2017年7月2日日曜日

世界宣教礼拝 マタイの福音書9章35節~38節「働き手を求める祈り」


私自身、日本で生まれ育ち、日本でしか牧師をしたことがないので、特別な実感はないのですが、一般的に日本は宣教が難しい国と言われます。

 教育、医療、福祉、年中行事、結婚式、文学、音楽、色々なところにキリスト教文化が根付いています。信教の自由が約束されていて、キリスト教信仰を持つことで公に迫害されることはない。教育制度もしっかりしていて、識字率も高く、無料で手にすることが出来る聖書もあり、願いさえすれば殆どの人が母国語で聖書を読むことが出来ます。パソコン、スマートフォンを使えば、いくらでも聖書の話を見聞きできる状況。

それでも、日本におけるキリスト者の割合は少なく、国別に見ると聖書の福音を知らない人の割合は世界ワースト二位と言われます。宗教を信仰するのは、愚かなこと、非科学的なことと考える人が多くいるのに、占い、オカルトは人気がある。不思議な国です。

この国で信仰生活を送る私たち。どれだけ真剣に、宣教が前進すること、福音が広がることを願って生きているでしょうか。どれだけ、宣教することに取り組んでいるでしょうか。自分の周りだけでなく(自分の生活の場で宣教することは非常に重要ですが)、世界宣教の思いを、どれ程持っているでしょうか。

 今週は日本長老教会の世界宣教週間。今一度、自分自身は「宣教」をどのように考え、取り組むのか。御言葉とともに考えたいと思います。

 

マタイ9章35節~36節

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

 

 罪人を救うために来られた救い主。イエス様の救いの御業の中心は、罪人の身代わりに十字架で死に、復活すること。死と復活が、贖いの御業の中心です。とはいえ、その生涯の中で、「十字架で死ぬこと、復活すること」しかされなかったのかと言えば、そうではありません。神の民として生きるとはどのようなことなのか。本来の正しい生き方を、その生涯の歩みで示して下さいました。家族に仕え、大工の仕事を通して社会に仕え、公に約束の救い主であることを宣言してからは弟子たちとともに、「宣教」もされました。

 「会堂で教える」、「福音を宣べ伝える」という、言葉を通しての宣教も、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直されるという、行動を通しての宣教も、主イエスは取り組まれていた。その根底にあるのは、正しく神を知らず、福音を知らない、罪の中で弱り果てている者たちを、かわいそうに思われた心、あわれみの心。隣人を愛するがゆえに、イエス様は宣教されていたのです。

 

 ところで、イエス様の宣教活動は、この時開始されたわけではありません。マタイの福音書では、四章からイエス様の宣教の活動が記されていました。それにもかかわらず、マタイはここで「それから」イエス様が宣教をされたと記しています。

それまでも取り組まれていたけれども、改めて、言葉と行いによる宣教をされていたことに、ここで注目するよう示しているのです。この直前、一体何があったのでしょうか。

 

マタイ9章34節

しかし、パリサイ人たちは、『彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。』と言った。

 

 イエス様の宣教の働きはよほど順調、順風満帆だったのか想像しますが、意外や意外、そうではなかったのです。神のひとり子。約束の救い主。王の王である方。誰よりも力ある説教が出来る方、いや御言葉そのものである方。誰よりも力ある行いが出来る方、世界を支配している方。その方が、多くの教えをなし、多くの奇跡を行い、人々を愛し励まし助けてきた。

 ところが、人々はイエス様を信じることなく、民の指導者たちは悪霊の頭の働きだと言ったのです。

 

 私たちの感覚で言えば、本当ならば、マタイの福音書は九章三十四節で終わりです。もともと、人間が神様から離れ、悲惨な状態なのです。罪人が悲惨な状態にいるというのは、まさに自業自得。その人間を救い出すために、神のひとり子が、人となって救いの道を説いているのですが、その救い主を信じない。民の指導者たちは自分が信じないどころか、これは悪霊の働きと宣言する。

 救い主から、「もう知らない。」「関わりたくもない。」と言われて当然の状況。「それでイエスは地上を去られた」と記されて、福音書が閉じられても当たり前のこと。しかし、主イエスは、これで終わりとはなさらなかった。ますます心を燃やして、言葉と行いによる宣教に取り組まれたというのが、今日の箇所でした。

マタイ9章35節~36節

「『それから』、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

 

 ご自身に対する応答がどうであっても、罪人を救おうとされる思いは変わらず。人々への愛は変わらず。約束の救い主が誰だか分からない罪人の姿に、なお一層心を燃やされる方。これが、私たちの救い主でした。

 ところで、イエス様は宣教活動をすると同時に、ご自身が十字架での死と復活の後、天に昇られた後のことも見据えておられました。罪人の罰を引き受け、身代わりに死ぬこと、死に勝利し復活すること。それは、救い主だけが出来ること。イエス様のみの御業です。しかし、言葉と行いによって、福音を宣べ伝えること、これはキリストの弟子にも引き継がれる働きでした。この、キリストの弟子たちに引き継がれる働きについて、イエス様はここで、重要なことを言われるのです。

 

マタイ9章37節~38節

そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」

 

