2017年7月16日日曜日

ローマ人への手紙5章1節~5節「信仰者の勇気(2)待ち望む勇気(2)~~


「信頼するとは何か。」と聞かれたら、皆様どのように答えるでしょうか。以外と難しい質問です。日々の生活の中で実際に、私たちは様々なものを信頼して生きているのですが、「信頼するとは何か」との問いに、正確に答えるのは難しいものです。

 「信頼するとは何か。どのようなことか。」この理解の助けとなるのに、綱渡りの名人の話というものがあります。(私の好きなたとえ話なので、これまでに聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。)

「ある村に綱渡りの名人がいました。ある日、その名人が背中に籠を背負い、六十キロほどの石を詰め、綱を渡ります。村人は、あの名人ならば落ちることはないと考えている。石を背負いつつ、綱渡りを見事に成功させた名人が、籠から石を取り除け、『今度は、誰かこの籠に入って一緒に綱渡りをしましょう。』と言います。ここで村人の反応は分かれます。ある人たちは籠に入ることが出来ると思い、ある人たちはとてもじゃないけれども籠には入れないと思う。」

 この話で分かるのは、信頼することと、知っていることの違いです。籠に入れるという人は、この名人を信頼している人。とてもじゃないけれども入れないというのは、自分の村に綱渡りの名人がいることは知っているけど、自分の命を預ける程、信頼はしていない人、ということになります。

 このように考えると、信頼するとは、自分が損害を受けても良い覚悟をすること。もし相手が信頼に応えられない場合、自分に害があっても良いとすること、と言えます。信頼することには勇気が必要なのです。

 

 ところで、聖書は繰り返し神様を信頼するように教えていました。多くの例を挙げることが出来ますが、例えば

 詩篇62篇8節

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」

 

 果たして私たちは、どのような時にも神様を信頼することが出来ているでしょうか。全存在をかけて、神様を信頼する歩みを送っているでしょうか。

 信仰生活を送る中で、順風満帆だと感じている時、神様を信頼するというのは、比較的容易です。問題となるのは、逆境の時。困難、苦難の最中に追いやられた時。そこで、神様を信頼出来るかどうか。

普段、信仰のない生活を送っている人でも、困難、苦難に出会うと、神に頼るということがあります。困った時の神頼み。ところが、信仰を持っている私たちが、苦しみの中で、神様を疑い、神様を信頼しない歩みとなることがあります。残念ながら、逆境の中で、それでも神様を信頼する勇気を持てない時がある。いかがでしょうか。どのような時にも、神様を信頼する歩み、どのような時にも自分の心を神の御前に注ぎだすような信仰生活を送りたいと思うでしょうか。

 今日は、困難、苦難、患難の中でも、神様を信頼すること、待ち望む勇気を持つことの意味を、聖書から確認したいと思います。

 

 開きますのは、パウロという人が記したローマ人への手紙。

パウロはその手紙の冒頭から、世界の造り主である神様を無視して生きることが、人間にとってどれだけ不幸なことなのか。特に罪ある者には、神の怒りが下る、裁きが下ることを確認しました。「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒り」(118)がある。「様々な悪を行うことは、死罪に当たるという神の定め」(132)がある。「悔い改めのない心の者は、神の裁きを前に御怒りを自分のために積み上げている」(25)など、強く口調で、罪という課題の危険性を訴えました。

また、その裁きから逃れる道、罪が赦されるのは、正しい行いをすることではない、自分で自分を変えることではない。キリスト・イエスを、罪からの救い主と信じること。信じるということのみが、罪の問題を解決する道であると続きました。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(323-24)という極めて有名な言葉も、このローマ書の前半で記されたものでした。罪という問題、死という問題、自分ではどうにも対処出来ないこの問題は、キリストを信じる信仰によってのみ解決する。信仰義認です。

 

