2017年5月21日日曜日

一書説教 ハガイ書1章3節12節~現状をよく考える~」


一般的に、人は意識的にも無意識的にも、自分の聞きたいことを聞き、聞きたくないことは聞かないと言われます。雑踏の中でも、多くの人が集う状況でも、自分に対する呼びかけや、親しい人の声には、反応しやすいもの。反対に、声がよく聞こえる状況でも、自分には関係のないものと思うと、その言葉は心に残らないものです。注意や叱責には、言い訳を重ねてまともに聞こうとしなく、お世辞やリップサービスはそうだと分かりながらも、熱心に聞こうとする。いかがでしょうか。このような傾向は自分に当てはまるでしょうか。

 それでは聖書に対しては、どのような思いで向き合っているでしょうか。自分の聞きたい言葉だけ聞き、聞きたくないことは聞かないという姿勢で、聖書を読むことはないでしょうか。自分の考えを後押しする言葉、心地よい言葉は心に留める。罪を指摘され悔い改めを迫るような言葉、心刺される言葉は無視する、ということはないでしょうか。

聖書の優れた読み方は、自分がどのように思うとしても、聖書を神の言葉として受け止めること。遠い昔に語られ、記された言葉でありながら、今の自分にも語られている言葉として受け止めること。私たち皆で、聖書を読むということにも、少しずつ慣れ、熟練していきたいと思います。

 

取り組んできました一書説教の歩み。今日は三十七回目となり、あと少しで旧約聖書が終わりとなります。扱うのは旧約聖書、第三十七の巻、ハガイ書となります。

預言者ハガイがどのような人物なのか、聖書に詳しく記されていないためよく分かりませんが、その言葉からは、大胆、実直、情熱的という印象を受けます。「ハガイ」という名前は、おそらく「祭」と関係がある名前と思われています。

全二章の小さな預言書。時宜に適った言葉を通して、神の民に使命を思い出させた預言者。今日はハガイの言葉に注目します。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 ところで預言書は、普遍的(どの時代、どの地域、どの文化にも当てはまる)な言葉を中心に記されている書もあれば、特殊的(ある特定の状況において意味のある)な言葉を中心に記されることもあります。ハガイ書は、特殊的な言葉が中心の書。その内容を理解するためには、それがどの時代、どのような状況で語られた言葉なのか、よく理解する必要があります。(それを踏まえた上で、今の私たちに語られた言葉として受け止めたいと思います。)

 それでは、ハガイが活躍した時代はどのような時代、どのような状況だったのでしょうか。

 ハガイ1章1節

ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。

 

 ハガイが活動したのは、ダリヨス王の第二年(これは重要な年です)。総督ゼルバベルと、大祭司ヨシュアのいた所。これはつまり、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、多くの者が奴隷として連れて行かれた後、ゼルバベルとヨシュアがリーダーとなり、ユダ地方に帰還した時のことです。覚えていますでしょうか。この時代と状況は、エズラ記の前半に詳しくしるされていました。どのような時代、状況だったでしょうか。

 

 もともと、南ユダがバビロンに滅ぼされる時、預言者エレミヤを通して、与えられた約束は次の言葉です。(神の民は、「神様が守って下さるから大丈夫。バビロンに打ち勝つことが出来る。」という(偽)預言者の言葉を頼りにしていました。この時にエレミヤは正反対のことを預言していたのです。)

 エレミヤ書29章10節

まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』

 

 「神の民」が奴隷として生きる期間。バビロン捕囚という裁きの期間は、七十年という約束。それでは、どのようにして、バビロンで奴隷だったところから解放されたのでしょうか。

(エズラ記の復習となりますが)バビロン捕囚から、約五十年後。強国バビロンに勝利したペルシヤが、奴隷となっていた南ユダの者たちに、エルサレムに戻って神殿を再建するようにと命令を下します。なぜ、ペルシヤの王クロスは、このような命令を下したのか。

 この時、ペルシヤが支配した領土は、非常に広範囲。西はエジプトより南。東はインドのあたりまで。この広い範囲を、どのように支配するのか。多数の民族を含む広範囲を画一的に支配することは大変難しいものです。そこでペルシヤのとった政策は、税金と徴兵を課す代わりに、支配している地域のそれぞれの民族に自治をさせるというものでした。軍役、貢物を求める代わりに、内政には干渉しないという政策。そのため、奴隷としてバビロンに連れて来られていた者たちに対して、もといたところに戻るように、それぞれの場所で自治を行うようにと命令が下されたのです。

