2017年9月24日日曜日

マタイの福音書7章15節~20節「山上の説教(41)~実によって見分ける~」

私がジャイアンツファンだから言うわけでは、決してありません。今年の活躍を見ていると、当てはまらないかなと思いますが、昔なかなか優勝できない阪神タイガースについてよく言われたことばがあります。「阪神タイガースは張子の虎」ということばです。
巨人と並ぶ名門球団。人気選手が多く、個々の選手の力では引けを取らないと思われるのに、何故か優勝できない。途中まで優勝争いをしても、最後は脱落する。そんな阪神タイガースを、見かけは立派でも中身は空っぽ。張子の虎にたとえ、揶揄したことばです。
念のため、私は今、阪神タイガースが張子の虎等とはつゆ思っていません。この点、特にこの中におられる阪神ファンの方々に強調しておきたいと思います。
私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきた山上の説教も終盤。数えて41回目になりますが、今日の個所には、張子の虎ならぬ羊のなりをした狼が登場します。見かけは優しく、おとなしい。人を害することなど一切ない安全な羊の如し。しかし、中身は、貪欲な狼のよう。中身が空の虎なら、警戒しなくてもよいでしょう。しかし、中身が狼で外が羊なら注意が肝心。その様な人を、イエス様は偽預言者と呼んでいます。

7:15「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」

旧約聖書の時代、神様から預かったことばを民に語る人々は預言者と呼ばれました。預言者が活躍したのは、イスラエルの民が不信仰で不道徳、罪に染まっていた時代です。神様のことばには救い、回復の預言もありました。しかし、多くは断罪、叱責、さばきの連続。ために預言者は歓迎されなかった。いや、歓迎されないどころか、彼らは民に反発され、罵られ、迫害されて、苦しまねばならなかったのです。
預言者の使命は、神様から預かったことばを余すところなくすべて語り続けること。しかし、時に人々の耳に痛い神のことばを語らず、人々が歓迎しそうなメッセージをつけ加える預言者が現れたのです。それが、偽預言者でした。

エレミヤ14:14,15「【主】は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、【主】はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』」

主は神様のこと。私は預言者のエレミヤ。あの預言者たちは偽預言者を指します。民の罪をさばくため、剣即ち戦争と飢饉をもたらすという神様のことばを語らない偽預言者。戦争も飢饉も起こらないから安心してよいと語り、人々の評判を得ていた偽預言者。それに対し、神様はその様な預言者を断固退けたと言うのです。
旧約時代の預言者はいなくなりました。しかし、今神様は、教会に牧師、伝道師、長老など、神様の教えを語ることを務めとする者を立てておられます。先回、イエス様は、山上の説教を実践しようとする者にとって、人生は狭き門をくぐり、細き道を進むことと言われました。神様に従う道は決して平坦ではないことを示されました。
そして、今日の個所。細き道を進むためには、神のことばを語り、道案内する者たちが偽預言者のように、間違った方向に私たちを導くことはないか。よく見極めるよう勧めているのです。
それでは、具体的に、偽預言者とはどういう者なのでしょうか。キリスト教と言っても、世世の教会が神様の教えと認めてきた三位一体など、基本的な教えに反することを教える人々は、省いても良い様に思います。
そうだとすれば、どこに私たちは注意すべきなのでしょうか。ひとつは、偽預言者たちがそうであったように、人々の顔色や評判を気にして、神様のことばの一部しか語らないこと、まんべんなく聖書の教えを伝えないことです。
今日教会の講壇から語られる主なテーマは、神の愛であり、人間の罪に対する神の怒り、さばき、永遠の滅びについては、あまり触れられないと言われます。よく耳にすることですが、「旧約の神は厳しく、新約のイエス様は優しい」ということばがあります。しかし、幼子や病人、貧しい人には優しいイエス様も、自分を義しいと考える指導者には厳しく接しました。イエス様が私たちの罪を示し、神様の怒りとさばきを語る箇所も多くあります。

