2017年10月15日日曜日

「一書説教 マルコの福音書~仕える王~」


「イエス」を誰とするのか。これは人間にとって最も重要な問いと言えます。自分とは全く関係のない人か。古の他国で活躍した社会運動家か。優れた道徳、倫理をもたらした教師か。数々の病を癒した優れた医者か。死人をよみがえらせたとなると預言者とみるか。それとも、私の救い主と信じるのか。

「イエス」を誰とするのか。(ある意味では恐ろしいことですが)聖書によれば、この問いに対する答えが、その人の永遠の定めを決めることになるのです。一人の人生に、それも永遠の人生に決定的な影響があることとして、「イエス」を誰とするのか、という問いがある。そうだとすれば、私たちはどれだけ真剣にイエスとは誰なのかを探るために聖書を読んできたのか。この問いに対する答えを持たない人に、どれだけ真剣に聖書を読むことを勧めてきたのか。その真剣さが問われます。

 

創世記から読み進めてきた一書説教の歩み、前回から遂に新約聖書に入りました。新約聖書の冒頭四つ、その名も「福音書」「良き知らせの書」にて、イエスの生涯を確認する段になりました。今一度、私にとってイエスとは誰なのか、よく考える時となるように。私の救い主と信じるとしても、どのようなお方なのか真剣に探る時となるようにと願います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 主イエスの生涯を記す四つの福音書。その二番手を担うのはマルコの福音書です。(書かれた順番としては、マルコの福音書が最も早く書かれたと考える神学者が多いですが。)全十六章、最小の福音書となります。

ところで、もし自分が福音書記者を選ぶことが出来るとしたら、皆様はどのような人を選ぶでしょうか。イエス様の生涯を記すのに、相応しいと思うのはどのような人でしょうか。家族か、十二弟子のように身近にいた人物か。あるいは余程、文学的才能がある人物か。実際、四つの福音書の著者のうち、マタイとヨハネは十二弟子。ルカは、優れた歴史家であり、卓越した作家でした。(またイエス様の肉の兄弟、ヤコブとユダはそれぞれ手紙を記し、新約聖書に収録されています。)ところがマルコは、十二弟子でもなく、その文体は朴訥としたもの。何故、マルコが福音書記者となっているのか。マルコとはどのような人物だったでしょうか。

 

マルコと言えば、一番有名なエピソードは不名誉なものです。パウロがバルナバと伝道旅行に行く際、助手としてマルコを連れて行きました。(使徒13章5節)ところが、伝道旅行を途中で抜けてしまいます。(使徒13章13節)パウロは、この離脱が余程癪に障ったようで、後にマルコの処遇でバルナバと衝突することになります。(使徒15章36節~39節)あのパウロとバルナバを喧嘩別れとなる原因が、マルコでした。

 そのマルコ、具体的なことは分かりませんが、後にパウロとの関係は良いものとなっていて、パウロは絶筆の手紙で、マルコのことを「私の務めのために役に立つ」人物と評するようになります。(Ⅱテモテ4章11節)

 さらに、ペテロもその手紙の中でマルコのことを「私の子」と言います。(Ⅰペテロ5章13節)肉親ということではなく、信仰による子、ペテロの働きを継ぐような者という意味です。

 若くして教会の働きに加わった人物。不名誉な失敗もありましたが、それで教会から離れて終わるのではなく、パウロともペテロとも親しい関係を持つことが許された人物。このマルコが第二福音書の著者となります。

 

四つの福音書、それぞれに特徴があり、福音書を読み比べて、それぞれの特徴を味わいたいと思いますが、マルコの福音書の大きな特徴の一つは「簡潔」であること。同じ場面が記されている他の福音書と比較すると、多くの場合、マルコの記事は簡単にまとめられています。一つ一つの出来事が短くまとめられているため、次々に場面転換する印象があります。密度の濃いマルコの福音書。

それぞれの福音書の「一章」を比較しますと、マタイは、系図とキリストの誕生の記録。ルカは、キリスト誕生前の記録。ヨハネは、詩的表現によるキリスト誕生と、バプテスマのヨハネの記録。それに対してマルコは、バプテスマのヨハネのこと、荒野の誘惑、弟子を集めたこと。会堂で教え、悪霊を追い出し、病気を癒したことが記されます。マルコは簡潔で展開が速いのです。

