2017年7月9日日曜日

マタイの福音書7章1節~5節「山上の説教(36)~自分の目にある梁~」


皆様に振り返ってほしいことがあります。皆様は、人の失敗や欠点に気がついた時、それを口に出して指摘するタイプでしょうか。それとも、口を制するタイプでしょうか。人を非難せずにはいられないことが多いタイプでしょうか。それとも、適切な伝え方を考えつくまで、思いを心に収めておくことができるタイプでしょうか。

江戸時代の小話に、無言の修行に励む四人のお坊さんの話があります。ある日、七日間、絶対に一言もしゃべらない。無言で過ごすことを誓い合った、四人のお坊さんが山寺に集まります。皆道場に座り、かたわらには、小坊主が走り使いを務めていました。

無言の修行に入り、夜が更けてきます。すると、一人のお坊さんが、小坊主が居眠りを始めたために灯が消えてしまいそうなのを見て、イライラし、「小坊主、灯が消えてしまうぞ」と注意する。すると、隣に座っていたお坊さんが、「私たちは無言の修行の最中。物を言うとは何だ」と叱って、これまた物を言う。すると、その隣のお坊さんが「二人とも物を言うとは何と情けない」と非難し、喋ってしまう。すると、最後に残った最も位の高いお坊さんが、得意顔で「物を言わなかったのは、私ひとりか」と独り言を言い、これまた喋ってしまった。

私たち人間が、いかに人の欠点や失敗をあげつらうことにはいかに素早い者か、そのくせ、自分を省みることがいかに少ない者であるかを物語る。そんなお話でした。

 

私たちが読み進めてきた山上の説教も、今日から第7章に入ります。ここにも、これまでと同様、「目の中の梁とちり」「豚に真珠」など、よく知られた名言、格言が登場します。そして、今日の個所で、イエス様が取り上げているのは、私たちの中にある人をさばく心です。

 

7:1、2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」

 

もちろん、さばくと言っても、すべてさばくことが否定されている訳ではありません。私たちの社会生活は、あれこれと批判、判断、評価することで成り立っているからです。

私の好きな野球の試合でも、アンパイアーがストライクとボール、セーフとアウトを判定しなければなりません。法律による裁判がなければ、社会の秩序を守ることはできないでしょう。文芸や芸術の批評は有益ですし、学校の先生は、生徒の成績を評価する立場にいます。道徳上の善悪は論じられ、何が善で何が悪か、判断を下さなければなりません。

イエス様も、この後のところで、「偽預言者たちに気をつけなさい」として、私たちに本物の預言者と偽物を見分けること、判断することを命じておられます。ですから、イエス様がここで禁じている「さばき」とは、優越感から生まれる非難、あらさがし、感情的に人を責める態度、人の失敗や欠点を喜ぶ心を指していました。

国語辞典を引くと、非難と同じ意味を持つことばが、これでもかと言うぐらいに出てきます。咎める。聞きとがめる。見とがめる。追及する。問い詰める。詰る。面詰する。当てつける。当てこする。面当て。揚げ足を取る。皮肉る。言いがけりをつける。いちゃもんをつける。嫌味を言う。難癖をつける。指弾する。糾弾する。弾劾する。槍玉に挙げる。罵倒する。後ろ指を指す等々。本当に、キリがないと感じます。

これらを見ていると、一言注意すれば済んだことなのに、相手を追求し、問い詰め、喧嘩になってしまった経験を思い出す方がいるかもしれません。言われたら言い返す、やられたらやり返すで、相手に嫌味を言ったり、難癖をつけたり。大切な関係の溝が深くなった。そんな出来事を思い出す方もおられるでしょう。

私たちの中にある人をさばく心が、兄弟喧嘩に親子喧嘩,夫婦喧嘩に友との喧嘩。家庭、社会、教会など、様々な場面で争いを生み、どれ程あるべき平和な関係を踏みにじっているかを思わせられます。

そんな私たちの現実を良くご存じのイエス様が、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と語られたのは、当然のことと思えます。ところで、ここに「さばかれないため」とありますが、私たちは誰にさばかれるのでしょうか。同じ教えが語られた、ルカの福音書には、こうあります。

 

ルカ6:37「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」

 

ルカの福音書では、「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」と言うことばからも分かるように、人からのさばき、人からの赦し。対人関係がテーマです。人をさばかなければ、人にさばかれることもない。人を赦せば、人からも赦される。

俗に、情けは人のためならずと言います。人に情けをかけるなら、その情けが自分に帰ってくる。人をさばかなければ、自分もさばかれない。人を赦せば、自分も赦される。

世間一般にも通じる、極めてわかりやすい教えとなっています。イエス様が、私たちの気持ちを知りぬいた教師であることが良く分かり、嬉しく感じるところです。

しかし、山上の説教では、私たちをただ一人正しくさばくことのできる神様の存在に、焦点が当てられています。「人をさばいてはいけません。神にさばかれないためです。あなたがたが人をさばくとおりに、あなたがたも神にさばかれ、あなたがたが人を量るとおりに、あなたがたも神に量られるからです」。神様との関係が前面に出てきます。

神の子である私たちは、人のさばき、人の評価を気にすることにとどまっていてはならない。神様のさばき、神様の評価を意識して、考え、行動せよ。そう、イエス様は命じているのです。

人を責め、人を非難し、人の失敗や欠点をあげつらう私たちの心、私たちのことば、私たちの態度。それらを、聖なる神が見ておられる。私たちの行いを正しくさばく神がおられる。この信仰によって、どれ程、私たち自分を戒めることができるでしょうか。