5:2126「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」

これは、イエス様の時代のユダヤ人が、殺してはならないという神の戒めを、人間社会の法律でいう殺人罪と等しく考え、自分たちは神の戒めを十分守っていると安心していた.その様な状況を踏まえたことばです。
それに対して、イエス様は、人に腹を立てること、人を見下すこと、馬鹿にすること、自分のことをよく思っていない人と和解しようとしないこと、それらが神様の目から見たらみな罪であり、本当に神の裁きに価すると教えているのです。私たちはみな、最後のさばき、永遠の滅びに向かって進んでいると、告げているのです。
「自分は家族を、友を、兄弟姉妹を、地域の隣人を、これまで何人心の中で殺してきたか。今も愛すべき人を、日々何回殺しているか。神様の前で震えおののくことがある」と証しした兄弟がいました。皆様は、このことばどう思われるでしょうか。
「天路歴程」を書いて有名なジョン・バンヤンが、刑場に引かれてゆく囚人を見た時のエピソードがあります。人々がみな囚人を罵り、唾を吐きかけているのを見て、バンヤンは道に跪き、天を仰いで祈ったそうです。「ああ、私もあの死刑囚と同じ悪人です。私は心の中で罪を犯すに止まっていますが、彼は、それを実行しました。彼と私の違いは、ただこの一点にすぎません。かえって、私は心の中の悪を、彼のように実行しえなかった点において、一層情けない罪人です」。聖なる神の前では、死刑囚も自分もひとしく悪人。この信仰、この祈りは、皆様にどう映るでしょうか。
アウグスチヌスも「告白」と言う本の中で、自分の中にある悲しむべき罪について証ししています。少年時代、アウグスチヌスは友達と一緒に、他人の家に梨を盗みに入りました。ところが、盗んだ梨は全部豚の餌にしてしまいます。その時、アウグスチヌスは、自分が盗んだのは、梨を食べたかったからではない。盗みと言う禁じられていた罪を楽しみたかったからだと書いているのです。禁じられていることだからしてみたい。罪を楽しみ、罪を愛するほど、罪の力に縛られている人間の悲惨さです。
神の義、怒り、さばきについて、何度でも私たちは教えられる必要があります。それを語らない道案内には注意すべきです。何故なら、自分がいかに悲惨な状態にあるか。それを知らなければ、私たちは神様の愛を深く知ることはできないからです。
二つ目は、神のことばを語る者が、個人的な考えを絶対的な神様の御心として教える時、警戒しなければならないと思います。
旧約の昔、神様はイスラエルを戦争や飢饉によってさばくと宣言しました。しかし、偽預言者は、神様からそんなことは聞いていない。自分たちは神の民、この国には神の神殿もあるから大丈夫。滅ぼされることなしと語り、本当の預言者を攻撃。人々を間違った道へと導いたのです。
個人的な考えや確信を、絶対的な神様の御心であるかのように語り、教える。何かというと、神様の御心を口にし、自分と異なる考えを持つ人を攻撃したり、人を支配しようとする。その様な導き手には、要注意と言うことでしょう。
以上、私たちが求める信仰の導き手について注意すべきこと、教えの範囲、教え方と言う点から、考えてきました。次にイエス様は、教える者の人格、態度と言う点からも、判断、注意すべきことがあると教えています。

7:1620「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」

ぶどうといちじくは、今でもイスラエルを代表する果物、豊かな命のシンボルです。対照的に、いばらとあざみは不毛なものの代表。罪に支配された不毛な心から、真に人間らしい生き方、神様の喜ばれる生き方は生まれてこないという意味でしょう。
良い木が良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶという例えも、同じことです。神様の教えを尊ぶ心の持ち主は、人に喜ばれるような甘い実を結ぶ。他方、神様を無視して生きる者からは、すっぱくて食べられないような実が生まれる。
あなた方が信じているもの、従っている教えが、あなた方の生き方、人格や態度にそのまま表れてくる。神様を愛し、神様を恐れ、神様に従おうことを重んじる人は、神の子どもらしい生き方を生み出さずにはいかない。これが、イエス様のメッセージです。
神様を愛する人の生き方、イエス様の言う、良い木が結ぶ良い実、それは聖書の様々な箇所にまとめられていますが、今日取り上げたいのは、コリント第一13章です。

13:18「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

1節から3節の前半では、イエス・キリストを信じる者に与えられるいのちの本質が愛であることが教えられています。人を愛する思い、愛する意思なしになされたどのような行いも、神様の前には意味がないと言われています。
それでは、人を愛する思い、意思は心にとどまったままなのかと言うと、そうではない。神様に与えられた愛は、私たちの人格や態度においてあらわれる。ふさわしい実をむすぶと言われていました。
もし、人の言動にイライラし、人に親切にする余裕がなく、自分にないものを持っている人をねたんでいるなら、私たちは心に神様の愛を受け取る必要があると思います。もし、自分のしたことを誇り、周りの人を見下している自分に気が付いたら、神様を恐れる心、取り戻す必要があるでしょう。もし、自分の利益を優先して当然と感じていたり、人を責める思いで満ちていたり、人を許せない思いに縛られているなら、神様の御心をわきまえ、従う努力をする必要があると思います。
ここに挙げられている良い実を結んでいるのか。心にあるものは、自己中心の思いなのか、それとも、神様への愛なのか。そうした自己点検を繰り返しながら、神様に従う道を選び、進んでゆく人。そのような人を信仰の導き手とせよ。そのような人とともに細き道を歩め。そう、イエス様は、私たちに語りかけているのです。
神様のことばを語る者も聞く者も、導く人も導かれる人も。皆が神様の御心に従い、自分を変えてゆくことを目指し、ともに信仰の道を歩んでゆきたく思います。


コロサイ3123:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」

2017年9月17日日曜日

エペソ人への手紙2章8節~9節「行いによらず、恵によって」


 先日、本屋に行きまして「今年最も読まれている本」として売られている本を見つけました。ご存知でしょうか、「九十歳。何がめでたい」という本。九十歳を超える著名な女流作家によるエッセイ集です。体のあちこちが衰え、新しい機器や新しい言葉にはついていけず、世間の感覚とずれを感じる。歳を重ねる大変さを吐露しながら、時に舌鋒鋭く、時に優しく、ユーモアに満ちた言葉で綴られるエッセイが、大きな反響を生んでいるようです。

その冒頭に、体が弱くなり、文明が進歩したというけれども昔の方が良かったと感じている著者の思いとして、「『九十といえば卒寿というんですか。まあ!おめでとうございます。白寿を目指してどうか頑張って下さいませ。』と挨拶されると、『はあ・・・有難うございます・・・』と答えはするけれど内心は、『卒寿?ナニがめでてえ!』と思っている。」と出てきます。

 「卒寿?ナニがめでて!」「九十歳。何がめでたい」。このようなことは、実際に九十歳を超えている人でないと言えない言葉であり、一般的には祝われる当人が「何がめでたい。」と啖呵を切るところに、面白さがあります。