 主イエスはご自分の命を使い、罪人を救い出します。死の中にある者に、命が注がれます。その覚悟をもって、「収穫は多い」と言われました。

 しかし、キリストを宣べ伝える働き、福音を告げ知らせる働きは、弟子に引き継がれる。とても重要なことですが、キリストを信じる者が、神の協力者として、収穫を刈り取る働きをするということです。キリストを信じるとは、重大な使命を頂く意味もあるのです。

ところが、その神の協力者となる者、収穫のための働き手が少ない、とイエス様は言われたのです。そのため、働き手が送られるように、祈って欲しいと言われたのが今日の箇所です。

 

私たちに対する祈りの要請。私たちの救い主、私たちの主が、私たちに祈って欲しいと言われる。今まで私たちは、どれだけ真剣に「収穫のために働き手を送って下さい」と祈ってきたでしょうか。過ぎし一週間、私たちがささげた祈りの中に、「働き手を送って下さい。」という祈りは、入っていたでしょうか。

 日本は宣教が難しいと言われます。結果が出ないと言われます。一つの理由ではなく、様々な要素が絡み合って、現状がありますが、今日の聖書箇所によると、このキリストの祈りの要請に、私たちが応じていなかったから。私たちにも責任があるのではないかと考えさせられます。

 

 イエス様は本気で人間を救おうとされた。だから、「収穫は多い」と言われたわけです。それなのに、私たちが本気でない。「働き手を送って下さい」と祈って欲しい。そうキリストに言われながら、尚もこの祈りをしないというのは、あまりにひどい話。自分の命をかけて、人間を救おうとされた方を前に、尚もこの祈りの要請に私たちが答えないとすると、キリストの死を無駄にしても良いと告白するようなもの。命懸けのキリストの収穫を無駄にして良いと考えるならば、それはキリストの教会ではなくなります。

 今日、イエス様の言葉を前に、今一度「働き手を送って下さい。」と祈ることに、皆で真剣に取り組みたいと思います。これまで祈っていなかったと思うならば、キリストの願いを無視していたことを悔改めて、真剣に「どうぞ働き手を送って下さい」と祈りたいと思います。

(この「働き手」とは、必ずしも牧師や宣教師だけを指すものではありませんが、四日市キリスト教会の歴史を見ますと、多くの牧師、宣教師が送られてきました。それは、これまで祈られてきた「働き手を送って下さい」という願いに、神様が応えて下さったからでもあります。これからのために、「働き手を送って下さい。」と祈ると同時に、ここまで、教会の歩みが守られ、四日市の地で宣教が前進していることに感謝することも忘れないようにしたいと思います。)

 

 ところで「祈る」というのは、通常は、神様に願って終わりということではありません。安全に家に帰れるようにと祈った人が、ひどい運転をするとしたら。あの学校に合格することを祈りながら、勉強に取り組まないとしたら。「祈る」ということが、どのようなことなのか、分かっていないことになります。「祈り」とは、神様に願いを伝えつつ、またそれが実現するために自分も出来ることに取り組むことです。

 

 ある本に、お腹をすかせた子どもと、教会学校の先生の話しが載っていました。

教会学校の先生が、神様は何でも出来る方だから、神様に食べ物を下さいと祈りましょうと言う。そう言われた子どもは、半信半疑ながら、神様に祈る。先生も祈る。しかし、祈れど祈れど、特に変わったこともない。そこで、子どもが祈っても何も変わらないじゃないかと思い始めたころ。その先生は食べ物を用意し、子どものところに行き、また食べ物を下さいと祈った。祈り終った後で、ここに食べる物があるから、これを食べなさいと言って、子どもに渡す。そして、先生が、神様は祈りに応えて下さる方だと言う。子どもは大喜びでそれを食べ、食べ終わったところで、こう言ったそうです。「でも、この食べ物は神様がくれたのではなくて、先生が作って持ってきたものじゃないか。神様がお祈りに応えてくれたわけじゃない。」と。すると先生がこう答えました。「いいえ。お祈りを続けた結果、その食べ物は私が準備出来ることに気が付きました。神様は私を通して、お祈りに応えて下さったのよ。」と。

 私たちが、真剣に「働き手を送って下さい」と祈るならば、この教会学校の先生と同じことを考えることになります。この祈りの実現のために、自分は何が出来るだろうか。働き手を送って下さいと願うと同時に、自分自身も働き手として何が出来るのか、働き手を支えるために何が出来るのか、真剣に考えたいと思います。

 

 この世界宣教週間の一週間。既に海外で労されている宣教師の方々、これから宣教師になろうとしている方々、日本で宣教師として労している方々のために祈ることに、取り組みたいと思います。その宣教師の方々のために、自分は何が出来るのか、考えたいと思います。同時に、収穫の主に「働き手を送って下さい」と真剣に祈りたいと思います。

その結果、この四日市キリスト教会からも、日本各地で活躍する牧師、世界で活躍する宣教師が起こされますように。いや、宣教の働きは、牧師、宣教師だけのものではありません。私たち一同で、この地に住んでいる方々に、福音を届けたい。キリストの十字架によって実った収穫を、刈り取っていきたいと思います。

 「収穫は多い」と言われたキリストの言葉を真剣に受け止め、それならば「働き手を下さい」と祈り、そして私は何が出来るだろうかと考える。そのような歩みを皆様とともにしていきたいと思います。

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