2017年5月14日日曜日

マタイの福音書6章19節~24節「山上の説教(33)~天に宝を~」


私たちが礼拝で読み進めている山上の説教。それは、イエス・キリストが神を信じる者の義しい生き方について語られた教えが、マタイの福音書の5章から7章にかけてまとめられたものです。

今朝私たちはちょうど真ん中の6章19節まで進んできました。前回まで、イエス様が取り上げていたのは、その頃最も重んじられていた三つの行い、施し、祈り、断食についてです。施しも、祈りも、断食も、人に褒められるためにしてはならない。ただ、天の父に心を向けてこれを行えと命じ、誰の心にもある「自分を良く見せたい」と言う卑しい性質、偽善を戒められたのです。

そして、イエス様が「自分の宝」、「あなたの宝」と繰り返しているように、今日の個所のテーマは宝です。宝と言う漢字は、宝石とお金が部屋の中に守られている様子を表しているそうです。別の日本語聖書はこれを「富」と訳していますが、富に限らず、私たちが大切にしているものすべてを宝と考えてよいと思います。

皆様にとって宝は何でしょうか。これまで大切にしてきたもの、今大切にしているものは何でしょうか。財産でしょうか。学歴でしょうか。社会的地位でしょうか。能力でしょうか。健康でしょうか。仕事でしょうか。マイホームでしょうか。学生か社会人か、独身か既婚者か。各々置かれた状況や年齢によって、宝が変化することもあるでしょう。

神様は私たちに生きるのに必要なもの、人生を豊かにするものを与えて下さいました。イエス様はそれを宝と呼んでいます。ある意味で、人生において宝がある、大切にしているものがあると言うことは良いことですし、必要なことでもあると思います。もし「自分には宝がない。大切にしているものは何もない」と考えている人がいるとすれば、その心には生き甲斐がなく、日々の生活も虚しいと思われます。

しかし、今日の個所でイエス様は、私たちが神様から与えられた宝をどう用いるべきかを考えるよう勧めています。宝について、永遠と言う視点から考えることを教えておられます。

果たして、自分は何を宝として日々生きているのか。天国を受け継ぐ者、神の子どもとして、与えられた宝をどう使うべきなのか。今日の個所から皆で考えることができたらと願っています。

 

6:19「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」

 

聖書は私たちが財産を持つこと、努力して社会的な地位を得ることを認めています。与えられた能力を発揮すること、健康維持に努めること、それも正当なことです。仕事や住まいも生活するのに必要なものです。

事実、アブラハムは多くの家畜と天幕、使用人を有していました。モーセは、120歳になっても気力が衰えることはありませんでした。ダビデは戦士として王として有能であったばかりか、詩人としての才能にも恵まれていました。アブラハムは財産と言う宝を、モーセは健康と長寿と言う宝を、ダビデは能力や地位と言う宝を、それぞれ恵まれていたのです。

ですから、イエス様が禁じているのは、財産を持つことではありません。健康や長寿を求めることでもありません。能力を用いること、努力して社会的地位を得ること自体でもありません。イエス様が禁じているのは、私たちがそれらのものへの関心に支配されること、それらのものに度を越した愛着を持つことです。

蓄財を人生の目的とするほどに、財産を愛する。地位を得るため、守るために人を蹴落とす。能力や健康な体を専ら自分のためにのみ使う。神を礼拝し大切な人と交わる時間等必要ないと考える程、仕事に愛着を抱き、多くの時間を費やす。この様な態度で宝と関わり、宝を用いる生き方。それを「自分の宝を地上に蓄える」ことと呼んで、イエス様は私たちを戒めているのです。

木で作った宝の箱は虫に食われる。金属でできていても錆がつく。家の中に守っていても、盗人に奪われる危険がある。私たちが地上に蓄えた宝はすべてが古び、衰えてゆく様を、イエス様は一幅の絵に描きました。

銀行預金も土地も、経済情勢の変化によって価値があっという間に下落します。世界的不況により会社の倒産が相次ぎ、札束の山も一夜にして紙くず同然と言った状況は、これまでに何度か繰り返されてきました。健康も年齢とともに衰えます。病気や加齢によって、昨日まで当たり前の様にできていたことが、できなくなることもあるでしょう。私たちの宝が地上にあるなら、大切な宝を失ってしまう日は、刻一刻と近づいていることになります。

讃美歌作者で有名なジョン・ウェスレーが、ある男と一緒に、男が自慢する広大な農場を見回った時のことです。二人は何時間も馬に乗っていましたが、見ることができたのは、農場のほんの一部でした。その晩、夕食の席で、農場の所有者の男が身を乗り出して尋ねました。「それで、ウェスレーさん。どう思ったかね。」ウェスレーは答えます。「これを全部残していかなければならないのですから、さぞかし、お辛い経験をなさることでしょうね。」

イエス様も私たちに語りかけています。「あなたの安心の源である財産、あなたの生き甲斐である仕事、あなたの頼みとする能力や健康。それらは決して永続しないことが、分かっていますか。あなたが蓄えた宝をすべて残して、地上を去らねばならない日が来ること、分かっていますか。」

しかし、「そのようなことなら良く分かっている。」そう言う人もおられるでしょう。確かに私たちは、地上に宝を蓄えることの愚かさを理解しています。他の人はともかく、神様の子とされた自分は良く弁えていると思っているかもしれません。

けれども、実際の生活はどうでしょう。日々の歩みにおいて、私たちと宝の関係はどうでしょうか。銀行の預金残高に強い愛着を持ってはいないでしょうか。気がつかぬうちに地位や評判を頼みとし、安心の源としてはないでしょうか。ウェスレーに自分の農場を誇り、案内して見せた男は、決して他人ではありません。