面白い言葉。しかし同時に大事な問いでもあります。歳をとることにどのような意味があるのか。「めでたい」と言うなら、何故めでたいのか。いかがでしょうか。他の人が歳をとることはめでたいと言える。しかし、自分が歳を重ねることをめでたいことだと思っているでしょうか。歳を重ねることを喜んでいるでしょうか。

 

 歳をとることは何がめでたいのか。むしろ辛いことではないか。というのは、何も最近になって語られるようになったことではありません。古今東西、偉人、哲人、宗教家、歌人、作家、実に多くの人が述べていること。

レオナルド・ダ・ヴィンチの老いに対する嘆きは「おお、時こそは万物を滅ぼし尽くす者、万物をわずかずつ、ゆるやかな死へと追いやる、ねたましき老年。」自分を含め全てのものが死へと近づいているという恐怖を、老いに見る言葉。

 ギリシャ神話では、ティトノスの逸話があります。オーロラ姫という女神が、見目麗しいティトノスに恋をする。彼と永遠に恋を楽しむために、オーロラ姫はティトノスが死なないように願い、叶えられます。二人で恋を楽しむ最中、しかしティトノスは次第に年老いていく。不老ではない不死。容姿端麗だったティトノスは、老醜の姿となり、たまらなくなったオーロラ姫は彼を一室に閉じ込めてしまう。すると、ティトノスはついに蝉になったという悲劇。これもまた老いることの辛さを物語る話と受け止めることが出来ます。

 四日市キリスト教会の初代牧師、小畑進先生がこの四日市での伝道の思い出を記した文章も印象的です。ご年配の方に伝道している時のこと。「おばあさんも、教会へ来て下さい。」と言うと、「そりゃ、足がもういうことをきかんでな。」との答え。「それなら、このトラクトを読んで下さい。」と言うと、「とんと目が悪うてな、とうてい読めない。」との返事。「それなら、話しを聞いて下さい。」と言うと、「耳が遠くて、よう聞こえん。」そこで、大声で話して「聞こえましたか。」と聞くと、「聞こえたことは聞こえたが、アタマがぼけているから、分からない。」と言われたという話。これも、老いの大変さを物語るものとして受け止められるでしょうか。

 

実に多くの人が、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことと感じています。私たちの人生の多くは、まず祖父、祖母が弱くなる姿を見て悲しく思い、やがて父、母が弱くなる姿を見て寂しく感じ、遂には自分自身が弱くなることを経験して愕然とする歩みとなります。

 ところで、何故、私たちは、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことだと思うのでしょうか。よく考えてみると、そのように感じるのは不思議なことでもあります。何しろ、老いるということは誰もが知っていること。分かっていること。知らないことが起こるのではないのです。また、ある日突然老人になるのではなく、徐々に変化していくもの。そうなることは分かっていて、徐々に変化しているのにもかかわらず、私たちは歳を重ね、老いを味わうことが辛く、寂しく、大変に感じるのです。何故でしょうか。何故、老いることを嫌がる気持ちが自分のうちにあるのでしょうか。

 

 何故、歳を重ねることが辛く、寂しいのか。

その最大の理由は、「出来ていたことが出来なくなる」からです。仮に、衰えること、弱くなることがなければ、歳を重ねることは嫌なことではなくなるでしょう。

私たちの人生は、老いを味わうまで、何かが出来るようになることを繰り返します。何も出来ない赤子で生まれてから、出来ることを増やしていく歩みをしているのです。何かが出来るようになることは嬉しいこと。それによって、人から評価されるのも嬉しいこと。そしていつしか、「これが出来る」ことが、自分の存在意義となります。

それが歳を重ねるにつれ、出来たことが出来なくなることを味わいます。それまで築き上げてきたプライドが削ぎ落とされ、自分らしさを失うのではないかという恐怖を味わうことになる。出来ないことが増えれば増える程、自分は必要とされていない。自分は迷惑をかけてばかり。何のために生きているのか分からない思いが強くなる。出来ないことが増えるにつれて、辛さ、寂しさが増すことになる。

 かつて小学校の教師をしていた祖母の最晩年。ベッドの上で生活し、移動する時には車椅子が必要な状態。その祖母が、一番悲しんでいたのは、手が震えて、字が上手くかけなくなったことでした。涙を流しながら、字が上手くかけないことが寂しいと言っていたことを思い出します。字が上手くかけなくても問題はないこと。字が上手くかけなくても、私にとって大切な存在であることを伝えても、本人は字が上手くかけないことを寂しがっていました。全ての人が歳をとる。自分も老化を味わうと分かっていても、「出来ていたことが出来なくなる」というのは、辛いこと。寂しいことなのです。

 

長い前口上になりましたが、多くの人が、歳をとることを苦しみ、悲しむ中で、どのようにしたら歳を重ねることを喜べるのか。歳を重ねることにはどのような意味があるのか。聖書から考えたいのですが、それはつまり、「出来ていたことが出来なくなる」ことにどのような意味があるのか考えること。「出来ていたことが出来なくなる」ことに備えることです。今日は皆様とともに、歳を重ねることの意味の中でも、特に「出来ていたことが出来なくなる」ことに、どのような意味があるのか、考えたいと思います。

 

