今朝の礼拝は受難週の礼拝です。受難週とは、イエス・キリストが都エルサレムに入場した日から復活前日まで,即ち日曜日から土曜日までの一週間を指すことばです。この期間、キリスト教会は、イエス様の生涯最後の一週間の出来事を聖書で読み、思いめぐらし、その意味を考える時としてきました。私たちクリスチャンは、いつもイエス様のことを考えるべき者。しかし、このように時を定めてイエス様がお受けになった苦しみ、受難について思い巡らすことを、教会は大切にしてきたのです。
先週の礼拝では十字架前夜、最後の晩餐の後、イエス様が弟子たちと向かったゲッセマネの園での出来事を見ました。そこで、イエス様は「十字架の苦しみをさけさせてほしい」と願い祈りをささげたものの、ついには十字架で死ぬことが神様のみこころ、我が使命であることを確認し、その身をローマの兵士に捕えさせたのです。
その後、ユダヤ教の裁判で神を冒涜する者として罪に定められたイエス様は、死刑の宣告を受けました。しかし、当時死刑執行の権限のなかったユダヤの指導者は一計を案じ、総督ピラトの官邸に向かうや、イエス様を十字架刑に処するよう求めたのです。ピラトはイエス様に罪を認めなかったものの、ユダヤ人の歓心を買おうと有罪を確定。ついに、イエス様は
刑場へと歩みだしたのです。イエス様がどくろの丘と呼ばれた場所にたどり着いたのは、金曜日の午前9時ごろでした。この時イエス様が歩まれた道はビア・ドロローサ、悲しみの道と言われ、今も巡礼や観光客が途絶えることがありません。
27:33~37「ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。」
どくろの丘についてからも、人々はイエス様を苦しめ、辱めることをやめようとはしませんでした。この時イエス様に差し出されたぶどう酒は、体の痛みを和らげるための薬で、当時エルサレムの婦人が囚人をあわれみ、これを与える習慣があったと言われます。しかし、イエス様は一口舐めただけで、飲もうとはされませんでした。これから受ける苦しみのすべてを受けとめようという覚悟の現れでした。
刑の執行を見張る兵士には、当時囚人の着物が役得として与えられたと言われます。そうだとしても、苦しむ囚人の傍で、くじ引きして着物を分け合うとは、何と酷な仕打ちかと思われます。また、頭上に掲げられた「ユダヤ人の王」と言う罪状書きも、イエス様をからかい、辱めるためのものであったでしょう。さらに、人々が声を上げ、罵り始めたのです。
27:38~44「そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」
道を行く人々は「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい」と叫ぶ。普段は仲の悪い祭司と律法学者、長老たちも「他人を救ったイスラエルの王なら、十字架から降りてもらおうか。…わたしは神の子だと言っていたのだから、神が助けてくれるだろう」と、一緒になって声を上げる。イエス様の右と左に十字架にはりつけにされた強盗も、同じことばで罵る。
言うことは皆同じでした。男も女も、若者も壮年も、ユダヤ人も外国人も、エリートの宗教家も、処刑寸前の犯罪人も、皆等しく十字架に躓いたのです。「十字架につけられるような者は救い主ではない。イスラエルの王でもない。神の子であるはずがない。」皆がそう考え、十字架のイエス・キリストを嘲り、拒んだのです。
しかし、実際のところ、イエス様は十字架から降りてこられないのではありませんでした。自らの意志で十字架から降りなかったのです。十字架の上での苦しみを、すべて余すところなく受けとめるため、そこに留まっておられたのです。ある時、イエス様はこのように言われました。
ヨハネ10:18「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
「わたしが自分からいのちを捨てる。わたしには、それを捨てる権威がある。」十字架につけられたイエス様は、決して人々が思ったように無力でもなければ、惨めでもなかった。むしろ、自ら十字架にとどまることを選び、ご自分の使命を果たそうとしておられたのです。
そして、イエス様が果たそうとしておられた使命が何であったのか。それを、マタイの福音書は、全地を覆う暗闇とイエス様の語ることばで示していました。
27:45,46「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
この時刑場を覆った暗闇のことは、歴史の記録にも残されているそうです。きっと、多くの人が恐ろしく感じ、記録したのでしょう。この暗闇は日食などの自然現象ではなく、神様のわざでした。聖書において、暗闇は神様の裁きの現れです。代表的な出来事としては、旧約聖書の昔、イスラエルの民を解放しようとしないエジプトの王を裁いた時、神様はエジプト全土を暗闇で覆い、人々は恐れに捕われたとあります。
この時も、暗闇が来ると、それまでイエス様を罵っていた人々も、口を噤みました。先程までの喧騒は嘘のよう。ゴルゴダの丘は静まり返ったのです。そこに、イエス様の大声が響きました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
罪のないイエス様が、人類の罪を負い、神様から裁かれたのです。神の子イエスが、罪人の代わりに、神様から見捨てられたのです。
