2017年6月11日日曜日

ヘブル人への手紙11章6節~13節「信仰者の勇気(1)~待ち望む勇気~」


四日市キリスト教会では七年前からウェルカム礼拝を行っています。一つのテーマを掲げ、礼拝のプログラムをそのテーマに合わせることによって、初めて教会に来る方にも出来るだけ意味が伝わることを願って行う礼拝です。昨年度は「家族」がテーマでした。

今年度もウェルカム礼拝を行いたく、伝道局でいくつかテーマの案を検討しているところです。前回行われた役員会にて、検討しているウェルカム礼拝のテーマ案を報告したところ、「このテーマはクリスチャンでも聞いてみたい内容なので、ウェルカム礼拝で取り扱わなかったとしても、いつか礼拝説教で扱ってもらいたい。」という意見を頂いたテーマがあります。それが、今日の説教のテーマ、「信仰者の勇気」です。今年度、ウェルカム礼拝とは別に、何回かに分けて、「信仰者の勇気」というテーマで説教に取り組みたいと考えています。

 

 先日、教会に数回しか来たことのない方から質問を受けました。「聖書の神様を信じたい気持ちもある。しかし、キリスト教信仰を持って生きた後で、やはり聖書の神などいないと考えるようになったら、自分の人生は何だったのかと思うことなる。それが怖くて信じきれない。どうしたら良いですか。」という質問です。皆様が、この質問を受けたとしたら、どのように答えるでしょうか。

 どのように答えるかはともかくとして、私はこの質問を通して、この方は、神様を信じるということを、とても真剣に考えていると感じました。信じるというのは、ある意味で、危険が伴うこと。信じてはいけない存在を信じるとしたら、自分の人生に大きな損害があることを、よく理解されている。だからこそ、信じることが怖いのです。ある意味で、信じることには勇気が必要です。

 

 それでは、私たちはどれ程真剣に、神様を信じているでしょうか。信頼しているでしょうか。後になって、聖書の神などいないと考えるようになっても、大して問題ではない、さほど影響がない程度の信頼なのか。全生涯を委ねる程、神様を信頼しているのか。

 多くの場合、私たちの信仰は「斑」です。時に真剣に神様に向き合い、思いも行動も神様を信頼した者として生きることがあります。しかし、時に神様以外のものを信頼する生き方となることもあります。頭では、神様を信頼することが大事と理解しながら、実際の生き方では、神以外のものに信頼をおいている生き方となることもあります。

 この礼拝を通して、今一度、神様を信頼するとはどのようなことなのか。自分自身は、どれ程真剣に神様を信頼して生きているのか、皆で考えたいと思います。

 

開きます聖書箇所は、ヘブル書十一章。神様が私たちに求めている信仰について、説明されるところです。

 ヘブル書11章6節

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 

 ヘブル書には、信仰の様々な側面について、この箇所までに語られていました。信仰とは、聖書の言葉が自分に関係があると受けとめること(4章2節)。信仰とは、神様の約束を真実なものと受け入れること(6章12節)。信仰とは、神様に喜ばれる歩みを送ること(10章38節)。信仰とは、真の命を頂くこと(10章39節)。

 そして今日の箇所では、信仰とは神様をどのように信じることなのか、語られます。曰く、信仰とは、「神様が存在していること」と、「求める者には報いて下さること」、この両方を信じること。聖書の神様を正しく信じるという場合、その存在を信じるだけでは足りないのです。神様がおられるということとともに、私たちと関わりを持ち、私たちの願いに応えて下さる方であると信じること。それが信仰であると言われます。

 

 なぜ、神様の存在を信じるだけでは足りないのか。ヤコブ書には次のような言葉がありました。

 ヤコブ2章19節

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

 

 聖書の神様の存在を信じているのは、存在すら信じていないよりは良いこと。立派なこと。しかし、存在を信じるというだけならば、悪霊ですら信じていると言われる。大事なのは、その神様と自分自身の関係です。悪霊は、神の存在を信じ、その上で自分を裁く存在として恐れ、身震いしている。それは、神様に対する信仰を持っているとは言えません。本当の意味で神様を信じるとは、「神様が存在していること」と、「求める者には報いて下さること」、この両方を信じることです。

