2017年5月7日日曜日

マタイの福音書6章16節~18節「山上の説教(32)~天の父から見られる子~」


4月は受難週、イースター、信徒総会などがあり、礼拝ではそれに関連した説教を行ってきました。ですから、礼拝の説教で山上の説教を扱うのは、一か月振りとなります。

ところで、皆様はどのような時に、自分の信仰生活が良い状態にあると感じるでしょうか。礼拝に出席をし、献金をささげ、奉仕をしている時でしょうか。恵みが与えられ喜びや感謝を覚える時でしょうか。人間関係が良好な時でしょうか。自分の行い、自分の感情、人間関係。そうしたものに目を留めることにも意味はあると思います。

しかし、それらだけを基準にして自分の信仰生活の状態を判断するのは危険かもしれません。今日の個所で、イエス・キリストは、私たちの信仰にとって大切なのは、神様との関係であることを教えているからです。ことばを代えれば、私たちの心に神様への愛があるかどうかということです。この様な視点で今日の個所を読んでゆきたいと思います。

さて、山上の説教は、イエス・キリストが語られた説教の中で最も有名なものと言われます。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、豚に真珠、狭き門から入れ等、聖書を読んだことのない人でも一度は耳にしたことのあることばが多く登場します。

その様に親しみやすい山上の説教ですが、今日の個所でイエス様は、現代の私たちにとってあまり親しみのない、あるいは馴染みのない断食と言う問題を扱っていました。

現代では断食は過食を避け、体の健康を維持するための一つの方法として知られています。また、精神を研ぎ澄まし、一つのことに集中するため断食をすると言う人もいるでしょう。事実、適切な断食は健康維持に効果があること、断食によって人間の集中力が高まることが確かめられています。 

断食ではありませんが、昔から「腹八分目が健康には良い」と言われてきました。野球選手も試合前の食事は軽めにする人が多いそうです。お腹一杯では体の動きも悪くなるし、試合での判断力が鈍ると言われます。

しかし、イエス様の時代、断食は聖書において命じられている行いの一つでした。この6章で取り上げられた施し、祈りとともに、当時ユダヤの社会で最も重んじられていた三つの善行の一つだったのです。

旧約聖書の時代、イスラエルの民には一年に一度の断食が命じられていました。神様が命じたのは一年に一度でしたが、民族の危機などの際、人々が真剣に罪の悔い改めに取り組むため、断食をしたことが記録されています。

イエス様も断食を承認しました。弟子を選ぶ際等イエス様ご自身も断食をされました。それ以降、アンテオケ教会では、祈りと断食をもって宣教師を送り出したとありますし、断食が使徒パウロの生活の一部になっていた様子が、残された手紙から伝わってきます。

つまり、罪の悔い改めに集中するため、あるいは重大な決断の際、何が神様のみこころなのかを求め、知るため、信仰者たちは断食を行ってきました。断食はそれを行う様導かれていると感じた人が、自ら時を定めて行ってきたことなのです。

しかし、イエス様の時代のパリサイ人たちは、週二回の断食を規則と定め、世間の人々に「あの人は正しい人」と認めてもらうため、人一倍断食に励んでいました。断食をする動機が歪められたのです。その日、彼らはわざわざやつれはてた顔と、乱れた頭髪のまま、家から町の通りに出て、人々の目を惹きつけるよう努めました。

 

6:16「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」

 

隣人愛の実践として重んじられていた施し、神様との関係を深めるための祈り、そして、自分の信仰を整えるための断食。どれも、聖書において勧められている正しい行いです。私たちも励み、努めるべき行いです。

しかし、本来の目的を見失い、行いそれ自体を目的としてはいけない。それを自分の正しさを認めてもらうための手段として用いてはならない。行いそれ自体は正しく見えても、心の動機が間違っているなら、神様はその人を正しいとは認めない。イエス様はそう戒めておられます。