 

 このマルコの福音書をどのようにまとめたら良いのか。色々なまとめ方があると思いますが、今日は「イエス様は、どのようにご自身のことを教えられたのか」という視点でまとめていきたいと思います。(そのことを通して、私たちはイエスを誰だとするのか、考えたいと思います。)神の子であり、約束の救い主であるイエス様は、ご自身をどのような者として示されたのか。人々は、イエス様をどのように受けとめたのか。中でも特に弟子たちは、イエス様をどのように理解していったのか。皆で確認したいと思います。

 

 イエス様はご自身をどのように示されたのか。神の一人子が人となられた最大の目的は、約束の救い主として罪人を救うため。そのため、いち早くご自身が、約束の救い主であることを教えるのではないかと思うところ。

 しかし、興味深いと言うか、不思議と言うか、マルコの福音書に記されたイエス様は、なかなかご自身が約束の救い主であることを明言しません。是非とも、注意深く、意識して読んで頂きたいのですが、前半に記されたイエス様の姿は奇跡が中心。多くの奇跡が記録され、その中で含みをもたせる表現は出てくるのですが、約束の救い主であると明言されることはないのです。更にいうと、ご自身明言されないだけでなく、他の人もイエス様について語ることを禁じる場面が度々出てきます。何故なのかと不思議に感じるところ。

 

 ある場面では、ご自身のことを多くの人に知らせようとする積極的なイエス様の姿が出てきます。

 マルコ1章38節~39節

イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。

 

 しかし、そのすぐ後に記されているのは、ツァラアトという皮膚病を癒した男に対して、自分のことを話してはならないと戒められる姿となる。

 マルコ1章43節~44節

そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。『気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。』

 

 積極的に町々を巡り、会堂で教え、奇跡を行う姿が記される中、もう片一方に、どうも消極的、ご自身のことを秘密にしようとされる姿が出てきます。一体イエス様は、ご自身のことを教えたいと思われているのか、秘密にしようとされているのか。どちらなのだろうと、混乱してきます。

 このようなイエス様を、人々はどのように受けとめたでしょうか。マルコの記述によると、奇跡を目の当たりにした者たちは多くの場合、驚愕しつつも、好意的に受け止めています。いくつも例を挙げられますが、たとえば中風の人を癒した時、人々の受け止め方は次のようなものでした。

 マルコ2章12節

それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた。

 

 多くの場合、奇跡を見た者たちは、好意的に受け止めている。しかし、イエス様は場所を移動しつつ奇跡を行うため、イエスに対して好意的であった者たちでも、イエスが誰なのか、理解が深まることはなかったのです。継続して、その活動を見ることが出来たのは弟子たち。イエス様がご自身のことを明言されなくても、少しずつ、イエス様についての理解が深まっていきます。

 こうして、マルコはその前半で、イエス様の奇跡と、少しずつイエス様について理解を深める弟子たちの姿を記します。その後で、ここから、ご自身が約束の救い主であることの意味を明確に語るようになる場面が出てきます。マルコの福音書の分水嶺となる箇所。どの箇所だと思うでしょうか。

 

 マルコ8章27節~33節

それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。』するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』

 

 ピリポ・カイザリヤでのイエスと弟子たちの重要な問答の場面。「イエスを誰とするか。」という問いを、イエス様ご自身が弟子たちに投げかける。ここでペテロがこれぞ、という答えを出します。「あなたは、キリストです。」「あなたこそ、約束の救い主である。」と。

 ここまで、繰り返し奇跡を行いながらも、ご自身が約束の救い主であることは明言されなかったイエス様。何故なのか。その理由は明確には記されていないのですが、弟子が「あなたは、キリストです。」と告白するまで、待ち続けていた印象があります。この告白に至るように、これまでの多くの奇跡は、弟子たちの教育の場にもなっていたと読めるのです。

 