 

こうして神殿が破壊されてから、約五十年後に、南ユダの人々はもとの地に帰ることになります。しかしこの時、バビロン(ペルシヤ)にいた者たち全てが帰還したわけではありません。むしろ、帰還した者たちの方が少なかったのです。

 何故、全員が帰還しなかったのか。それは、まず一部の者たちが帰還し、荒廃した土地を整える必要があったから。多くの者が帰還するのは、ある程度整ってからと考えたのでしょう。

 戦争で敗北して五十年経った。建造物、田畑もひどい状態。荒廃した土地を整えると言っても、簡単ではありません。経済、教育、医療、福祉、流通、治安維持。帰還した者たちが、取り組むべきことは、山のようにあったと思いますが、最も重要な働きは、バビロン捕囚時に破壊された神殿を再建することでした。

 エズラ記には、神殿再建の第一歩として、神殿の基を据えたことが記録されています。

 エズラ記3章10節~11節

建築士たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。

 

 帰還した民は意気揚々。さあ、神殿再建に取り掛かろうという時。しかし、簡単に神殿再建が果たされない状況となります。何が起こったのか。エズラ記の記録では、次のように記されています。

エズラ4章4節~5節

すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。

 

 南ユダの人々がバビロンに連れて行かれて約五十年。その間に、エルサレム近隣の地に住むようになった人々がいます。この人々が、帰って来た南ユダの人々をよく思わなかった。土地の所有、利害に関する課題です。その結果、神殿再建の妨害が起こり神殿の基は据えられながらも、神殿再建の工事は、ダリヨス王の第二年まで中断されることになります。これが、ハガイ書の背景です。

 

バビロン捕囚から約五十年。バビロン捕囚時には、生まれていなかった者たちもいます。荒廃した南ユダに戻り、エルサレムには神殿を再建しようという時。当初は意気揚々。神殿の礎も据え、礼拝を中心とした国を再興しようとしたところ。そこで妨害が起こり、神殿再建をすることが出来なくなります。その妨害の期間は、数か月、数年ではなく、十数年と続きます。帰還を命令したクロス王も死に、ペルシヤの王も代替わりしました。この時の、南ユダに帰還した者たちは、どのような思いになっていたのか。想像出来ますでしょうか。

 

そして、このような神の民に、ハガイは何を告げたのでしょうか。

 ハガイ書1章2節~8節

『万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。』ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。『この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。

 

 バビロン(ペルシヤ)から帰還した民は、神殿を中心とした国造り、信仰を中心とした国家再興に取り組むことが、自分たちの役割だと理解していました。ところが、あまりに長い期間、それが果たせない状況の中で、神殿を建てるのは、まだ先で良い。使命を果たすよりも、自分たちの生活をより豊かにすることを優先させる思いを抱くようになっていたのです。

神殿再建は、何故果たされないままなのか。その理由が、エズラ記では、妨害者の存在しか記されていませんでしたが、ハガイ書によって、神の民自身の思いにも原因があったことが明らかになるのです。皆様は、このような民の姿を、神の民として残念な姿と見るでしょうか。それとも、そういうこともある、しょうがないと見るでしょうか。

 

 ところでハガイの告げる言葉の特徴の一つは、「よく考えよ」という言葉を何度も用いることです。

 ハガイが預言を開始した第六の月。これは、麦の刈り取り、ブドウ、イチジク、ザクロの収穫の時期でした。人々は、多くの収穫を期待する。生活が豊かになることを期待する。しかし、予想よりも少ない収穫なのです。何が問題なのか。何が間違っていたのか。現状をよく考えるようにと訴えます。

 自分を大切にすること。幸福を追求すること。それ自体は何も間違っていなく、良いこと。しかし、その方法が違うと指摘されます。神様から与えられた使命を無視して、本当に幸せになることはない。本当に幸せを目指すのであれば、与えられた使命を果たすように。

 もし、自分がこの時、南ユダにいたとしたら。このようなハガイの言葉を、どのように受け止めたでしょうか。そして、今の私たちは、このハガイの言葉をどのように受け止めるでしょうか。

 

 実際の南ユダの者たちは、麗しいことに、このハガイの言葉によって奮い立ったといいます。

 ハガイ1章14節

主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。

 

