皆様にとって、家族は良いものでしょうか。それとも、厄介なものでしょうか。「この家族でよかった」と感じること、あるでしょうか。あるいは、この家族と暮らすことが辛くて、厄介と感じる。その様な経験があるでしょうか。
思春期の真っ只中。私にとって、親の存在は時にうるさく、時に疎ましいものでした。家族とは、厄介なものだったのです。しかし、今実家に帰り年老いた母と接していると、特に四日市に戻る私を、家の外に立って心配そうに見送る母の姿を見ると、心から愛おしさが涌いてきます。家族の絆、家族の良さを感じる瞬間です。
他方、妻の考え方がどうしても理解できず、ケンカになってしまった時は、神様は何と厄介な存在を与えたことかと思う。しかし、心から自分の様な者を尊敬してくれる妻に接すると、神様の素晴らしい恵みを与えてくださったと感じる。私にとって、いや多くの人にとって、家族とは、時に良いもの、時にやっかいなものなのかもしれません。
今、人生の最後を自宅で迎えることを希望する人が、増えています。高齢者の78%が自宅で最期を迎えたいと願っていると言われます。「病院で最期を」と答えた人も、自宅では家族に迷惑をかけることになるからと考えてのこと。本音を言えば、住み慣れた家で最期を迎えたいのです。狭くても、古くても、設備が整っていなくても家が良い。良い思い出も、辛い思い出もある家で、最期まで過ごしたい。私たちにとって、家は特別な場所です。
ところで、皆様にとって、どれ程家族は大切なものでしょうか。日本人は家族よりも仕事、家族よりも会社を上に置く傾向が強いと言われます。会社は公、家族は私。仕事優先、時に仕事のために家族を犠牲にすることも良しとされてきました。
最近は、育メンとも言われる家事や育児に取り組む男性が増えているそうです。社会もその方向性を進めているように思われます。しかし、なかなか労働時間は減らない、たとえ家にいる時間が増えても「男性は外で仕事、。家児と育児は女性の仕事」と言う、夫の意識が変わらなければ、と言う指摘もなされています。
また、結婚して子供が生まれるまでは、お互いの名前を呼んでいたのに、子どもが生まれた途端、お互いを「パパ、ママ」「お父さん、お母さん」と呼ぶ夫婦が多く、夫婦よりも、親子の関係を重視するのが、日本の家族の特徴とも言われます。
つまり、一般的な日本人の考え方は、第一に仕事、次に家族。家族でも第一は親子の関係で、次が夫婦の関係と言うことになるでしょうか。勿論、どれもが大切なのですが、果たして、皆様の人生における優先順位は何でしょうか。
聖書が教える優先順位は、夫婦、親子、仕事ではないかと、私は感じています。神様は、最初の人アダムに子どもではなく妻を与えました。夫アダムと妻エバから子供が生まれました。第一に夫婦、次が親子と言う順番です。また、社会で充実した仕事をするためには、夫婦、親子の関係が土台となります。年齢的に仕事ができなくなっても、夫婦、親子の関係は続くからです。さて、先程読んだ聖書の個所は、家庭の幸いを歌う、家族賛歌です。
128:1~4「幸いなことよ。すべて【主】を恐れ、主の道を歩む者は。あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。【主】を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」
勤勉な夫、家を切り盛りする甲斐甲斐しい妻、オリーブの若木の様に健康な子どもたちが食卓を囲む姿は、理想の家族そのものです。勿論、聖書は外で働くのは男性、女性の勤めは専ら家事と育児と言う風に、男女の役割を固定しているわけではありません。これは、当時の文化の中で幸いな家族の一つの形を描いているもの。大切なのは、彼らが神様を恐れ、お互いに愛し合う関係にあったことです。
ところで、数か月前。NHKテレビで「今、日本の家族が危ない」と言うタイトルで、二週続けて家族の問題を取り上げていました。第一回は親子の問題、第二回は夫婦の問題です。
夫婦の問題で取り上げられたのは、夫に対してキレる妻でした。今、日本では年間21万7千組が離婚。その内の7割が妻からの離婚申し立てによるものです。そして、離婚申し立ての理由の第一位は、何だかわかるでしょうか。「夫が自分の気持ちを理解してくれない」です。
例えば、ある女性は「仕事も育児も全力投球しているつもりだが、いつも中途半端になっていないか、悩んでいる。朝早く送り出し、迎えに行くのは遅い。そんな子どもたちにも申し訳ない。何かあれば迷惑をかける会社にも申し訳ない。夫は、うんともすんとも言わない。たまに、口を開くと、結局お前はどうしたいんだ、俺にどうして欲しいんだと言う始末。でも、欲しいのはアドバイスじゃない。自分の抱える不安やストレスに対して、大変だね。頑張ってくれてありがとう。そういう共感のことばが欲しい」と語っていました。
