以前聞いた落語に、こんなお話がありました。ある時、町内の大店の主人たちの寄り合いがあり茶のみ話となる。それがいつの間にか、自分の家の庭自慢となりました。
「私の庭には先祖伝来の梅の老木がありましてな。」「いやいや、我が家には、見事な花を咲かせる枝垂桜がございます。」「いやいや、家の庭には紅葉が…。」と、庭自慢が続くと、それにつられたのか、ひとりの主人が負けじと口を開いたのです。
「皆様のお庭には、梅だの、桜だのと花が生命の名木がご自慢のようですが、何といっても、木の命は常磐木。常に緑を絶やすことのない常磐木ではないでしょうか。中でも第一の常盤木は松の木。我が家の庭には春夏秋冬、一年中緑を絶やすことのない、大きな松の木が庭の真ん中にございます」。
それが、あんまり見事な自慢だったので、主人たちは、「それでは、その松のお庭を見に行こうではありませんか」と、なってしまいます。実は、これが大ぼらで、困ったのは大ぼらをふいた主人自身。家に帰った主人は顔を青くして、事の次第を番頭に話しました。
それを聞いた番頭は、しばらくの間思案していましたが、何故かにっこり。「ご主人様。ご心配なく。おまかせください。きっと明日には、この庭に見事な松の木をはやして見せましょう。」と答えます。
「しかし、今日、明日の話だぞ。大きな松など育つものか。…」という主人の声を聞きながら、番頭は空模様を眺めると、「ご主人様。明日ですね。明後日以後では困りますが、明日ならば好都合」と言いました。そして、翌日。予定通り訪れた大店の主人たちは見事な松の木に驚いて、帰りました。
おかげで、主人も命拾い。めでたし、めでたしという話ですが、それにしても、一夜にして、松の木が生えてくるとはどういう訳か。もうおわかりでしょう。番頭は近くの山から、店の者を使って、一番見事な枝ぶりの松の木を斬り倒して運び入れ、庭に突きさしたのです。
これなら、一夜でできる。斬ってきて、突き立てただけ。それも、一日だけというのがみそでした。長くなったら根がないから、枯れて倒れてしまうからです。見事、番頭の機転は一家を救ったのです。それはそれとして、番頭は自慢高慢の若主人を戒めました。
「一言申し上げます。この急場は何とか凌げたものの、もとよりこれは一時凌ぎということでございます。相手が世間知らずの主人たちだからよかったものの、これが専門家でしたら、どうなっていたことでしょう。天候も夕方で雨が降りでもしたら、松は倒れたことでしょう。以後、お気をつけくださいますように。」案の定、夕方大雨となり、風が吹いて、松の木は倒れてしまった、と言うお話です。
急場は凌げても、化けの皮ははがれる。一時のメンツは保てても、メッキははげる。土台の無さは暴露してしまいます。土台の有り無し。根の有り無しは、雨や風によって、明らかになってしまうのです。
土台のない仮ものの家か、土台のしっかりとした本物の家か。砂の上に乗っけただけの家か、それとも岩に土台を据えつけた家か。それは、雨と風ではっきりと分かってしまう。もともと、大工さんをしていたイエス様は、ここに建物の例をあげられたのです。
7:24~27「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
これが、山上の説教の結び。ビシリときいたしめくくりです。私たちは、マタイの福音書の第5章から7章で、所謂山上の説教を聞いてきました。それはイエス様の説教の中でもっとも有名なもの。よく知られた名言名句の宝庫でもありました。
神以外頼る者のない貧しい者こそ幸いです、罪を悲しむ人こそ、義のために迫害されている人こそ幸いですと言う、この世の教える幸福とは、180度違う幸福論。さらには、敵を愛せよとか、のろう者を祝福せよと言う、いまだかって誰も語れなかった神聖な教え。そして、自分の眼の前には丸太ん棒をつけていながら、他人の目の中のチリを云々できますか、責めることができますかと言う痛烈な教え。私たちは、そんな一言々々に感心し、満足して、聞いてきました。
しかし、今、それだけで終ってしまおうとする者は、ここでストップをかけられます。「わたしの教えを聞いても実践しない人は、砂の上に家を建てる愚かな人。雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いて打ち付けると、倒れてしまう」と、風に倒れ、雨に流される家のような人生にならぬよう、と釘を刺されました。ただ聞いて感心したり、満足したりという感情だけで、手足を動かして実践しない者は、「砂の上の家のよう」と戒められたのです。