 神殿再建へ取り掛かる神の民。当然のこと、敵対者は黙っていなく、妨害を強めます。しかし、その問題は不思議とうまく解決したことがエズラ記に記録されていました。今日読み進めているハガイ書の方では、思ってもみなかった、神の民の心に生じた課題に焦点を当てます。

 ハガイ2章3節

あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」

 

 かつてソロモンが建てた神殿を見たことのある者たち。この時はかなりの高齢になっていましたが、その者たちからすると、今回建てあげられようとしている神殿は、あまりにみすぼらしい。設計図なのか、材料なのか、職人の力量なのか。かつての神殿の素晴らしさからすれば、無いに等しく見えていたのです。(神殿の基が据えられた時にも、そのみすぼらしさに大声で泣いた者たちがいました。)与えられた使命を再確認し、仕事に取りかかろうとした時、自分たちの力不足を痛感する。取り組みたくても、取り組めないと思い込む課題です。

 このような民に対して、ハガイを通して、神様の約束と励ましが響きます。

 ハガイ2章4節~9節

しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ。――

 

 そこに金銀はなくても、金も銀も神様のものであること。そこに力ある者がいなくても、神様はともにいて下さる。仮に、粗末なもの、貧弱なものしか建てることが出来なくても、主ご自身が栄光で満たして下さる。今から再建される神殿は、ソロモンの建てた先の神殿よりも、より偉大なものになる、という無上の激励、約束でした。使命に生きようとする時、神様が成し遂げて下さる。この激励に、当時の神の民はどれだけ励まされたでしょうか。

 

 このようなハガイの働きかけにより神殿再建が再開し、これより四年経って神殿が完成します。そして、この神殿完成が、神殿が破壊されてから七十年目でした。(エレミヤの七十年の預言は、妨害や神の民が気力を失うことも含めた年数となっていたのです。)

四年かけて神殿再建が果たされますが、ハガイ書に記されたハガイの活躍は、最初の三か月のみ。(記述はなくとも、預言者として活躍したとも考えらえますが。)彗星のように現れ、瞬く間に表舞台から去るハガイ。ハガイ自身も、まさに自分に与えられた預言者としての使命を果たした人物でした。

 

 以上、簡単にですが、ハガイ書がどのような書か確認しました。

全二章の小著。テーマは明確で、神様に与えられた使命に生きるように。それが私たちにとって、最も良い道であること。今日、このメッセージを真正面から受け取りたいと思います。

 ハガイが活躍した当時の神の民に与えられていた使命の一つは、神殿を再建すること。それでは、今の私に神様が与えて下さった使命とは何でしょうか。真剣に、よく考えたいと思います。

神を愛し、隣人を愛する生き方とは、私にとっては具体的にどのような生き方なのか。神の栄光をあらわす生き方とは、今の私にとって、何に取り組むことなのか。神の国とその義を第一に求める生き方とは、どのようなものなのか。家庭、職場、学び舎、教会。あらゆるところで、自分に与えられた使命は何か。その使命を果たすというのは、どのような生き方なのか。よく祈り、御言葉とともによく考えたいと思います。私たち皆で、与えられた使命に生きる歩みを送りたいと思います。

2017年5月14日日曜日

マタイの福音書6章19節~24節「山上の説教(33)~天に宝を~」


私たちが礼拝で読み進めている山上の説教。それは、イエス・キリストが神を信じる者の義しい生き方について語られた教えが、マタイの福音書の5章から7章にかけてまとめられたものです。

今朝私たちはちょうど真ん中の6章19節まで進んできました。前回まで、イエス様が取り上げていたのは、その頃最も重んじられていた三つの行い、施し、祈り、断食についてです。施しも、祈りも、断食も、人に褒められるためにしてはならない。ただ、天の父に心を向けてこれを行えと命じ、誰の心にもある「自分を良く見せたい」と言う卑しい性質、偽善を戒められたのです。

そして、イエス様が「自分の宝」、「あなたの宝」と繰り返しているように、今日の個所のテーマは宝です。宝と言う漢字は、宝石とお金が部屋の中に守られている様子を表しているそうです。別の日本語聖書はこれを「富」と訳していますが、富に限らず、私たちが大切にしているものすべてを宝と考えてよいと思います。

皆様にとって宝は何でしょうか。これまで大切にしてきたもの、今大切にしているものは何でしょうか。財産でしょうか。学歴でしょうか。社会的地位でしょうか。能力でしょうか。健康でしょうか。仕事でしょうか。マイホームでしょうか。学生か社会人か、独身か既婚者か。各々置かれた状況や年齢によって、宝が変化することもあるでしょう。