これを読むと、人間の病気と云うことを思います。少し良いことをすると見せびらかしたくなる。人一倍自分は正しいぞと心を膨らませる。人間の心の病です。少しばかりの自分の善行を誇ると「自分は正しい」と考える。悲しい人間性です。針小棒大。針ほどのことを棒のように言う。少しでも自分を高くしようとする。本当に卑しい性質です。

イエス様は、「この偽善者の性質が、あなた方の中にも生きていませんか。その性質、その病に気がついていますか。自覚していますか。」そう私たちに問いかけておられるのです。

本来断食をする人は、自分の罪を覚え、神の前にへりくだるはずなのに、人間は「私に欠けたところはひとつもない。むしろ、なすべき以上のことをなして生きてきた」と胸を張って、自画自賛すると言うのです。

しかし、人前はともかくとして、心の奥底まで見抜く神の前に、自分は正しいと本当に言えるでしょうか。人前はつくろっても、私たちの動機から魂胆まですべてお見通しの神の前に、「私のすべてが正しい」などと言えるでしょうか。

讃美歌作者のペイソンと云う人が、「私はなんと情けない人間なんだろう。自分の家の庭の草取りをしている時でも、虚栄と高慢と云う罪を貪っている」、と告白しました。ひとりで休日に庭の草を引っ張って抜く。自分の家の小さな庭の草取りをしながら、そうした時でも自分は虚栄の塊。高慢の塊であることを神さまに告白いたします」、と彼は言っているのです。

何故でしょうか。どうして泥だらけになって草引きをしている人が、虚栄と高慢の塊なのか。彼はこう言っています。「私は最初何の気なくワイシャツの腕まくりをし、庭の草引きをし始めた。ところがそれをしているうちに、この自分の泥まみれの仕事振りを家の者にも見せたくなった。近所の人にも見てもらおうとしだす。いかにも自分は働き者だと褒められたい思いに駆られてくる。それは虚栄心ではないか。また、人に手助けを請わないで、自分ひとりで庭をきれいにしてみせることによって、俺が自分ひとりでやったんだ。自慢したくなる。高慢の心だ」。こう、彼は自分の心を分析したのです。

近所の人に見てもらうための草抜き。世間の人に認めてもらうための断食。兄弟姉妹に褒められるための親切。はたして、神の前に出たら、私たちの行いの何パーセントが正しいと認められるのか。イエス様のことばは、私たちの心を深くさぐります。

イエス様は、神に背いた私たち心の真ん中には、自我があることを教えています。自分の利益、自分の満足、自分の正しさが認められること。それが私たちにとって最大の関心だということです。ある心理学者の説によると、一日の中で起きている時間、その長さは人それぞれですが、私たちは90%以上の時間を自分に関係することを考えるのに使っているそうです。

自分の言動が人々から注目されること、評判を得ることは満足であり、喜びとなります。しかし、それが得られなければ自分への失望。落胆。自分を認めない人への反感や怒りが涌いてくる。どちらにしても、大切なのは常に自分と言うことです。

この様な生き方がいかに悲惨なものか、分るでしょうか。自分への関心が心を占領する人生、人の目に縛られた人生と言うものが、いかに不自由で、思い煩いに満ちたものであるか。イエス様はそんな私たちのことを良くご存じでした。ですから、この様な生き方から解放される道を示してくださったのです。

 

6:17、18「しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」

 

頭に油を縫って髪の毛を整える。顔を洗って身だしなみを整える。これは、ごく普通に生活すること、自然にふるまうことを意味しています。それは、人には見られず、隠れたところにおられる父なる神様に見られるため、天の父からの報いを受けるためと、イエス様は念を押していました。

人の評価を気にし、人の目に縛られた人生からの解放は、私たちの努力によってもたらされるものではありません。いくら人の評価を気にしないように、人の目を気にしないようにと努めても、誰かに認めてほしいと願う私たちの心が止まることはないのです。

ですから、イエス様は言われます。「あなたのことを大切な子として認め、愛しておられる天の父に心を向けなさい。」「あなたのどんな行いも見守り、豊かに報いてくださる天の父のことを思いなさい。」

