2017年10月1日日曜日

マタイの福音書7章21節~23節「山上の説教(42)~『主よ、主よ』と言う者が~」


大阪には、江戸の昔から「大阪洒落ことば」というものがあるそうです。主に商人たちが使っていたことばで、物事をずばりとは言わず、ユーモアを含ませて、人や自分を戒める。そんな使われ方をしてきました。

 そんな大阪洒落ことばから、二つ紹介したいと思います。一つは、うどん屋のかま、もう一つは、髪結いの正月です。もう一度、言います。うどん屋のかまと髪結いの正月。二つに共通する意味、心は何か。お分かりになるでしょうか。どのような人のことを指しているのか、皆様は想像できますでしょうか。

 うどん屋のかまの中身は、湯だけ。髪結いは正月も忙しく、客の髪を結うだけで過ぎてゆく。ふたつのことばは、言うだけの人を指します。良いこと、正しいことを言うけれども、実践しない人。口先だけの人を揶揄することばでした。

 また、大阪の商人ではありませんが、ある牧師が説教の中で、自分たちの教会がきのこの山にならないようにと語っているのを聞いたことがあります。聖書の教えを聞くだけ、言うだけ。そのような者の集まりにならないようにと言う、自戒のことばです。

 聖書の中にも、言うだけのキリスト教、口先だけの信仰を戒めることばが、多々あります。有名なのは、ヤコブの手紙かもしれません。

 

 ヤコブ2:1417「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

 

 こちらは、大阪洒落ことばとは違い、ヤコブらしくと言うのか、ユーモアは一切なし。具体的で倫理的、痛烈な力で私たちの心に迫ってきます。キリスト教にとって信仰と実践は切り離せない。イエス・キリストを信じる者にとって、聖書の教えの実践は生命線と言うことでしょう。

 私たちが読み進めてきた山上の説教も、数えて42回目。最終盤を迎えました。具体的な教えに関しては、7章の12節で語り終えたイエス様が、教えの実践を繰り返し進める所となっています。

 

 7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」

 

 ロイド・ジョンズと言う説教者が、このことばについて「かってこの世で語られたことばの中で最も厳粛なことば。神の御子ご自身によって語られたことばの中でも、ひと際読む者の襟を正させることばである」と語っています。

 確かに、イエス様を神の御子、救い主であると信じる者にとって、このことばを聞いて心を深く探られない人はいないと思います。誰もが、このことばで自分の生活を省み、襟を正す思いを抱くことでしょう。

 私が神学生の時代、奉仕していた小さな教会に一人のおばあさんがいました。余程の病気でもなければ、礼拝も祈祷会も欠席しない信仰者でした。

祈祷会で一緒になると、おばあさんが様々な祈りの課題を挙げてくれます。息子がしている商売で、近所の人が喜んでくれますように。生活できるだけの金銭が与えられますように。子どもが与えられますように。孫が元気に成長しますように。神様を求める人が教会に足を運びますように。折に触れて、祈りの課題は変わりましたが、いつも変わることなく、毎回おばあさんが挙げていた一つの課題がありました。それは、「嫁を怒らないように、嫁に優しくできますように」と言う願いです。洗礼を受けた時からの願いと話してくれました。

私が「おばあさんでもお嫁さんに大声上げたりすることあるんですか。いつも穏やかで、優しく接しているように思いますが」と言うと、「いやいや、私は生まれつき気が短い、短気者。嫁の行動を見ていて、口に出してはいけないことを出してしまいそうな時がよくあります。いつ心の火山が爆発するかわからないんです。だから、せめて愛は怒らずという教えだけでも実践させてもらいたいと、神様にいつもお願いしています。そのおかげで、これまで何とか嫁と良い関係ですごすことができました」。そう答えてくださったのです。

それを聞いた私は、自分のキリスト教が単なる知識、教養のキリスト教ではないかと感じさせられました。自分どれほど聖書の教えを、その一つでも日々の生活の中で実践しようとしてきたか。実践できるようにと、神様にお願いしてきたか。おばあさんの祈りを聞くたびに、恥ずかしくなったのです。

キリスト教信仰は実践、それも身近な生活における実践であること。ただ「怒るなかれ」と言う一つの教えを実践して、幸せな老年を送っておられる信仰者の姿は、今でも心に残っています。たとえ、何度も聖書を読み、神学を学び、山ほどの知識を積んだとしても、聖書の教えの一つも実践できない頭でっかちのクリスチャンになってはいけない。そう戒められたのです。

マタイの福音書25章によると、やがて来たる最後の審判の時、イエス様が再びこの地上に来られる際、何を問われるのでしょうか。

 

 25:3436「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

 空腹な人に食べ物を与える。渇く人に水を差しだす。眠る家のない人に宿を貸す。裸の人に着る者を着せ、病に苦しむ人を見舞い、牢に閉じ込められた者を慰める。イエス様が私たちにお尋ねになるのは、神様の教えを実践したかどうかなのです。何冊神学の本を読んだか、どれぐらい聖書を知っているか、何回説教をしたかではないのです。聞くだけ、言うだけの山の茸にならぬように。うどん屋のかまにならぬように。私たちも自戒したいと思います。