それでは、イエス様が勧める賢い人の賢さ、戒められている愚かな人の愚かさとは、どのようなものでしょうか。同じ神を信じ、同じ山上の説教を聞きながら、なぜ二人が建てた家、二人が歩む人生は、大きく違うのでしょうか。
ここで、注目したいのは、イエス様が私たちの信仰の歩みを、家を建てることにたとえている点です。信仰の歩みは家を建てることに似ている、と言うことでしょう。
昔も今も、家を建てることは人生の一大事。じっくりと腰を据えて取り組んでゆかねばならない大仕事です。一定の手順を踏まなければなりませんし、時間もかかります。一晩で松を庭にさすと言うようなせっかちさ、手抜き工事は禁物でした。
まずは、しっかりとした地盤の土地を見つけること、土台を深く掘ること、その後、柱を立て、壁を塗ってと言う具合に、おろそかにできない順番と言うものがあります。
ルカの福音書には、賢い人がこのようにしたとあります。
ルカ6:48「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。…」
地面を深く掘り下げた、つまりしっかりとした土台を築くために、固い岩の上から地面を掘り下げる労苦を惜しまなかったのが、賢い人です。それに比べると、愚かな人は、岩の土地を探す手間も、地面を深く掘り下げる労苦も惜しんで、体裁が良いだけの家を建て、それで良しとしました。
愚かな人は、信仰の歩みにおいてせっかちで、目に見える成果をすぐに欲しがる人、そのために、じっくりと取り組むべきことに取り組まない人と言えるでしょうか。
現代人の病の一つは、能率効率病と言われます。できる限り短時間で成果を上げることが良いこととされる社会です。それ自体は意味のあることとしても、あまりにも能率効率にとらわれ、じっくり物事に取り組んで、結果を期待して待つと言う生き方が苦手とも言われます。
しかし、私たちの信仰の歩みは、能率主義効率主義では測れません。たとえ、すぐに目に見える結果成果が出なくても、じっくり取り組むべきことがあるのです。聖書を読むこと、祈ること、神様の愛を受け取る時間をとること。実践すること。恐らく、皆様もこれは重要と考えながらも、すぐにしなくても良いと判断して、先延ばしにしていることがあるのではないでしょうか。
確かに、聖書を読まなくても生活に困らないし、祈らなくても病気になるわけではありません。実践してすぐに目に見える成果があがることばかりではないでしょう。しかし、こうした土台作りを怠ること、それが砂の上に家を建てる人だと、イエス様は言っておられるのです。
そんな、私たちを励ましてくれる詩篇のことばがあります。
詩篇1:2,3「まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
主の教えを喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむ人が、水路のそばに植わった木にたとえられています。「口ずさむ」ということばは、「読む、歌う、覚える、思い巡らす」。そんな意味の広がりがあります。すぐに芽が出なくても、なかなか成長しなくてもあせらない。神様が実りをもたらしてくださることを期待して、日々み言葉を聞き、読み、思い巡らし、実践してゆく。
イエス様が勧める賢い人とは、信仰の土台作りに、じっくり、焦らず取り組む人、取り組み続ける人であると教えられます。
また、愚かな人は、物事をよく考えない人、頑固な人と思えます。この人は、何故、我が家が、大水に流される危険を考えなかったのでしょう。風で倒れるかもしれないと考えなかったのでしょう。もしかすると、考えたのかもしれませんが、深く考えることはなかったのでしょう。それに、その人の周りには、注意する人も心配する人もいたはずです。それなのに、なぜ他人の意見や心配に耳を傾けなかったのでしょうか。
聖書は、私たちに考えること、特に自分の課題について振り返ることを勧めていました。
箴言12:15「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」
