今日は受難節の礼拝です。受難節は復活祭、イースター礼拝の前の46日間を指しています。この間、キリスト教会では伝統的にイエス・キリストが十字架で受けた苦難、苦しみについて考え、イースターに備えてきました。ですから、今年のイースター礼拝は来週ですから、正確に言えば、今日は受難節最後の礼拝と言えるでしょうか。
私たちクリスチャンはつねにイエス様の十字架について思い巡らす者、十字架の意味について考えるべき者です。とは言え、非常に忙しい時代にあって、一つのことに集中して思いを巡らす時間はなかなか取れるものではありません。せめて、今日から始まる一週間はイエス様の受けた苦しみは何のためであったのか。私たち、いつもより集中して考えることができたらと思います。
今週金曜日には、イエス様が十字架にかかられた日にちなんで聖餐礼拝を行います。皆様がより深く十字架の苦しみを思い、イエス様を身近な存在として感じるための時間として、用いていただけたらと願っています。
ところで、十字架をテーマにした讃美歌は沢山ありますが、その中の一つに聖歌の396番「十字架のかげに」があります。一番には「十字架のかげにいずみわきて いかなる罪もきよめつくす。おらせたまえ このみを主よ 十字架のかげにとこしえまで」と歌われています。私はここにある「十字架のかげにいずみわく」と言うことばが好きです。
十字架の元には、神様の恵みと言う汲めども尽きせぬいずみがある。コップの水は飲んだら空っぽです。しかし、神様の恵みはコップの水ではありません。いずみから涌いてくる水です。飲んでも飲んでも尽きることがないものです。この泉の豊かさに、どれほど多くの人が心潤され、生き返る思いを味わってきたことか。
今日の礼拝も、イエス様の十字架と言う泉から心潤される水、いのちの水を飲むことができるようにと願い、お話を進めてゆきたいと思います。
紀元30年頃、春を迎えたユダヤの国。ある金曜日の午前9時。都エルサレムは異様な興奮で包まれていました。翌日に控えたユダヤ人にとって最大の祭り、過ぎ越しの祭りを祝うため、都はごった返していましたが、人々の心を捉えていたのはお祭りではなく、一人の男の十字架刑です。
処刑の場所はゴルゴダ。当時その場所は「どくろ」と呼ばれ、普段は人が近づくような所ではありませんでした。しかし、この日に限り、大勢の人が集まってきました。それは、一時は群衆から崇められたイエス様、他方ユダヤ教の指導者からは敵とみなされたイエス様が十字架で処刑されることを知ったからです。
この時、イエス様は直前に受けた鞭打ちによる痛みと出血、喉の渇きに悩み、すでに体は力を失っていました。聖書には、イエス様が十字架の木を背負うことができずに倒れた為、代わりの者が木を背負ったと記されています。そんな状態のまま十字架に釘づけにされたのですから、その痛みがどれ程イエス様の体と心から力を奪っていったことか。私たちは容易に想像することができます。
そして、この時十字架の周りには、様々な人たちが集まってきました。人々はイエス様のことをどう思ったのでしょうか。イエス様に何を言い、どう接したのでしょうか。先ずは、イエス様とともに十字架につけられた二人の犯罪人です。
23:32、33「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」
当時、普通のローマ市民は罪を犯しても十字架の刑を受けることはありませんでした。十字架刑に処されたのは、余程酷い罪を犯した犯罪者で市民以外の者と言われます。最初はこの様な二人が、二人ともイエス様を罵っていたとマタイの福音書には記されています。
マタイ27:44「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」
「同じ様に」と言うのは、二人が他の人々と同じく、「お前が本当に神の子なら、十字架から降りて、自分を救ってみろ」とののしったことを物語っています悪事を尽くしてきた二人の犯罪人。彼らの人生に残された時間はわずかです。それなのに、二人は貴重な残りの時間を、これまでの歩みを悔いるどころか、人をののしるために用いたのです。それも、自分たちと同じ苦しい境遇にあるイエス様を、人々と同じ側に立ち虐めると言う身勝手さです。
次は、イエス様を十字架につけた後、死を見届けるためそこにいたローマの兵士たちです。彼らはくじ引きに夢中になっていました。
ルカ23:34b「…彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
十字架の囚人が身に着けていた着物を貰う。それは、処刑を執行した兵士に与えられる報酬です。しかし、息もつげずに苦しむ人の体から着物を脱がせ、それを分配するためくじ引きに興じるというあわれみのなさはどうでしょう。彼らはイエス様の苦しみに無関心であるように見えます。イエス様をまるで物の様に扱っています。
さらに、兵士たちは残酷です。くじ引きに夢中になっていた彼らは、周りの騒ぎに気がつくと、自分たちも一緒にとばかり、嘲る者の仲間に入りました。
ルカ23:36-38「兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄ってきて、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え。』と言った。『これはユダヤ人の王。』と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」
彼らは「これはユダヤ人の王。と書いた札」即ち罪状書きを確認したうえで、「もしお前が本当にユダヤの王なら、ユダヤの国を救うことは無理でも、自分のことぐらい救ってみたらどうだ」と、あざ笑いました。弱い者を踏みにじる残酷な態度です。
イエス様に差し出されたぶどう酒も、彼らのあわれみを示すものではありません。確かに、ぶどう酒は一時的に肉体の痛みを和らげ、渇きを癒しました。しかし、その後には、さらに激しい痛みと渇きをもたらす副作用があったのです。それを知っていた兵士たちが、さも親切そうに差し出す姿が目に浮かぶところです。
三番目は、民衆です。この中には、つい昨日までイエス様をユダヤの王と思い、自分たちをローマの支配から解放してくれると期待していた者が大勢混じっていました。
