私がジャイアンツファンだから言うわけでは、決してありません。今年の活躍を見ていると、当てはまらないかなと思いますが、昔なかなか優勝できない阪神タイガースについてよく言われたことばがあります。「阪神タイガースは張子の虎」ということばです。
巨人と並ぶ名門球団。人気選手が多く、個々の選手の力では引けを取らないと思われるのに、何故か優勝できない。途中まで優勝争いをしても、最後は脱落する。そんな阪神タイガースを、見かけは立派でも中身は空っぽ。張子の虎にたとえ、揶揄したことばです。
念のため、私は今、阪神タイガースが張子の虎等とはつゆ思っていません。この点、特にこの中におられる阪神ファンの方々に強調しておきたいと思います。
私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきた山上の説教も終盤。数えて41回目になりますが、今日の個所には、張子の虎ならぬ羊のなりをした狼が登場します。見かけは優しく、おとなしい。人を害することなど一切ない安全な羊の如し。しかし、中身は、貪欲な狼のよう。中身が空の虎なら、警戒しなくてもよいでしょう。しかし、中身が狼で外が羊なら注意が肝心。その様な人を、イエス様は偽預言者と呼んでいます。
7:15「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」
旧約聖書の時代、神様から預かったことばを民に語る人々は預言者と呼ばれました。預言者が活躍したのは、イスラエルの民が不信仰で不道徳、罪に染まっていた時代です。神様のことばには救い、回復の預言もありました。しかし、多くは断罪、叱責、さばきの連続。ために預言者は歓迎されなかった。いや、歓迎されないどころか、彼らは民に反発され、罵られ、迫害されて、苦しまねばならなかったのです。
預言者の使命は、神様から預かったことばを余すところなくすべて語り続けること。しかし、時に人々の耳に痛い神のことばを語らず、人々が歓迎しそうなメッセージをつけ加える預言者が現れたのです。それが、偽預言者でした。
エレミヤ14:14,15「【主】は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、【主】はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』」
主は神様のこと。私は預言者のエレミヤ。あの預言者たちは偽預言者を指します。民の罪をさばくため、剣即ち戦争と飢饉をもたらすという神様のことばを語らない偽預言者。戦争も飢饉も起こらないから安心してよいと語り、人々の評判を得ていた偽預言者。それに対し、神様はその様な預言者を断固退けたと言うのです。
旧約時代の預言者はいなくなりました。しかし、今神様は、教会に牧師、伝道師、長老など、神様の教えを語ることを務めとする者を立てておられます。先回、イエス様は、山上の説教を実践しようとする者にとって、人生は狭き門をくぐり、細き道を進むことと言われました。神様に従う道は決して平坦ではないことを示されました。
そして、今日の個所。細き道を進むためには、神のことばを語り、道案内する者たちが偽預言者のように、間違った方向に私たちを導くことはないか。よく見極めるよう勧めているのです。
それでは、具体的に、偽預言者とはどういう者なのでしょうか。キリスト教と言っても、世世の教会が神様の教えと認めてきた三位一体など、基本的な教えに反することを教える人々は、省いても良い様に思います。
そうだとすれば、どこに私たちは注意すべきなのでしょうか。ひとつは、偽預言者たちがそうであったように、人々の顔色や評判を気にして、神様のことばの一部しか語らないこと、まんべんなく聖書の教えを伝えないことです。
今日教会の講壇から語られる主なテーマは、神の愛であり、人間の罪に対する神の怒り、さばき、永遠の滅びについては、あまり触れられないと言われます。よく耳にすることですが、「旧約の神は厳しく、新約のイエス様は優しい」ということばがあります。しかし、幼子や病人、貧しい人には優しいイエス様も、自分を義しいと考える指導者には厳しく接しました。イエス様が私たちの罪を示し、神様の怒りとさばきを語る箇所も多くあります。
5:21~26「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」
これは、イエス様の時代のユダヤ人が、殺してはならないという神の戒めを、人間社会の法律でいう殺人罪と等しく考え、自分たちは神の戒めを十分守っていると安心していた.その様な状況を踏まえたことばです。
それに対して、イエス様は、人に腹を立てること、人を見下すこと、馬鹿にすること、自分のことをよく思っていない人と和解しようとしないこと、それらが神様の目から見たらみな罪であり、本当に神の裁きに価すると教えているのです。私たちはみな、最後のさばき、永遠の滅びに向かって進んでいると、告げているのです。
「自分は家族を、友を、兄弟姉妹を、地域の隣人を、これまで何人心の中で殺してきたか。今も愛すべき人を、日々何回殺しているか。神様の前で震えおののくことがある」と証しした兄弟がいました。皆様は、このことばどう思われるでしょうか。
