2018年3月11日日曜日

ガラテヤ(2)「神は罪人を救う」ガラテヤ1:11~24


 東京に住んでいたころ、近くのスーパーがピーターラビットのキャンペーンをやりました。うちの子供がすごく喜んでいて、商品を買えばシールをもらって、いくつかのシールを集めればピーターのぬいぐるみのプレゼントがタダでもらえるというキャンペーンでした。私たちは毎日そのスーパーで買い物するので、すぐもらえそうでした。わくわくしていて、そのスーパーで買い物を続けました。しかし、シールをいっぱい集めたら、キャンペーンの報告をじっくりみると、シールを集めた上に2千円も払わないといけないことが分かりました。やっぱりタダのプレゼントではないのです。子供達も、私もがっかりしました。

 このような誤解が一世紀にガラテヤという地域での諸教会で起こりました。使徒パウロがその教会を生んだ時に、キリストを信じるだけで救いを受けるという福音を宣べ伝えましたが、パウロが去った後、ユダヤ教徒の偽教師がこの教会に忍び込んできて、クリスチャンになる前にユダヤ教徒になるべきだと教えました。彼らは、割礼を中心にしていたので、「割礼派」と呼ばれました。「割礼派」の彼らによると救いをもらうためにユダヤ教の律法に従わなければならないので、救いはただのプレゼントにならなくなってしまいました。

 今日の説教はガラテヤ人への手紙についての説教シリーズの第二回目となります。パウロは「割礼派」の偽教師の教えを修正するためにこの手紙を教会員に送りました。前回勉強した通り、パウロと彼らの教理はさっと見ると似ていそうに見えるのですけれども、本当は全く違う考え方なんです。パウロの教えは永遠の命への道なんですが、彼らの教えは神様の呪いへ導かれるそうです(1章9節)。この二つの考え方の違いは理解しないといけないでしょう。

 ガラテヤ人への手紙の大きなテーマの一つは「宗教」と「福音」の違いなんです。「宗教」は自身が従うゆえに神様に受け入れられていると考えます。その一方、「福音」によりますと、自身はキリストを通して神様に受け入れられているゆえに従うということです。現代の私たちも、救いをもらうために自分の行いに頼る誘惑に陥ることは危険なので、福音の素晴らしさをより深く理解すべきだと思います。

 単純に定義すれば、福音は「神は罪人を救う」という知らせです。今日の箇所を通して、パウロは福音の起源、福音の力、福音の目的という三つのポイントで、深く説明しています。福音は「神は罪人を救う」という知らせなので、自分自身の行いに頼らず、救い主イエス・キリストの働きのみに信頼すべきだということが分かると思います。


 まず、第一ポイントは福音の起源は神様です。ガラテヤの教会員の中にパウロの福音について不信感を募らせるため、パウロの福音はエルサレムの使徒達から来るものだ」と責める割礼派がいました。なので、今日の箇所は何かというと、この訴えに対してパウロの弁証だと言えます。最初に、パウロが宣べ伝えた福音の起源は人間ではなく、唯一の神様だということが強調されます。

 パウロがガラテヤ地方で開拓伝道する時、宣べ伝えた福音は11節によりますと、「人間によるものではありません」。その福音の内容の起源は他ならぬイエス・キリスト自身だと言っています。初めて受け入れたのは、パウロが自分から探したからではなく、イエス・キリストの啓示によって受けたそうです(12節)。これは、他の使徒とは違う、ユニークな経験なんです。ヨハネの福音書によると、イエス様は12弟子にこう言いました「あなたがたもあかしするのです。 初めからわたしといっしょにいたからです」(ヨハネ15:27)。一世紀の使徒たちのみなはパウロ以外、イエス様が十字架にかけられる前、3年間ぐらい一緒に生活して、訓練を受けました。直接イエス様の側で教えられたのです。なので、パウロは自分も使徒であることを語ると「最後に、 月足らずで生まれた者と同様な私にも、 現れてくださいました。」というのです(第一コリント15:8)。他の12使徒に比べると召しのタイミングは違いますが、パウロも使徒の一人でした。なぜかというと、イエス様が直接福音を伝えたからです。つまり、この福音の起源は神様・イエス様でなければならないのです。