神様は私たちに生きるのに必要なもの、人生を豊かにするものを与えて下さいました。イエス様はそれを宝と呼んでいます。ある意味で、人生において宝がある、大切にしているものがあると言うことは良いことですし、必要なことでもあると思います。もし「自分には宝がない。大切にしているものは何もない」と考えている人がいるとすれば、その心には生き甲斐がなく、日々の生活も虚しいと思われます。

しかし、今日の個所でイエス様は、私たちが神様から与えられた宝をどう用いるべきかを考えるよう勧めています。宝について、永遠と言う視点から考えることを教えておられます。

果たして、自分は何を宝として日々生きているのか。天国を受け継ぐ者、神の子どもとして、与えられた宝をどう使うべきなのか。今日の個所から皆で考えることができたらと願っています。

 

6:19「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」

 

聖書は私たちが財産を持つこと、努力して社会的な地位を得ることを認めています。与えられた能力を発揮すること、健康維持に努めること、それも正当なことです。仕事や住まいも生活するのに必要なものです。

事実、アブラハムは多くの家畜と天幕、使用人を有していました。モーセは、120歳になっても気力が衰えることはありませんでした。ダビデは戦士として王として有能であったばかりか、詩人としての才能にも恵まれていました。アブラハムは財産と言う宝を、モーセは健康と長寿と言う宝を、ダビデは能力や地位と言う宝を、それぞれ恵まれていたのです。

ですから、イエス様が禁じているのは、財産を持つことではありません。健康や長寿を求めることでもありません。能力を用いること、努力して社会的地位を得ること自体でもありません。イエス様が禁じているのは、私たちがそれらのものへの関心に支配されること、それらのものに度を越した愛着を持つことです。

蓄財を人生の目的とするほどに、財産を愛する。地位を得るため、守るために人を蹴落とす。能力や健康な体を専ら自分のためにのみ使う。神を礼拝し大切な人と交わる時間等必要ないと考える程、仕事に愛着を抱き、多くの時間を費やす。この様な態度で宝と関わり、宝を用いる生き方。それを「自分の宝を地上に蓄える」ことと呼んで、イエス様は私たちを戒めているのです。

木で作った宝の箱は虫に食われる。金属でできていても錆がつく。家の中に守っていても、盗人に奪われる危険がある。私たちが地上に蓄えた宝はすべてが古び、衰えてゆく様を、イエス様は一幅の絵に描きました。

銀行預金も土地も、経済情勢の変化によって価値があっという間に下落します。世界的不況により会社の倒産が相次ぎ、札束の山も一夜にして紙くず同然と言った状況は、これまでに何度か繰り返されてきました。健康も年齢とともに衰えます。病気や加齢によって、昨日まで当たり前の様にできていたことが、できなくなることもあるでしょう。私たちの宝が地上にあるなら、大切な宝を失ってしまう日は、刻一刻と近づいていることになります。

讃美歌作者で有名なジョン・ウェスレーが、ある男と一緒に、男が自慢する広大な農場を見回った時のことです。二人は何時間も馬に乗っていましたが、見ることができたのは、農場のほんの一部でした。その晩、夕食の席で、農場の所有者の男が身を乗り出して尋ねました。「それで、ウェスレーさん。どう思ったかね。」ウェスレーは答えます。「これを全部残していかなければならないのですから、さぞかし、お辛い経験をなさることでしょうね。」

イエス様も私たちに語りかけています。「あなたの安心の源である財産、あなたの生き甲斐である仕事、あなたの頼みとする能力や健康。それらは決して永続しないことが、分かっていますか。あなたが蓄えた宝をすべて残して、地上を去らねばならない日が来ること、分かっていますか。」

しかし、「そのようなことなら良く分かっている。」そう言う人もおられるでしょう。確かに私たちは、地上に宝を蓄えることの愚かさを理解しています。他の人はともかく、神様の子とされた自分は良く弁えていると思っているかもしれません。

けれども、実際の生活はどうでしょう。日々の歩みにおいて、私たちと宝の関係はどうでしょうか。銀行の預金残高に強い愛着を持ってはいないでしょうか。気がつかぬうちに地位や評判を頼みとし、安心の源としてはないでしょうか。ウェスレーに自分の農場を誇り、案内して見せた男は、決して他人ではありません。

