一般的に、人は意識的にも無意識的にも、自分の聞きたいことを聞き、聞きたくないことは聞かないと言われます。雑踏の中でも、多くの人が集う状況でも、自分に対する呼びかけや、親しい人の声には、反応しやすいもの。反対に、声がよく聞こえる状況でも、自分には関係のないものと思うと、その言葉は心に残らないものです。注意や叱責には、言い訳を重ねてまともに聞こうとしなく、お世辞やリップサービスはそうだと分かりながらも、熱心に聞こうとする。いかがでしょうか。このような傾向は自分に当てはまるでしょうか。
それでは聖書に対しては、どのような思いで向き合っているでしょうか。自分の聞きたい言葉だけ聞き、聞きたくないことは聞かないという姿勢で、聖書を読むことはないでしょうか。自分の考えを後押しする言葉、心地よい言葉は心に留める。罪を指摘され悔い改めを迫るような言葉、心刺される言葉は無視する、ということはないでしょうか。
聖書の優れた読み方は、自分がどのように思うとしても、聖書を神の言葉として受け止めること。遠い昔に語られ、記された言葉でありながら、今の自分にも語られている言葉として受け止めること。私たち皆で、聖書を読むということにも、少しずつ慣れ、熟練していきたいと思います。
取り組んできました一書説教の歩み。今日は三十七回目となり、あと少しで旧約聖書が終わりとなります。扱うのは旧約聖書、第三十七の巻、ハガイ書となります。
預言者ハガイがどのような人物なのか、聖書に詳しく記されていないためよく分かりませんが、その言葉からは、大胆、実直、情熱的という印象を受けます。「ハガイ」という名前は、おそらく「祭」と関係がある名前と思われています。
全二章の小さな預言書。時宜に適った言葉を通して、神の民に使命を思い出させた預言者。今日はハガイの言葉に注目します。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。
ところで預言書は、普遍的(どの時代、どの地域、どの文化にも当てはまる)な言葉を中心に記されている書もあれば、特殊的(ある特定の状況において意味のある)な言葉を中心に記されることもあります。ハガイ書は、特殊的な言葉が中心の書。その内容を理解するためには、それがどの時代、どのような状況で語られた言葉なのか、よく理解する必要があります。(それを踏まえた上で、今の私たちに語られた言葉として受け止めたいと思います。)
それでは、ハガイが活躍した時代はどのような時代、どのような状況だったのでしょうか。
ハガイ1章1節
「ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。」
ハガイが活動したのは、ダリヨス王の第二年(これは重要な年です)。総督ゼルバベルと、大祭司ヨシュアのいた所。これはつまり、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、多くの者が奴隷として連れて行かれた後、ゼルバベルとヨシュアがリーダーとなり、ユダ地方に帰還した時のことです。覚えていますでしょうか。この時代と状況は、エズラ記の前半に詳しくしるされていました。どのような時代、状況だったでしょうか。
もともと、南ユダがバビロンに滅ぼされる時、預言者エレミヤを通して、与えられた約束は次の言葉です。(神の民は、「神様が守って下さるから大丈夫。バビロンに打ち勝つことが出来る。」という(偽)預言者の言葉を頼りにしていました。この時にエレミヤは正反対のことを預言していたのです。)
エレミヤ書29章10節
「まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』」
「神の民」が奴隷として生きる期間。バビロン捕囚という裁きの期間は、七十年という約束。それでは、どのようにして、バビロンで奴隷だったところから解放されたのでしょうか。
(エズラ記の復習となりますが)バビロン捕囚から、約五十年後。強国バビロンに勝利したペルシヤが、奴隷となっていた南ユダの者たちに、エルサレムに戻って神殿を再建するようにと命令を下します。なぜ、ペルシヤの王クロスは、このような命令を下したのか。