 それでは、「出来ていたことが出来なくなる」ことに、どのような意味があるのか。聖書はどのように教えているでしょうか。この点、聖書は驚く程積極的な考えを提示します。

 Ⅱコリント4章16節

「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 

 ここに「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。「外なる人」とは私たちの体のこと。「内なる人」は、「心」とか「人格」という意味ですが、ここでは特に、この世界を造られた神様の前での自分自身という意味です。

 「外なる人」が傷つき、弱まり、苦しむ時。それまで「出来ていたことが出来なくなる」時。その時に何が起こるのかと言えば、「内なる人が新たにされていく。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者とされるというのです。

 歳を重ね、体が弱まり、「出来ていたことが出来なくなる」ことを私たちは恐れ、辛く思います。「外なる人」が衰えることを、とても苦しく思う。しかし、聖書はその時こそ重要な時であること。その時こそ、取り組むべきことがあること。自分自身に向き合い、神様に近づく良い時であると言うのです。

 

 考えてみますと、そもそも私たちはこの世界を造り、支配されている神様の恵みによって生きているもの。自分の体も、心も、自分で用意したものではなく、自分の力で命を支えているのでもない。それにもかかわらず、出来ることが増えていく人生を送るにつれ、知らず知らずのうちに、自分の力で生きているかのように思うことが増える。生かされていると思うよりも、生きていると感じる。神様の恵みに目を留めるよりも、自分の力や功績に目を留めるようになることが多いのです。

 そのような私たちが歳を重ね、肉体的にも社会的にも弱くなり、「出来ていたことが出来なくなる」中で、もう一度自分を見つめ直すことになるのです。自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていると感じる。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩みとなる。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる。この世界を造り支配されている神様を知る者にとって、「出来ていたことが出来なくなる」ことは、実に重要な歩みを送っているのです。

 

この「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」というテーマは、次のように表現されることもあります。

 Ⅱコリント12章9節

「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

 

 この世界を造られた神様抜きに考えるならば、弱くなるのは恐ろしいこと。「出来ていたことが出来なくなる」ことは辛いこと。弱さを誇るなど、とても出来ない。しかし、この世界を造られた神様を前にした時、弱くなることに重要な意味があることを見出すのです。

 「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」。これが真実だとすれば(私は真実だと思っているのですが)、それはつまり、歳を重ね、出来ることが少なくなっても、取り組むべきことがあるということです。非常に弱くなり、助けがないと生きることが出来なくなっても、成長があり、新しい世界が広がっているということです。老いの中でこそ、人生の真髄を見出す歩みがあるのです。

 

 現代は効率主義、能力主義の時代と言われます。素早く出来ること、能力があることが重要。何をなしたのかということが大事とする世にあって、聖書は、その人がどのようなことをしたのかよりも、神様がその人に何をなされたのかに注目するように教えます。

 私がすることではなく、神様のなさることに思いを向けていくこと。何か出来るから存在意義があるのではない。何か出来るから愛されているのでもない。ただただ、私を愛そうとする方がいるから愛されていると気づくこと。これは信仰生活の中で最も大切な姿勢と言うことが出来ます。

 エペソ2章8節~9節

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

 「何をするか」ではなく、「何をして頂いたのか」。これこそ、キリスト教であり、恵みの宗教。行いによらず、恵みによって救われている。行いによらず、恵みによって愛されている。行いによらず、恵みによって生かされている。これが、どれほど重要な福音なのか。

キリストを信じるとは、この福音を信じること。クリスチャンとは、この福音を味わうように召された者。今日の敬老感謝礼拝を一つの契機として、私たち皆で生涯をかけて、この御言葉が真実であると確認していきたいと思います。

 

 最後にいくつかのお勧めとお願いをして終わりにしたいと思います。

 まずは敬老の方へのお勧めとお願いです。歳を重ね、老いることは大変なこと、辛いこと。しかし、弱くなる歩みをする中でも、絶望することはない。むしろ、その時にこそ、取り組むべきことがあると聖書は言います。「内なる人が新たにされる生き方。」「行いによらず、恵みによる信仰生活。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者となる生き方」をするように聖書は教えていました。

人生の先輩、信仰者の先輩へのお勧めというか、お願いは、「行いによらず、恵みによる信仰生活」に取り組んで頂きたいということです。弱くなることを嘆きながらも、内なる人が新たにされる喜びを教えて頂きたいのです。キリストを信じる者ががどのように老いて、どのように天に召されていくのか。その中で、内なる人が新たにされる生き方とは、具体的にどのようなものなのか。天に召される、その時まで、生きる意味があり、取り組みがあることを、その生き様で教えて頂きたいのです。

 

まだ敬老の年になっていない方に申し上げます。私たちの教会に、人生の先輩が来られていることを感謝いたしましょう。その人生に敬意を払いましょう。どのような人生を歩まれたのか、耳を傾けましょう。私たちは皆老いる。その時、人生の先輩の、教会の先輩の生き様をお手本にするのです。

 そして、この信仰の先輩方に続く歩みを私たちもなし、やがては私たちの子、孫、またその次の世代へと信仰を継承していく。キリストがもう一度来られるまで、私がなにをなすかではなく、神様がなされることに注目する信仰。行いによらず、恵みによる信仰を、この地で繰り広げていきたいと思います。

 

 モーセの最晩年。遺言説教の一節。イスラエルの民に、神様がして下さったことを忘れないように。また、そのことを子どもや孫に伝えるようにと語った言葉を、皆さまと共にお読みして終わりたいと思います。今日の聖句です。

