私たち夫婦は結婚して32年目になります。私たちは7年間交際をして結婚に導かれましたので、妻に関して大抵のことは知っているつもりでした。しかし、結婚して見ないと分からないことと言うのはあるものです。
妻に関し、結婚して驚かされた一つのことは、彼女がいつでも、どこでも、どんな状況でもすぐ眠れると言う特技を持っていることです。私は起きているべき時に眠ってしまい、眠るべき時に眠れない。どちらかと言うとそんな傾向がありましたが、妻は寝ようと思えば、本当にいつでも、どこでも、どんな状況でもすーと眠りに落ちてゆく。体を揺すっても起きない。熟睡を続けられる。驚異的な眠りの賜物です。
夫婦喧嘩をした時など、私の方は心がモヤモヤしていてちっとも寝つかれないのに、妻は隣で「お休み」と一言いうと、次の瞬間には寝入っている。その堂々とした熟睡ぶりが羨ましいやら、憎たらしいやら。私の方は心がモヤモヤからイライラに変わり、ますます目がさえて眠れなかったと言うこともありました。皆様は布団に入ったらすぐ眠れるタイプでしょうか。それとも、なかなか寝付けないタイプでしょうか。
最近の調査によると、日本人の成人の5人に1人、高齢者では3人に1人は不眠症に悩んでいると言われます。その原因は過労、加齢、夜遅くまで仕事やインターネットをしている夜型の生活習慣等がありますが、最も多いのは心配事、思い煩い、ストレスなのだそうです。
学生時代は試験や進学、友人との関係。青年時代は恋愛や結婚、職業の選択。結婚したらしたで仕事や収入、住まいや子どもの教育、職場や隣近所との付き合い。高齢者になると、健康や能力の衰え、孤独や生きがいなど。それぞれの年代に課題や悩みがあり、私たちの人生に、心配事の種は尽きないと言えるでしょう。
しかし、心配事で眠れないのは現代人に限らない様で、旧約聖書の詩篇には、神様に「安らかに眠れるように」と祈る信仰者が登場してきます。また、心配事や思い煩いについては、イエス様が今日の個所で教えているように、昔から人々が悩まされてきた問題だったのです。
私が礼拝で説教をする際、基本的に取りあげてきた山上の説教、イエス様の説教の中でも最も有名な説教も中盤の6章に入りました。
先回は地上の宝について、イエス様の教えを学びましたが、今日もその続きとなります。地上の宝と言うのは、神様が私たちに与えて下さった生活に必要なもの、様々な物質、金銭、能力、健康な体などを指します。先回は、それらの宝を専ら自分のために蓄えたり、使ったりする生き方の危険なことが教えられました。それに対して、今日の個所は、地上の宝について私たちが心配しすぎること思い煩うことが、どれ程無益で愚かなことか。それを、イエス様がズバリ示しておられます。
6:25「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」
イエス様はここで「将来のことは何も考えるな」と言っている訳ではありません。無為と怠惰を勧めている訳ではないのです。むしろ、将来についてよく考えること、計画を立てること、必要な備えをすること、勤勉に働くことは、聖書が勧めるところでした。ここでイエス様が戒めている「心配」とは、くよくよと心配すること、思い煩うことです。
ある育児雑誌に、こんな新米パパとママの漫画が載っていました。赤ちゃんがミルクを飲まないと「栄養失調にならないか」と心配する。丸々と太ってくると「肥満児ではないか」と不安になる。うつぶせに寝かせたら「窒息しないだろうか」、仰向けにしたらしたで「毛布で息ができなくならないか」と何度ものぞき込む。赤ちゃんを叱ると「性格が歪まないか」と心配し、叱らないと「我儘にならないか」と不安に思う。どちらにしても、思い煩うのが新米のパパとママと言う訳です。
私の知人に大の飛行機嫌いがいます。仕事で海外出張を命じられる時以外は、飛行機に乗らないと言う人です。彼は2回飛行機に乗ったことがありますが、いずれの場合も、空中で飛行機が揺れると、足の下には何もないことを思い出し、不安になったそうです。そうなると、「この飛行機はちゃんと整備されているのか」「乱気流に巻き込まれたらどうしよう」「パイロットは精神的に安定しているのか」など、次から次へと心配になり、飛行機から降りたくてたまらなくなったと言います。確かに、そこまで心配した経験があれば、飛行機に乗りたくないと言う気持ちも分かります。
