2017年4月16日日曜日

イースター礼拝コリント人への手紙Ⅰ15章20~22節「初穂として」


AD30年の4月7日、金曜日と考えられています。私たちの救い主、イエス・キリストが十字架にかかり死なれました。約三年にわたり、ご自身が神の子であり、約束の救い主であることを示し続けられたイエス。その結果、当時の宗教家のリーダーたちの妬みを買い、扇動された群衆たちの叫びと、不正な裁判によって、十字架につけられます。罪人を救いに来られた方を、罪人が殺してしまう。万事休す。一巻の終わり。救いの道は絶たれたと思われる絶望的な事件。

ところが、三日目の朝、日曜日にイエス・キリストが復活されました。ご自身、約束の救い主であることの最大のしるしと言われていた復活です。この復活によって、イエスの十字架の死が、ただの人間の死ではなかったことが明らかになります。聖書が語る通り、イエスの死は、罪人に対する罰を身代わりに受けたもの。人々が十字架につけたのですが、それは同時に、イエス様ご自身が罪人を救うために命を捨てる歩みであったこと。その上、その死は死で終わらず、死に打ち勝たれたことが、示されたのです。このイエス・キリストを私の救い主と信じる者。十字架での死と復活が、私のための御業であったと信じる者は、罪から救われるのです。

 救い主が死に、罪人が救われる道は閉ざされた。もう終わり、打つ手なし、絶体絶命と思われたところからの大逆転。新時代の幕開けとなったキリストの復活を、この聖日、皆様とともに祝います。皆様とともに礼拝が出来ることを大変嬉しく思います。今一度、約二千年前に主イエスが復活されたことが、今の私たちにとってどのような意味があるのか。どれ程大きな恵みであるのか。ともに味わうことが出来るようにと願っています。

 

 開きます聖書箇所は、パウロがコリントの教会に宛てた手紙。今朝はこの箇所を中心に、主イエスの復活の意味を確認します。

コリント人への手紙は、様々なテーマが扱われていますが、今日開く十五章は、特に復活がテーマでした。パウロは、かなりの分量を割いて、キリストの復活について語るのですが、その背景にあるのは、コリントの教会内に、死者の復活はないと言っている人たちがいたからです。

 Ⅰコリント15章12節

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

 

 コリント教会に集う人々の中に、「死者の復活はない」と言っている人がいました。これは、どういう意味でしょうか。

 イエスは約束の救い主だと信じている。イエスを救い主と信じれば、罪から救われるというのは信じる。しかし、イエスが復活したというのは信じられない。それが本当に起こった出来事だとは信じられないということでしょうか。

 それとも、イエスが復活したことは信じる。神の子であり、約束の救い主であるから、イエスご自身が復活されたことは、ありうること。しかし、イエス以外の人間が復活することはありえない。自分自身含め、人間は死んだら終わり。死者が復活することはない、ということでしょうか。

 コリント教会の中にいた、「死者の復活はない」と言っている人が、キリストの復活自体を信じられないと言っているのか。それとも、キリストの復活は信じるけれども、私たち人間の復活は信じられないと言っているのか。どちらなのか正確には分かりませんが、パウロはどちらの方向にも目を向けて、十五章を記しています。つまり、キリストの復活は、実際に起った出来事であることを繰り返し確認し、それと同時に、その復活の意味を確認するのです。

 

 まずはイエス様の復活が実際に起った出来事であると確認します。

 Ⅰコリント15章3節~8節

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

 

 聖書の中でも極めて有名な箇所。この箇所の内容は、キリスト教の最も早い段階で、信条としてキリストを信じる者たちに受け継がれた内容と考えられています。

「福音」、「良き知らせ」の中心、最も大切なこととして、第一にキリストの十字架の死、第二に埋葬、第三に復活、第四が復活したイエスの登場という、四つのこと。とはいえ、死と埋葬、復活と登場と見れば、福音の中心はキリストの死と復活という二つの出来事と言えます。キリストの死と復活、どちらも大事なのですが、ここでパウロは、特に復活が事実であることを、しつこく主張しているように感じます。

 復活は聖書が示していたこと。ケパ(ペテロ)も、十二弟子も、ヤコブも、使徒も、何よりパウロ自身も復活したイエス様に会っている。五百人以上の者が、復活したイエス様に会っている。この手紙がコリント教会に届けられた当時は、多くの生き証人に会い確認することが出来る状況でした。

 

 なぜ、ここまで繰り返し、復活が事実であると主張する必要があったのでしょうか。

それだけ、人間にとって復活は信じられない、信じ難いことだからです。復活が事実であるとは思えないというのは、何もコリント教会だけのことではありませんでした。

 そもそも、イエス様は十字架にかかる前、ご自身の復活を繰り返し宣言していました。三日の後と、日にちまで指定していました。その宣言は、主イエスに敵対する者たちも把握していた程です。(マタイ27章63節)

ところが、その三日目、キリストの復活を待っていた弟子たちは一人もいませんでした。誰一人、復活を信じていなかったのです。弟子たちは、イエスが復活したという証言を聞いても、信じられません。(ルカ24章11節、ヨハネ20章25節)復活したイエス様に出会った時も、最初は復活を信じられませんでした。(ルカ24章37節)さらに言うと、復活したイエス様に会っても、それでも疑いをやめなかった者たちもいました。(マタイ28章17節)

 キリストの弟子の姿からも、コリント教会の中にいた人の姿からも、復活を信じることは難しいことが分かります。パウロが力を入れて説明すればするほど、それだけキリストの復活を事実と受け入れることが難しいのだと分かります。

 

