新しい年になり、礼拝説教では信仰の基本的な事柄を確認しています。一回目が「礼拝」、二回目が「伝道」、今日は「祈り」をテーマとします。祈りとは何か。どのように祈れば良いのか。神様は私たちに、どのようなことを願われているのか。皆様とともに考えていきたいと思います。(例年、年始三回目の説教テーマは「交わり」ですが、二月に予定しているウェルカム礼拝にて「交わり」を扱います。)
祈りというテーマは、キリスト教独自のものではありません。全人類、人間ならば誰しも祈る。世界中、あらゆる民族、あらゆる文化を調べると、「宗教」は必ずある。人間は祈る動物と言われます。普段、神などいるかとして生きている人も、自分ではどうにもならない問題にぶつかった時には、つい祈るということがある。
しかし、では誰に祈るのかとなりますと、様々です。日本人は色々なものを祈りの対象にします。先祖、太陽、山、木や石で出来たもの。それは、日本人だけのことではなく、世界中で同様でしょう。「鰯の頭も信心から」という言葉もあります。「祈るという行為が大切なのであって、誰に祈るのかは関係ない。」とを言う人もいますが、本当にそれで良いのでしょうか。
人間は祈るもの。祈らざるをえない本能を持ち、祈り心を持ちながら、しかし、誰に祈ったら良いのか、どのように祈ったら良いのか、分からない人が多くいる状況。
聖書は、誰に祈ったら良いのか分からない状態にある人を、悲惨な状況にあるとして描いています。
詩篇115篇4節~8節
「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これを信頼する者もみな、これと同じである。」
誰に祈れば良いのか分からない。祈りの対象にしてはいけないものに祈る。これは本当に悲惨です。私たちの祈りに、何の応答も出来ないものに必死に祈る。一人相撲、独り言となる祈り。苦難、困難、自分ではどうにも解決出来ないことがあり、それで必死に祈るのに、答えがない。誰に祈ればいいのか分からないというのは、悲惨です。
このように考えますと、誰に祈ればいいのか知っているということが、どれほど大きな恵みなのか。世界の造り主を知り、信じている。この方に祈れば良いと分かっていることだけでも、本当に感謝なことだと思います。今一度、私たち一同で、主なる神様を知る者、信じる者にされたことを、喜びたいと思います。
人間は祈る存在。私たちは祈る相手を知っている。世界を造り、支配し、私たちを愛している父なる方に祈ることが出来る。それがどれ程幸いなことなのか、理解している。しかし、それでも私たちは祈ることが苦手。自分の願うように、祈りの生活を送ることは難しいものです。時に、祈ることに喜びがあり、充実した祈りの生活を送れることがあります。しかし、時に、祈りことが空虚に感じること。喜びがない、形骸化した祈りの生活となることがあります。
先輩カルヴァンは、主なる神様を知りながら祈らない人を、次のように表現しました。「神が全ての良きものの主であって、ご自身に求めよと我々を招いていることを知っても、祈ることをしないのは、地中に宝が埋められていると教えられながら無視している人のようであろう。」簡単に言えば、信仰者が祈らないのは、勿体ないということ。信頼する人から、ここに宝があると言われれば、喜び勇んで掘り出すはず。しかし、何故か「祈り」においては、掘り出さない、無視することがあるのです。
大切さを理解している程、祈ることが出来ない。願うような祈りの生活になっていない。祈りが苦行のように感じられる時。皆様はどうするでしょうか。どのように改善するでしょうか。喜んで祈ることが出来るようになるために、どのようなことに取り組んだら良いか。多くの助言があります。
祈りが喜びであるという人とともに祈る。祈祷会などの定期的に祈る場へ参加する。「祈りとは何か」、聖書や信仰書から学ぶ。祈りについて分かち合う。毎日の中で、祈る場所、時間を定めて習慣とする。祈りの記録をし、神様がどのように答えて下さったのか確認する。これまでの経験から、自分が祈りたくなるのはどのような時か考え、同じ経験をする。あまりに忙しい場合は、生活のペースを落として時間を作る。「喜んで祈れるように」と祈る。あるいは、そのようにお祈りしてもらう。などなど、喜んで祈ることが出来るように、私たちが取り組んだら良いことは、様々あります。
