2017年6月25日日曜日

マタイの福音書6章25節~34節「山上の説教(35)~第一に求めるべきもの~」


先回、私たち夫婦は七年の交際を経て33年前に結婚したと言うことをお話しました。実は、その交際期間中、妻からよく言われたことばがあります。それは、「あなたって、本当にわかりやすい人ね。あなたの機嫌が悪い時、イライラしている時は、お腹がすいているか、前の日にジャイアンツが試合に負けたかのどちらかでしょ」ということばです。

最初、私は「自分はそんなに単純な人間じゃあないぞ」と言う気持ちがあり、反論していました。しかし、よく考えてみると、妻のことばは当たっていると納得せざるを得ませんでした。当時、ジャイアンツは今よりも断然強かったとは言え、優勝チームでも一年を通せば、かなりの試合に負けるわけですから、妻が気がつくのも当然だったと思います。

妻とデートしながらも、心ここにあらず。「どうして、あの場面江川は直球ではなくて、カーブなんか投げたんだ」とか「せめて、あそこで原が外野フライでも打って点が入っていたら、どうなっていたかわからない」等、前日の試合を振り返って、まるで自分が負けたかの様に思い悩む。妻にしてみれば、「どうして、そんなどうしようもないことを悩むのか」「目の前にいる自分とジャイアンツ。どっちが大切なの」と言う気持ちだったかもしれません。

「覆水盆に返らず」と言います。一旦お盆からこぼれた水を元に戻すことはできない、と言う意味です。空腹と言う問題は、物を食べることで解決できます。しかし、お盆からこぼれた水の様に、過去の出来事はいくら悩んでも変えようがない。それを、私たちは「あの時あーしていたら、こーしていたら」と繰り返し考え後悔する。自分が大切に思っている人や物事については、その程度がひどくなる。これが思い煩い。人間だけが罹る心の病です。

ところで、プロ野球に関心のない方、ジャイアンツファン以外の方には、どうでもよいことかもしれませんが、この6月、ジャイアンツは球団史上最悪の13連敗を喫しました。以前の私でしたら、今頃は思い煩いのピーク。「今年はもう、ジャイアンツの優勝はない。Aクラス入りも無理かも」と暗く落ち込んでいたことでしょう。

しかし、今は、がっかりはしていますが落ち込んではいません。心配はしていますが、思い煩う程でもありません。ジャイアンツ13連敗と言う出来事は、以前のように私の心を支配してはいません。その理由は、今日のイエス様の教えにあります。

先回、私たちは、6章25節から30節を扱いました。そこで、イエス様が教えてくださったのは、私たちがいかに思い煩いの影響を受けているか。それと、思い煩いの中にある時、私たちがすると良いこと、すべきことです。

食べ物、飲み物、着る物を代表として、私たちは、生活のあらゆる分野で思い煩うことがあります。金銭に関する心配、仕事に関する悩み、健康への不安、親子、夫婦、地域の隣人など、人間関係の思い煩い。心配、悩み、不安、思い煩い。それらが、生活からなくなることはないように思います。

そして、思い煩いの影響は非常に大です。思い煩いは不眠や病気の原因ともなります。日々の仕事や学び等、なすべきことに対する集中力を奪います。考えても、心配してもどうしようもないことと、私たち頭では理解していても、一度はまり込むと、なかなか思い煩いから抜け出せず、大切な時間やエネルギーを失ってしまうのです。

けれども、その様な私たちのことを良くご存じのイエス様は、ここで印象的なことばを語られました。「空の鳥を見なさい」、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」ということばです。多くの人が慰められ、励まされたことばです。

 イエス様は私たちに、空の鳥を見ることにより、鳥を養う天の父を見る様勧めています。野の花を見て、美しい花を育てる天の父のことを考えよと勧めています。「空の鳥を見、野の花を見ることで、あなたたち神の子どもを愛し、養い、世話してくださる天の父なる神様に心を向けよ。」そう、命じておられるのです。

 どうでしょうか。皆様は、イエス様の勧め、実行することができたでしょうか。「空の鳥や野の花を見るだって。そんな時間は、とても忙しく持てないよ」と、仰る方もいるかもしれません。しかし、私たちが思い煩いから解放されるために必要なことであるので、イエス様はこれを勧め、命じているのです。

 せかせかと時間に追われ、スケジュールに追われる日々。話題と言えば、食べ物や着物、金銭や地位のこと、健康のこと。これらのもの次第で一喜一憂する私たち。いつの間にか、己の力一つで生きているつもりの、高慢な人間社会に生きる私たち。しかし、だからこそ、ひと時そこから離れ、自分が天の父にとってどれ程大切な存在か、いかによく養われている神の子どもであるかをゆっくりと考え、喜ぶ時間が必要ではないかと思わされます。

 こうして、鳥や花を通して、私たちを養う天の父を示したイエス様。続いては、私たちの生活の必要を知って下さる天の父について教えてくださいました。

 

 6:3132「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」

 

 異邦人とは、聖書の神様を信じていない人々を指します。ここで、イエス様は「神様を信じているはずのあなた方も、まるで神様を知らない人の様に食べ物、飲み物、着る物等、この世の生活のことで心配し、思い煩っていませんか。」そう、私たちに問いかけているのです。

 そして、神様を天の父として信頼することのできる理由として、「天の父は、私たちの生活に必要なものすべてを良く知っておられる」と、言われたのです。皆様は、このことを信じているでしょうか。私たちの生活の必要を良く知っている天の父が生きており、心を私たちに向けておられること、信じているでしょうか。

