2017年6月18日日曜日

一書説教ゼカリヤ書~幻を通して~


目の前に「緊張し、混乱し、不安になっている人」がいて、自分の役割は、その人を落ち着かせることだとします。皆様はどのような方法で、その人に落ち着いてもらおうと取り組むでしょうか。

 「落ち着いて下さい。」と話しかけるか。手を握り、抱きしめ、そばにいるか。心が落ち着く音楽を流すか。壮大な景色を描いた絵や映像を見てもらうか。リラックス効果があると言われる匂いを嗅いでもらうか。甘い物でも食べてもらうか。伝えたいことは「落ち着いて下さい」だとして、伝え方は色々とあります。

 そして、どの伝え方が効果的であるかは、人によります。ある人にとって、言葉が重要。ある人にとっては行動が有効。ある人は、音楽や映像が影響を受けやすい。ある人は、匂いや味が大事。自分がメッセージを受け取る側だとしたら、どのような方法で伝えられるのが効果的でしょうか。

 

 六十六巻からなる聖書。そのうち一つの書を丸ごと扱い説教する一書説教。断続的に取り組み、これで六年目になりましたが、いよいよ旧約聖書の終わりが近づいてきました。今日は旧約聖書第三十八の巻、ゼカリヤ書となります。

 旧約聖書に記された神の民の歴史の中で、重大な事件二つと言えば、「出エジプト」と「バビロン捕囚」と言えます。そのうち「バビロン捕囚」からの解放、神殿再建の歴史的な記録はエズラ記に記されました。

 

 エズラ記5章1節~2節

さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。

 

 ここに、神殿再建に取り組む重要な人物として、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアの名前が出てきます。この二人が神殿再建の責任者。そしてこの二人を助ける人として、立てられたのが、預言者ハガイとゼカリヤです。

同じ時期に、同じ目的で活動するように召された二人の預言者。前回の一書説教では預言者ハガイの言葉に触れましたが、今回はもう一人の預言者、ゼカリヤの言葉を聞くことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 神の民が神殿再建に取り組めるよう励ますために、また総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを励ますために遣わされた二人の預言者。同じ時期に、同じ目的。ところが、この二人の言葉の印象は全く異なります。

 ハガイの言葉は実務的、実践的な印象があります。

 ハガイ1章4節、8節

この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。・・・山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。

 

 それに対して、ゼカリヤの預言は、幻とそれを解釈することから伝えられるメッセージが中心となります。

 ゼカリヤ1章8節~9節、16節

夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。私が、『主よ。これらは何ですか。』と尋ねると、私と話していた御使いが、『これらが何か、あなたに示そう。』と私に言った。・・・それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。――万軍の主の御告げ。――測りなわはエルサレムの上に張られる。』

 

 ゼカリヤ書に記された最初の幻です。ここには、谷底にあるミルトスの木の間に立つ、赤い馬に乗った人と、その他の馬。ゼカリヤ自身や幻の意味を説明してくれる御使い。さらには、主なる神様ご自身も出てくる。幻の中で、色々なやりとりがなされて最終的に神様の言葉として、「宮(神殿)が建て直される」と語られます。

今の私たちからすると、どうも分かりづらい印象です。谷底にあるミルトスとは何を意味しているのか。馬の色には、何か意味があるのか。幻の意味が説明されるものもありますが、説明されない部分もある。私などは、神様の宣言部分だけで十分な気がしてしまうのですが、しかし、このように幻と解釈を通してメッセージが語られるのが、ゼカリヤ書でした。

 

(余禄となりますが、ゼカリヤ書に出てくる幻は、ヨハネの黙示録にも同様の幻、テーマが出てきます。四種類の馬、町の測定、金の燭台、二本のオリーブの木、悪を代表する女性、七つの目、など。黙示文学と呼ばれる、エゼキエル書、ダニエル書、ヨハネの黙示録との関連で、ゼカリヤ書を読むことが出来ると、さらに理解が深まると言えます。)

 

ハガイとは全く異なる印象のゼカリヤ。しかし、全く異なるから、意味があるとも言えます。実務的、実践的なハガイの言葉とともに、映像的、抽象的なゼカリヤの言葉にこそ、影響を受ける人、励ましを受ける人もいたでしょう。神殿再建という一大事業に取り組む際、神様は異なる二人の預言者を遣わしておられたということに、神殿再建に対する神様の情熱と、何としてでも神の民を励まそうとされる優しさを覚えます。