 申命記4章9節

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」

2017年9月10日日曜日

マタイの福音書7章13節、14節「山上の説教(40)~狭い門から~」


今から40年ほど前になるでしょうか。私が大学受験の時、ラジオで受験講座を聞いていると、良く耳にしたことばがあります。「~大学は狭き門」ということばでした。今はわかりませんが、当時は入学するのが難しい大学、入社するのに困難な会社等を指して「狭き門」と言われていました。

イエス・キリストが語られた山上の説教は、一般的にも知られた名言、名句の宝庫。今日の個所にある「狭き門から入れ」ということばも、その一つです。しかし、ほかの名言、名句同様、聖書本来の意味とは随分かけ離れた意味で理解されているようです。

私たちが読み進めてきた山上の説教、マタイの福音書5章から7章にわたる長篇説教も、終盤となります。7章の12節まで、神の子どもにふさわしい、義しい生き方について説いてきたイエス様は、その後実践の勧めに入りました。まずは、山上の説教を実践するにあたり、罪の赦しの恵み、神様の教えに従う思い、従う力を求め、受け取るようにと勧めました。神様が天の父として、喜んで私たちに協力してくださるお方であることを示されたのです。先回、先々回はここを学びました。

そして、今日の個所。イエス様は、山上の説教を実践することは、狭き門から入り、細い道を行くようなものですよと、語っておられます。天の父が惜しまずに恵みを与えてくださる私たち神の子ら。私たちも神様の恵みにこたえて、その教えに取り組む覚悟が求められているのです。

 

7:13,14「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

 

 時々、行列のできる店というのが話題になります。ラーメンのおいしい店、和食のおいしい店。中華料理のおいしい店。最近は、インターネットに「その店良いね」と思った人がコメントを載せ、星印で得点までついています。料理なら、種類も味も個人の好みですから、勧める人の数、星の数が多い店を選ぶというのも、一つの方法かもしれません。

 しかし、事が道徳上の善悪、真理の是非となるとどうでしょう。善悪を賛成反対の人数で決める。多数派が義しく、少数派が間違っている。そう簡単には決められないと思います。

 数年前、アメリカのハーバード大学の教授、マイケル・サンデルという人の講義が、本やテレビで話題になりました。正義について論じる人で、学生にも人気のある授業で、日本に来た時も、多くの人が参加したそうです。

この人が「正義について」という本で、紹介していたことがあります。今子どもが欲しいアメリカ人の夫婦が、インドの会社に依頼をすると、その会社と契約しているインド人の女性が子どもを産み、その生まれた子どもをお金で購入するケースが増えているそうです。インド政府も、このような会社を積極的に支援しているとか。

 子どもが欲しい人と、お金が欲しい人。両者が利益を受けて、誰にも迷惑をかけない。政府が規制すれば、不当な人身売買も防げる。裕福な者が貧しいものを助けることになり公共の福祉を進めることになる。だから、このビジネス、この政策は正義だと言うのが、賛成派の考えです。サンデルさんはこれに疑問を呈していますが、皆様は、どう考えるでしょうか。

 賛成派、反対派、中立派。様々な立場があるでしょう。いずれにせよ、多くの人に共通する前提は、人間が神なしで、善悪を判断できるという考え方ではないかと思います。神様の教えを無視して、人間が善悪を決することができると言うのなら、最終的には人数の多い方が正義、声の大きな人、力のある者が正義ということになるのかもしれません。

 しかし、イエス・キリストを信じる私たち神の子は、道徳上の善悪、真理の是非に関する最終的基準は神にあると信じています。神様の教えをもとに、善悪や真理を判断します。ことばを代えれば、神様の御心をどこまでも第一にして生きる者たちです。

 そうだとすれば、山上の説教の教えに従って生きることは、狭い門を入ることです。多くの人が神なしで善悪を判断し行動してよいと考えて、広い門を入ってゆくからです。各々が義しいと思うこと、各々が欲することを行って当然とする広い道を歩んでゆくからです。

それに対して、私たちは何をするにも、神の国とその義を第一とする神の子ら。必然的に、その門を入る人は少なく、その道を歩む人は少なくあります。

むしろ、何事につけても、神様は何を善、何を悪としているかを問い、何をするにも神様の真理に従えるようにと祈り、願うクリスチャンの存在は煙たがれることがあります。自分たちと同じように考え、行動しない神の子らを疎ましく思うこともあるでしょう。国や世間の多数派に従わない信仰者を迫害することだってありましたし、今もあるのです。そう言えば、イエス様はこの説教の冒頭で、この様に語っておられました。

 

5:10~12「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」

 

 山上の説教の冒頭に置かれた八福の教え。そこにある「義のために迫害される者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言うことばが、狭き門を入り、細い道をゆく私たちの苦労を思い、イエス様心から発せられたものであること、改めて覚えさせられます。

 事実、人々がみな暴虐に走り、悪が横行。世界が最低最悪の状態に落ちた、あの旧約聖書のノアの時代。何人かでも救うため、神様がノアに箱舟を作るよう命じた時、招きの声に応じて箱舟に乗って助かったのは、わずかノアの家族八人でした。

イエス様も、神様の救いの招きにこたえて、ご自分を信じる人が余りにも少ないことに心を痛め、時に叱り、時に嘆きの声を上げておられます。

 実情は、昔も今も変わりません。日本において、キリスト教文化に好意を寄せる人は多くても、聖書を読む人、教会を訪れる人は少なくあります。教会を訪れても、聖書の真理を求める人はさらに少なく、イエス・キリストを信じて救われる者は、残念ながら少数派です。