 天の父は私たちが病気になった時、どんな病気かだけでなく、私たちが感じる痛みも、不安な思いも知っていてくださいます。経済の問題で悩む時、私たちに必要なものばかりか、私たちの心細さも理解してくださいます。大切な人との人間関係で思い煩う時、私たちの傷ついた心も、言葉にできない苦しい思いもご存じなのです。

 私たちがどこに行っても、神様は見守っていて下さる。私たちが、どんな状況に置かれても、そこに神様のご配慮は注がれている。私たちがどんなに困難な境遇のもとにあろうとも、それは天の父が愛する子どものためにしてくださっていることなのです。

 イエス様ご自身が、天の父に対する信頼を告白している言葉があります。それは、十字架を前にして、信頼する弟子たちがイエス様を一人残して、離れて行った時のことでした。

 

 16:32「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」

 

 人間は、自分のことを思ってくれる人がいない時、自分のことを理解してくれる人がいないと感じる時、つまり、一人ぼっちで孤立していると思う時、最も弱い存在だと言われます。しかし、イエス様はどうだったでしょうか。弟子たちが離れて行った時、そのことで思い悩んだでしょうか。そうではありませんでした。むしろ、ともにおられる天の父に心励まされ、十字架への道を進みました。

私たちも、イエス様と等しく天の父に愛されている神の子どもです。ですから、どんな状況に置かれても、イエス様とともに「私はひとりではない。私のことを知り、最善の配慮をしてくださる天の父が、私と一緒におられる。」そう信じ、告白することができます。神の子どもとして、天の父とともに、日々歩む者でありたいと思うのです。

そして、ついに、イエス様が私たちの思い煩いを癒す決定的な方法を示されます。山上の説教の中でも、ひと際輝く金字塔の様なことば、私たちの心をとらえて離さぬ名言でした。

 

6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

 神の国とは、神様の支配です。神の国は、イエス・キリストを信じる者の心にあり、今や世界中に広がっています。義とは、神様のみこころ、神の国の王である神様が喜ばれることです。ですから、神の国とその義とをまず第一に求めるとは、どの様な状況でも、神様に従うこと。神様のみこころ、喜ばれることは何かを考え、それを第一にして行動することです。私たちが大切にしているこの世の富や物質、自分の権利や立場よりも、神様のみこころを優先すること、と言えるでしょうか。

 今日は、旧約聖書に登場する信仰の父アブラハムの例から、これを学びたいと思います。神に信頼する人アブラハムは、土地こそ所有していませんでしたが、約束の地で祝福され、多くの家畜と金銀に恵まれていました。アブラハムを手伝っていた甥のロトも、次第に独立し、その所有物を増やしていました。

 しかし、叔父と甥、富める二つの群れにとって土地は狭く、僕たちの間に争いが起こるようになったのです。この問題に心悩ませたアブラハムは、驚くべき提案をロトに伝えます。

 

創世記13:19「それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。…アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

 

リーダーであり、年長者であるアブラハムには、当然良い土地を選ぶと言う優先権がありました。しかし、アブラハムはその権利を年下のロトに譲ります。甥のロトとの平和な関係を優先したのです。もしこの状況で、アブラハムが自分の権利を主張していたら、二つの群れの争いは激しさを増し、思い煩いが彼の心を支配することになったでしょう。

けれども、アブラハムは自分の所有物や、リーダーとしての権利よりも、平和を造ると言う神様のみこころを優先したのです。その結果、二つの群れは分かれ、争いは止み、アブラハムの群れは、必要なものを手にしたばかりか、さらに栄えることができました。

神の国とその義をまず第一に求めた者に、天の父が必要なものを与えて下さる。アブラハムの生き方は、難しい状況に置かれた時、私たちが何に価値を置いているのか。何を第一に求めるべきかを考えさせられます。

目先のもの、生活に必要なものを求め、自分の権利を主張して、思い煩いの渦に巻き込まれるのか。それとも、神様のみこころを考え、それに従うことを第一とし、その結果神様から必要なものを恵まれるのか。私たちの前には、常にこの二つの道があるのではないかと思います。

神の子どもとして、第一に求めるべきものは何か。今、この時、この状況で、自分に対する神様のみこころは何か。日々そのことを考え、行動する者でありたいと思います。

最後に、念押しとも思えるイエス様のことばで、6章は幕を閉じます。

 

6:34「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

 

人間の心と言うのはつくづく厄介なものだと思います。ある時は過去を振り返り、一晩中「どうしてあんなことをしてしまったのか」と後悔を繰り返し、心をすり減らすことがあります。かと思うと、どうなるのかわからない明日のあれこれを心配して、よく眠れず、疲れ切ってしまうこともあるでしょう。思い煩いの悪循環です。

それに対して、今日と言う日を、最善を尽くして生きることを勧めています。同じ苦労をするなら、明日を心配し、思い煩うことに力を使うのではなく、神様のみこころを求め、従うことに力を尽くすのが良いと勧めているのです。

私たちが変えることのできない将来や、相手の言動は、私たちのために最善の配慮をしてくださる神様に委ねることができますし、委ねるべきです。私たちがすべきは、今日ここで、神様のみこころを求めること、従うこと。この一事に最善を尽くして今日を生きる時、思い煩いは消え、必要なものは与えられる。そうイエス様は約束しておられるのです。私たち、お互いに励まし合いながら、神の国とその義をまず第一に求める歩み、進めてゆきたいと思います。

 

6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

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