自分が良かれと思ってなした助言が、相手に受け入れられず反発された時、皆様はどう感じるでしょうか。自分がなした親切が、相手に拒まれた時、どう考えるでしょうか。反発した相手が悪い。拒んだ相手が問題だ。これが、自分を正しいと思う人の反応です。
しかし、神様が求める人は、言ったことは正しかったとしても、言い方に相手に対する配慮が足らなかったのではないかと、自分を省みる人です。親切の押しつけだったかもしれない。今度は相手が望んでいることをしてあげよう。そう自分を修正する人なのです。
また、知恵のある人は忠告を受け入れる、ともあります。神様から聖書を通して与えられる忠告もあるでしょうし、周りの人からの忠告もあるでしょう。いずれにしても、神様の教え、人の意見に耳を傾ける謙虚さが、賢い人の特徴と教えられます。
山上の説教にも、私たちの心を刺すことば、耳に痛いことばがたくさんありました。しかし、どんなに耳に痛くても、私たちは日々これらのことばを目の前において、取り組んでゆく。今自分にとって、どうすることが山上の説教に従うことなのかを考え、自分の言動を修正してゆく。その様な歩みを、イエス様は賢いと呼び、勧めているのではないでしょうか。
ある校長先生からお聞きした話です。高校生のバイブルキャンプでのことです。その校長先生は、一人の高校生のつきそいで参加されていましたが。いよいよキャンプも終わりという言うとき、どうしても話をしたくなり、こんな証をしたそうです。
「私はつきそいでしたが、ここのキャンプの生活をしているうち、キリスト教こそ本当の教育をしているのだ、と知って感動しています。というのは、キャンプ場の靴箱の上に千円札が一枚たたんでおいてありました。誰かが忘れたか、落としたものでしょう。それが四日間そのまま手つかずだったのです。私の勤めている学校なら、すぐ様なくなっていたでしょう。それが四日間、誰も手をつけなかった。これだ。こういう事が当たり前になるように教育しなければ。私もクリスチャンになって、もう一度自分の教育を考え直します。」と。
それを聞いていたクリスチャンたちは「なんだ、そんなことが」とキョトンとしています。そんなことあたり前じゃないかと、という顔をしている。私には、そのキョトンとしているクリスチャンたちのたのもしさが印象的でした。一人一人の心が生まれかわることでした。」そんな、証をしてくださったのです。
盗むなかれ。聖書の教えを当たり前のように守り、生活している高校生の姿が、ひとりの校長先生の心をとらえ、自らクリスチャンとなって、教育を考え直すと言わしめた。
いかに、社会教育、学校教育を口にしても、自分の欠点一つ矯正することができない者に真実の教育はできない。学校の改革と言う前に子供の教育を。子どもの教育の前に、聖書による自分自身の教育、改革をです。そのように話してくれた、先生の顔が今でも忘れられません。
こうして、締めくくりを迎えた山上の説教。これを聞き終えた人々は、イエス様を単なる宗教の教師ではなく、神のことばを語る神ご自身と感じ、驚きに打たれました。
7:28,29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」
最後に、山上の説教の結びを読み終えて、私たち一つのことを確認しておきたいと思います。それは、山上の説教を実践する者に与えられる祝福です。
今日の個所で、イエス様が私たちに約束したのは、試練や困難のない、平穏無事な人生ではありません。試練や困難の中に置かれても、神様に固く守られ、豊かな実を結ぶ人生です。
健康な時も病の時も、富める時も乏しい時も、苦しみの時も喜びの時も、私の最大の願いは、聖書の示された神様の御心に従うこと。幼子も、少年も、青年、壮年、老年も、皆が神様の御心に従うというその一点で、ひとつになる。そんな私たちの教会でありたいと思うのです。今日の聖句です。
詩篇119:14~16「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。
私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」
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