2017年10月22日日曜日

ガラテヤ(1)「唯一の神」ガラテヤ1:1~10


時々耐えられないほど悲しい連絡が来ます。東京にいた時の教会のメンバーである一人の女性から四月にこういうメールが私の携帯に届きました。「ジョーさん、ユウスケは昨夜帰ってこなかった。今日も、何回も電話かけても出ないのよ」という連絡ですユウスケと言うのは女性のご主人です。

数日後、私達の最も恐れていたことが現実のものとなりました。ユウスケさんは自分の家族を見捨てたということが明確になりました。奥さんのヨシ子さんと3人のお子さんは言うまでもな大きなショックを受けて、苦しみ悶えて、その瞬間に彼女たちの人生が180度変わりました。

一世紀にガラテヤの諸教会で同じようなことが起きました。その教会で起きたのは家族を見捨てることではなく、キリスト教の根本的な教えを見捨てる問題でした。この教えを見捨てることは、イエス様自身を見捨てることでした

現代の私達も、家族のこと、奥さんのこと、旦那さんのこと見捨てないかもしれないけれども、私達みんな本当の福音を見捨てて、他の福音に逃げることあると思います。偽りの福音を信じれば、罪を起こすことになり、人生に悩むことになるでしょう。

もしそうならば、ガラテヤの諸教会の人たちはなぜ愛するイエス様の福音を捨て、異なる福音に移って行ったのでしょうか。


まず、ガラテヤ教会の状態をもう少し詳しく説明します。使徒のパウロは、主な伝道旅行を三回行いました。最初の旅ガラテヤという地域には五つの教会を開拓しました。この地域はどこにあるかというと、現代言えばトルコの南の方にあります。パウロはその諸教会を巡回伝道しながら、教会のメンバーを守ったり育たりするために手紙を送りました。ガラテヤ人への手紙やピリピ人への手紙などがこういう手紙です。

旧約聖書の時代、神の民はユダヤ人だったんです。しかし、はじめから神様の恵み深い計画、ユダヤ人を通して、全世界の全ての部族が祝福されることでした(創世記 12:3)。

この素晴らしい計画は、イエス様の登場と教えにしたがってはっきり理解できます。パウロによると、ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません、主イエスの御名を呼び求めるものはみな救われるのです(ローマ 10:12-13)。つまり、神の民になるのに必要なのは、ユダヤ教徒になることではなく、イエス様信じることだけです。当時、ガラテヤの教会員はほぼ異邦人であり、ユダヤ教の背景がなくても、パウロが教えてくれた通り、キストを信じればクリスチャンになることができました

しかし、ガラテヤの諸教会では何が起こったかというと、パウロが去った後、ユダヤ教徒の偽教師がこの教会に忍び込んでいて、クリスチャンになる前にユダヤ教徒になるべきだと教えました。例えば、割礼や豚などの汚れた動物を食べないといういう律法を守らなければならないということです。彼らは、割礼を中心にしていたので、「割礼派」と呼ばれました。パウロが驚いたことに、ガラテヤの教会員はこの偽教師の教え信じてしまいました。

果たして、ガラテヤの教会員は「割礼派」にかき乱されて、パウロの教えを捨て、異なる福音を信じてしまいました。要するに、問題なのは、ガラテヤの教会員周りの人たちに合わせてしまうことでした。

この「見捨てる」(6節)という言葉は、新約聖書の元々の言語のギリシャ語でどういう意味かというと「裏切り者」とか「反逆者」という意味です。なので、異なる福音を信じることは本当の福音を裏切ると言う意味だと言えます。これが、パウロはガラテヤ人に対して訴えていることです。他人を喜ばせようと努めて、敵の生活信仰に合わせてしまいました。

周りの人に合わせてしまうことは異なる福音に移って行く理由の一つではないかと思います。イエス様より、パウロの教えより、周りの人に合わせることを大切にしていれば、真理の福音を自然に見捨てるものです。現代の私達も同じことをする誘惑があります。この間、学生時代の同級生で同じサークルに入っていたエノ君と電話で話しました。7年ぶりだったんです。喜んで生活の近況を分かち合っているうちに、エノ君は同じサークルの友達がひどい病気であることを知らせてくれました。私はちょうどその瞬間に祈った方が良いと考えました。神様による希望を述べ伝えるチャンスだと考えたのです。しかし、何も言わずに私は話を続けました。エノ君に神様のことを話すと、私達の関係が悪くなってしまうことを恐れてしまったのです。

パウロの行為は全く違いました。強い敵の「割礼派」向かい、彼らに合わせようとはしませんでした。かえて、彼らを非難して、神様を喜ばせようとしました(10節)。これがキリストのしもべとしての正しい姿勢なのです。パウロは全然折れませんでした。なぜかというと、福音の力にかかわるからです。すなわち、神様の目からすると、誰かが割礼や、旧約聖書の律法や、自分の良い行いなどによって救いをもらえるなら、恵みによる真理の福音が正しくないという状況になってしまうと考えたからです

ですから、この手紙の冒頭ではパウロの経歴を伝えることが重要でした。パウロは蘇られたイエス・キリスト自身から直接この福音もこの使命も与えられました(1節)。天の父なる神様はイエス・キリストを死者の中からよみがえらせました。四節では「今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました」とあります。ですので、パウロは今の時代から救い出されたことに確信があって今の悪の時代の人々に合わせることはできないと理解していました

こうして、クリスチャンはどういう者かというと、律法完全に従うものではなく、失敗しないものでなく、罪を絶対犯さない者でなく、毎週礼拝に出席する者でもありません。もちろん、クリスチャンはこういうことをやっていますが、神の民である権利を持てるのは自分良い行いをするかどうかにかかわらず、ただイエス様に救い出されたからです。