「それはこういうことだから、こうすればよい」と結論と具体的対応を示せば、話は終わりと考える男性。それに対して、自分の気持ちを理解し、受け止めてくれる共感のことばを求める女性。このすれ違いが、妻の感情を爆発させると言われます。
三浦綾子さんが「愛するとは共感すること」と書いていましたが、まさに、共感力が豊かな女性と共感力に乏しい男性のすれ違いの問題です。私にも心当たりがあります。妻の話を聞いていて、その長さに焦れてしまい、「早く100字以内で結論を言ってくれ」と言ったことが何度かあります。すると、妻は「あなたは、どうして『大変だったね』の一言が言えないの」と返してくる。テレビを見て、すれ違いは我が家だけではない、と少し安心しました。
また、女性は悲しみ、不安と言ったネガティブな経験を詳しく記憶することができるそうです。それに対して、男性は同じ経験をしても、漠然としたイメージでしか記憶できない。女性から「あんなに苦労したこと、辛かったこと忘れたの?」と言われても、「そんなこともあったなあ」としか言えないので、気持ちの分からない人、鈍感な人と思われてしまうことが多いのだそうです。
確かに、男性には、このような弱点もあります。しかし、男性は多少の悲しみや不安を感じても、それを忍耐して仕事をしたり、物事に挑戦してゆくという働きに長けているとも言われます。こうした違いは、男性と女性の脳の働きから生まれるものだそうです。
子どもの成長にとって、最高最良の環境は、愛し合う夫と妻。ことばを代えれば、お母さんを思いやるお父さんとお父さんをお母さんの存在と言われます。また、子どもが自立、独立しても、夫婦の関係は続きます。夫婦が、お互いの性格の違い、男女の違いを理解して、相手の心に届くような愛情の伝え方、表し方を考え、実践してゆけたらと思います。
次は、親子の関係です。昔から、日本では子宝ということばがあるように、子どもを大切にしてきました。「しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから 子にしかめやも」。万葉集にある山上憶良の歌です。この世の金銭、宝石にもまさって、大切な宝は子どもと歌い、人々の共感を誘ってきました。
しかし、今回家族についての本を読む中で、今日本の親子関係について、多くの本が共通して取り上げているのが、二つの問題でした。ひとつは、思春期の子どもが親の何気ないことばにキレる、あるいは引きこもると言う問題。二つ目は、父親不在と母子密着の問題です。
子どもを大切に思うがゆえに、何故子どもが感情を爆発させるのか理解できず、対応に迷う親。子どもを大切に思いながらも、仕事が忙しく、子供と接する時間を持てないお父さん。それを少しでも補おうと我が子と密着してゆくお母さん。そんな親の姿が見えてきます。
一昔前とは、子供を取り巻く環境も変わりました。テレビやインターネットを通じて押し寄せる情報の洪水。塾通いなどによる忙しさ。核家族、少子化による人間関係の希薄化など。以前なら、親以外にも、祖父母や近所のおじさん、おばさんなど、子どもの逃げ場、話し相手となる大人が周りにいました。でも、今は子どもが一人一人孤立し、弱くなって、様々なストレスを抱えている状況です。そこで、子どもたちがスマホでのコミュニケーションに逃げ込む。それが度を越すと、スマホ依存を引き起こす。親はますます不安になる。そんな状況が浮かび上がってきます。
思春期の脳は、負の感情に激しく反応します。お母さんのちょっとイライラした一言、お父さんのちょっとそっけない態度に過剰反応する。他方、激しい感情にブレーキをかける脳の働きは余り発達していない。そんな特徴があります。不安になる親の、100倍もの不安が、思春期の子どもの心には存在するとも言われます。
しかし、思春期は、最も好奇心や学習能力が高められ、チャレンジ精神が旺盛な時期です。自分とは何か、正義とは何か。愛と何かなど、大切なことを深く考え始める時期でもあります。それがゆえに、親に批判的になることも多いのです。
そのような時期こそ、お父さんとお母さんが協力して、対応する必要があると思います。時には、お父さんが壁となって、子どもに何が正しく、何が間違っているのかを伝えることも必要です。時には、お母さんが、子どもの不安な心を受けとめ、子どもの思いを聞いてあげることも必要でしょう。勿論、お母さんが壁となることも、お父さんが聞き役になるのも良いと思います。夫婦それぞれの性格、賜物を発揮すること、両親が同じ目線で、接することが肝心ではないでしょうか。