「天路歴程」を書いて有名なジョン・バンヤンが、刑場に引かれてゆく囚人を見た時のエピソードがあります。人々がみな囚人を罵り、唾を吐きかけているのを見て、バンヤンは道に跪き、天を仰いで祈ったそうです。「ああ、私もあの死刑囚と同じ悪人です。私は心の中で罪を犯すに止まっていますが、彼は、それを実行しました。彼と私の違いは、ただこの一点にすぎません。かえって、私は心の中の悪を、彼のように実行しえなかった点において、一層情けない罪人です」。聖なる神の前では、死刑囚も自分もひとしく悪人。この信仰、この祈りは、皆様にどう映るでしょうか。
アウグスチヌスも「告白」と言う本の中で、自分の中にある悲しむべき罪について証ししています。少年時代、アウグスチヌスは友達と一緒に、他人の家に梨を盗みに入りました。ところが、盗んだ梨は全部豚の餌にしてしまいます。その時、アウグスチヌスは、自分が盗んだのは、梨を食べたかったからではない。盗みと言う禁じられていた罪を楽しみたかったからだと書いているのです。禁じられていることだからしてみたい。罪を楽しみ、罪を愛するほど、罪の力に縛られている人間の悲惨さです。
神の義、怒り、さばきについて、何度でも私たちは教えられる必要があります。それを語らない道案内には注意すべきです。何故なら、自分がいかに悲惨な状態にあるか。それを知らなければ、私たちは神様の愛を深く知ることはできないからです。
二つ目は、神のことばを語る者が、個人的な考えを絶対的な神様の御心として教える時、警戒しなければならないと思います。
旧約の昔、神様はイスラエルを戦争や飢饉によってさばくと宣言しました。しかし、偽預言者は、神様からそんなことは聞いていない。自分たちは神の民、この国には神の神殿もあるから大丈夫。滅ぼされることなしと語り、本当の預言者を攻撃。人々を間違った道へと導いたのです。
個人的な考えや確信を、絶対的な神様の御心であるかのように語り、教える。何かというと、神様の御心を口にし、自分と異なる考えを持つ人を攻撃したり、人を支配しようとする。その様な導き手には、要注意と言うことでしょう。
以上、私たちが求める信仰の導き手について注意すべきこと、教えの範囲、教え方と言う点から、考えてきました。次にイエス様は、教える者の人格、態度と言う点からも、判断、注意すべきことがあると教えています。
7:16~20「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」
ぶどうといちじくは、今でもイスラエルを代表する果物、豊かな命のシンボルです。対照的に、いばらとあざみは不毛なものの代表。罪に支配された不毛な心から、真に人間らしい生き方、神様の喜ばれる生き方は生まれてこないという意味でしょう。
良い木が良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶという例えも、同じことです。神様の教えを尊ぶ心の持ち主は、人に喜ばれるような甘い実を結ぶ。他方、神様を無視して生きる者からは、すっぱくて食べられないような実が生まれる。
あなた方が信じているもの、従っている教えが、あなた方の生き方、人格や態度にそのまま表れてくる。神様を愛し、神様を恐れ、神様に従おうことを重んじる人は、神の子どもらしい生き方を生み出さずにはいかない。これが、イエス様のメッセージです。
神様を愛する人の生き方、イエス様の言う、良い木が結ぶ良い実、それは聖書の様々な箇所にまとめられていますが、今日取り上げたいのは、コリント第一13章です。
13:1~8「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」
1節から3節の前半では、イエス・キリストを信じる者に与えられるいのちの本質が愛であることが教えられています。人を愛する思い、愛する意思なしになされたどのような行いも、神様の前には意味がないと言われています。
それでは、人を愛する思い、意思は心にとどまったままなのかと言うと、そうではない。神様に与えられた愛は、私たちの人格や態度においてあらわれる。ふさわしい実をむすぶと言われていました。
もし、人の言動にイライラし、人に親切にする余裕がなく、自分にないものを持っている人をねたんでいるなら、私たちは心に神様の愛を受け取る必要があると思います。もし、自分のしたことを誇り、周りの人を見下している自分に気が付いたら、神様を恐れる心、取り戻す必要があるでしょう。もし、自分の利益を優先して当然と感じていたり、人を責める思いで満ちていたり、人を許せない思いに縛られているなら、神様の御心をわきまえ、従う努力をする必要があると思います。
ここに挙げられている良い実を結んでいるのか。心にあるものは、自己中心の思いなのか、それとも、神様への愛なのか。そうした自己点検を繰り返しながら、神様に従う道を選び、進んでゆく人。そのような人を信仰の導き手とせよ。そのような人とともに細き道を歩め。そう、イエス様は、私たちに語りかけているのです。
神様のことばを語る者も聞く者も、導く人も導かれる人も。皆が神様の御心に従い、自分を変えてゆくことを目指し、ともに信仰の道を歩んでゆきたく思います。
コロサイ3:12「3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」