思い煩いは、読んで字の如く思い、つまり心の病気です。心が心配ごとに占領された状態、私たちの心や行動が周りの状況に支配された状態です。新米パパとママの赤ちゃんへの思い煩いは微笑ましいとも言えます。飛行機嫌いの人は飛行機に乗らなければ済むことでしょう。
しかし、問題が経済のこと、仕事のこと、人間関係のこと、健康のことなど生活に直結するようなことについての思い煩いは、私たちの人生に大きな影響を及ぼすことになります。思い煩う時、私たちは学びや仕事、礼拝などに集中することができません。心ここにあらずで、何事も楽しむことができません。思い煩いが心や体の病の原因となり、ついには死に至る場合もあるのですから、影響は実に深刻です。
イエス様はその様な現実を良く知ったうえで、私たちが思い煩わなくてもよい理由、思い煩うべきではない理由を、説明されます。
6:26、27「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
大空を飛ぶ鳥の姿は、人間の思い煩いとは無縁のおおらかさがあります。種を撒いたり、刈り入れをしたり。人間の様に働くことをしない鳥ですが、彼らのために神様が食べ物を備え、養っておられるからです。
聖書は、人間が神のかたちに造られた非常に大切な存在であると教えています。特に、イエス様を信じる私たちは神様に子として愛されている者です。「だとすれば、鳥に対して良くして下さる神様が、子であるあなたがたにもっと良くしてくださらないことがあるでしょうか。」そうイエス様は教えていました。「空を飛ぶすべての鳥のために心を配り、面倒を見ておられる天の父が、あなた方が生きるのに必要なものを備えてくださらないわけがないでしょう。」そうイエス様は語り、私たちの目を空の鳥に向けておられます。
しかし、人間はなまじっか働く能力を与えられたがゆえに、必要以上に稼ごうとあくせく働き、疲れ果てます。人と競い、見栄を張って心を消耗します。蓄えた物を失いはしまいかと思い煩うのです。家族や隣人と愛し合って生きるために働いていたはずなのに、いつのまにか欲と見栄にまみれて、思い煩うばかりの人生に逆転している。
「空の鳥を見よ」。この一言で、私たち人間も空の鳥と同じく、いや本当に勿体ないことに空の鳥以上に大切な存在として、神様の恵みによって生かされ、養われていることを自覚したいと思うのです。
こうして、空の鳥に私たちの目を向けさせたイエス様。続いては、野に咲くゆりの花に私たちの目を導かれます。青い空も緑の野も。動物も植物も。イエス様にとっては、自然全体が神様の恵みを教える教科書、第二の聖書だったのでしょう。
6:28~30「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
有名なソロモン王の栄華は、イエス様の時代人々の間で伝説となっていました。王と臣下の華麗な服装。香柏の王宮、金と宝石で覆われた家具。その繁栄は、当時近隣諸国の崇敬の的であったことが、旧約聖書には記されています。
しかし、伝説的なソロモン王でさえ敵わぬ程の装いを、神様は野に咲く一輪の花に施されたとイエス様は言うのです。人間の知恵、技術、財産で作り上げたソロモンの栄華も、野の花の完全な美しさの前には色褪せる。イエス様は一輪のゆりを愛で、神様をたたえたのです。
しかも、神様が装われた野の花の命はわずか一日と、実に短命です。人の目に触れる間もなく枯れ、乾燥したものは炉に投げ込まれて、パンを焼く燃料と化します。「短命な野の花さえ美しく装われる天の父が、この地上ばかりか天国で永遠に生きるあなた方のからだのことを世話もせずに放っておくなどと考えることができますか。いや、絶対にできないでしょう。」「神様は野の花以上にあなた方のからだのことに心を砕き、世話をして下さる天の父ではないか。」そう、イエス様は語っておられます。