誰もが多かれ少なかれ、経験する思春期。何とも厄介な思春期があるのは、人間だけなのだそうです。けれども、この厄介な時期もやがて、子どもが自立、独立して、親から離れてゆくことをもって、終わりを告げます。子育ての目標は、子どもの自立。これも、親として確認しておきたいことです。
大阪にある淀川キリスト教病院の院長をしている柏木先生が、面白いことを書いています。柏木先生が反抗期の子どもの頃、ある日お母さんが、へその緒を持ってきたそうです。その時初めてへその緒を見た柏木先生は、「お母さんとお前は、こういうもので結ばれていたんだよ」と言われ、意味が理解できませんでした。しかし、後になって、「お母さんとお前は、こんなに強い絆で結ばれているんだから、反抗してはダメだよ。親から離れたらダメだよ」。お母さんの言いたいことはこういうことか、と分かったそうです。
対照的に、アメリカでは、子どもが初めて自分で歩いた「小さな一足の靴」を記念として、親が持っていると言う話を紹介しています。一足の靴は、「これは、お前が初めて自分の足で歩いた靴だよ」と言う意味で、子どもが成長して親を頼ってきた時、小さな靴を見せるのだそうです。「お前はすでに親から離れて歩いて行っている。だから、そんなことで親のところへ戻ってきてどうするの」と言うメッセージです。
子どもをできるだけ親のもとで守ろうとする家族。子どもの独立をうながす家族。子どもの独立に寂しさを覚える親。子どもの独立に喜びを感じる親。それぞれに意味があり、良さがあります。一概に、どちらが良いとも悪いとも言えないでしょう。
但し、聖書にはこの様な教えがあります。
創世記1:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」
子どもの自立をもって終了する親の子育て。しかし、それで親子の関係が切れるわけではありません。親と子が、お互いを一人の男性、一人の女性として尊び、親しみ、支え合う。そんな、対等な関係、友情の関係に変わってゆくのです。
何をしても可愛らしい赤ん坊の時代。日々成長する姿が嬉しい少年時代。厄介な対応を通して、親も成長する思春期。子どもが自立した後の友情。神様は、親子の関係に、段階に応じた恵み、喜びを与えて下さることを感じます。
最後にお勧めしたいのは、私たちに家族を与えて下さった神様を畏れ、信頼することです。聖書によれば、神様を信頼しなくなった人間の性質は自己中心。愛することにおいても、私たちは自己中心の愛し方しかできなくなっています。そして、最も自己中心の性質が表れるのが家族と言われます。他の人に対してなら、絶対に口にしないような言葉を、家族に対しては口にしてしまう。家族のために言う思いが強すぎて、いつの間にか自分の考え方を押しつける。親に依存する子ども、子どもに依存する親。自己中心の性質、自己中心の愛が、私たちの家族に様々な問題を生み出しているのです。
しかし、神様を信頼する者に、神様は、家族をも一人の人格として接する愛を与えて下さいました。家族が、お互いを一人の人格として愛するとはどういうことでしょうか。
哲学者のショーペンハウエルに、二匹のヤマアラシのたとえ話があります。冬の寒い夜、二匹のヤマアラシが野原で会いました。風が吹き、寒くて仕方がありません。そこで、お互いの体温で温め合おうと、二匹が近寄ったところ、近寄りすぎて、自分たちの体の針で互いを傷つけ合い、とても痛かったと言います。これではいけないと、離れると、二匹の間を風が通り抜け、また寒いのです。そこで、二匹は少しずつ近寄り、互いの針で互いが傷つかないように、しかも、お互いの体温を感じられる距離を保ちながら、夜が明けるのを待ったと言うお話です。
夫と妻が、「夫は夫、妻は妻で良い。自分は自分で良い」と感じられる関係。親と子が、「親は親で良い。自分は自分で良い」と感じている関係。それでいながら、夫と妻、親と子がお互いを大切な存在として思いやる関係。密着し過ぎず、離れすぎない。適度な距離のある関係が、私たちの目指すべき関係ではないかと思います。
最後に、三つのことばをお勧めします。家族の関係を良くする黄金のことばとも言われます。ありがとうと言う感謝のことば、ご苦労様と言うねぎらいのことば、ごめんなさいと言う謝罪のことばです。これらは、自分中心の性質からは生まれてきません。相手を一人の人格と認め、大切な存在と思う時、心に涌いてくることばです。家族だからこそ、意識して使いたいことばです。皆様の家族が、神様に祝福されることを願い、お祈りしたいと思います。
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