 それでも、キリストの復活というのは、信じるべきこと。「信じられないなら、まあ良いです」というものではない。「キリストが身代わりに十字架で死なれたことを信じれば、キリストの復活は信じなくても良い」というものではない。キリストが復活されたことは、救いに必要な信じるべきことでした。

 いかがでしょうか。皆様は、キリストの復活を歴史的事実と受け止めているでしょうか。

 

 パウロはこのように、キリストの復活が歴史的な事実であることを繰り返し告げ、続いて、復活の意味について確認します。

 Ⅰコリント15章20節~22節

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

 

 主イエスの復活は、どのような意味があるのか。その意味について、パウロはここでアダムによって死が入ったことと対比して、キリストの復活の意味を説明します。

 世界が造られた当初、世界は非常に良かったと言われています。最初の人、アダムもエバも非常に良い状態。人は死なない存在、死と無関係でした。今の私たちは、死ぬのが当たり前。死なない状態をイメージすることすら出来ない程、死は身近です。

 非常に良い状態であったアダムが、神様が禁じた唯一のこと、善悪の知識の木の実を食べます。それをしたら死ぬと言われたことをしてしまった。その結果、死に支配さえた存在となります。神を神と思わず、自分中心に生きる歩みとなる。肉体が死ぬ存在となっただけでなく、生き方自体が堕落してしまったのです。

 この死の影響は、アダムだけに留まりませんでした。アダムから生まれ出る者、つまり全人類に、この死の影響が広がりました。今の私たちが、死ぬのが当たり前、死が身近であるのは、私たちが死に支配された状態のアダムから生まれ出たからです。このことを、パウロは「死がひとりの人を通して来た」とか「アダムにあってすべての人が死んでいる」と言っています。

 

 そして、この最初の人の状態が、それに続く全ての人に影響するという原理が、キリストと、キリストを信じる者に当てはまるというのが、ここで宣言されていることです。

 死に支配された私たちを、その支配から助け出すために救い主が来られた。その救い主がしたことは一度死なれて、復活された。つまり死に打ち勝たれた、ということです。そして、この死に打ち勝つということは、イエス様にだけ当てはまるのではなく、主イエスを救い主と信じる者、キリストと一体となる者にも当てはまるというのが、ここで教えられていることです。

 聖書の中には、蘇りを経験した人たちがいます。ラザロや、ヤイロの娘、ナインという町にいた寡の息子を、イエス様は蘇らせました。しかし、その人たちの蘇りは、その人たちだけに当てはまること。その人たちが蘇ったから、私たちも同様に蘇るとは教えられていません。(また、一度蘇りを経験したこれらの人は、その後、再度死ぬことになりました。この点でキリストの復活と決定的に異なります。)

しかし、キリストの復活は、キリストにだけ起こることではなく、キリストを信じる者にも起こるというのです。このことをパウロは、「死者の復活もひとりの人を通して来た」とか、「キリストによってすべての人が生かされる」と言っているのです。

 

 今の私たちからすれば約二千年前の出来事。しかし、キリストの復活は、今の私たちにも関係があるというのです。主イエスを私の救い主と信じる者は、主イエスが死に打ち勝たれたように、死の支配から抜け出すことになる。キリストが復活したように、キリストを信じる者も復活する。キリストの復活には、最初の人の状態が、それに続く全ての人に影響するという原理が、当てはまるのだと教えられているのです。

 いかがでしょうか。キリストの復活の意味を、このようなものとして受けてきたでしょうか。

 

 ところで、パウロはキリストの復活の意味を説明する時に、私たちからすると、意味が分かりづらい表現を用いています。「眠った者(死んだ者)の初穂としてよみがえられた。」「初穂」というたとえ。キリストは眠った者の初穂としてよみがえられた、とはどういう意味でしょうか。

キリストが十字架で死なれ、復活された時。ユダヤ人は、過ぎ越しの祭(それに続く初穂の祭)を行っていました。これは調度、初物の収穫の時期で、この時神殿の祭壇には、収穫の初穂である麦がささげられていました。

なぜ、収穫の初穂がささげられたのか。それは、収穫の初穂が、それから収穫される全ての麦の代表であり、シンボルであると聖書で教えられていたからです。神の民は、神様の定めた通り、収穫の初穂をささげることで、収穫の全ては神様のものであることを示しました。初穂をささげるとは、収穫の最初のものをささげるという意味だけでなく、収穫の全てをささげることを意味していました。

 初穂が収穫全部を代表するのと同様に、キリストの復活はキリストに連なる者を代表する。初穂がささげられれば、収穫全てがささげられたとされるように、キリストが復活すれば、キリストにつらなる全ての者も復活する。これが、パウロが言いたかったことです。

 いかがでしょうか。よく分かるたとえでしょうか。説明されても分かりづらいたとえでしょうか。

 現代の日本に住む私たちにとって、初穂のたとえが分かりやすいかどうかはともかくとしまして、私個人としてはこのようなパウロの表現はとても好きです。何としてでも、キリストの復活の意味を知ってもらいたいという熱意が溢れているように感じます。「キリストは眠った者の初穂としてよみがえられた。」今朝は、この言葉を前に、その意味だけでなく、何としてでもその意味を知ってもらいたい、信じてもらいたいというパウロの熱意、神様の熱意を受け取りたいと思います。

 


一般的に言えば、キリストの復活を信じられることも、その意味を信じられることも、大変難しいことではないかと思います。もし、自分が信じることが出来ているとしたら(ここに集いし多くの方は信じていると思いますが)、それは本当に大きな恵みを頂いていることになります。私たち皆で、キリストの復活を通して、どれ程大きな恵みを頂いているのか味わうことで、キリストの復活をお祝いしたいと思います。

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