 

 ところで預言者ハガイは、神殿再建時にだけ活動した預言者。(聖書の記述はなく、預言者として活動した可能性はあります。)ゼカリヤは、神殿再建時と、それからしばらく経ってからも預言者活動をしています。そのため、内容も神殿再建に関することと、それ以外のメッセージの二つに大別することが出来ます。

 前半、神殿再建時に語られた預言、一章から八章。後半、終末預言、メシヤ預言と言われる内容で、九章から十四章となります。まずは前半から見ていきます。

 

 神殿再建時に語られる預言の殆どは、幻を通してなされるもの。合計、八つの幻が出てきます。(七章から八章は、神殿再建時に、断食についての問いによって与えられる預言となりますが、今日の説教では扱いません。)

 第一の幻は、先ほど少し確認しました騎兵隊の幻。この騎兵隊は、世界を行き巡り、その様子を神様に報告するものと言われます。神様が全世界を支配されていることを示す幻でしょうか。

 第二の幻は四つの角と四人の職人。この角は、ユダを攻撃した者たちで、その角を打ち滅ぼすのが職人と言われます。ユダを攻撃したものたちに神様が報いる、ユダには神様の守りがあることを示す幻でしょうか。

 第三の幻は測り綱を持つ人。その測り綱で、エルサレムを測量すると言われます。神様が、エルサレムを再建することを示す幻でしょうか。

 第四の幻は法廷。大祭司ヨシュアが、サタンに訴えられている場面。幻の法廷の中で、神様はヨシュアを擁護し、大祭司として相応しいことが確認されます。

 第五の幻は金の燭台と二本のオリーブの木。このオリーブの木は、ゼルバベルとヨシュア(二人の油注がれた者と表現されますが)のことと言われます。二人を通して、金の燭台に火が灯る、神殿が再建されることを示す幻でしょうか。

 第六の幻は空飛ぶ巻物。この巻物は「のろい」と呼ばれ、悪者はこの巻物に照らし合わせて懲らしめを受けると言われます。義なる神様が、悪に報いることを示す幻でしょうか。

 第七の幻はエパ枡(穀物を計るための枡)。そこに罪悪が入れられ、エパ枡ごと運び出されるというもの。エルサレムから、罪悪が取り去られることを示す幻でしょうか。

 第八の幻は、戦車隊。世界を駆け巡り、神様の怒りを静めると言われます。神様が、ご自身の望むように世界を支配されることを示すものでしょうか。

 

 これら八つの幻。この順番でゼカリヤが見たことに、意味があると考えられます。

 最初ゼカリヤは、谷底で騎兵隊の幻を見ました。どこの谷か示されていませんが、ゼカリヤがエルサレムにいたことを思えば、エルサレム郊外の谷と考えられます。第二第三の幻で、エルサレムの全体を見渡せるところへ視点が動き、神様の守りを確認。第四第五の幻で、神殿の中へ視点が移り、ヨシュアとゼルバベルへの励ましの言葉。第六第七の幻では、神殿から世界へ視点が移り、神様が悪に報いることが示されます。最後の第八の幻は、第一の幻と対応しています。騎兵隊が世界の様子を確認していたのが、戦車隊が世界を巡り統治する幻となる。

 エルサレムの郊外から神殿へ、神殿から全世界へ。神様が神の民を守られるという視点から、悪には報いるという視点へ。

 是非とも、実際にこの八つの幻の預言を読んで頂きたいと思いますが、それぞれがどのような意味なのか確認するとともに、一連の流れも味わって頂ければと思います。

 

 このように見ていきますと、八つの幻の中心にあるのは、神殿についての幻。その五つ目の幻の預言の中に、(おそらく)ゼカリヤ書中最も有名な言葉が出てきます。

 ゼカリヤ4章6節

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

 

神殿再建事業は、もともとペルシヤ王クロスの命令で開始したもの。資金援助もあり、ゼルバベルの総督という立場も、王の権威によって与えられたものです。反対勢力がこの事業の正当性を問い、妨害した時も、ペルシヤ王に協力を求めて工事再開となりました。権力によって、神殿再建という事業が進んでいると言うことも出来ます。