ですから、イエス様は地上に宝を蓄えると言う生き方が、いかに私たちに大きな影響を与えているかを説いておられます。私たちの心、私たちのこの世界や物に対する見方、私たちの行動。イエス様は、地上の宝への愛着が、どれ程私たちの人生全体に強力な影響を及ぼすものか教えています。先ずは私たちの心への影響から見てゆきます。

 

6:21「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 

皆様は、神様の栄光を表すことと財産を増やすこと、どちらに関心があるでしょうか。自分の評判と苦しむ隣人、どちらがより気がかりでしょうか。一人になった時、専ら考えることは何でしょうか。新聞を読んで心が惹かれるのはどの様な記事でしょうか。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もある。イエス様は私たちの関心があるところに、宝があると言います。私たちが専ら考えること、願うこと、心を向けること。それが私たちが実際に愛している宝ではないかと指さしているのです。

これは、私たちの心を深く探ることばです。神様を信頼しているはずの自分が、実は財産を信頼する蓄財人間ではなかったか。神様の栄光を表すことを願いとしているはずの自分が、実は自分の評判を気にするばかり自己愛人間ではなかったか。

このイエス様のことばによって、私たちが本当の自分の姿に気がつき、心を神様に、関心を隣人の幸いに向けることができればと思います。

二つ目は、この世界と物に対する見方への影響です。イエス様は地上の宝への愛着が、私たちの見方を歪めていると指摘しています。

 

6:22、23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」

 

目が健全ならの「健全」とは、曇りのない状態を言います。目が悪ければの「悪い」は、目が曇っている状態を指します。もし、私たちの心の目に曇りなく、天の父に向けられるなら、地上の宝を神様からの賜物と考え、神様のみこころに従ってこれを正しく用いようとするでしょう。やがて来るべき天国において、豊かな報いがあることを望みつつ、この地上を生きるのです。

しかし、もし心の目が地上の宝への愛着によって曇っているなら、私たちは神様のことを思わず、宝を自分のものと思い込み、自分の思いのまま使おうと考えるでしょう。来るべき天国を忘れ、この地上がすべてと考え、せっせと地上に宝を蓄える生活を送るようになるのです。

 今年の正月休みのことです。ちょっとした工事をしたため、我が家では大量のゴミが出ました。それを四日市市のゴミ処理施設に車で運んで行きました。すると、そこには大量の車やトラックが集まっており、どれにもパソコンや家具、電化製品や釣り竿、おもちゃなどが積まれていたのです。施設の奥には大きな穴が掘られていて、そこにはあらゆるゴミが捨てられていました。

 言わば、そこは私たちが地上の人生で買った物、使った物が行き着く最後の場所です。地上の宝の墓場とも言えます。クリスマスや誕生日のプレゼントも、家電も、衣服も、本も、自転車も、ステレオも、キャンプセットも。遅かれ早かれ、私たちの所有物は、すべてここに行き着くことになります。子どもがとり合いの喧嘩をしたり、友情にひびが入ったり、夫婦が仲たがいする原因になった宝がここで最後を迎えることになる。

そう思うと、所有物を増やすことに生涯をかけて一生を終えることの虚しさを、改めて思いました。心の目が曇らないよう、時々こう言う場所に来るのもよいかなと感じました。

 最後三番目は、行動への影響です。イエス様は、神と富とにかね仕えることはできないと教えています。

 

 6:24「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

 

 地上の宝に専ら心を向け、愛着を抱く時、私たちはその奴隷になると警告されています。特に富の支配力は絶大です。私たちは本来尊い目的のために用いるべき富に支配され、富に仕えやすい。だからよくよく注意せよと、イエス様は念を押しています。

 「私は生涯で2億ドル以上の収入を得たが、億万長者になってからは笑うことがなかった。代わりに、心労で死んでしまうかもしれないと思ったことが何度もあった。良い車を造ろうと汗を流して機械をいじる仕事をしている時の方が幸せだった。」自動車王と言われたフォードのことばは、富に仕えた人生の悲惨を私たちに感じさせます。

 以上、地上の富に対する愛着と言う罪が、私たちの心、世界と物に対する見方、私たちの行動、つまり人生のあらゆる面に大きな影響を与えていることを見てきました。それでは、私たちは地上の富とどのように関わればよいのでしょうか。どのように様々な宝を用いればよいのでしょうか。イエス様の答えはこれです。