この時、ペルシヤが支配した領土は、非常に広範囲。西はエジプトより南。東はインドのあたりまで。この広い範囲を、どのように支配するのか。多数の民族を含む広範囲を画一的に支配することは大変難しいものです。そこでペルシヤのとった政策は、税金と徴兵を課す代わりに、支配している地域のそれぞれの民族に自治をさせるというものでした。軍役、貢物を求める代わりに、内政には干渉しないという政策。そのため、奴隷としてバビロンに連れて来られていた者たちに対して、もといたところに戻るように、それぞれの場所で自治を行うようにと命令が下されたのです。
こうして神殿が破壊されてから、約五十年後に、南ユダの人々はもとの地に帰ることになります。しかしこの時、バビロン(ペルシヤ)にいた者たち全てが帰還したわけではありません。むしろ、帰還した者たちの方が少なかったのです。
何故、全員が帰還しなかったのか。それは、まず一部の者たちが帰還し、荒廃した土地を整える必要があったから。多くの者が帰還するのは、ある程度整ってからと考えたのでしょう。
戦争で敗北して五十年経った。建造物、田畑もひどい状態。荒廃した土地を整えると言っても、簡単ではありません。経済、教育、医療、福祉、流通、治安維持。帰還した者たちが、取り組むべきことは、山のようにあったと思いますが、最も重要な働きは、バビロン捕囚時に破壊された神殿を再建することでした。
エズラ記には、神殿再建の第一歩として、神殿の基を据えたことが記録されています。
エズラ記3章10節~11節
「建築士たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。」
帰還した民は意気揚々。さあ、神殿再建に取り掛かろうという時。しかし、簡単に神殿再建が果たされない状況となります。何が起こったのか。エズラ記の記録では、次のように記されています。
エズラ4章4節~5節
「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。」
南ユダの人々がバビロンに連れて行かれて約五十年。その間に、エルサレム近隣の地に住むようになった人々がいます。この人々が、帰って来た南ユダの人々をよく思わなかった。土地の所有、利害に関する課題です。その結果、神殿再建の妨害が起こり神殿の基は据えられながらも、神殿再建の工事は、ダリヨス王の第二年まで中断されることになります。これが、ハガイ書の背景です。
バビロン捕囚から約五十年。バビロン捕囚時には、生まれていなかった者たちもいます。荒廃した南ユダに戻り、エルサレムには神殿を再建しようという時。当初は意気揚々。神殿の礎も据え、礼拝を中心とした国を再興しようとしたところ。そこで妨害が起こり、神殿再建をすることが出来なくなります。その妨害の期間は、数か月、数年ではなく、十数年と続きます。帰還を命令したクロス王も死に、ペルシヤの王も代替わりしました。この時の、南ユダに帰還した者たちは、どのような思いになっていたのか。想像出来ますでしょうか。
そして、このような神の民に、ハガイは何を告げたのでしょうか。
ハガイ書1章2節~8節
「『万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。』ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。『この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」
バビロン(ペルシヤ)から帰還した民は、神殿を中心とした国造り、信仰を中心とした国家再興に取り組むことが、自分たちの役割だと理解していました。ところが、あまりに長い期間、それが果たせない状況の中で、神殿を建てるのは、まだ先で良い。使命を果たすよりも、自分たちの生活をより豊かにすることを優先させる思いを抱くようになっていたのです。
神殿再建は、何故果たされないままなのか。その理由が、エズラ記では、妨害者の存在しか記されていませんでしたが、ハガイ書によって、神の民自身の思いにも原因があったことが明らかになるのです。皆様は、このような民の姿を、神の民として残念な姿と見るでしょうか。それとも、そういうこともある、しょうがないと見るでしょうか。
ところでハガイの告げる言葉の特徴の一つは、「よく考えよ」という言葉を何度も用いることです。
ハガイが預言を開始した第六の月。これは、麦の刈り取り、ブドウ、イチジク、ザクロの収穫の時期でした。人々は、多くの収穫を期待する。生活が豊かになることを期待する。しかし、予想よりも少ない収穫なのです。何が問題なのか。何が間違っていたのか。現状をよく考えるようにと訴えます。