 このメッセージが神様から来たかどうかがなぜ重要なのでしょうか。私たちの信仰は神様中心でなければ、私たちの行動は自己中心になってしまうからです。割礼派の教えは律法を完全に守っていけば救われるという制度で、行動は自己中心になってしまいます。これはどちらかというと「宗教」と言えると思います。人間が何かをすることで、人間は何かをもらえるというのが「宗教」です。神様と関係なし、人間起源なのです。私たちも、クリスチャンであるのに、同じふうに行動する誘惑があります。アメリカ人の牧師のティム・ケラーは一つの例をあげていますがそれは「嘘」です。「嘘をつけば、神から罰を受ける。または、「嘘をつけば、自分もあの常習的な嘘つき達と同じに見られる」という考え方があるでしょう。ここにはどんな動機が隠されているのでしょうか。この考え方の動機というのは、罰への恐れなんです。あるいは、プライドの危険もあります。プライドはこのように考えさせて、いやしい嘘つきになってしまう、そうなりたくはないでしょう。罰への恐れとプライドは本質的には自己中心なんです私たちの動機が罰かプライドであれば、嘘はつかないかもしれないんですが、それは神様を愛しているからではなく、自分を愛しているからです。

 しかし、福音は「神は罪人を救う」で、この起源は神様なので、私たちの行動の起源も神様でなければならないのです。つまり、パウロはこう勧めています「キリストの犠牲的な恵みをただで受けた。このことにえよう。福音があなたを心から誠実な人に変えるまで」。このようにして、私たちの動機は恐れとプライドではなくなります。この福音の起源をみて、すでに愛してくださっていることがわかって、神様の方に信頼するべきです。でも、この力はどこからくるでしょか。


 第二ポイントは福音の力も神様です。13節から14を見ますと、パウロはクリスチャンになる前の状態が分かります。信じられないほど激しい、暴力的なパリサイ人でした。厳しい律法主義のユダヤ教の宗派の一人でした。一世紀のクリスチャんたちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、一番悪名高い迫害者でした。パウロは「教会を荒らし、 家々に入って、 男も女も引きずり出し、 次々に牢に入れ」ました(使徒8:3)。キリスト教の初めての殉教者のステパノが殺された時に、パウロはいました。しかし、神様の召し、神様の力はパウロの罪より強いでしょう。お母さんがパウロを生む前からパウロが選び分かれ、異邦人の使徒として召されました。教会の迫害者は教会のために迫害される者になった。これより、もっと圧倒的な人生変化は想像できないでしょう。

 このように、パウロはなぜ自分の証をこの手紙で語るかというと、福音の力は神様のみだということを強調するためです。クリスチャンになる前、キリストの啓示を見る前に、パウロは自分の行動で、自分の力と働きで神様の前に立つことができると思いました。そして割礼派の教えによって、自分の力で、自分の善行で救われると言われたんですが、この手紙でパウロが記している福音によると人間の唯一の希望は神様の恵と力なんです。

 私たちの救いもこのようなものです。パウロのように私たちの罪も隠さなくても良いでしょう。恥ずかしくなくても良いでしょう。しかしながら「宗教」に、道徳に信頼すれば、自分の失敗、罪、欠けているところをどんな犠牲にしても隠そうとしないといけません。こういう生き方はものすごく疲れるでしょう。神様の救う力に信頼しないと、休むことができないからです。ケラー牧師によりますと、もし「道徳と宗教を通して神の前に正しくあろうとするなら、救われるために神を求めているのではありません。自分自身で救いを達成しようとする手段として、神様を利用しているのです。」

 自分の人生を振り返ってみれば、罪を隠さなくて、告白すると神様の栄光を捧げることができます。こうすれば、イエス様の恵の素晴らしさの証人になれるでしょう。私たちの周りに、まだクリスチャンではない方々が確かにいます。この愛する家族、友人、同僚、クラスメートの救いのために祈っていますでしょうか。どんなに絶望的にみえても、パウロの例をみるなら、私たちの祈り続ける生活はとても励まされるでしょう。神様の偉大な愛で救われない方は一人もいません。福音の力は神様で、「罪人のかしら」のパウロも救われるので、私たちも神様に信頼するべきです。


 続きまして、第三ポイントは福音の目的も神様です。前に言いました通り、パウロの敵「割礼派」はパウロの福音をダメに見せるため、パウロはエルサレムの使徒達に教えられたと訴えました。16節から22節までみると、この訴えに答えるためパウロは三つの証拠を上げています。クリスチャンになったら、アラビアへ、それから3年が経つとやっとエルサレムに行って、その後シリヤとキリキヤの地方に行きました。使徒の働き9章にこの旅について詳しく読めます。ここでパウロが言いたいのはその時に他の使徒と相談しませんでした。パウロの教理、パウロの福音は神様から直接もらったという証拠です。他の使徒のようにパウロはイエス様が蘇る前に3年間過ごせませんでしたが、結局キリストに直接出会って、クリスチャンになってから神様に3年間教えてもらったと考えられます。使徒の働き9章を読みますと、この経験でパウロの人生の目的は全く変わって、イエスは神の子であると宣べ伝えることに努力しました。