 「あなたは、キリストです。」と弟子たちが告白出来るようになることを待っておられた。そうだとすれば、イエス様はこの告白をどれ程喜ばれたかと思います。この告白を契機に、イエス様はご自身が約束の救い主であることの意味を語ります。約束の救い主であるというのは、奇跡を行い、人々の注目を集めるだけの存在ではない。約束の救い主であるとは、多くの苦しみを受け、死に、よみがえる者だと明言された場面。

 このイエス様の宣言を聞いて、ペテロはイエス様をいさめ始めました。ペテロの考える救い主のあり方と、イエス様が語られた救い主のあり方に違いがあったのでしょう。死ぬなんて、殺されるなんて、そんなことはない。ペテロに悪意があったとは思えません。イエス様を愛していたからこその発言とも思います。しかし、約束の救い主であるということの意味は理解出来ていなかったのです。このペテロに対して、イエス様は「下がれ、サタン」と非常に強い言葉で叱責し、救い主であることの意味を明確にされました。

そしてこれ以降、繰り返し、約束の救い主であることの意味を弟子たちに語るイエス様の姿が出てきます。前半を経て、イエス様が約束の救い主であることが明確になり、後半にて、その約束の救い主がどのようなお方なのか、明確になる。そして最後に、語られた通りにイエス様は死なれ、蘇られた記録となります。

 

 以上、「イエス様は、どのようにご自身のことを教えられたのか」という視点で、マルコの福音書を概観しました。今一度簡単にまとめます。

前半、イエス様は多くの奇跡をもってご自身を示されました。イエス様の姿から、徐々に理解が深まる弟子たち。多くの奇跡が記されますが、前半の最後の奇跡は盲目の男の目を開くというものでした。その後で、ペテロの告白となります。おそらくこの配置は意図的なもの。このマルコの記述の仕方に、盲目の男の癒しと、霊的に盲目であった弟子たちの目が開かれていくというつながりを思わせます。それはそれとして、前半はイエス様が約束の救い主であると告白するまでの歩みでした。

分岐点となるペテロの告白以降、イエス様はご自身が約束の救い主であるというだけでなく、約束の救い主とはどのような者なのか。罪人のために死に、復活することを繰り返し教えられるようになります。後半は、約束の救い主がどのような者なのか、明確にする記録となります。その最後は、ペテロの告白時に、イエス様が宣言された通りのことがイエス様自身に起こります。そして「イエス様は、どのようにご自身のことを教えられたのか」という視点でここまで読み進めますと、最後に飛び切りの告白が記されています。(マルコ15章39節)


 

 最後に、マルコの後半。約束の救い主はどのような救い主なのか語られるところから、一つのことを確認して終わりにしたいと思います。

 マルコ10章42節~45節

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』

 

 エルサレムに向かう途上。今一度、ご自身が約束の救い主として死ぬことを宣言されたイエス様。その時、弟子たちが話していたことは、誰が偉いのかというものでした。残念無念。弟子たちの不甲斐なさが如実に記録される場面。

 ここでイエス様は、ご自身を「仕える者」と言われました。それも、贖いの代価として命を与えるほどに仕える者である。神の子、約束の救い主、王の王である方が、ご自身のことを徹底的に仕える者なのだ、と言われる。

 

 考えてみますと、マルコの福音書に記されたイエス様の姿は、まさに仕える王でした。困窮している者たちに仕え、無理解の弟子たちに仕え、遂には罪人のために命を投げ出して仕えるイエス様。今回、一書説教の準備をして、私が受け取ったマルコの示したイエス像の中心は、この仕える王というものでした。

 マルコの福音書を読み通して、主イエスが約束の救い主であること。約束の救い主は、私たちの罪の身代わりに死に、復活されたことを確認したいと思いますが、それはつまり、徹底的に仕える方であると受け止めたいと思います。

 キリストの弟子、キリストを信じる者とは、このイエス様に仕えてもらった者。私は、王の王に仕えてもらった者。そして、その私たちに仕えて下さった王が、「みなに仕える者になりなさい。」「みなのしもべになりなさい。」と言われる。このイエス様の命令に従順に従う者でありたいと思います。

 

 

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