以上、空の鳥、野のゆりと言う自然を例にとって、天の父が私たち神の子らをいかに愛し、良く養ってくださっているか。イエス様の教えをたどってきました。同じ真理をイエス様の命と言う視点から、パウロはこう述べています。
ローマ8:32 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
ここには、神の怒りに価する罪人であった私たちが、どれ程神様にとって大切な存在であったかが語られています。父なる神様は、ご自分にとって最も大切なイエス様を惜しげもなく、私たちの罪の贖いとして与えて下さった。そうだとすれば、その神様が私たちのいのちを養い、体を守るために必要なものについて惜しむことなどあるだろうか。間違いなく、良いものを惜しみなく与えて下さると信じてよい。そう、パウロが語るところです。
最後に考えたいのは、今日の個所でイエス様が語られた叱責とも見えることば、「信仰の薄い人たち」について考えたいと思います。信仰の薄い人、薄い信仰とはどのような人、どの様な信仰なのでしょうか。イエス様は何を私たちに求めているのでしょうか。
第一に、それは罪からの救いという面にだけ限られた信仰です。私たちはイエス・キリストを信じて、罪からの救いと言う恵みを受け取りました。人生におけるあらゆる罪はキリストのゆえに赦されたことを信じています。
しかし、神様が食べ物、飲み物、着物、経済、健康をはじめとする、私たちの日常生活に必要なもの一切の面倒を見てくださることを信じているでしょうか。父が子のために心砕き、子に必要なすべてのものについて配慮し、養うように、神様が生活のあらゆる領域において、私たちを養い、支えておられること、信じているでしょうか。
もし、神様が天の父であることを知らないなら、私たちは食べ物、健康、仕事、収入、人間関係あらゆるものを、自分の知恵と力で守らなければと考えます。これは、人間が負いきれない重荷を負うことです。私たちは常に何かの心配し、思い煩いから解放されることは難しいでしょう。
しかし、神様を天の父として私たちの生活のことを心にかけ、世話をして下さると信頼するなら、私たちは心配事のもとにあるあらゆる重荷を神様にお任せし、思い煩いから解放されることができるでしょう。神様とこの様な関係の中にある時、私たちは神様から頂いた良き物を恵みと考え、心から喜ぶことができるのではないのでしょうか。
第二に、信仰が薄いとは、神様についてよく考えないこと、神様への信仰を生活に適用しないことです。
イエス様は「空の鳥を見なさい」と言われました。「野のゆりがどのようにして育つのか、良くわきまえなさい」とも語られました。見る、良くわきまえるとは、神様が造られた自然を通して、神様の力、神様の愛、神様の私たちに対する心遣いや目的についてよく考え、理解すること。理解したことを適用することです。
皆様は、心が心配事で占領されそうな時、どうしてきたでしょうか。思い煩いに悩まされ、本来なすべきことに集中できない時、どうしたら良いと思われるでしょうか。しばし、休みを取って、神様の愛に憩うことです。イエス様の様に自然を通して、あるいは聖書を通して天の父の心遣いについて考え、味わうことです。
その様な交わりの中で、心配してもどうしようもないことを心配してはこなかったか。人間の力ではどうにもならないことを思い煩ってこなかったか。それを考えると良いと思います。神様にお任せすることと、自分がなすべきことを整理すると良いと思うのです。もし自分一人で難しいのなら、信仰の友と一緒にすることも良いでしょう。
神様を天の父として信頼する歩み。天の父との交わりの中で、思い煩いや心配事を扱ってゆく歩み。私たちが目指す歩みはここにあると思います。
55:22「あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
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