 このように、罪の悲惨と、そこから抜け出す道を示したパウロが、続いて、キリストを信じる者に与えられる恵みは、ただ罪が赦される、義と認められるだけではない。さらに大きな恵みがあると続くのが今日の箇所、五章となります。

 

 ローマ5章1節~2節

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

 

キリストを信じた私たちは、罪が赦されただけでなく、神との平和、神様との良い関係を持つ者とされたこと。裁きを逃れただけでなく、「神の栄光」と言われるやがて頂く素晴らしいものがあり、それを思うだけで大いに喜ぶことが出来る。短い言葉ですが、重要なことが凝縮されて語られています。

 キリストを信じる者は、義とされるだけではない。神の子とされ、聖とされる。神様から離れて生きていたものが、神様との親しい関係に入れられた。「死」に捕らわれていた者が、新しいいのち、永遠のいのちを頂き、やがて死なない体で復活し、神の栄光に満ちた世界に入れられる。キリストを信じることで、とてつもない大きな恵みを頂いている。それが嬉しくてしょうがない、大いに喜んでいると言います。

 いかがでしょうか。キリストを信じる私たちは、これを記したパウロと同じ恵みを頂いている者。パウロがここで記しているような、感動、喜びを、どれだけ味わって信仰生活を送ってきたでしょうか。

 

 それはそれとしまして、パウロはさらに、キリストを信じる者に与えられる恵みを語ります。今日、特に注目したい箇所です。

 ローマ5章3節~5節

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 これもまた、とても有名な言葉、多くの人に愛され、暗唱された聖句です。練られた品性とは、優れた人格という意味。希望とは、生きる力と言えば良いでしょうか。患難が忍耐を、忍耐が優れた人格を、優れた人格が生きる力を生み出す。患難には、私たちを成長させる重要な意味があることを教える言葉。

 

 ところで、苦労や困難が、人を成長させるというのは、一般的に良く知られたことです。「可愛い子には旅をさせよ」とか「獅子の子落とし」とか。楽な道と大変な道があるなら、敢えて大変な道を選ぶという人もいます。

健康でいること、富を得ること、合格、昇進が、人を高慢、腐敗、堕落、不敬虔にすることがあり、病気、貧しさ、落第や左遷が、人間らしさを取り戻させ、敬虔を回復することがある。患難、苦難が、結果的には自分にとって有益であったと思うことは、しばしばあります。いかがでしょうか。今まで、患難を味わうことが自分にとって有益だと思うことはあったでしょうか。

 

 患難が人を成長させることがあるというのは、一般的に言えること。それでは、パウロはここで一般的な格言にあたることを、教えているのでしょうか。そうではありません。話の流れは、キリストを信じる者に与えられる恵みとは何かということですから、一般的な格言ではないということになります。

 それでは、ここでパウロが言おうとしていることは何なのか。それは、信仰者ならではの患難の向き合い方があり、信仰者でしか味わえない成長の仕方があるということです。

あるいは、通常であれば有益な結果につながると思えない患難。解決が見えないもの。乗り越えられるとは思えないもの。長期に渡り、あまりに過酷なもの。愛する人を失うこと。生きがいを失うこと。長年の取り組みが無駄になること。期待し続けたことが実現しなかったこと。予想していなかった大病や怪我。とても耐えられない。そのような患難でも、喜べる道があるということ。おかしな表現になりますが、キリストを信じる者は、喜びえない患難さえも、喜ぶことが出来るということ言っているのです。一体どうしたら良いのか。何が鍵となるのか。

 

もう一度、今日の箇所、特に最後の部分に注目します。ローマ5章3節~5節

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 聖書は患難に向き合う際、ただ我慢するように、ただ耐えるようにとは教えていませんでした。患難の中にあって、神の愛を味わうこと。神の愛が自分の心に注がれていることを確認するように。聖書的な忍耐とは、苦しみを只々我慢することではなく、苦しみの中で神様の愛を確認することでした。