ルカ23:35a「民衆はそばに立って眺めていた。」
「ただ眺めていた」だけの彼らは善人だったでしょうか。どうも、違ったようです。人々が眺めていたのは、自分たちの期待を裏切り、十字架上に苦しむイエス様を嘲るためでした。他の聖書には、民衆たちが「あなたが救い主なら、十字架から降りてみろ」とイエス様に向かい、嘲りのことばを浴びせたと書かれています。
彼らは、二人の犯罪人の様に、酷い人生を送ってきたわけではありません。兵士のように、イエス様を直接十字架に釘づけたわけではありません。ユダヤ教の指導者たちのように、イエス様を敵視してきた訳でもありません。ただただ、自分たちの期待を裏切ったイエス様に腹が立ち、王と崇めていたイエス様を責めているのです。
最後に、「イエスを十字架につけよ」と裁判で主張し続けてきたユダヤ教指導者たちは、してやったり。イエス様に対し勝ち誇り、あざ笑っています。
ルカ23:35b「…指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』」
イエス様が十字架から降りてこられないと分かった上で、「もし、お前が神から遣わされたキリスト救い主だというなら、自分を救ってみろ」と言い放った時、彼らは良い気分を味わっていたかもしれません。目の上のたん瘤、邪魔者だったイエス様を卑しめることで、溜飲を下げることができたからです。
自分たちの罪は横において、イエス様をののしる二人の犯罪人。イエス様の苦しみにはてんで無関心、くじ引きに興じていた兵士たち。自分たちの願い通りに行動しなかったことに失望し、期待を裏切ったイエス様を責めた群衆。邪魔者だったイエス様を十字架につけ、思いのままあざ笑い優越感を感じていたであろう指導者たち。
イエス・キリストの十字架の場面には、人間がどんなに邪悪な行いをするものか、人間の罪がいかに深いものかが示されています。旧約聖書のエレミヤ書には、私たちは自分の罪の深さを知ることも、直すこともできないとあります。
エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」
十字架上の犯罪人も、兵士たちも、群衆も、宗教指導者たちも、決して私たちにとって他人ではないと思います。私たちは、自分の罪は棚上げにしておいて、人をののしったことはないでしょうか。人の苦しみを思いやることなく、自分の利益のことばかり考えて行動したことはないでしょうか。相手が自分の願い通りに行動しないからと言う理由で怒りを爆発。相手を責めたことはないでしょうか。邪魔に感じていた人が弱り果てているのを見て、心の中で優越感を覚えたことはないでしょうか。自分の中に、こんな邪悪な心があったのかと感じたことはないでしょうか。
このような犯罪人、兵士、群衆、宗教指導者、そして私たちに対しイエス様は何をされたのか。それは、天の父に対して祈ることでした。
ルカ23:24a「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。』…」
元のことばを見ますと、イエス様は祈りをささげ続けたことがわかります。犯罪人たちがののしった時も、兵士が着物をはぎ取った時も、群衆がご自分に怒りを向け責めた時も、宗教指導者があざ笑った時も、イエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」と祈り続けたと言うのです。
皆様に考えてほしいことがあります。もし、このイエス様の様な状況に自分が置かれたら、何を思うでしょうか。神様に対して何を祈るでしょうか。
この場面、イエス様は非常に苦しい状況にありました。肉体的な痛み、心をくじくような人々の行動やことばを浴びせられていたのです。それにも関わらず、イエス様は天の父に対して、「わたしをこの様な苦しみから救い出してください」とは祈っていません。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と祈り続けたのです。
イエス様の関心はご自分のことではありませんでした。イエス様の心はご自分を苦しめる者の一人一人に向けられ、彼らの罪の赦しこそイエス様最大の関心だったのです。だからこそ、残されたわずかな力を振り絞って、イエス様は十字架にとどまり、罪人のために祈り続けたのです。
しかし、イエス様の祈りが周りの誰にも届かず、虚しく消えてゆくのかと思われたその瞬間です。二人の犯罪人の内のひとりがイエス様の全身全霊の愛を受け取ったのでしょう。その心が新たにされ、180度イエス様に対する態度が変えられました。
23:39~43「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
イエス様が御国の位につくとは、イエス様が神の国の王救い主であることをこの人が信じたことを示しています。「私を思い出してください」は、この人が自分の罪を認め、罪人の自分をあわれみ、救ってくださるように願うことばです。さっきまで、罵りを口にしていた者の心が一変、イエス様を神の子救い主と受け入れたのです。そして、イエス様は「あなたは今日、わたしとともにパラダイス、天国にいます」と即座に約束し、祝福されました。
今日の個所を読み終え、最後に確認したいと思います。十字架の上で罪の贖いを遂げるその時、イエス様の心は救いがたい罪を持つ私たち一人一人に向けられていました。皆様はこのことを信じるでしょうか。十字架の上で現されたイエス様の愛は、罪で固くなった私たちの心を癒し、造り変える力をもっていました。皆様には、どんな時も神様に愛されていると言う平安があるでしょうか。罪を離れ、イエス・キリストを信頼し、従ってゆく思いが、心の中に生まれ、成長しているでしょうか。
私たち皆が十字架のもとにある神様の恵み、イエス・キリストの愛と言う泉から、命の水を汲み続ける歩み、続けてゆきたいと思います。今日の聖句です。
Ⅰペテロ2:24 「キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
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