なぜ愛するイエス様の福音を見捨てるかというと、たまにクリスチャンとしてこの時代につまはじきされるより、迎合すれば楽だからです。しかしイエス様がこの悪の時代から私達クリスチャンを救い出してくださったので、周りに迎合しないようにいきましょう。


 しかも、もう一つ異なる福音に移って行く誘惑があります。この点は非常に気を配らないといけません。このガラテヤ教会の話は現代の私達の人生に全然関係なさそうに見えるかもしれませんしかし、非常に大切な問題です。この戦いの中には、私達と神様の関係の根本がかかわっています。普段手紙を書く際には冒頭パウロは宛先の教会の人たちを褒めたり、励ましたりして、「聖徒たち」と呼ぶことも珍しくありません。しかし、この手紙では聖徒と呼ばないで、代わりに強く責めています。その理由はパウロの教えを見捨てたからです。

 信仰の上に割礼や律法を付け加えることは大したことではないという方もいるかもしれませんが、使徒パウロによると、違う宗教に従うことに相当します。福音の中身が全く変わってしまいます。なぜならば、この異なる福音を信じれば、神様の働きに頼らなくて自分自身の良い行いに頼る宗教になるからです。8節、9節によると、こいう宗教に相応しいのは神樣の祝福ではなくて、神様の呪いです。パウロは「割礼派」の教えがどんなにひどいものかを強調しています。自分の行いに頼る信仰生活が大変なものになると注意しているのです。

 現社会は世界の様々な宗教は山のようなものだという考え方が主流ではないかと思います。神様は山の頂上にあり、世界の色々な宗教は同じ頂上へ辿り着くための道です。ある宗教は別の宗教道は違うけれど、目標は一緒という見方はどこの国に行っても人気があります。しかし、パウロの言葉正しければ、そういう哲学本当のはずはありません。神様の呪いへ導く道もあるし、神様の祝福への道もあります。この箇所におけるパウロの厳しい警告によると、自分の良い行いに頼る宗教は永遠の死に導かれるというものです。真理の福音違います。真理の福音はこうです。イエス様は罪を知らないのに、私達の代わりに神に罪とされました。私たちは恵みのゆえに、 信仰によって救われたのです。 それは、 自分自身から出たことではなく、 神からの賜物です。5節によると、これは世々限りない神の栄光のためであります。私達は自分の良い行いに頼ると自分の栄光のほうを褒めたたえてしまいます。目標も道も違います。

 クリスチャンであっても、この誘惑のワナに陥ることがあります。もし、他人に対して自分がどういう態度をとることが多いのかを調べると、この誘惑の強さが分かるようになると思います。

私の人生から一つの例を捧げます。私と妻の夢はこれからずっと日本で教会で働くことです。日本で生活できるならもちろん私達も子供も日本語の能力が必要ですよね。2015年日本に着いてから数ヶ月長女は日本語できるようになるはいくつかの問題がありました。長女だけではなく、家族みんなが悩んでいました。告白するのは恥ずかしいですが、私の態度は愛と忍耐ではなく、主に怒りといらいらでした。は非常に強いストレスを感じていて、家族に対して愛をもって接しなかった理由は、私たちの関係の根本は行いであると感じていたからです。自分の他人に対しての態度を振り返ると、自分は神様とどういうつながりがあるかがよくわかります表に出てきた罪は怒りだったんですが、根っこの罪は自慢でした。もしイエス様の贖いよる無条件の愛を本当にわかっていれば、私たちは他人にも同じように接することができるようになります。私たちは神様の恵みに頼らず、自分の良い行いに頼ると二つの谷のどちらかに陥ることになります。成功すれば自慢の谷に陥って、失敗すれば絶望の谷に、という傾向を避けられないと思います。このワナを逃れる方法は一つしかありません。パウロの福音を信じて、神様の恵みに信頼することです。

 私たち異なる福音に移って行く理由の一つは、罪人である私たちは毎日良い行いのほうに信頼する誘惑があるからです。ですが、私たちクリスチャン正しいとされるのは、信仰によるのです。ガラテヤ章11節にはこう書いてあります「義人は信仰によって生きる」。ガラテヤ教会の「割礼派」のように、自分の良い行いに頼ってはならないでしょう。ガラテヤ2章16節には 「人は律法の行いによっては義と認められず、 ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められ」とあります。


 ガラテヤ教会の人々のように私たちは周りの人たちに合わせてしまったり、または神様の恵みの代わりに自分の良い行いに頼ったりして、異なる福音に移って行く危険があります。様々な誘惑があって、様々な偽りの福音があるけれど、真理の福音は一つしかありません。福音の漢字を見ると(元々のギリシャ語も一緒で)、意味は「いい音・いい知らせ」です。このいい知らせは何かというと、罪人である私たちを救い出すことは神様の喜びであり、罪人でなければ、神様の恵みは必要ないということです。自分の力で自分自身を清めて行く人は、自分を誇るか、人を裁くようになってしまいます。これが偽りの福音なんです。

 私たちは弱い者で、クリスチャンであることを周りに内緒にしたり、自分の家族や教会生活を犠牲にして、業績に専念したりすることもあります。たまに、教会の人、隣人、親戚失敗すると、自分のほうが絶対良いと心の中で自己評価 することもあります。正直にいうと努力しても、こういう行動はやめられないのですイエス様は違います。主イエスは強い、主イエスは心優しく、 へりくだっているからイエス様の良い行いに信頼すれば神様義と認められます。イエス様のみに信頼するとき、神様の恵み、神様の平安が体験できます。これが私たちの希望、唯一の福音です。

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