 私がキリスト教の洗礼を受けたのは、大学生の時ですが、やはり狭い門を入る緊張感と言いましょうか。少なからず不安、恐れがありました。

実家は仏教曹洞宗の家。曾祖父の代まで、三代続いた坊主の家系であり、檀家として、善福寺という村のお寺とは長く深い関係がありました。家族にはもちろん、親戚にも、学校の先生にも友人にも友人の家族にも、クリスチャンはいませんでした。そこで生活することは、檀家としての役割を忠実に行うこと。それが当たり前のように求められる環境です。

 幸いにして、大学生の私は東京で生活していましたから、家族や親戚からのプレッシャーは少なかったと思います。もし、あの時実家で暮らしていたとしたら、強固な反対なしに洗礼が受けられたとは到底思えません。皆様の中にも、同じような境遇の中、いやもっと厳しい境遇の中でキリスト教信仰という狭い門をくぐった方もいらっしゃることでしょう。

 しかし、今日のことばは、キリスト教信仰に入る前の人のためであると同時に、すでにイエス様を信じ、キリスト教信仰の歩みをしている者への勧めです。勿論、私たちが信仰に入る時に感じる門の狭さも説いています。しかし、イエス様を信じて、キリスト教信仰の道を歩んでいる者たちへの励ましでもあるのです。

 イエス様は、滅びに至る門は大きく、その道は広い。しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭いと言われました。皆様はご自分が歩む道の狭さを感じたことはあるでしょうか。それはどの様な時、どのような困難でしょうか。ある時、イエス様がたとえ話をされました。

 

 マルコ4:2101420「イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。……種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

 

道端にまかれた種を襲うサタンの誘惑。岩地にまかれた種を苦しめる、外側からの困難や迫害。いばらの中に撒かれた種が悩まされる世の心遣い、富の惑わし、様々な欲望。これらのたとえは、私たちが狭い門を入った後、信仰の道を進み続けることが、決して容易ではないことを物語っています。

ところで、昔インドでは、ココナッツを使って罠とし、サルを捕まえていたという話があります。中の実をくりぬいたココナッツに、サルの手が入るほどの穴をあけ、その中に好物のコメを入れる。そのココナッツを木に鎖で縛っておく。そこにサルがやってきて、手を突っ込んでコメを掴むと、一杯のコメを掴んだ手は大きくなり、サルはコメを掴んだままでは手を抜けない状態になってしまう。しかし、人間が捕まえに来ても、サルはコメを掴んだ手を放そうとはしないので、まんまと捕らえられてしまったと言うのです。

このように、何かが妨げとなり、私たちの心や行動を縛っているので、神様に信頼し、従うことができない状況があります。富や所有物に心縛られて、神様に信頼できないことがあります。仕事の成功、人々の評判が気になって、神様の教えには心あらずという状況もあるでしょう。人を責める思いで心が占領され、神様の愛を味わえないこともあるでしょう。あるいは、悪い習慣や罪の楽しみが邪魔をして、神様と交わることができないことだってあると思います。

イエス様は、私たちがこのような状況に陥ることをよくご存じでした。ですから、自分を縛るもの、自分と神様の関係を妨げているものに気をつけなさい。気がついたら、それを悔い改めて、手放し、捨ててしまいなさい。そう命じているのです。神様に従う道は、広くはない。やはり細い。決して平端でも、容易でもない。誰もが、そのことを覚悟して進まなければならない道なのです。

 最後に、細い道を進み続けるためには、どうすればよいのかを考えたいと思います。

第一は、広い道、細い道。各々の先に待っているものが何であるかを理解し、しっかりと見つめることです。イエス様は、神を無視し続ける道は滅びへの道、神様に従い続ける道はいのちへの道。この他に道はなしと言われました。

広い道は、様々なものに心縛られ、不自由で、争いが絶えない道。行き着く先は神様の愛のない、滅びの世界です。細い道は、罪の赦しを受け取る道。神様との平和を喜び、人を愛し愛される喜びがある道。行き着く先は、神様の愛と義で満たされた,命の世界です。

分け登る ふもとの道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という歌があります。どのような道を歩んでも、最後は皆同じ富士山の頂上、良い世界に辿り着くという意味で、日本人の宗教心を表すものと言われています。

しかし、イエス様は、私たちが神なしの道を行くのか、神に従う道を行くのかで、地上の人生も死後の世界も全く異なることを、教えられました。だから狭き門から入れ、細き道を進めと言う、励ましのお声を聞きました。私たちが進みゆく道の先に、本当のいのちの世界があることを覚え、歩み続けたいと思います。

第二は、この道を歩むのは、一人ではないこと、神様が備えてくださった信仰の仲間がいることを忘れないことです。困難な道を、助け合い、励ましあい、時には戒め合いながら、一緒に歩んでゆく。神様は交わりと言う助けを、私たちに与えてくださいました。教会の交わりと言う助けから離れないように、そこで自分が養われ、成長することを目指して、私たちの信仰歩み、進めて行きたいと思うのです。

第三は、イエス・キリストがともにいてくださることです。イエス様は、山上の説教を教えてくださった教師にとどまりません。自らそれを実行し、私たちが従うべき模範となられました。さらに、狭き門をくぐり、細き道を行く私たちのそばにいて、共に重荷を負い、喜んで力を貸してくださる救い主なのです。