ですから、イエス様は地上に宝を蓄えると言う生き方が、いかに私たちに大きな影響を与えているかを説いておられます。私たちの心、私たちのこの世界や物に対する見方、私たちの行動。イエス様は、地上の宝への愛着が、どれ程私たちの人生全体に強力な影響を及ぼすものか教えています。先ずは私たちの心への影響から見てゆきます。

 

6:21「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 

皆様は、神様の栄光を表すことと財産を増やすこと、どちらに関心があるでしょうか。自分の評判と苦しむ隣人、どちらがより気がかりでしょうか。一人になった時、専ら考えることは何でしょうか。新聞を読んで心が惹かれるのはどの様な記事でしょうか。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もある。イエス様は私たちの関心があるところに、宝があると言います。私たちが専ら考えること、願うこと、心を向けること。それが私たちが実際に愛している宝ではないかと指さしているのです。

これは、私たちの心を深く探ることばです。神様を信頼しているはずの自分が、実は財産を信頼する蓄財人間ではなかったか。神様の栄光を表すことを願いとしているはずの自分が、実は自分の評判を気にするばかり自己愛人間ではなかったか。

このイエス様のことばによって、私たちが本当の自分の姿に気がつき、心を神様に、関心を隣人の幸いに向けることができればと思います。

二つ目は、この世界と物に対する見方への影響です。イエス様は地上の宝への愛着が、私たちの見方を歪めていると指摘しています。

 

6:22、23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」

 

目が健全ならの「健全」とは、曇りのない状態を言います。目が悪ければの「悪い」は、目が曇っている状態を指します。もし、私たちの心の目に曇りなく、天の父に向けられるなら、地上の宝を神様からの賜物と考え、神様のみこころに従ってこれを正しく用いようとするでしょう。やがて来るべき天国において、豊かな報いがあることを望みつつ、この地上を生きるのです。

しかし、もし心の目が地上の宝への愛着によって曇っているなら、私たちは神様のことを思わず、宝を自分のものと思い込み、自分の思いのまま使おうと考えるでしょう。来るべき天国を忘れ、この地上がすべてと考え、せっせと地上に宝を蓄える生活を送るようになるのです。

 今年の正月休みのことです。ちょっとした工事をしたため、我が家では大量のゴミが出ました。それを四日市市のゴミ処理施設に車で運んで行きました。すると、そこには大量の車やトラックが集まっており、どれにもパソコンや家具、電化製品や釣り竿、おもちゃなどが積まれていたのです。施設の奥には大きな穴が掘られていて、そこにはあらゆるゴミが捨てられていました。

 言わば、そこは私たちが地上の人生で買った物、使った物が行き着く最後の場所です。地上の宝の墓場とも言えます。クリスマスや誕生日のプレゼントも、家電も、衣服も、本も、自転車も、ステレオも、キャンプセットも。遅かれ早かれ、私たちの所有物は、すべてここに行き着くことになります。子どもがとり合いの喧嘩をしたり、友情にひびが入ったり、夫婦が仲たがいする原因になった宝がここで最後を迎えることになる。

そう思うと、所有物を増やすことに生涯をかけて一生を終えることの虚しさを、改めて思いました。心の目が曇らないよう、時々こう言う場所に来るのもよいかなと感じました。

 最後三番目は、行動への影響です。イエス様は、神と富とにかね仕えることはできないと教えています。

 

 6:24「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

 

 地上の宝に専ら心を向け、愛着を抱く時、私たちはその奴隷になると警告されています。特に富の支配力は絶大です。私たちは本来尊い目的のために用いるべき富に支配され、富に仕えやすい。だからよくよく注意せよと、イエス様は念を押しています。

 「私は生涯で2億ドル以上の収入を得たが、億万長者になってからは笑うことがなかった。代わりに、心労で死んでしまうかもしれないと思ったことが何度もあった。良い車を造ろうと汗を流して機械をいじる仕事をしている時の方が幸せだった。」自動車王と言われたフォードのことばは、富に仕えた人生の悲惨を私たちに感じさせます。

 以上、地上の富に対する愛着と言う罪が、私たちの心、世界と物に対する見方、私たちの行動、つまり人生のあらゆる面に大きな影響を与えていることを見てきました。それでは、私たちは地上の富とどのように関わればよいのでしょうか。どのように様々な宝を用いればよいのでしょうか。イエス様の答えはこれです。

 

6:20「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」

 

自分の宝を天にたくわえるとは、天にいる父なる神様が私たちの宝の所有者であり、私たちは管理人であると認めることです。神様から与えられた宝を、神様のみこころに従って管理すること、活用することです。

福音を伝えること、教会をたて上げること、飢えた者に食べさせること、貧しい人を助けること、病の人を見舞い慰めること、友なき人の友になること。神様がこの地上で私たちに委ねられたわざには様々なものがあります。神様はこの世界をみこころにかなった世界へと変えてゆくため、私たちたちを大切なパートナーとして選ばれました。神のわざを行うため与えられた宝を活用する人のことを、神様は覚えておられ、豊かに報いてくださるのです。

 

Ⅰテモテ6:1719「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

 

富を神とせず、良き物すべてを与え楽しませてくださる神に仕え、神を信頼する歩み。神に与えられた宝を正しく管理活用し、天国での祝福に望みを置く歩み。私たちがお互いに励まし合いながら、この様な歩みを共に進めてゆきたいと思います。

 

 

 

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