神を知る以前は、いとも簡単に人をさばいていた自分。今でも、短気の虫を飼っている自分。人を責めてしまうことのある自分。もっともっと聖なる神のことを意識して生活しなければと思わされます。神の子なら、十人が十人、厳正な神のさばきを恐れないわけにはいかないでしょう。

ところで、神のさばきと聞いて、「キリストを信じて神の子とされた者は、神のさばきに会うことはないのではないか」と不思議に思う方もいるかもしれません。ですから、ここで、聖書が教える三つのさばきについて、整理しておきたいと思います。

第一に、聖書は永遠のさばきを教えています。これは、神様による最終的なさばきで、キリストを信じる者を天国に、信じない者をよみ、地獄に分けるもので、キリストを信じる私たちは天国行きが確定しています。

しかし、それだけではありません。聖書は第二のさばきを教えていて、それは、私たち神の子が、この地上で罪を犯した時に与えられるさばきです。このさばきは私たちに対する神様の訓練。私たちを鍛え、養い、きよめると言う意味を持っています。

第三は、神の子らである私たちが、死後に受けるさばきです。

 

Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

 

これは、天国に行くか地獄に行くかを決めるさばきではありません。私たちは既にそのさばきは通過しています。詳しいことは聖書に教えられていませんが、天国での生活に影響する神様のさばきがあること、それを恐れ、意識して、地上を歩むべきことを、イエス様は私たちに勧めているのです。

さらに、私たちが人をさばいけてはいけない理由が語られます。それは、私たちの目の中にある梁の問題でした。

 

7:3~5「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

 

梁は、天井裏にある大きな横木です。最近は梁を知らない人がいるからでしょうか。新共同訳聖書では、「梁とちり」ではなく「丸太とくず」に変えられていました。「なぜあなたは、兄弟の目の中のくずに目をつけるが、自分の目の中の丸太には気がつかないのですか」と言う風にです。

梁とちりにせよ、丸太とくずにせよ、私たちの偽善を指さすイエス様のことばは、痛烈な皮肉。その効果は、人のちりには気がついても、自分の梁には気がつかない私たちの心を貫きます。このことばで、ようやく鈍感な私たちも、人をさばく時自分の中にある罪のひどさに、目が開かれる思いがします。

これまで、人の欠点や弱さ、罪について、助けてあげたいと思った時、私たちが人に示してきた態度が、多くの場合いかに間違っていたかを自覚させられます。私たちの中にある、人を非難し、人を責め、やり込めるような態度こそ、相手の目にある小さなちりに比べたら、大きな梁であることを教えられるのです。

「あなたがさばいている相手は、不道徳かもしれない。無責任かもしれない。弱さを持っているかもしれない。自分勝手かもしれない。しかし、そうだとしても、それは、あなたの中にあるさばきの心、さばきの態度に比べたら、小さなちりに過ぎない。だから、まず、あなたの目の中の梁を取り除くことから始めよ」。

私たちの家族、教会、社会に、あるべき平和を回復するため、イエス様が語るこのメッセージに、私たち耳を傾けたいと思うのです。

それでは、自分の目の中の梁を取り除くとは、どういうことでしょうか。

「天路歴程」を書いて有名なジョン・バンヤンが、刑場に引かれてゆく囚人を見た時のエピソードがあります。人々がみな囚人を罵り、唾を吐きかけているのを見て、バンヤンは、いきなり道に跪き、天を仰いで祈ったそうです。「ああ、私もあの死刑囚と同じ悪人です。私は心の中で罪を犯すに止まっていますが、彼は、それを実行しました。彼と私の違いは、ただこの一点にすぎません。かえって、私は心の中の悪を、彼のように実行しえなかった点において、一層情けない罪人です」。

人を見て、指をさし、罵る者になるか。バンヤンの様に、神様の前で自分の罪を指さしへりくだる者になるか。私たちも、心の奥底を見抜かれる神に直面して、他人を非難する人生から、自分を省みる人生に目を開かれたいと思います。特に、今日のイエス様のことばによって、まず自分の罪を見つめる者となる恵みを与えられたことを思い、これを活用してゆきたいと思うのです。

人の成熟度は、反省心によってはかられると言われます。いつまでたっても、自分を省みることのできない人は心の発育不全です。信仰者になっていても、私たちの中には、人を非難し、侮る、未熟な自分がいます。しかし、日々自分を省み、そんな未熟な自分に気がつくことが、梁を取り除くための第一歩なのです。今日の聖句です。

 

4:31,32「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 

人の目からちりを取り除くと言うのは、大変難しい作業です。体の中で、目は最も敏感な器官で、指がちょっとでも触れれば、瞼がすぐに閉じてしまうからです。

人の欠点や弱さ、罪の問題を助けると言うことも、これに似ています。それは、人の心の最も敏感なところに触れることだからです。少しでも、責められていると感じると、相手は心を閉ざしてしまうのです。

私たちが、自分の罪と、神の赦しを思い、謙遜にならなければなりません。相手に同情し、協力者になると伝えることが必要だと思います。赦すとは、相手の欠点や罪を責めないと決意すること、親切とは、これからどうしたら良いかを共に考え、共に課題に取り組んでゆく態度を示すことではないかと思います。

私たちのうちにある、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり等、未熟な自分を捨てること。親切で、優しい自分を養い、育ててゆくこと。古い自分を捨て、新しい自分を養い、育てる。私たちが皆イエス様の命じる道を進み、人をさばく者から、人を助ける者へ。自分を変えることに、根気よく挑戦してゆきたいと思うのです。

 

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