 エルサレムに行く時にも、ヤコブとペテロと一緒に15日間しか交わりませんで

した。もちろん、彼らはその時イエス様のことについて話したと思われますが、彼らに福音の内容を教えてもらったわけではないのです。これを、パウロは権威を確信をもって、言い切っています。

 ケパというのは使徒ペテロのヘブライ語(アラム語 )の名前なんです。この箇所でパウロはなぜ「ケパ」と呼ぶかというと、ペテロはユダヤ教徒のための使徒なのでヘブライ語の名前を使って、パウロ自身は異邦人のための使徒ということを強調をするためだと言われています。ローマ15章にパウロはこう言います「異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、 神から恵みをいただいているからです」。この出来事の結果としてはその地方のクリスチャンはパウロの話を聞いて「神があがめていました」(24節)。

 ここでパウロは旧約聖書のイザヤ書49章に触れています。自分自身の召しと働きがこの予言の成就の一つだという意味です。イザヤ書49章1節、6節はこう言います、「【主】は、 生まれる前から私を召し、 母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。わたしはあなたを諸国の民の光とし、 地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」これを読んで、パウロの宣教の大切さがわかると思います。 ガラテヤ人も、アメリカ人も、日本人も、ほぼ異邦人なので、パウロの召しは私たちの救いの歴史上重要な出来事でした。パウロの召しは異邦人の国々に伝道する大事な段階でした。これは何のためでしょう。この福音の目的は世界中の人々に神様があがめられるためだとパウロが記しています。

 福音の目的は自分の栄光のためではなく、神様の栄光のためだということをわかったら、私たちもパウロのように、私たちの人生の目的も変わります。割礼派の「宗教」においては、人間の動機は恐れと不安を土台としていますそうしたら自分は正しいということを示そうと頑張らないといけません。しかし、「福音」にある動機は、あふれるほどの喜びを土台としているので、自然にみ言葉に従いたくなります。救いは自然に奉仕に導かれます。このようにして、神様はずっと前から私たちの救いのための素晴らしい計画があったので、神様に信頼するべきでしょう。


 まとめてとして、別のキャンペーンの話を語りたいと思います。高校の頃、私はバンドという趣味があって、遊びとして友達と一緒に楽器屋さんへよく行ってみたのでした。高級な楽器を買うお金はなかったんですが、見るだけで楽しかったです。ある日、一つの楽器屋さんでギブソンのギターをもらえるキャンペーンが開催して、自分の名前を紙に書いて、その紙をバケツに入れて、月の最後の日にマスターはその紙を一枚とって、それでその人がただでギターをもらえるというキャンペーンでした。バケツに入れるのは無料だったので、名前を書いて入れました。別に当選すると全然思わなかったのですね。

 数週間後、そのマスターから電話が来て、私の名前が選ばれたという連絡でした。。翌日、その店に行って、1ドルも払わなくてその高級なギターが手に入りました。かくして、東京のスーパーのキャンペーンと全然違うでしょう。自分は何も払わなくても、何もしなくてもプレゼントがもらいました。その店のマスターは全ての代価を払ってくださいました。「福音」というのはこのようなことです。神様の前に私たちすべての人が罪を犯したので、裁きという報酬を得ました。しかし、神様は一人子イエス・キリストを与えになって、私たちの代りに報酬を払ってくださいました。

 ですので、福音は「神は罪人を救う」。 福音はもうちょっと説明してみますと、「私達がする何かではなく、私達のためにすでになされたこと、私達が応答しなければならない出来事であります。」福音の起源も、福音の力も、福音の目的も神様なので、私たちは自分の行いに信頼するのをやめましょう。信仰によって、神様の出来事に応答することです。この手紙の後の方で、パウロは「お願いです。 兄弟たち。 私のようになってください。」と語ります。この人生の中で受けた全ての恵みはイエス様が起源です。イエス様の愛はこの人生を変える力です。全ての働きはイエス様があがめられるためだから、パウロのように私たちも神様に信頼しましょう。

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