ルネサンスの天才ミケランジェロが、システィーナ礼拝堂の天井に大作「天地創造」を描いていた時のエピソードです。

支援者の一人が作品の仕上がりが遅れていると聞いて心配になり、ミケランジェロの仕事ぶりを見に、礼拝堂に足を運びました。夜遅く、礼拝堂は冷え冷えとしていましたが、ミケランジェロは高い天井の片隅で懸命に細かな筆を使って描いていたそうです。しばらく、その様子を見ていた支援者は「そんな片隅のところは、誰も見ていないんだから、もっとさっさと仕事を進めたらどうだ」とアドバイスをしました。

それでも、ミケランジェロは声が聞こえないのか、黙々と仕事をして、一向に終わりそうもありません。しびれを切らした支援者が大声をあげて、同じことを言うと、ようやくミケランジェロが答えたそうです。「だれも見ていなくても、神様が私の仕事を見ておられる。」ミケランジェロも世間の人ではなく、天の父を思って精一杯の仕事をした人だったようです。

誰が見ていなくても、誰が認めてくれなくても、天の父は子どもである私の存在を見守り、認めてくださる。その様な安心感があるからこそ、私たちも正しい行いに励むことができるのではないかと思います。

カルヴァンと言う信仰の先輩が、私たちの行いと神様との関係について、この様に書いています。「自分の正しさにこだわる人は、主人に日ごとの仕事を言いつけられるしもべのようで、すべてのことを間違いなく、正しくやり遂げるまでは、何かを成し遂げたとは思えないし、主人の前に出ようとさえ思わない。

しかし、父親に広い心で接してもらった子どもは、自分の行いが不完全で、欠点があったとしても、父親に行いを見せることを躊躇わない。何故なら、自分の行いが不完全でも、自分の存在が父親に愛され、認められていると信じているからだ。私たちも、その様な神の子どもとならなければならない。私たちの行いがいかに小さく、不完全でも、あわれみ深い天の父がそれを見て満足してくださる。そう固く信じなければならない。」

天国で、父なる神様が私たちの行いにどれほど豊かに報いてくださるのか。それは想像もつきません。しかし、この世において、神の子と呼ばれる価値のない罪人の私たちが、イエス・キリストを信じるだけで神の子とされること、天の父と子と言う安全で安心できる関係の中に守られていることが、測り知れない報いではないかと思うのです。

最後に、二つのことを確認しておきたいと思います。

一つ目は、イエス・キリストを信じた者の心には、天の父への関心、天の父への愛が生まれることです。神の子どもにとって、大きな関心事は、天の父が喜ばれることを知り、行うことです。神の子どもにとって、大きな願いは天の父のすばらしさを表すような行いをしたいと言うことです。

天の父への関心と愛とが大きく成長すればするほどに、自分への関心は小さくなってゆきます。自分の行いが人に認められるかどうかよりも、神様のすばらしさが人に認められるかどうかがより気になります。自分を喜ばせることよりも、神様に喜ばれることの方が大切になってくるのです。

皆様は、神様がご自分の天の父であることを信じているでしょうか。どんな時も天の父との関係が喜びでしょうか。最大の関心事は、天の父のことでしょうか、自分のことでしょうか。信仰生活の状態を判断する時、先ず神様との関係に心をとめること、お勧めします。

二つ目は、天の父の愛に応えて、正しい行いに励むことです。イエス様は、この6章で間違った動機で施しをすること、祈ること、断食をすることを戒めました。しかし、それは施し、祈り、断食の禁止ではありません。むしろ、天の父の愛に応えて、私たちが動機においても行いそのものにおいても、あらゆる正しい行いに進むよう求めているのです。

貧しい人を助けること、神様との交わりを深めるため祈ること、神様のみこころをわきまえるため聖書を読むこと、導かれればその為に断食をすること。神様が私たちを正しい者に造り変えてくださることを信頼しつつ、自らも正しい行いに取り組んでゆく。お互いに励まし合いながら、私たちがひとつの体としてこの様な歩みを進めてゆきたいと思うのです。

 

ローマ8:14、15「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」

0 件のコメント:

コメントを投稿