 これが、パウロがここで伝えようとした、キリストを信じる者に与えられる恵みの中心です。キリストを信じる者とは、神の愛を確認することが出来るようになった者。信仰生活とは、人生の中で神の愛を確認すること。患難の中で、それがどれ程苦しい患難だとしても、その中で私たちは神様の愛を確認することが出来る。神様を信頼する生き方の一つは、どのような状況の中でも、神様の愛が私たちの心に注がれていることを味わうことだと、今日確認するのです。

 

 また、この言葉を反対からとらえると、神様の愛を味わうことなく患難に向き合う場合、聖書が教える練られた品性や希望を生み出すことにはつながらないのです。一般的な意味で、苦労した人が人格的に成熟するということはおこっても、ここで教えられているような練られた品性、希望にはつながらない。残念というか、もったいないというか。

 いかがでしょうか。神様を信頼する歩みを送りたいと思うでしょうか。これまでの人生の中で、患難に向き合う際、神様の愛を確認するということに、どれだけ取り組んできたでしょうか。

 

(自分自身の経験を説教で紹介するのは、相応しくない場合があります。自分の信仰深さをひけらかすことにならないように考えながら、私自身の経験をお伝えしたいと思いますが)過ぎし一週間の中で、今日の説教の準備をしながら、この御言葉、この約束に大変助けられました。

この一週間の中で、特に大変だと思ったのは、アルツハイマーの母がトイレに行くと言い、夜中に何度も起こされた場面。疲労と睡眠不足で、頭痛と吐き気がする中、十五分前にトイレに行った母に、またトイレに行きたいと起こされる。色々なことが心に浮かびました。この状況が続く中で、私自身、母を敬い、仕えることを継続出来るだろうか。いつか母を疎ましく思う時がこないだろうか。この体調で、朝から教会の仕事を滞りなく行うことが出来るだろうか。これから寝ても、またすぐに起こされるのではないだろうか。不安や恐れ、心配が心に浮かびましたが、まさに今こそ、私の心に注がれている神様の愛を確認したら良いのだと思い出しました。

神様は、イエスキリストを私の身代わりにするほど、私を愛していること。私の感じている不安や恐れ、心配もよくご存知でいて下さること。私以上に、私を愛し、そして教会を愛している方が、ともにいて下さること。聖書で教えられている、基本的なこと。ごく当たり前のこと。しかし、確かに私の心に注がれている神様の愛を確認した時、不安や心配していたことがどうでもよくなりました。病の中で、混乱している母のことも、神様はとても愛していることに今一度気づきました。体は疲れていて、体調が悪いのは変わらない。母の病が治ったわけでもない。それでも、生きる力が沸いてきました。その時、聖書は本当に凄いと感じましたし、キリストを信じる信仰が与えられていて本当に良かったと強く思いました。

(ちなみに、その時の思いが、ずっと続いたわけではありません。別な場面で、不安や恐れを感じ、その都度、神様の愛を確認する歩みを送って一週間を過ごしました。)

 

 以上、神様を信頼する勇気について。特に逆境の中で、神様を信頼することについて、確認しました。

 私たちの人生には、大なり小なり、患難がつきもの。誰の目にも明らかな患難もあれば、その人にしか分からない患難もあります。絶望的な状況に追いやられることもあります。私たちは、どのように患難に向き合えば良いのか。どのように神様を信頼したら良いのか。

 絶望して蹲らないように。不平不満をこぼして終わりとしないように。神様への不信を募らせ、別なものを信頼しようとしないように。

 患難の中にあって、私たちの心に注がれた神様の愛を確認すること。この神様の愛を確認出来る、味わうことが出来ることこそ、キリストを信じる者に与えられた最大の特権の一つでした。また、神様の愛を確認しつつ患難に向き合うことが、聖書的な忍耐の仕方であり、その忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性は希望を生み出す。この約束を胸に、私たち一同で、勇気をもって神様を信頼する歩みを送りたいと思います。

 

今日の聖句を皆で読みたいと思います。

 詩篇119篇71節

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

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