 信仰には様々な側面がありますが、この説教で特に考えたいのは、今日の箇所で教えられている信仰の後半部分。私たちの神様は、求める者には報いて下さる方であると信じることについてです。

いかがでしょうか。神様は求める者には報いて下さる方だと、どれだけ意識して生きてきたでしょうか。これまで、どれだけ真剣に神様に求めることをしてきたでしょうか。

 ところで、聖書には「求める者には、瞬時に報いて下さる」とか、「求める者には、その人の願う通りに報いて下さる」とは、書いていません。私たちの願いに、神様は必ずや応えて下さるのですが、願いの通りであるかは分からないですし、またいつ応えて下さるかは分からないのです。

 そのため、神様は求める者には報いて下さる方だと信じるということは、神様に期待し続ける信仰、待ち続ける信仰。神様が私たちに求めているのは、「待ち望む勇気」と表現することも出来ます。果たして私たちには、神様に期待し続ける信仰、待ち続ける信仰、待ち望む勇気があるでしょうか。

 

 ヘブル書の著者は、神様に喜ばれる道として、待ち望む勇気を持つようにと示した後、待ち望む勇気を持つ具体的な例として、旧約の信仰者の姿を挙げています。(ヘブル書11章は信仰者列伝の章と言われ、6節の前にも、また今日扱う聖書箇所の後にも、何人もの信仰者の姿が記されています。)今日の説教では、特に旧約の三人の信仰者に注目します。まずはノアから。

 

 ヘブル11章7節

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 

 ノアの時代、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」(創世記6章11節)と言われ、神様はノアに対して二つのことを告げます。一つは、大洪水による裁き「いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼす。」という警告。もう一つは、その裁きから救い出されるための箱舟建造の命令です。ノアは、この神様の言葉をそのまま受け入れ、従いました。

当時の生活がどのようなものだったのか。想像することも難しいのですが、しかし大洪水の予兆もない中で、内陸に箱舟を建造することは、大変勇気がいること。どれだけの時間をかけ、資産と労力を使ったのか分かりません。周りにいる人たちに、どのように思われたのか。これで大洪水が起こらなければ、人生を台無しにするようなことに、それでもノアは取り組みました。その結果、家族の救いと、隣人への証(「世の罪を定め」と表現されていますが)と、信仰による義を相続するという恵みを得ることになります。

ノアの示した信仰は、神の言葉が実現する前に、具体的な準備をすること。その準備がどれ程大変なことであっても、成し遂げるということでした。これが、待ち望む勇気の一つの姿です。

 

 二人目はアブラハムです。

 ヘブル書11章8節~10節

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

 

 アブラハムは、神様が示す地に出ていくようにと言われました。その地で、アブラハムの子孫が大いなる国民となるという約束です。行き先が示されないまま、馴染みの土地から旅立つように命じられ、それに従うというだけで、神様に対する従順さ、あるいは勇敢な信仰を確認出来ます。

当初、相続地として受け取るべき土地がどこなのか、示されないままアブラハムは出発しますが、それがカナンであるということは、しばらくして明かされました(創世記12章7節)。しかし、アブラハム自身はカナンで土地を所有することなく(厳密に言えば、サラの埋葬のために、マクペラの洞穴を購入しましたが)、他国人のような生活、天幕生活を送り、飢饉の時にはカナンを離れることもありました。神様が、アブラハムの子孫に与えると約束した土地に滞在しながら、長らく子どもが与えられず、その土地を所有することもない。結局、アブラハムは、神様の約束が実現することを体験することなく、その生涯を終えることになります。

アブラハムの示した信仰は、その生涯の中で神様の約束が実現しなかったとしても、それでも信じることを止めないことでした。これが、待ち望む勇気の一つの姿です。

 