祈りの生活が喜びとなるために、私たちが取り組むと良いことは色々ある。しかし、特に取り組むべきは、神様がどのようなお方であるのか知ること。私たちが祈ることについて、神様はどのような願いをもたれているのか、知ることではないかと思い、今日は一つの箇所を開きます。
イエス様が語られた「真夜中の友人」という名で知られるたとえ話。
ルカ11章5節~7節
「また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』」
話自体は簡単なものです。真夜中に、旅の友人が、自分の家に来た。イスラエル地方では、日中の暑さを避けるために、夕方から夜中にかけて旅をすることはよくあったようです。旅の友の突然の訪問。電話などない時代。真夜中に旅の友の訪問を受けた人も、戸惑ったでしょう。とはいえ、友との交わりは嬉しいもの。歓迎したい、もてなしたい。ところが、自分の家には友人に食べてもらうものが何もない。現代の日本であれば、二十四時間営業の店は多くあり、真夜中でも問題なく買いに行けますが、二千年前のイスラエルではそうはいきません。出来ることと言えば、近所の友人からパンを分けてもらうこと。真夜中でもお構いなしに、友人宅へ行き、パンを無心します。
パンを分けて欲しいと言われた人からすれば、大変迷惑な話。寝ている時に声がして、パンを分けて欲しいと言われる。現代の私たちであれば、それ程大変なことではないかもしれません。スイッチ一つで電気をつけ、玄関の鍵をあけて、残っているパンを渡す。しかし、二千年前のこと。家の中で灯りをともすだけで大変なこと。ガサゴソと動けば、寝ている子どもたちを起こすことにもなる。閂や錠をあけるのも一苦労。怪我をした、病気をしたというならまだしも、友をもてなしたいからパンを分けてくれと言う。願うならば、明日の朝でいいではないか。非常識、無礼、無法ではないか。子どもも寝ているし、戸締りもした。勘弁してくれという答え。断るというのが普通というか、当然というか。
それでは、断られた人はどうしたら良いか。意外なことに、頼み続けたら良いと話が続くのです。
ルカ11章8節
「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。』」
非常識なお願いをして断られた。それでも頼み続けた場合、どうなるか。友の頼みといえど断った人でも、しつこく頼めば、たまらなくなり、遂には起き上がってパンを渡すでしょう、という話なのです。話自体は簡単。しかし、これは一体何の勧めなのかと首を傾げたくなります。自分の願いを叶えるためならば、友の都合も考えずに願い続ければ良いということなのか。願いを実現させるには、何よりしつこさが大事という教訓なのか。常識に反する強要の勧めと理解して良いのか。
一体何の勧めなのかと言えば、意外や意外、祈りの勧めと言うのです。
ルカ11章9節~10節
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
真夜中の友人のたとえをもって、私たちが互いに願いをぶつけ合ったら、友人関係は簡単に壊れるでしょう。皆が皆、相手のことを考えずに、自分の願いを押し通すとしたら、大変なこと。
しかし、こと祈りにおいては、斯くあるべし。「求め続けよ、捜し続けよ、叩きぬけ。」と言われるのです。「もう分かったから」と神様が降参するように祈り続けよと勧められる。「夜中で寝ている、面倒かけてくれるな」と言う姿。実際の神様とはかけ離れた立場に、父なる神をおいて、天の父が音をあげる程の祈りをするようにと言われる。
大胆なたとえ話と感じます。仮に、この話が聖書に無く、私が創作したものとして語ったとしたら、おそらく多くの人に非難されるでしょう。父なる神をどのようなものだと思っているのか。天の父を、寝ぼけ眼の友人に見立てるなど、不遜極まりないと。そのように考えますと、これは神の一人子であるイエス様しか語りえないようなたとえ話と言えます。