 

6:20「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」

 

自分の宝を天にたくわえるとは、天にいる父なる神様が私たちの宝の所有者であり、私たちは管理人であると認めることです。神様から与えられた宝を、神様のみこころに従って管理すること、活用することです。

福音を伝えること、教会をたて上げること、飢えた者に食べさせること、貧しい人を助けること、病の人を見舞い慰めること、友なき人の友になること。神様がこの地上で私たちに委ねられたわざには様々なものがあります。神様はこの世界をみこころにかなった世界へと変えてゆくため、私たちたちを大切なパートナーとして選ばれました。神のわざを行うため与えられた宝を活用する人のことを、神様は覚えておられ、豊かに報いてくださるのです。

 

Ⅰテモテ6:1719「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

 

富を神とせず、良き物すべてを与え楽しませてくださる神に仕え、神を信頼する歩み。神に与えられた宝を正しく管理活用し、天国での祝福に望みを置く歩み。私たちがお互いに励まし合いながら、この様な歩みを共に進めてゆきたいと思います。

 

 

 

2017年5月7日日曜日

マタイの福音書6章16節~18節「山上の説教(32)~天の父から見られる子~」


4月は受難週、イースター、信徒総会などがあり、礼拝ではそれに関連した説教を行ってきました。ですから、礼拝の説教で山上の説教を扱うのは、一か月振りとなります。

ところで、皆様はどのような時に、自分の信仰生活が良い状態にあると感じるでしょうか。礼拝に出席をし、献金をささげ、奉仕をしている時でしょうか。恵みが与えられ喜びや感謝を覚える時でしょうか。人間関係が良好な時でしょうか。自分の行い、自分の感情、人間関係。そうしたものに目を留めることにも意味はあると思います。

しかし、それらだけを基準にして自分の信仰生活の状態を判断するのは危険かもしれません。今日の個所で、イエス・キリストは、私たちの信仰にとって大切なのは、神様との関係であることを教えているからです。ことばを代えれば、私たちの心に神様への愛があるかどうかということです。この様な視点で今日の個所を読んでゆきたいと思います。

さて、山上の説教は、イエス・キリストが語られた説教の中で最も有名なものと言われます。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、豚に真珠、狭き門から入れ等、聖書を読んだことのない人でも一度は耳にしたことのあることばが多く登場します。

その様に親しみやすい山上の説教ですが、今日の個所でイエス様は、現代の私たちにとってあまり親しみのない、あるいは馴染みのない断食と言う問題を扱っていました。

現代では断食は過食を避け、体の健康を維持するための一つの方法として知られています。また、精神を研ぎ澄まし、一つのことに集中するため断食をすると言う人もいるでしょう。事実、適切な断食は健康維持に効果があること、断食によって人間の集中力が高まることが確かめられています。 

断食ではありませんが、昔から「腹八分目が健康には良い」と言われてきました。野球選手も試合前の食事は軽めにする人が多いそうです。お腹一杯では体の動きも悪くなるし、試合での判断力が鈍ると言われます。

しかし、イエス様の時代、断食は聖書において命じられている行いの一つでした。この6章で取り上げられた施し、祈りとともに、当時ユダヤの社会で最も重んじられていた三つの善行の一つだったのです。

旧約聖書の時代、イスラエルの民には一年に一度の断食が命じられていました。神様が命じたのは一年に一度でしたが、民族の危機などの際、人々が真剣に罪の悔い改めに取り組むため、断食をしたことが記録されています。

イエス様も断食を承認しました。弟子を選ぶ際等イエス様ご自身も断食をされました。それ以降、アンテオケ教会では、祈りと断食をもって宣教師を送り出したとありますし、断食が使徒パウロの生活の一部になっていた様子が、残された手紙から伝わってきます。

つまり、罪の悔い改めに集中するため、あるいは重大な決断の際、何が神様のみこころなのかを求め、知るため、信仰者たちは断食を行ってきました。断食はそれを行う様導かれていると感じた人が、自ら時を定めて行ってきたことなのです。

しかし、イエス様の時代のパリサイ人たちは、週二回の断食を規則と定め、世間の人々に「あの人は正しい人」と認めてもらうため、人一倍断食に励んでいました。断食をする動機が歪められたのです。その日、彼らはわざわざやつれはてた顔と、乱れた頭髪のまま、家から町の通りに出て、人々の目を惹きつけるよう努めました。