 三人目はサラです。

 ヘブル書11章11節~12節

信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

 

 サラは、その生涯の中で、どれだけ長く、子どもを与えられるように願ってきたでしょうか。祈り続け、願い続けても子どもが与えられず。それでも子どもを得たいと思い、女奴隷ハガルと関係を持つように、アブラハムに提案したのもサラでした。叶えられないことを願い続ける大変さを味わった人。

 しかも、創世記の記述では、男の子を産むという約束を得た時、自分が子どもを産むことは完全に諦めていて、信じるどころか疑っていたように読めます。

 

創世記18章10節~15節

するとひとりが言った。『わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。』サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。』そこで、主がアブラハムに仰せられた。『サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。』サラは『私は笑いませんでした。』と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。『いや、確かにあなたは笑った。』

 

 サラにとって、男の子を産むという約束は、本来ならばこれ以上ない程嬉しいはずのもの。ノアは神様の言葉を信じることで、箱舟建造という負担を背負うことに。アブラハムは神様の言葉を信じることで、故郷を離れ、不自由な生活を送る負担を背負うことに。サラの場合、その約束を信じることで、負担を背負うことはありません。それどころか、その約束はただただ嬉しいというもの。それでも、信じることが出来なかったのです。期待が大き過ぎる、願いが強すぎる時に起る、信じた後でそれが実現しなかった時の落胆に対する恐れがあり、信じることが出来なかったのでしょうか。

 このように、創世記では神様の約束を信じきれなかったサラの姿が記されるのですが、しかし、ヘブル書の著者は、彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた」とまとめられるのです。このように、聖書の中で、サラも待ち望む勇気を持つ信仰者として数えられているということに、励まされます。

サラは、子どもが与えられることを願い続けたわけではない。諦めていた。それどころか、子どもを産むという約束も、最初は信じられなかった。それでも、神様を真実な方と考えた段階で、聖書はサラの名前を信仰の人として記念するのです。この姿も、待ち望む勇気の一つの姿です。

 

 以上、待ち望む勇気の姿として、三人の信仰者の姿を確認しました。三者三様。一言で「待ち望む勇気」と言っても、それぞれ異なる信仰のあり方でした。ノアにとっては、箱舟を造船すること。アブラハムにとっては旅を続けること。サラにとっては、もう一度夢を取り戻すこと。それぞれのあり方で、神様に求めること、神様に期待すること、待ち望む勇気を示しました。

 それでは、今の自分にとって、待ち望む勇気を示す生き方とは、どのような生き方でしょうか。私たちの神様は、求める者に報いて下さる方だということを本気で信じるとしたら、私たちは、その信仰をどのように示すでしょうか。この礼拝を通して、今一度、自分に与えられた待ち望む勇気の示し方を、よく考えたいと思います。

 

 ところで、神様の約束を信じ、待ち望む具体的なあり方は、人によって異なることがありますが、共通することもあります。ノアにはノアの、アブラハムにはアブラハムの、サラにはサラの待ち望む信仰の示し方がありましたが、三人に共通する待ち望む信仰もありました。

 ヘブル11章13節

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 

 三人に共通する、待ち望むべきもの。いや、全ての信仰者に共通する、待ち望むべきもの。それは、キリストの到来、罪のない体で復活すること、天の御国に入れられることです。

神様は、私たち神の民に、待ち望むことを願われている。それぞれ異なる方法で、待ち望む信仰を示すように導かれることもあれば、私たち全員に救い主の到来を待つように、神の国の到来を待つように教えてもいます。

 待ち望むことは大変なこと、勇気がいること。ある神学者(バークレー)は、待ち望むことの大変さと、尊さを次のように表現しました。「われわれにとって一番苦しいのは、待っている間である。このような時に、希望を捨て、高い理想をあきらめ、夢を失って無感覚な状態になりやすい。信仰の人とは、絶えず希望をかかげ、暗い日にも最大の努力を続け、結果があらわれない時も待ち続ける人である。」

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