自分を大切にすること。幸福を追求すること。それ自体は何も間違っていなく、良いこと。しかし、その方法が違うと指摘されます。神様から与えられた使命を無視して、本当に幸せになることはない。本当に幸せを目指すのであれば、与えられた使命を果たすように。
もし、自分がこの時、南ユダにいたとしたら。このようなハガイの言葉を、どのように受け止めたでしょうか。そして、今の私たちは、このハガイの言葉をどのように受け止めるでしょうか。
実際の南ユダの者たちは、麗しいことに、このハガイの言葉によって奮い立ったといいます。
ハガイ1章14節
「主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。」
神殿再建へ取り掛かる神の民。当然のこと、敵対者は黙っていなく、妨害を強めます。しかし、その問題は不思議とうまく解決したことがエズラ記に記録されていました。今日読み進めているハガイ書の方では、思ってもみなかった、神の民の心に生じた課題に焦点を当てます。
ハガイ2章3節
「あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」
かつてソロモンが建てた神殿を見たことのある者たち。この時はかなりの高齢になっていましたが、その者たちからすると、今回建てあげられようとしている神殿は、あまりにみすぼらしい。設計図なのか、材料なのか、職人の力量なのか。かつての神殿の素晴らしさからすれば、無いに等しく見えていたのです。(神殿の基が据えられた時にも、そのみすぼらしさに大声で泣いた者たちがいました。)与えられた使命を再確認し、仕事に取りかかろうとした時、自分たちの力不足を痛感する。取り組みたくても、取り組めないと思い込む課題です。
このような民に対して、ハガイを通して、神様の約束と励ましが響きます。
ハガイ2章4節~9節
「しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ。――」
そこに金銀はなくても、金も銀も神様のものであること。そこに力ある者がいなくても、神様はともにいて下さる。仮に、粗末なもの、貧弱なものしか建てることが出来なくても、主ご自身が栄光で満たして下さる。今から再建される神殿は、ソロモンの建てた先の神殿よりも、より偉大なものになる、という無上の激励、約束でした。使命に生きようとする時、神様が成し遂げて下さる。この激励に、当時の神の民はどれだけ励まされたでしょうか。
このようなハガイの働きかけにより神殿再建が再開し、これより四年経って神殿が完成します。そして、この神殿完成が、神殿が破壊されてから七十年目でした。(エレミヤの七十年の預言は、妨害や神の民が気力を失うことも含めた年数となっていたのです。)
四年かけて神殿再建が果たされますが、ハガイ書に記されたハガイの活躍は、最初の三か月のみ。(記述はなくとも、預言者として活躍したとも考えらえますが。)彗星のように現れ、瞬く間に表舞台から去るハガイ。ハガイ自身も、まさに自分に与えられた預言者としての使命を果たした人物でした。
以上、簡単にですが、ハガイ書がどのような書か確認しました。
全二章の小著。テーマは明確で、神様に与えられた使命に生きるように。それが私たちにとって、最も良い道であること。今日、このメッセージを真正面から受け取りたいと思います。
ハガイが活躍した当時の神の民に与えられていた使命の一つは、神殿を再建すること。それでは、今の私に神様が与えて下さった使命とは何でしょうか。真剣に、よく考えたいと思います。
神を愛し、隣人を愛する生き方とは、私にとっては具体的にどのような生き方なのか。神の栄光をあらわす生き方とは、今の私にとって、何に取り組むことなのか。神の国とその義を第一に求める生き方とは、どのようなものなのか。家庭、職場、学び舎、教会。あらゆるところで、自分に与えられた使命は何か。その使命を果たすというのは、どのような生き方なのか。よく祈り、御言葉とともによく考えたいと思います。私たち皆で、与えられた使命に生きる歩みを送りたいと思います。
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