 それでは、実践に励めばそれでよいのか。目覚ましい行動をなし、成果を上げた人はみな天国に迎えてもらえるのかと言うと、そうではないとイエス様は言われました。またも、私たちを驚かせるイエス様のことばです。

 

 7:22,23「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

 預言即ち聖書の教えを語り、説教する人。悪霊を追い出した人。奇跡を行った人。いずれも、その目覚ましい行いによって、世間の称賛を得ていた人々であったでしょう。それも、主イエスの名によって行動したと念を押されています。それこそ、特等席が用意されていてもおかしくはない人たちと思えます。

 それなのに、イエス様は彼らを全然知らないと言う。不法をなす者と断定し、わたしから離れてゆけと宣言。実に連れない態度をとっています。何故、イエス様はこれほど厳しい態度を示されたのでしょうか。

 二つの理由が考えられます。一つは、彼らが人々への愛からではなく、自分の名声を愛して、行動したからと考えられます。聖書は、神様が私たちの行動の奥にあるもの、心の思い、動機を見ておられると繰り返し教えられています。一例をあげます。

 

 13:13「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 

 異言や預言の賜物。聖書に関する奥深い知識。山を動かすほどの信仰。それは、当時キリスト教会において、最も価値のある賜物と考えられていました。また、持ち物を全部貧しい人に施すこと、尊いことのために自分の命を犠牲にすること。それらの行いは、一般社会でも称賛されたでしょうし、今でも変わらないと思います。

 しかし、そのような素晴らしい賜物、称賛されるべき行いも、人間は自分の名誉や評判のために用い、行い得るし、その心を神様は見ておられるのです。私たちの心に神様への愛、人への愛がないなら、その行いに価値なしと判断を下す。そのような、神様の最終的なさばきの日があることを、聖書は教えているのです。

 私たちも自分の行動を振り返る必要があります。果たして、自分が行った親切のうち何パーセントが、愛からのものなのか。自分の評判や世間体を気にしての善行、あるいは、義務やお返しの思いからの行いがないかどうか。そう考えると、人の目にはどう写ろうとも、私たちの心の奥底までご覧になる神様に評価していただける行いが、本当にあるのかどうか。心もとない思いがしてきます。

 第二に、預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行った人々、それを最終的な審判の日に、イエス様に対して主張するこれらの人々が、自分たちの行いを頼り、誇っているように見えることです。神様の恵みに頼っているようには見えないことです。

 イエス様を信じる者は、すべての罪を赦されます。そればかりか、イエス様の義を受け取ることができると聖書は教えています。私たちには、神様の恵みとしてのイエス様の義があるので、天国に入ることができるのです。

 しかし、イエス様から「離れよ」と言われた人々は、神様の恵みに頼るのではなく、自分たちの行いの正しさ、すばらしさのゆえに、天国に入れると考えています。神様が定めた救いの道とは違う道で天国に入ろう、入れると考えること。それを、イエス様は不法と呼んでいるのでしょう。

 

 エペソ2:89「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

 聖書は、私たちの行いを汚れた衣にたとえています、イエス様の義、正しい行いを汚れのない白い衣にたとえています。自分の行いを頼る人は、イエス様が差し出してくださった白い衣を断って、罪に汚れた衣のまま神の前に行き、堂々と天国に入ろうとする。そんな無礼な人にたとえられるでしょう。自分の行いを頼り、神の恵みを退ける高慢こそ、イエス様が不法と呼んで嫌われた態度、生き方であることを、私たち改めて覚えさせられるのです。

 以上、イエス様の山上の説教の最終盤。実践の勧めを読み終えて、確認しておきたいことが二つあります。

ひとつは、私たち人間は、実に厄介な存在だと言うことです。聖書を読み、聖書の教えを学ぶこと。神様について知ること、理解すること自体は、良いことであり、必要なことです。しかし、聖書について、神様について知るうちに、いつのまにか知識を誇るようになる。

そうかと言って、知識だけではだめだ、実践しなければと考え、実践に励むと、今度は自分の行いや成果を誇るようになる。さらに、知識を誇る者、行いを誇る者を批判して、謙遜の必要を説く者は、誰が一番謙遜かを比べる。自分の謙遜さを誇るようになる。人間が持つ、罪の性質。自分を誇るという罪が、何をしていてもつきまとってくるのです。

そうだとすれば、私たちはどうすればよいのでしょうか。聖書が教える生き方、それは、いつでも、何をしていている時でも、主を誇るという生き方です。今日の聖句です。

 

Ⅰコリント130b31「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」

 

聖書の知識も、神様についての知識も、イエス様が与えてくださる義も、良い行いを求める愛も、その実践も、罪の赦しも、すべてはイエス・キリストの恵みと考え喜ぶこと。これが、主を誇ることです。主を恵み深いお方として誇ることです。

ことばを代えていうなら、もしよい行いができたら、神様の恵みと考え、感謝する。もし、罪や失敗を犯したなら、自分の課題を考え、悔い改める。自分がしたことはできる限り早く忘れ、神様が与えてくださった恵みは忘れずに、賛美する。自分がしたことよりも、神様がしてくださったことに心を向ける。これが、自分を誇らず、主を誇る生き方です。

誇る者は主を誇れ。私たち皆が自分を誇らず、主を誇る教会となる。そのような歩みを進めてゆきたいと思います。

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