていても、手放せない行いや思い。そこからきよめられたいと、本気で願うのか。神様が悪からきよめると約束しているのに、それでも、罪を告白しないとしたら、罪を告白しないということ自体も大きな問題となります。どのような罪、悪でも、きよめられることを願いつつ、言い表すことが出来るようにと互いに祈り合いたいと思います。

 

 今日は宗教改革を記念する聖日。それも十六世紀の宗教改革から数えて五百回目の記念の時。イエス・キリストが語られた「悔い改める」ということの意味について、考えてきました。

 宗教改革を起こす一つの契機となった「悔い改める」ことの理解について、ルターは、「(主イエスは)信者の全生活が悔い改めであることを望まれた」とまとめましたが、それでは、全生活が悔い改めであるとは、どのような生き方なのか。

 今日の聖書の言葉に沿って言えば、全生活が悔い改めであるとは、日々、罪を言い表す信仰生活を送るということです。聖書に照らして、自分の罪を言い表すことを繰り返す人生。そのことを通して、赦されている恵みを確認し続けること。悪からきよめられ、ますますキリストに似る者とされていくこと。そのような信仰生活を、イエス様は私たちに求めておられる。

 この記念の聖日に、今一度、聖書を読むこと。そして聖書に照らして、自分の信仰生活、教会の歩みを吟味すること。罪を言い表すことに取り組む決心を、皆でしていきたいと思います。

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