罪に誘われる時も、試練の中にある時も、思い煩いや心配に悩むと時も、困難な働きをなす時も、わたしがあなたとともにいること、そばにいることを忘れないように。いつも、イエス様が語りかけてくださる御声を聞きながら、私たち日々信仰の道、細き道を歩む者でありたいと思うのです。

 

マタイ2820b「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

2017年9月3日日曜日

マタイの福音書7章12節「山上の説教(39)~何事でも、自分にしてもらいたいことは~」


私の母は83歳。長野県の田舎で一人暮らしをしています。最近家に帰ると、母が良く言うことがあります。「俊彦、コンビニって本当に便利だね」言うことばです。五年ほど前、実家のそばにコンビニができた時は、こんな田舎の高齢者しか住んでいないような場所で、コンビニ等やっていけるのかと思ったのですが、母によれば結構繁盛しているそうです。

 「農協には売っていない、一人用のごはんやおかずが沢山あり、サバの味噌煮など本当に美味しい。わざわざ郵便局まで行かなくても、そこで年金を受け取ることもできるし、店員さんも親切で、コンサートのチケットも頼むと買ってもらえる」。そう言うのです。

 買い物難民と言うのでしょうか。母のように車がなく、バスも通っていない地域に住んでいる一人暮らしの老人にとって、近くのコンビニは重宝なもののようです。

 また、この辺にお住まいの方はご存知かもしれません。我が家の近くに大戸屋という食堂があります。この間妻と二人で食事をしていた時、続々と入ってくるお客を見て、妻が言いました。「パパ、主婦が家族と外食する時、この店を選ぶ人は多いと思うよ。だって、しっかりご飯が食べられて、値段も手ごろ。店も明るいし、何よりどんな定食にも野菜がたっぷりついていて、栄養のバランスが良いから」。これは、妻の分析ですが、そう言えば、大戸屋の外にも家族連れが並んでいるのを、よく見かける気がします。

 私の田舎にあるコンビニと家の近くにある大戸屋。二つの店には、共通点があります。それは、その地域に住む人が何を願い、欲しているかを考え、それを提供しようとしている点です。もし、自分が一人暮らしの老人だったら、もし、自分が家族の健康を気遣う主婦だったら。そういう姿勢で商売をしていることです。

 礼拝の際、読み進めてきた山上の説教。イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教で、聖書中最も有名な説教ですが、今日のテーマは、愛とは人の立場、人の気持ちになって考え、行動するということです。

 

 712「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」 

 

「律法であり預言者」と言うのは旧約聖書のことです。イエス様の時代、まだ新約聖書はできていませんから、旧約聖書イコ―ル聖書です。つまり、イエス様は「何ごとでも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」との教えは、聖書の中心的な教えだと語っています。聖書には様々な教えがあるけれども、その根本にあるのが、この教えであることを示されたのです。

この隣人愛の教えが、聖書の中心であることを、イエス様は、もう一度語っています。イエス様がこれ程強調されたことを記憶していたのでしょうか。新約聖書には他に三回、合計五回、隣人愛こそ神様の教え、神様の命令の中心であることが記されていました。

そして、他の箇所に比べると、山上の説教におけるイエス様の教えは、具体的でわかりやすい。子どもでも理解できるほどです。ただ隣人を愛せよと言われても、具体的に考えようとしない人間のことを顧みて、優しく、かみ砕いて語るイエス様のお顔が見えてきます。

これが多くの人に、分かりやすく、覚えやすいことばと言う印象を与えたのでしょう。名言、名句の宝庫と言われる山上の説教の中で、このことばも昔から、広く親しまれてきました。

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」。誰が言い出しだしたのかは分かりませんが、いつの頃からか、これは黄金律、ゴールデンルールとも呼ばれるようになりました。政治家から経営者さらには無名の人に至るまで、この言葉を座右の銘にした人、あるいはしている人は、それこそ数知れずでしょう。

ところで、これと類似することばを語った人物が、イエス様以外にもいたということが、よく言われます。代表的なのは、お隣中国の人孔子です。「己れの欲せざる所、これを人に施すこと勿れ」。自分がして貰いたくないことを、他人にしてはならないという意味でした。

イエス様の教えは「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」として、積極的であるのに対して、孔子の方は「自分にしてもらいたくないことは、他の人にもしてはならない」とあり、消極的です。

振り返ってみれば、イエス様の勧める隣人愛は、いつも積極的でした。例えば、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とあります。自分に嫌なことを言い、ひどいことを行う相手のことを我慢し、忍耐するだけでも立派な態度、美徳と言えるでしょう。しかし、イエス様はそんな人間社会の常識を飛び越えて、自分を罵る人を愛し、自分を苦しめる人のために祈れと命じられたのです。

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」。今日の教えにも、イエス様の積極性が光っています。

「あっ、兄ちゃん、よくも叩いたな。僕にも仕返しさせてくれ」と、叩き返す弟。すると、「いてー。おれはそんなに強く叩かなかったぞ。卑怯者め。」と、兄が叩きかえす。すると、「そんなに痛くなんかなかったぞ。やり過ぎだ」と、弟がやり返す。

そうして、叩かれたら、叩き返す。手のひらが拳骨となり、拳骨が棒となり、棒が鉄砲となり、鉄砲が大砲になり、大砲がミサイルとなる。夫婦、親子、兄弟。隣人同士、国と国。これが、私たちの現実です。