 

6:16「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」

 

隣人愛の実践として重んじられていた施し、神様との関係を深めるための祈り、そして、自分の信仰を整えるための断食。どれも、聖書において勧められている正しい行いです。私たちも励み、努めるべき行いです。

しかし、本来の目的を見失い、行いそれ自体を目的としてはいけない。それを自分の正しさを認めてもらうための手段として用いてはならない。行いそれ自体は正しく見えても、心の動機が間違っているなら、神様はその人を正しいとは認めない。イエス様はそう戒めておられます。

これを読むと、人間の病気と云うことを思います。少し良いことをすると見せびらかしたくなる。人一倍自分は正しいぞと心を膨らませる。人間の心の病です。少しばかりの自分の善行を誇ると「自分は正しい」と考える。悲しい人間性です。針小棒大。針ほどのことを棒のように言う。少しでも自分を高くしようとする。本当に卑しい性質です。

イエス様は、「この偽善者の性質が、あなた方の中にも生きていませんか。その性質、その病に気がついていますか。自覚していますか。」そう私たちに問いかけておられるのです。

本来断食をする人は、自分の罪を覚え、神の前にへりくだるはずなのに、人間は「私に欠けたところはひとつもない。むしろ、なすべき以上のことをなして生きてきた」と胸を張って、自画自賛すると言うのです。

しかし、人前はともかくとして、心の奥底まで見抜く神の前に、自分は正しいと本当に言えるでしょうか。人前はつくろっても、私たちの動機から魂胆まですべてお見通しの神の前に、「私のすべてが正しい」などと言えるでしょうか。

讃美歌作者のペイソンと云う人が、「私はなんと情けない人間なんだろう。自分の家の庭の草取りをしている時でも、虚栄と高慢と云う罪を貪っている」、と告白しました。ひとりで休日に庭の草を引っ張って抜く。自分の家の小さな庭の草取りをしながら、そうした時でも自分は虚栄の塊。高慢の塊であることを神さまに告白いたします」、と彼は言っているのです。

何故でしょうか。どうして泥だらけになって草引きをしている人が、虚栄と高慢の塊なのか。彼はこう言っています。「私は最初何の気なくワイシャツの腕まくりをし、庭の草引きをし始めた。ところがそれをしているうちに、この自分の泥まみれの仕事振りを家の者にも見せたくなった。近所の人にも見てもらおうとしだす。いかにも自分は働き者だと褒められたい思いに駆られてくる。それは虚栄心ではないか。また、人に手助けを請わないで、自分ひとりで庭をきれいにしてみせることによって、俺が自分ひとりでやったんだ。自慢したくなる。高慢の心だ」。こう、彼は自分の心を分析したのです。

近所の人に見てもらうための草抜き。世間の人に認めてもらうための断食。兄弟姉妹に褒められるための親切。はたして、神の前に出たら、私たちの行いの何パーセントが正しいと認められるのか。イエス様のことばは、私たちの心を深くさぐります。

イエス様は、神に背いた私たち心の真ん中には、自我があることを教えています。自分の利益、自分の満足、自分の正しさが認められること。それが私たちにとって最大の関心だということです。ある心理学者の説によると、一日の中で起きている時間、その長さは人それぞれですが、私たちは90%以上の時間を自分に関係することを考えるのに使っているそうです。

自分の言動が人々から注目されること、評判を得ることは満足であり、喜びとなります。しかし、それが得られなければ自分への失望。落胆。自分を認めない人への反感や怒りが涌いてくる。どちらにしても、大切なのは常に自分と言うことです。

この様な生き方がいかに悲惨なものか、分るでしょうか。自分への関心が心を占領する人生、人の目に縛られた人生と言うものが、いかに不自由で、思い煩いに満ちたものであるか。イエス様はそんな私たちのことを良くご存じでした。ですから、この様な生き方から解放される道を示してくださったのです。

 

6:17、18「しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」

 

頭に油を縫って髪の毛を整える。顔を洗って身だしなみを整える。これは、ごく普通に生活すること、自然にふるまうことを意味しています。それは、人には見られず、隠れたところにおられる父なる神様に見られるため、天の父からの報いを受けるためと、イエス様は念を押していました。

人の評価を気にし、人の目に縛られた人生からの解放は、私たちの努力によってもたらされるものではありません。いくら人の評価を気にしないように、人の目を気にしないようにと努めても、誰かに認めてほしいと願う私たちの心が止まることはないのです。