それでは、私たちはこのたとえ話を聞いて、どのように思うでしょうか。よし、祈り続けようと思えるでしょうか。
これほど明確に、祈り続けるように、願い続けるようにと教えられても、私たちは自分の願いを祈り続けることに躊躇してしまう、止めてしまうことが度々あります。短い期間ならば願うことは出来る。しかし、期待通りに実現していないことを願い続けるのは大変なこと。祈り続けているのに何も変わらない。願いが実現しない度に失望を繰り返すのは、辛いことなのです。
何より、自分の願いを祈り続けることは正しいことなのか、戸惑うことがあります。それも、非常識なまで願い続ける。恵みを強奪するような祈りの姿勢は良いのだろうかと感じられる。
聖書で教えられる祈りとは、自分の願いを神様に叶えてもらうことではなく、むしろ私自身を神様に向けることではないか。自分を中心にして神を動かすのではなく、神様が中心で自分を神様に合わせることではないか。
主の祈りで教えられる、まず祈るべきことは、神様のことでした。真夜中の友人のたとえで語られた、非常識でも願い続けることと、大きな違いを感じます。イエス様のゲツセマネでの祈りも、血の汗を流しながら願いながらも、「あなた(父なる神様)のみこころのように、なさってください。」と願うもの。執拗に自分の願いを訴える姿とは、大きく異なる印象です。
(正確に言えば、主の祈りで教えられているのは、祈りの中身が中心。真夜中の友人のたとえで教えられているのは、祈りの態度が中心。たとえの中で願っているパンも、自分のためのパンではなく、友人のためのパンでした。そのため、主の祈りで教えられることと、真夜中の友人のたとえで教えられることを対比して、その教えの内容が異なる印象と言うのは、雑な議論です。それでも、主の祈りを教えられた直後に、真夜中の友人のたとえ話を聞くと、違和感のある話となっていると言えます。)
しかし、それでも、イエス様がこの真夜中の友人のたとえを語られたことの重みを今日は味わいたいと思います。
神様は私のことを私以上に知っていて下さる。私に最も必要な恵みを注いで下さる。私が祈らなくても、神様の私に対する愛は変わらない。(これらは、事実ですが)そのように考えて、「熱心に祈ること」を止めないように。私たちが祈らないと、神様は願うことを行えないということではありません。私たちが祈らなくても神様が困るわけではない。しかし、神様は、私たちの祈りを待っておられる方。私たちの祈りを楽しみにされているお方。私たちが願い続ける信仰生活を送ることを、願っておられるお方。敢えて、非常識と思われるような話を以て、執拗に願うようにと言われる。綺麗ごとの交わりではない。私たちが必死に神様と交わることを願われている。「さあ、来なさい。」「さあ、願いなさい。」と私たちを祈りへと招いているお方として、今日は神様を覚えたいと思います。
以上、真夜中の友人のたとえ話でした。祈りの生活が喜びとなるために、私たちが取り組むと良いことのうち、神様がどのようなお方であるのか知ることを願い、今日は真夜中の友人のたとえを確認しました。不思議なたとえ話。一読して、驚き、首を傾げたくなる話ですが、そこに示された私たちの神様の姿は、実に親しく私たちと交わることを願われているお方でした。
私たちが喜んで祈ることが出来る。その根本的な理由は、私たちが祈りたいと思う前に、神様が私たちを祈りへと招いて下さっているからでした。人間関係でそれをしたら非常識と思われる。そのような願い方でも良い。ともかく、「あなたが祈ることを待っていますよ。」との神様からの招きを、今日確認します。私たちは、この神様の招きにどのように応じるでしょうか。
今日の聖句を皆様とともにお読みしたいと思います。
詩篇65篇2節
「祈りを聞かれる方よ。みともにすべての肉なる者が参ります。」
神様が私たちを祈りへと招いて下さっている。その招きに、この詩篇の告白のように応じたいと思います。祈る度に、神様が私を祈りへと招いて下さっていることを、覚えたいと思います。
私たち一同で、祈りという神様との親しい交わりを喜び、楽しみながら、この一年の信仰生活を全うしていきたいと思います。