そうだとすれば、自分が叩かれたくないから、叩き返したくなっても我慢する。自分がひどいことを言われるのは嫌だから、言い返したくても忍耐する。人に悪口を言われるのは不愉快だから、自分も人の悪口は言わない。何にせよ、自分にしてもらいたくないことは、他の人にもしない。これだけでも至難の業。世間の常識からすれば、十分な美徳ではないかと思われます。

しかし、惜しむらくは、消極的な隣人愛の勧めには、どこか自分のためという影が付きまとっています。自分が叩かれたくないから、叩き返したくても我慢する。自分がひどいことを言われるのは嫌だから、言い返したくても忍耐する。自分を守るための我慢、忍耐です。自分を守るための賢い対応、知恵ある対処という気がします。

それに対して、イエス様の教えには、自分を守るという姿勢は感じられません。むしろ、自分が好きになれない人でも、自分が不利な状況になっても、人の立場に立ち、人の欲することを行う。行動にあらわされた愛を大切にしているのです。

イエス様の勧める隣人愛実践の例が、旧約聖書の律法として記録されていました。

 

出エジプト23:45「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」

 

当時、牛やロバは貴重な労働力であり、大切な財産でした。そのことを踏まえて、自分だったら、この場合どう行動するのか。考えてみてください。自分を憎く思う人のロバや牛なら、助けてやりたくないという気持ちはわかる。いや、自分には、助ける義理も義務もないと考えるのが、当時も今も普通でしょう。

しかし、そうであっても、その人に協力して助けてあげなさいという勧めです。

イエス様自身も、自らこの隣人愛を実行されました。ひとつの例を挙げれば、どのような労働も禁じられていた安息日に、手の病を患う人を癒したことがあげられます。

 

マルコ3:16「イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。

イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。

それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。」

 

最後の所に、パリサイ人とヘロデ党という、普段は仲が悪い指導者同士が、肩よせ合って、イエス様を抹殺する相談をしたとあります。指導者たちの敵意をあおることを承知の上、自分が危険な状況になることを覚悟の上で、手の萎えた人の願いのために尽くしたイエス様の姿です。

自分を憎む人のことを我慢するにとどまらず、その立場に立って、その人が欲すると思うことを行う。たとえ、自分が非常に不利な状態になることが分かっていても、苦しむ人の願いを察して、それを助ける。こうした、聖書の律法、イエス様の実例を見てきますと、具体的でわかりやすいと思われたこの教えが、それを実行するとなると高い壁のように、行く手を遮るのを感じるのです。

聖書は、私たちはみな神様の前に罪人であると教えています。その一つの意味は、神様に背いた時から、私たちの隣人愛は自己中心なものとなってしまったと言うことです。

私たちは、自分が人に何をして欲しいかについては、よく考えます。妻に尊敬してほしい。夫に話を聞いて欲しい、共感してほしい。周りの人からねぎらいのことばが欲しい。上司に働きを評価してほしい。部下に自分のことを信頼してほしい。

問題はその次です。今度は、それと同じことを相手にもしてあげたことがあるだろうかと考えてみてほしいのです。自分の話は聞いて欲しいのに、他の人の話にはあまり関心がなく、時間ばかり気にしている。自分のことは認めてほしいのに、他の人のことは案外無視している。自分は不当に扱われたと抗議するけれど、立場が逆になれば、人の気持ちなど意に介さない。どこまでも、徹底的に自己中心なのが、私たちの現実ではないでしょうか。

また、私たちの隣人愛は、自分を守るため、自分の利益のため、という側面を持っています。私の母が暮らす田舎にできたコンビニや、我が家の近くにある大戸屋が、不利益を覚悟して、地域の人々の願いに応えるとは思えません。敵対するライバル店のために、塩を送るような親切をするとも考えられません。

しかし、私たちも同じではないでしょうか。自分に嫌なこと、不当なことをしてくる人に対しては、我慢や忍耐が精一杯。とても、心からその人の欲することを行って、助けようとは思えません。自分が不利益になることを覚悟の上で、人のことを顧み、人の願いに応えることも、本当に至難の業と思えます。

そうだとすれば、何故イエス様は、この積極的な隣人愛の実践を勧め、命じているのでしょうか。それは、イエス様を信じる私たちが神様の子どもだからです。私たちが神様の子どもとして愛され、本来なら受け取る資格のない良いものを受け取っているからです。

前回学んだ7:7~11をお読みします。

 

7:7~11「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

 

神様は、私たちの価値に応じたものをくださるのではありません。神様は、私たちが裁かれるべき罪人であるにも関わらず、良いものを与えてくださるのです。日々の糧、健康、仕事、大切な家族や友人、何よりも罪の赦しの恵み、永遠の命など、それらを受け取る価値のない私たちを良いもので満たしてくださるお方なのです。

私たちの神様は、父が子どもを恵みを惜しまないように、私たちに恵みを注がれるお方であることをよく知ること。神様の恵みを喜び、味わうこと。神様との交わりを通して、心励まされ、隣人愛の実践に取り組むこと。それが、イエス様の願いではないかと思います。

果たして、私たちは神様が与えてくださった恵みをどれほど数え、感謝しているでしょうか。受けて当然のものと考えてはいないでしょうか。神様の恵みを味わうために、日々の生活の中で、どれほど時間を取っているでしょうか。

どこまでも自己中心で罪深い私たちに、惜しみなく赦しと恵みを与えてくださる神様に心を向けつつ、一歩一歩進む隣人愛の道。イエス様の歩まれたその道を、私たち皆で進んでゆきたいと思うのです。今日の聖句です。

 

マタイ712「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」