ですから、イエス様は言われます。「あなたのことを大切な子として認め、愛しておられる天の父に心を向けなさい。」「あなたのどんな行いも見守り、豊かに報いてくださる天の父のことを思いなさい。」

ルネサンスの天才ミケランジェロが、システィーナ礼拝堂の天井に大作「天地創造」を描いていた時のエピソードです。

支援者の一人が作品の仕上がりが遅れていると聞いて心配になり、ミケランジェロの仕事ぶりを見に、礼拝堂に足を運びました。夜遅く、礼拝堂は冷え冷えとしていましたが、ミケランジェロは高い天井の片隅で懸命に細かな筆を使って描いていたそうです。しばらく、その様子を見ていた支援者は「そんな片隅のところは、誰も見ていないんだから、もっとさっさと仕事を進めたらどうだ」とアドバイスをしました。

それでも、ミケランジェロは声が聞こえないのか、黙々と仕事をして、一向に終わりそうもありません。しびれを切らした支援者が大声をあげて、同じことを言うと、ようやくミケランジェロが答えたそうです。「だれも見ていなくても、神様が私の仕事を見ておられる。」ミケランジェロも世間の人ではなく、天の父を思って精一杯の仕事をした人だったようです。

誰が見ていなくても、誰が認めてくれなくても、天の父は子どもである私の存在を見守り、認めてくださる。その様な安心感があるからこそ、私たちも正しい行いに励むことができるのではないかと思います。

カルヴァンと言う信仰の先輩が、私たちの行いと神様との関係について、この様に書いています。「自分の正しさにこだわる人は、主人に日ごとの仕事を言いつけられるしもべのようで、すべてのことを間違いなく、正しくやり遂げるまでは、何かを成し遂げたとは思えないし、主人の前に出ようとさえ思わない。

しかし、父親に広い心で接してもらった子どもは、自分の行いが不完全で、欠点があったとしても、父親に行いを見せることを躊躇わない。何故なら、自分の行いが不完全でも、自分の存在が父親に愛され、認められていると信じているからだ。私たちも、その様な神の子どもとならなければならない。私たちの行いがいかに小さく、不完全でも、あわれみ深い天の父がそれを見て満足してくださる。そう固く信じなければならない。」

天国で、父なる神様が私たちの行いにどれほど豊かに報いてくださるのか。それは想像もつきません。しかし、この世において、神の子と呼ばれる価値のない罪人の私たちが、イエス・キリストを信じるだけで神の子とされること、天の父と子と言う安全で安心できる関係の中に守られていることが、測り知れない報いではないかと思うのです。

最後に、二つのことを確認しておきたいと思います。

一つ目は、イエス・キリストを信じた者の心には、天の父への関心、天の父への愛が生まれることです。神の子どもにとって、大きな関心事は、天の父が喜ばれることを知り、行うことです。神の子どもにとって、大きな願いは天の父のすばらしさを表すような行いをしたいと言うことです。

天の父への関心と愛とが大きく成長すればするほどに、自分への関心は小さくなってゆきます。自分の行いが人に認められるかどうかよりも、神様のすばらしさが人に認められるかどうかがより気になります。自分を喜ばせることよりも、神様に喜ばれることの方が大切になってくるのです。

皆様は、神様がご自分の天の父であることを信じているでしょうか。どんな時も天の父との関係が喜びでしょうか。最大の関心事は、天の父のことでしょうか、自分のことでしょうか。信仰生活の状態を判断する時、先ず神様との関係に心をとめること、お勧めします。

二つ目は、天の父の愛に応えて、正しい行いに励むことです。イエス様は、この6章で間違った動機で施しをすること、祈ること、断食をすることを戒めました。しかし、それは施し、祈り、断食の禁止ではありません。むしろ、天の父の愛に応えて、私たちが動機においても行いそのものにおいても、あらゆる正しい行いに進むよう求めているのです。

貧しい人を助けること、神様との交わりを深めるため祈ること、神様のみこころをわきまえるため聖書を読むこと、導かれればその為に断食をすること。神様が私たちを正しい者に造り変えてくださることを信頼しつつ、自らも正しい行いに取り組んでゆく。お互いに励まし合いながら、私たちがひとつの体としてこの様な歩みを進めてゆきたいと思うのです。

 

ローマ8:14、15「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」