神様から罪人として裁かれる。愛する神様から見捨てられる。それは、肉体の痛み以上の痛みでした。それが、イエス様にとってどれ程の痛み、苦しみであったか。想像もできません。敢えて例えるなら、信頼する親から無視され、捨てられた子どもの気持ち。愛する夫、あるいは妻から置き去りにされた人の気持ちでしょうか。
神様に愛される者から、神様の怒りの的となる痛み。神様に守られている状態から、神様から見捨てられる状態に落ちた苦しみ。ゲッセマネの園で、イエス様が受けたくないと心底願った杯とは、この痛み、この苦しみでした。
エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。さすがに、地上を覆う暗闇とこの叫びを聞いて、恐ろしさを感じたのでしょうか。預言者エリヤがイエス様を助けにやってくると考える人々が動き始めました。
27:47~50「すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」
エリヤと言うのは、世の終わりにイスラエルの人々を助けにやってくると期待されていた、旧約聖書の時代の預言者です。この時人々は、そのエリヤが生き返り、イエス様を死の苦しみから救い出すかもしれないと、考えたらしいのです。彼らが酸いぶどう酒を差し出したのは、イエス様に同情したからではありません。本当にエリヤが生き返るのか、助けに来るのか。この目で見てみたい。そのために少しでも、イエスの命を引き延ばしておこうという好奇心からの行いと考えられます。
この期に及んでも、人々はイエス様のことを理解していませんでした。自分たちが、死後神様から受けるべき裁きをイエス様が受けておられること。自分たちの罪のために、イエス様が十字架にとどまり、尊い命を犠牲にしようとしておられること。彼らは、イエス様の言葉を耳にしながら、その意味を考えようとさえしていなかったのです。
それでは、イエス様が神様の御心に従ったことには、何の意味もなかったのでしょうか。イエス様が私たち罪人を愛するがゆえに選ばれた、十字架の死は、この世界と私たちに何の影響も与えることはなかったのでしょうか。そうでは、ありませんでした。マタイの福音書は、三つの出来事を通して、イエス様の死がこの世界と私たちの人生を変えたことを伝えているのです。
27:51~54「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。」
第一の出来事は、神殿の幕が真っ二つに裂けたことです。これは、神様と私たちの関係が変わったことのしるしでした。
その頃エルサレムの神殿には、祭祀が仕事をする聖所と言う部屋と、その奥にあって、年に一度大祭司だけが入ることが許される至聖所と呼ばれる部屋の間に垂れ幕があり、二つを隔てていました。神様は旧約の昔、この至聖所から人々に語りました。垂れ幕は人が罪あるままでは神様に近づけないこと、罪の贖いが必要なことを教えていたのです。しかし、この時イエス様がすべての人の罪を贖うために十字架に死なれたので、神と人を隔てる幕は裂け、私たちは罪赦された者として自由に神様に近づき、神様と交わることができるようになったのです。
第二の出来事は、神様を信じて死んだ人たち、聖徒の復活です。これは、イエス様が死に勝利されたので、死のない世界、イエス様を信じる者が永遠に神様の愛の中で生きられる世界が用意されたことを示すしるしでした。死者の復活については、来週のイースター礼拝でお話しします。
第三の出来事は、イエス様を十字架につけた側の人々、ローマ人の百人隊長とその部下が、イエス様を神の子と信じたことです。これは、神様の恵みが、私たちの罪よりもはるかに深いことを示していました。道行く人も、宗教家も、犯罪人も、人と言う人のすべてが、十字架のイエス・キリストを神の子と信じることなく、拒みました。そのような中、神様はイエス・キリストを捕らえ、処刑した者にさえ、恵みを注がれたのです。
最後に、今日の個所から、私たちが受け取るべきメッセージは何でしょうか。二つのことを確認したいと思います。一つ目は、自分と十字架のイエス様の関係について考えることです。ゴルゴダの丘にいた多くの人々は、自分の罪のために、自分に代わって、イエス様が見捨て神から裁かれ、捨てられたとは思っていませんでした。自分の罪の深さが、これほど恐るべき神の裁きに価するとは、想像もしなかったのです。しかし、私たちは十字架のイエス様を見上げる時、自分の罪とその深さを思い巡らしたいのです。十字架上で私たちのことを覚えて、裁きの痛み、苦しみを忍耐してくださったイエス・キリストこそ、我が救い主と告白したいと思うのです。
二つ目は、罪赦された者、イエス様の愛により心癒された者として、生きることです。
Ⅰペテロ2:24「そして(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
今日の個所で、私たちは、十字架刑を執行した百人隊長の信仰告白を通して、自分の救い難い罪が、イエス様によって完全に赦されてあることを確認しました。イエス様の十字架を見つめる時、私たちの心には罪赦された者、罪あるまま神に愛されている者としての平安が与えられます。
そうだとしたら、私たちの心には罪を離れ、義のために生きる思いがあるでしょうか。罪を悲しみ、神様の御心に従ってゆきたいという願いがあるでしょうか。その願いは、どれほど大きな願いでしょうか。イエス様が苦しみの中で、ご自分の願いよりも、神様の御心に従うことを選んだように、私たちも、神様の御心に従うことを第一とする歩み、進めてゆきたいと思うのです。