預言者ハガイはユダの人々に、神殿再建の取り組みをするように訴えていました。それで、人々は神殿再建へ自分の力を注いでいるのです。神様が神殿再建をなさるので、あなたがたは何もしなくて良いとは教えられず、むしろせいいっぱい力を使うように語られていました。能力によって、神殿再建が進んでいると言うことも出来ます。

 

 権力によっても、能力によっても、神殿再建は進められてきた。しかし、ゼカリヤの幻を通して語られたメッセージは、「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」。この時、神様がゼルバベルに求めたことは、ゼルバベルが精一杯、事業に取り組むと同時に、しかし、神様が事を為しているとする信仰。成し遂げたことをもって、自分の栄光とするのではなく、神の栄光をあらわすことでした。

 神殿再建間近。ここまで、どれだけ苦労してきたのか。自分がゼルバベルの立場でしたら、この言葉をどのように受け止めるでしょうか。「いや、神の霊によってというは分かるが、権力も、能力も大事でしょう。精一杯取り組んできた私の働きも認めてもらわないと、納得がいかない。」と言うか。それとも、「その通りです」と首を垂れるのか。

 また、この言葉が、今の自分に語られている言葉として受け止めるとしたら、どのような意味になるでしょうか。

 

 さて、ゼカリヤ書の後半。九章からは、だいぶ印象が変わります。幻による預言はなく、そのため幻の説明をする御使いも登場しません。前半は殆どが散文でしたが、後半は韻文も多く含まれます。

後半の特徴の一つは、メシヤ預言と呼ばれる、イエス様に当てはまる預言が多くあること。十字架直前、イエス様がエルサレムに入場される際、子ろばに乗りましたが、これはゼカリヤ預言の成就と言われていました。(ゼカリヤ9章9節、マタイ21章5節)オリーブ山で、主イエスが捕縛される時、弟子たちが散り散りになりましたが、これも預言されていたこと。(ゼカリヤ13章7節、マタイ26章31節)十字架上で死なれたイエス様が、その脇腹を刺されたことも預言の成就。(ゼカリヤ12章10節、ヨハネ19章37節)その他、いくつかキリストについての預言が出てきます。

 

 後半の内容は、概観することが難しく、色々なテーマが散在しているような印象ですが、全体としては神様が全世界の王となることが語られる終末的な内容となります。ゼカリヤ書の最後は次の言葉です。

 ゼカリヤ14章16節~21節

エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。

 

 ゼカリヤ書の前半が、エルサレム神殿の再建に焦点が向いていたのに対して、後半の終わりでは、全世界に焦点が向けられます。エルサレムを攻めて来た民の中にも、主なる神様を礼拝する者たちが起こされる。万軍の主を礼拝しない者たちには、裁きが下される。

そして、神様の支配が行き渡るしるしとして、「馬の鈴の上には『主への聖なるもの』と刻まれる。」と告げられます。「主への聖なるもの」という神聖な文字は、本来大祭司の額飾りに彫られたもので、大祭司が特別に神様の働きをすることを示すものでしたが、それがやがて戦争のシンボルである馬の鈴の上にも刻まれる。聖なるもの、俗なるものの区別がなくなり、あらゆる物が、神の栄光をあらわすものとなるという大パノラマで閉じられることになります。

 

 以上、ゼカリヤ書を概観しました。前半は幻が多いこと。後半は、今の私たちからして、過去のことが書いてあるのか、未来のことが書いてあるのか、明確ではないことから、非常に難解な書。皆様は、このゼカリヤ書をどのように読むでしょうか。

 今回、何度も繰り返し読みまして、私が味わった一つのテーマは、「神様の栄光をあらわす」ということです。私たちが認めようが、認めなかろうが、主なる神様が世界の支配者であることは変わらない。しかし、私たちが求められているのは、主なる神様が世界の支配者であることを認めて生きること。総督ゼルバベルが、「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」神殿再建がなされると認めるように求められたのと同じように、私たちの生涯も「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」生かされることを再確認したいと思います。

また、全てのものが、「主への聖なるもの」として用いられる世界が来ることを宣言したゼカリヤのあの希望を、私たちも持ちたいと思います。やがて、主イエスが来られて、世界をそのように変えて下さることを期待すると同時に、今の私たちの歩みが「主への聖なるものとなる」こと。自分の一挙手一投足も、「主への聖なるもの」としての歩みとなるように願うのです。

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